先日、香川を訪れていたのですが、今、ネットでは日本中の新聞を見ることができます。昨日の7日付の四国新聞の香川版コラム「1日1言」に「もしもSANYOが」という内容が掲載されていました。このコラムは、先月29日にパナソニックが、傘下の三洋電機とパナソニック電工を、11年4月をめどに完全子会社化すると発表したことを受けてのことです。これによって、グループのブランドは「パナソニック」に統一し、「SANYO」ブランドは原則として消滅する見通しという発表でした。その決断の動機について、大坪社長は、「ライバルが百メートル走のスピードで走っているのに我々は中距離走のスピードではないかと思った」と言っています。
三洋電機の創業者である井植歳男は、淡路島の代々自作農を営んでいた家に生まれますが、父親はそれを好まず、「清光丸」という千石船を持ち、自家貿易を手がけていました。その血か、彼は、「子供が上の学校への進学を望めば、田や畑を売って行かせるように」という父親の遺言に逆らって、高等小学校の卒業式を待たずに叔父の船の見習い船員となります。この思いがのちに社名に「三洋」を選ぶことになります。15回ほど公開を経験したころ、乗っていた船が大爆発を起こし、九死に一生を得た歳男は、大阪にいた姉夫婦の家に住み込んで、義兄の仕事を手伝います。この義兄が、松下幸之助です。松下が大阪で創業した「松下電気器具製作所」が順調になり、東京に進出することになった時、歳男は17歳で東京に行きます。その後、戦争に行き、除隊後結婚しますが、その妻が亡くなったと再婚相手は、松下幸之助の妹でした。松下電器は、考案した箱型ランプが業界に旋風を起こし大忙しになりますが、病気がちの幸之助に代わって、精力的に働きます。
しかし、終戦になり、占領軍の総司令部(GHQ)が公布した財閥や軍需会社の幹部に対する公職追放指定を受け、松下をやめることになってしまったのです。そして、自転車の発電ランプをつくる会社「三洋電機製作所北条工場」が昭和22年につくられたのです。品質問題、火災という2つの災難に見舞われながら、生まれたばかりの三洋電機製作所は、事業に賭ける歳男の執念、従業員の献身的な努力、周囲の人々の親切、それらの力が合わさって試練を乗り越えていきます。そして、「三洋電機株式会社」を設立するに至ります。その後、さまざまな苦節の結果、噴流式洗濯機の成功によって、「洗濯機のサンヨー」と言われるようになり、三洋電機は、総合家電メーカーへと脱皮していきます。この新しい洗濯機の出現は、戦後の日本に家庭電化ブームを巻き起こすきっかけとなり、評論家の故大宅壮一さんは、この年(53年)を「日本における電化元年」と位置づけています。
そして、時代は家庭電化の黄金期を迎えていき、中でも、テレビ、電気洗濯機、電気冷蔵庫は「三種の神器」といわれ、どの家庭でもこれらの家電をそろえることになるのです。
その三洋が、どのように昨日のコラムに登場したのか明日紹介します。実は、「もしも」の世界で、アップルが発売したのが携帯音楽端末「iPod」に関係しているかもしれないのです。
最近、充電できる乾電池エネループを発売して注目を集めていた三洋電機ですが、ようやくPanasonicと合併することになったようです。松下幸之助の商売哲学を受け継いだ同根企業特有の近親憎悪的対立を経ての合流、天国の創業者はどのような思いで見ているのでしょう。それにしても、三洋電機という会社は、Panasonicほどは大きくないものの、洗剤不要の洗濯機、ニッケル・カドミウム蓄電池など一部の分野で優れた技術力を発揮していました。そんな既成概念にとらわれない社風だからこそ、デジタルダウンロードプレーヤーの基礎技術も生まれたのでしょう。アップルに売り込んだのは、製品化のための大きな資金が必要だったからでしょうが、本当に惜しいことをしたものです。
三洋の創業者と松下幸之助さんの関係を初めて知りました。いろんな縁があって今に至っているんですね。誰の人生もそのように流れていますが、あらためてそのことの意味を考えさせられます。「ライバルが百メートル走のスピードで走っているのに我々は中距離走のスピードではないかと思った」という言葉は、外から漠然と見ているだけでは見えてこないものです。いろんなところでいろんな変化が起こっています。その変化を感じ取る力や時代の流れを読む力、それを受けてどう行動するかは、どの業界でも考えなければいけないことなんですね。
三洋が松下傘下に入るかもしれないというニュースを一昨年の11月フランスのパリで知りました。イギリスBBCが報じていたニュースです。PanasonicもSanyoも共に世界的ブランドであることをその時はからずも思い知ったのですがその後その話を忘れてしまった頃の先月末のニュース。あぁ~やっぱり、と思いつつ、昨日自宅で使用しているSanyoの掃除機をまじまじとみながら「sanyoもなくなるのか」と変な感慨に耽りながら掃除機のスイッチを入れて掃除をしました。三洋電機の創業者井植歳男さんが松下幸之助さんの義弟で、しかも再婚相手が松下幸之助の妹さん、そして更には「病気がちの幸之助に代わって、精力的に働」いたとあれば、こりゃあ一緒になっても何の不思議もないことがわかりました。協力してがんばろう、ということですね。競争より協力!Japanese Brand ガンバ、といった感じです。
実際に家の家電でもSANYOを使っているので、今回のブログで三洋が松下の傘下に入るニュースは恥ずかしいですが、初耳です。しかも、そのライバル同士が、さかのぼると創業者同士が繋がっていたのは驚きます。ただ、無くなってしまうのは少々寂しい気もしますが、個人的に思ったのは、松下幸之助と井植歳男が昔の関係のように戻ったと思うと、捉え方によっては良い感じもします。ただ、二人の存在、間柄を知っている人にしか分かりません。
三洋ができあがるまで、色々ないきさつがあり、その都度苦難を乗り越えたんですね。ここで気になったのがその苦難を乗り越える糧となった。「事業に賭ける歳男の執念、従業員の献身的な努力、周囲の人々の親切」でした。3つのうち2つは歳男の力ではなく、周囲にいた人間の力です。実際、歳男の力の一番のところはここにあったのではないかと思います。「人徳」が人一倍あり、もちろんそれに呼応するような働きを歳男がしていたのだと思いました。公職追放指定や品質問題、火災といった困難を越えられたのは、周りにいる人やその信頼に応えた歳男の結果なのだと思いました。今、時代の変化と様相により完全子会社化にはなりますが、日本の家電の技術をますます引きあげていってほしいですね。