新聞の中の漱石

 私の園の近くには、夏目漱石つながりの施設が多く点在しています。それは、漱石誕生の地と、終焉の地が近くにあるために、彼が過ごした中での様々な人とのつながりにおける施設も多くあるからです。たまたま、妻と終焉の地を訪れたことから始まった漱石に関するブログが続いているのですが、最近の新聞紙上でも、どういうわけか夏目漱石が取り上げられることが多いように感じます。昨日の新聞記事にもさまざまな話題が紙面を飾っていました。
朝日新聞他の新聞では、「夏目漱石が33歳の時に留学のために渡英して今年で110年になることを記念し、ロンドンにある漱石記念館に漱石の胸像が置かれることになり、18日、お披露目された」ということが取り上げられていました。ロンドンにも、漱石記念館があるのですね。この漱石記念館は、恒松館長が1984年に私財を投じて、漱石がロンドンで5番目に下宿した家の真向かいに開設したそうです。留学時の漱石にまつわる資料などが多く展示されているようです。日本にもいくつか胸像があり、私が訪れた漱石終焉の地にも胸像があるのですが、ロンドンにある胸像は、ポリエステル樹脂製で、高さ約70センチとほぼ等身大で、留学したときと同じ30代前半の漱石だそうです。しかし、当時の漱石の髪型は角刈りだったそうですが、胸像での髪形は千円札でおなじみになった髪形にしたそうです。服装は、コートの下にネクタイと丸襟のシャツを粋にきめていて、窓越しに下宿を眺めつつ、隣に置かれたシェークスピア像と対話しているかのようだそうです。その表情について、制作した鹿児島県の指宿商業高校で美術の非常勤講師を務める田原迫華さんによると、「女性の視点から『まじめで頑固そうなイケメンの先輩』というイメージにした」ということで、「日本が西洋の価値観に(苦労して)対応している時代に、自分の価値観をはっきり述べる気概やプライドのある」漱石を表現したと言っています。
igirisunatume.jpg
もうひとつの記事も昨日の朝日新聞に掲載されていたのですが、「俳都ハイクや公開選句会で今秋、新たな観光客誘致へ」という企画のニュースです。その企画というのは、近代俳句の創始者・正岡子規や高浜虚子ら多くの俳人を輩出した松山市が、「俳句」 をテーマにした新たな観光客誘致策で、名付けて「松山はいく博」というそうです。松山はいく博は、俳句と「ハイク(歩く) 」 を掛け合わせており、旅行客に人気の高い「まち歩き」 に、テーマ性を持たせることにしたというものです。長崎で好評であり、その企画の期間を延ばしている「さるく博」と同じような企画です。ガイドツアーは、市立子規記念博物館や道後公園、道後温泉本館、熱田津の道などを巡りながら俳句を詠んで子規が過ごした時代を体感してもらうコース、秋山兄弟生誕地や明治時代の電車道、道後温泉本館などをめぐり、小説「坂の上の雲」 の世界を体感してもらうコースの二つの案を検討しているそうです。こうしたテーマを面白おかしく解説するガイドボランティアの養成も進めているそうで、「きちんとした解説」ではなく「面白おかしく解説」というのが面白いですね。その中には、夏目漱石が子規の実家を訪れた際に一粒残さず食べたという「もぶり飯」と、鯛の刺し身を使った「活き鯛飯」を食べる企画も盛り込む予定のようです。
 いろいろな記事から、もう一度夏目漱石を見直すきっかけをもらった気がします。

