夏目漱石の「吾輩は猫である」という小説は、彼を自己本位の境地を自覚させることになるのですが、同時に、ロンドンで悪化した神経衰弱を和らげるために書かれたものであると言われています。そのため、自己本位に至る経過の中で、西洋かぶれを揶揄し、少々投げやり的なところがあると同時に、しばしば神経衰弱から逃れようと必死になっている姿も感じることができます。私は、この小説を読んで、その苦しみと、居直りは人へのやさしさと感情の繊細さからくる苦しみであり、誰でも持ちえている部分である気がします。
その時の気持ちが、この小説の最後の場面によくあらわれている気がします。
「吾輩は猫である」の冒頭は、人によく知られてはいますが、最後のどうなるかはあまり知られていません。主人公である名前のない「猫」である自分は、「気がくさくさして」ビールを飲んでみようと思います。しかし、そんなにおいしいものではありません。命のあるうちに、なんでもやってみようと思うのですが、舌の先がピリピリして、腐った感じがしておいしくありません。しかし、人間だって「良薬は口に苦し」と言って薬を飲むのだからと思い、我慢をして飲みます。二杯飲んだところで酔ってきます。そして、ふらふらと外に出て行ったところ、なんと、水の入ったかめの中に落ちてしまいます。水を掻いても、後足で立ち上がろうとしてもそこに足がつきません。
もがいて、前足で縁をがりがり掻いても少し浮きあがるだけで、すぐに潜ってしまします。そのうちに体が疲れてきます。気は焦りますが、足は利かなくなり、自分が何をしているかもわからなくなります。そんな苦しさの中で、こんな風に考えます。
「その時苦しいながら、こう考えた。こんな呵責に逢うのはつまり甕から上へあがりたいばかりの願である。あがりたいのは山々であるが上がれないのは知れ切っている。吾輩の足は三寸に足らぬ。よし水の面にからだが浮いて、浮いた所から思う存分前足をのばしたって五寸にあまる甕の縁に爪のかかりようがない。甕のふちに爪のかかりようがなければいくらも掻いても、あせっても、百年の間身を粉にしても出られっこない。出られないと分り切っているものを出ようとするのは無理だ。無理を通そうとするから苦しいのだ。つまらない。自ら求めて苦しんで、自ら好んで拷問に罹っているのは馬鹿気ている。
「もうよそう。勝手にするがいい。がりがりはこれぎりご免蒙るよ」と、前足も、後足も、頭も尾も自然の力に任せて抵抗しない事にした。」
必死になって、その場から脱しよう脱しようとすればするほど、どうにもならなくなることを悟ります。無理を通そうとするから苦しいのだとわかります。もう、自然に任せようとします。そうして、こう最期を迎えます。
「次第に楽になってくる。苦しいのだかありがたいのだか見当がつかない。水の中にいるのだか、座敷の上にいるのだか、判然しない。どこにどうしていても差支えはない。ただ楽である。否、楽そのものすらも感じ得ない。日月を切り落し、天地を粉韲して不可思議の太平に入る。吾輩は死ぬ。死んでこの太平を得る。太平は死ななければ得られぬ。南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏。ありがたい ありがたい。」
日月を切り落し、天地を粉せいして不可思議の太平に入るのです。逆説的にいえば、今存在している世は、太平ではないことが生きている証拠でもあるのです。
漱石が苦しんだという神経衰弱は、今でいえばうつ病にあたります。英文学を学ぶ意義を見失ったり、ロンドンで受けた人種差別的扱いなどが原因だといわれています。「吾輩は猫である」の記述は彼の当時の苦悩を投影しています。『無理を通そうとするから苦しいのだ。つまらない。自ら求めて苦しんで、自ら好んで拷問に遭っているのは馬鹿げている』うつ病の患者は、自らの苦しみから解放されるために、自分はこんな人間ではないとひたすら自己否定します。ところが、それによってますます心が傷ついてしまう。そんな悪循環から脱出するには、『もう自然にまかせよう』と病気に罹ったことを受容するしかないようです。『闇が深ければ深いほど暁は近い』といいます。娑婆世界で真面目に生きていこうとすれば、苦しみや悩みはつきものと思い定めていくしかないですね。病気は自分の生き方を見直すチャンスにもなります。
頭ではイメージできるのですが、実際には十分に苦しまなければわからない境地なんでしょうね。自然に任せるのが一番と口では言いますが、今はまだまだ実際に苦しまなければいけない段階にいます。ただ、苦しみ方にもいろいろあって、型通りのものではなく自分らしい苦しみ方を選んでもいいんだろうなあと、最近はよく考えるようになりました。なんだか変な感じですが、自分の考え方が少しずつ変わってきているのを感じています。
『我輩は猫である』の結末は何と形容してよいかわかりません。ただ、最後を迎える猫の心境はその通りで、どうせ結果が同じなら、あがいたりもがいたりせず、自然のままがよい、ということが悟りの境地なのでしょう。そう、猫は悟ったのです。仏教では「一切衆生悉有仏性」という考えがあります。すなわち生きとし生けるもの、山川草木に至るまで「悟り」は有るということです。夏目漱石が仏教についてどれだけ知っていたかは存じ上げませんが猫の臨終はまさに大楽すなわち大いなる悟りそのものです。こうして『猫』の最後について考えてくると自然『草枕』の冒頭部分に行き着きます。「山路(やまみち)を登りながら、こう考えた。智(ち)に働けば角(かど)が立つ。情(じょう)に棹(さお)させば流される。意地を通(とお)せば窮屈(きゅうくつ)だ。とかくに人の世は住みにくい。」御釈迦様による現実分析をこうも簡潔に表現されています。夏目漱石と仏教ー一体どうだったのでしょうか。
人生の中で、何をやっても上手くいかなく、どうやっても打開できない状況に陥ることがあるかもしれません。私はまだその状況になったことないので、分かりませんが、おそらく甕に落ちた猫のように、なんとか抜け出そうとしてもがくと思いますが、あまり意味がなく、逆効果であり自分をもっと苦しめてしまうのですね。そうは思っていても、なかなか自然の流れに身を任せるのは、難しい事だと思います。
なんとも考えさせられる内容でした。確かに生きている限り「太平」というのは無いのかもしれません。自分自身も性格なのかつまらないことでよく思い悩むことが多くあります。自分に正直に生きるというのは言葉にするよりもとても難しいですね。もっと他人本位ではなく自己本位な考えができるようになってくると悩むことに対して感じ方や対応の仕方も変わってくるように思います。夏目漱石もじっくりと多くのことを悩み苦しんだからこそ、心を守るために自己本位という境地にたどり着いたのではないかと思いました。