今年のさんま

今年は、日本全国、本当に暑いですね。といっても、日本はせまいようでいて広いのですから、必ずしも暑いことで困っている人だけではないと思いますが、基本的には、いつもと違うために困ることは多いようです。ニュースで流れてくるのは、やはり自然を相手にしているような職業は、生活が大変なようです。今日のニュースでは。「道東沖のサンマの不漁が続いている」というニュースが流れていました。どうしてここにきてそのようなニュースが流れてきたかというと、今月の15日から、水揚げ量が多い100トン以上の大型の棒受け網漁船の操業が解禁され、漁が本格化したからです。そして、その船からの水揚げ量が報告されてくるからです。たとえば、根室市の花咲港では、大型船が初めて荷揚げした19日の水揚げ量は、小型船などを合わせても約144トンしかなく、昨年の初日と比べてわずか1割にとどまったようです。
 サンマと言えば、古典落語「目黒のさんま」を思い出します。夏目漱石が学習院で講演した「私の個人主義」にも、例として出てきます。
 「私が落語家から聞いた話の中にこんな諷刺的のがあります。――昔あるお大名が二人目黒辺へ鷹狩に行って、所々方々を駆け廻った末、大変空腹になったが、あいにく弁当の用意もなし、家来とも離れ離れになって口腹を充たす糧を受ける事ができず、仕方なしに二人はそこにある汚ない百姓家へ馳け込んで、何でも好いから食わせろと云ったそうです。するとその農家の爺さんと婆さんが気の毒がって、ありあわせの秋刀魚を炙って二人の大名に麦飯を勧めたと云います。二人はその秋刀魚を肴に非常に旨く飯を済まして、そこを立出たが、翌日になっても昨日の秋刀魚の香がぷんぷん鼻を衝くといった始末で、どうしてもその味を忘れる事ができないのです。それで二人のうちの一人が他を招待して、秋刀魚のご馳走をする事になりました。その旨を承って驚いたのは家来です。しかし主命ですから反抗する訳にも行きませんので、料理人に命じて秋刀魚の細い骨を毛抜で一本一本抜かして、それを味淋か何かに漬けたのを、ほどよく焼いて、主人と客とに勧めました。ところが食う方は腹も減っていず、また馬鹿丁寧な料理方で秋刀魚の味を失った妙な肴を箸で突っついてみたところで、ちっとも旨くないのです。そこで二人が顔を見合せて、どうも秋刀魚は目黒に限るねといったような変な言葉を発したと云うのが話の落になっているのですが、私から見ると、この学習院という立派な学校で、立派な先生に始終接している諸君が、わざわざ私のようなものの講演を、春から秋の末まで待ってもお聞きになろうというのは、ちょうど大牢の美味に飽いた結果、目黒の秋刀魚がちょっと味わってみたくなったのではないかと思われるのです。」
なんだか皮肉めいていますね。しかし、それはこういうことがあったからだと続いて説明しています。前後して大学を出て、当日講演を聞いていた大森教授が、かつて夏目に「どうも近頃の生徒は自分の講義をよく聴かないで困る、どうも真面目が足りないで不都合だ」といったことに対して、夏目は「君などの講義をありがたがって聴く生徒がどこの国にいるものか」と言ったのです。このことについて彼は謝罪しながら、そう言ったのは、他人本位という考え方であり、学生側に立つと、そのような攻撃する勇気がないと言っています。今、自分の話を聞こうとするのは、「お大名が目黒の秋刀魚を賞翫したようなもので、つまりは珍しいから、一口食ってみようという料簡じゃないかと推察されるのです。」と言い、「もしこの学校の教授にでもなっていたならば、単に新しい刺激のないというだけでも、このくらいの人数が集って私の講演をお聴きになる熱心なり好奇心なりは起るまいと考えるのですがどんなものでしょう。」と言っています。
謙遜しながら、他人本位で物事を見るのではなく、きちんと自分本位で物事を判断するべきであることを言っているのでしょう。

中村

 先日、子規庵を訪れた折、その斜め向かいに興味をひく建物がありました。そこは、「書道博物館」です。今、開催されている企画展は、“中村不折コレクション「漢字のはじまり ―古代文字の不思議を探る―」でした。なんで、この場所にそのような博物館があるのかというと、ここは、洋画家であり、書家でもあった中村不折が、その半生40年余りにわたり独力で蒐集した、中国及び日本の書道史研究上重要なコレクションを有しているのですが、彼が亡くなるまでの30年間、この地に住んでいたのです。
 夏目漱石の「吾輩は猫である」は、漱石の不安な日々の中で執筆されたのですが、その第一回は、明治38年(1905)に雑誌「ホトトギス」第8巻第4号に掲載されました。昨日のブログで紹介しましたが、漱石は、この小説をはじめは一回限りのつもりで書いたのですが、大きな反響を呼び第十回まで同誌に断続的に掲載されました。そして、「吾輩ハ猫デアル」上篇が刊行されたのですが、この上篇の挿絵を担当したのは、フランス留学から帰国したばかりの画家・中村不折だったのです。
 彼は、明治維新の前々年に江戸京橋東湊町に生まれるのですが、維新のごたごたで職を逸し、不折が5歳のとき郷里長野県高遠へ帰ることになります。しかし、父親の仕事はうまくいかず、長野県の伊那や松本に職を求めて移り住む生活が続きます。この間に小学校を終えた不折は、上諏訪町の呉服店に勤めることになります。私の祖先は、この上諏訪町で織物関係の店を商っていたので、もしかしたらどこかで関係があったのかもしれません。中村は、その時の縁からか、後に上諏訪の宮坂醸造の清酒「真澄」のロゴを書いています。日本酒と言えば、「日本盛」も彼の書です。
nihonsakari.jpg
 そののち小学校代用教員をはじめとしていろいろな仕事をしますが、22歳のとき、絵を勉強するため上京しますが、金銭的に余裕がないため、高橋是清邸の空き部屋、三畳一間を借り自炊生活を始めます。そして、小山正太郎に師事し本格的に絵を学び、36歳の時渡仏します。それまでの10数年間は、風景画を中心に絵画の勉強に打ち込みますが、生活の糧としては新聞社の挿絵や教科書の挿絵描きを行います。その時の日本新聞社の副編集長は正岡子規で、生涯の友となります。また、師事した小山正太郎は、私画塾「不同舎」を開きますが、その門下生には、中村不折のほか、青木繁、鹿子木孟郎、満谷国四郎、小杉未醒、坂本繁二郎、萩原守衛など洋画で活躍する画家を多数育てました。中村は、その中でも特に後輩の荻原守衛(碌山)と時を同じくして渡仏するなど、互いに影響を受けあいます。また碌山からの紹介で中村屋の創業者、相馬愛蔵・黒光夫妻とも知り合います。そこで、現在、中村屋が使用しているロゴは不折の書で、明治の終わり頃に揮毫されたものです。
nakamuraya.gif
彼は、お酒やタバコ、身なりなど全く構わないことでも有名で、稼いだお金を書道に関する資料収集に費やし、その後の書道博物館設立につながっていきます。挿絵も、「吾輩は猫である」のほかにも多数書いており、「若菜集」「野菊の墓」などの挿絵や題字を書いています。
このころのいろいろな文士や画家などの交友がしのばれます。

 夏目漱石の「吾輩は猫である」を久しぶりに少し読んでみると、あの書き出しの「吾輩は猫である。名前はまだ無い。どこで生れたかとんと見当がつかぬ。何でも薄暗いじめじめした所でニャーニャー泣いていた事だけは記憶している。」という文章は、なんとなく投げやりの気がしますが、その作品を書いたころの「自己本位」を考え始めたころの状況から察しがつきます。イギリスでの行き詰まりだけでなく、日本に帰ってきてからの講師としての躓き、それに追い打ちをかけるかのように、一高での教え子であった藤村操が「華厳の滝」に入水するという事件が起きます。漱石は、授業中に宿題をして来ない藤村を厳しく叱ったことがあったため、それが自殺の一因ではないかと自分を責めます。この思いは、終生続いたようです。この自殺は、当時、ずいぶんと世間に影響を及ぼしました。それは、藤村の死後4年の間に華厳で自殺を図った者は185名にものぼったようで、そのために華厳の滝が自殺の名所として今でも知られています。
 そんなこともあって、漱石は神経を傷めます。家庭内でも随分と荒れていたようで、妻の鏡子が「漱石の思い出」という随筆の中でこう回想しています。「梅雨期頃からぐんぐん頭が悪くなつて、七月に入つては益々悪くなる一方です。夜中に何が癪に障るのか、無暗と癇癪をおこして、枕と言わず何といはず、手当り次第のものを放り出します。子供が泣いたといつては怒り出しますし、時には何が何やらさつぱりわけがわからないのに、自分一人怒り出しては当り散らして居ります。どうにも手がつけられません。」
また、漱石も「吾輩は猫である」は、そんなに長くなくつもりはなく、なんだか最初はやけになって書き始めたようです。それを、「文学談」で次のように述べています。「『猫』ですか、あれは最初は何もあのように長く続けて書こうといふ考えもなし、腹案などもありませんでしたから無論一回だけで仕舞ふ積り。また斯くまで世間の評判を受けうやうとは少しも思つて居りませんでした。最初虚子君から「何か書いて呉れ」と頼まれまして、あれを一回書いてやりました。丁度その頃文章研究会といふものがあつて、『猫』の原稿をその会へ出しますと、それを其席で寒川鼠骨君が朗読したさうですが、多分朗読の仕方でも旨かつたのでせう、甚く其席で喝采を博したさうです。(中略)妙なもので、書いて仕舞つた当座は、全然胸中の文字を吐き出して仕舞つて、もう此次には何も書くやうなことは無いと思う程ですが、扨十日経ち廿日経つて見ると日々の出来事を観察して、又新たに書きたいやうな感想も湧いて来る。材料も蒐められる。斯んな風ですから『猫』などは書かうと思へば幾らでも長く続けられます。」
これを読むと、最初は投げやり的に風刺をするつもりで書き始めたのですが、次第に猫の目から世の中を見る視点が、逆に人の世界を客観的に眺めるようになり、書いていくうちに面白くなっていった様子がわかります。ですから、後の世まで読みつながれる名作となったのでしょう。
ここに書かれているように漱石に書くように勧めたのは、高浜虚子ですが、彼らは、子規庵に殆ど毎月のように集会して文章会を開いていました。その会の名前は、「山会」と言っていたようですが、それは、正岡子規の「文章には山がなくては駄目だ。」という主張に基づいて付けられたようです。夏目漱石の人生の山や谷が、彼自身と彼の作品に深みを与えていったのでしょう。

睡眠と食欲

今、NHK朝の連ドラ「ゲゲゲの女房」が久しぶりに高視聴率を上げているようです。6月には、平均視聴率が20・4%を記録したそうで、朝ドラの20%超えは、前作「ウェルかめ」第2週の昨年10月6日の20・6%(以下いずれも関東地区)以来だそうです。しかし、同作での20%超えは1回だけで、2007年後半の「ちりとてちん」から09年前半「つばさ」までの4作では1度も20%超えはなかった。私は、なかなかそれを見ることはできないのですが、この 「ゲゲゲの女房」は、漫画家の水木しげる氏の妻、武良布枝さんの自伝をもとに、夫妻の激動の人生を描いており、「貧しい生活を支え合う2人に共感した」「昭和の時代が懐かしい」といった感想など、昭和30年代の郷愁を誘う映像と貧しくも温かい夫婦愛が支持拡大の根底にあるようです。
 これを受けて、実際の水木さんご夫婦の人気が出ているようです。中でも、水木しげる氏のユニークなキャラクターに惹かれる人も多く、多くの逸話もあります。現在88歳でなお元気な秘訣には、いくつか理由があるようです。その一つが、睡眠です。本人が作詞のゲゲゲの鬼太郎の主題歌に「朝は寝床でグーグーグー」とあるように、朝寝を好むようです。私がたまたま大分に行っていたときに見ていたNHK「あさイチ」で、せっかく水木の自宅から生中継が行われたのですが、水木は普段どおり就寝中で、彼の女房しか出演していませんでした。
 もうひとつは、非常に胃が丈夫のようで、小さいころのあだ名が「ズイダ」だったそうで、その意味は「何でも食べる浅ましい者」というそうです。今でも、食欲は非常に旺盛なようで、これもたまたま見ていたテレビインタビューの中でも、思わず目の前の大福を頬張っていました。やはり、人は、食べることと寝ることが大切ですね。そういえば、死ぬまで食欲旺盛で頑張っていた人で思い出すのは、昨日のブログに登場した正岡子規です。夏目漱石が、彼のことを語るのに、「正岡の食意地の張った話か。ハヽヽヽ。」とはじめています。このように、子規は、大変な美食家・大食家で有名でした。それに関する逸話も多く、「鍋焼きうどんを10杯食べる」「夕食後、夜食にそば屋で鴨南蛮と五目そば、その後餅菓子を三個食べ、夜中に嘔吐した」「山の中で木苺を見つけ、陽が傾くまで時間を忘れてむさぼり食っていた(当時26歳)」などがあるようです。
sikian.jpg
先日訪れた根岸の「子規庵」の土蔵から、昭和25年頃から行方不明となっていた「仰臥漫録」の原本が、平成13年5月に見つかったそうですが、この「仰臥漫録」や「墨汁一滴」には、彼の食生活に関する記述が多く見られます。そこには、刺身が好物で、34年9月などは、生活費の5分の1近くを刺身代に費やしたとの記録もあるそうで、味に対する好奇心も旺盛で、当時としては珍しい、カレーライス、シャンパン、ココアなども口にしているようです。
この食欲は、病に冒された後も衰えることがなかったとようで、歯茎や腹部の穴から出る膿み、激痛のため這うことも寝返りをうつこともできず、迫りくる死期をただ待つのみの日々であった子規の食に対する好奇心や意欲は、生きている証しだったのでしょう。死の前年のある日の日記には、「朝 粥三椀 佃煮 梅干 牛乳五勺ココア入り 菓子パン数個 昼 粥三椀 松魚のさしみ ふじ豆 ツクダニ 梅干 梨一つ 間食 牛乳五勺ココア入り 菓子パン数個 夕飯 粥二椀 焼鰯十八尾 鰯の酢のもの キャベツ 梨一」こんな食欲と気力はうらやましいですね。

夏目から子規

 「元来人間というものは自己の力量に慢じてみんな増長している。少し人間より強いものが出て来ていじめてやらなくてはこの先どこまで増長するか分らない。」人類が、この世の支配者かのように思い増長していますが、実は、自分の力を過信しているに過ぎず、それぞれはそれほど大したことがないのです。ですから、「いくら人間だって、そういつまでも栄える事もあるまい。まあ気を永く猫の時節を待つがよかろう。」と、猫の目から人間を見るとそう思えるようです。いかに猫の方が優れているかというと、「人間は利己主義から割り出した公平という念は猫より優っているかも知れぬが、智慧はかえって猫より劣っているようだ。」と猫はつぶやきます。
 この文章は、イギリス留学で、英文学への疑問が起こり、帰国後、東京帝国大学英文科講師となりますが、それもうまくいかず、神経衰弱を再発させてしまう中で、高浜虚子に小説を書くようにすすめられ、38歳のとき執筆した 「吾輩は猫である」という小説の中の一文です。「自己本位」という考え方から自己の矛盾を見つめた夏目漱石が、猫の目から人間のありかた、社会を風刺した作品です。自己本位という考え方からもう一度読み直してみると、随所にその気持ちが猫の言葉によって語られます。
自己本位とは直接関係ありませんが、こんな一文があります。「行きませう。上野にしますか。芋坂へ行って團子を食いましょうか。先生あすこの團子を食ったことがありますか。奥さん一辺行って食って御覧。柔らかくて安いです。酒も飲ませます。」
その文章に誘われてというわけではありませんが、先日の日曜日に、妻と芋坂に行って団子を食べてきました。
dangomise.jpg
この芋坂という名前の由来が案内板に書いてありました。「坂を登れば谷中墓地、 下ると羽二重団子の店の横から善性寺に通じていた。鉄道線路でカットされ、これに架かる橋が「芋坂跨線橋」と名付けられて、わずかにその名を残している。坂名は伝承によると、この付近で 自然薯(山芋)が取れたのに因むという。正岡子規や夏目漱石、田山花袋の作品にもこの芋坂の名が書かれている。芋坂も団子も月のゆかりかな 子規」
ここの団子が、なぜ羽二重団子というかは、年末にNHK大河ドラマで放映される「坂の上の雲」に書かれてあります。「“めしがあるかな”と、茶店に入るなり、松山なまりで小女にいったために、返事もしてもらえなかった。この茶店は“藤の木茶屋”とよばれて江戸のころからの老舗なのである。団子を売る茶屋で、めしは売らなかった。その団子のきめのこまかさから羽二重団子とよばれて往還を通るひとびとから親しまれている。
habutaedango.jpg
“団子ならありますよ”と、小女がいった。真之はやむなく団子を一皿注文した。“鶯横丁はすぐそこじゃな”“半丁ほどむこうです”“正岡子規という人の家があるが、知っておいでか”ときいたが、小女は子規の名も知らなかった。真之はだまって団子を食った。」
 芋坂の案内板にも子規の歌が書かれてありますが、この秋山真之の言葉ではありませんが、この店から数本のところに正岡子規の家がありました。
sikitei.jpg
この家で、子規は壮絶な最期を迎えるのですが、今でもその部屋、子規が病床から眺めた庭、それらが保存され、見学ができます。その部屋で、夏目漱石が座ったであろう場所に座ってみました。

自己本位2

夏目漱石は、個人主義について大正三年十一月二十五日に学習院輔仁会において講演をしています。その中で彼は学習院で講演することになった因果を述べています。彼は、実は、学習院の教師になろうとした事があるのです。ある知人に推薦され、本人もすっかり採用された気になっていたのですが、米国帰りの人に決まってしまい、漱石は採用に落ちてしまいます。しかし、その時に高等学校と高等師範から声がかかり、その時、柔道で有名な加納治五郎が高等師範の校長だったために、そちらに行くことになります。その後、作家になり因縁の学習院で講演することになるのですが、それを漱石はこう言っています。「たとい私にしたところで、もしこの学校の教授にでもなっていたならば、単に新らしい刺激のないというだけでも、このくらいの人数が集って私の講演をお聴きになる熱心なり好奇心なりは起るまいと考えるのですがどんなものでしょう。」確かに、教授になっていたら、講演をするような立場にはならなかったかもしれませんね。ですから、漱石44歳のとき、文部省から博士号授与の通達があったのですが、これを辞退したため波紋を呼びました。この博士号辞退事件は、権威主義的な政府に激しい憤りを感じていた漱石の反抗の現れであったとされ、彼は博士号という名誉より作家であることを選んだのです。
そんなある意味で屈折した人生を送る中で、常に漱石は自分に問いかけます。文部省から英文学研究のためにイギリス留学を命じられたときにこう悩みます。「いったん外国へ留学する以上は多少の責任を新たに自覚させられるにはきまっています。それで私はできるだけ骨を折って何かしようと努力しました。しかしどんな本を読んでも依然として自分は嚢の中から出る訳に参りません。この嚢を突き破る錐はロンドン中探して歩いても見つかりそうになかったのです。私は下宿の一間の中で考えました。つまらないと思いました。いくら書物を読んでも腹の足しにはならないのだと諦めました。同時に何のために書物を読むのか自分でもその意味が解らなくなって来ました。」
このように悩んだ結果、文学という概念は、根本的に自力で作り上げるよりほかに、私を救う途はないのだと悟ります。それまでは、「全く他人本位で、根のない浮き草のように、そこいらをでたらめに漂っていたから、駄目であったという事にようやく気がついたのです。私のここに他人本位というのは、自分の酒を人に飲んでもらって、後からその品評を聴いて、それを理が非でもそうだとしてしまういわゆる人真似を指すのです。」所詮、日本人にとっては、英文学を語るということは、彼によると、「西洋人のいう事だと云えば何でもかでも盲従して威張ったものです。だからむやみに片仮名を並べて人に吹聴して得意がった男が比々皆是なりと云いたいくらいごろごろしていました。」
夏目は状況の中で、自分に正直になるために居直ります。それは、何も世界に反しようとするわけではなく、「世界に共通な正直という徳義を重んずる点から見ても、私は私の意見を曲げてはならないのです。」そして、自己本位という境地に達します。そのために文芸とは全く縁のない書物を読み始めます。それは、自己本位を立証するために、科学的な研究やら哲学的の施策に耽り出すためです。すると、「今まで茫然と自失していた私に、ここに立って、この道からこう行かなければならないと指図をしてくれたものは実にこの自我本位の四字なのであります。」
このあたりの悟りは、全く今の私の心境です。保育を語る人は、すぐに西洋の理論を持ちだします。そして、カタカナで語れば、それが時代の先端かのように聞こえます。しかし、保育というのは、人の生活の営みであり、その風土、歴史、環境からの影響を多く受けます。しかも、それに味付けするのは科学であり、哲学です。私も最近は居直って、「自己本位」の四文字によって、考えを深めることにしています。

自己本位

 人は年を重ねるごとに、自分の考えが明確になっていきます。しかし、常にそれは真理に近づいているのだろうか、まだまだ学ぶことをしていかなければと自分の考えに不安を持っています。人からは、自信があるように聞こえるようですが、常に迷い、だからと言ってその迷いは自分自身のことであり、人にはきちんとした考えを伝えていくことの責任を感じ、気持ちを奮い立たせて決断をしていくことが多いのです。これは、「人は」と言いましたが、実は「私は」です。来月16日に、久しぶりに私の著作本が発刊されるにあたってそんなことを考えます。
 新宿区では、夏目漱石の生誕140年を広く伝えるため、さまざまな記念事業を平成19年度から実施していますが、その一環として平成20年12月に、脳科学者の茂木健一郎氏による講演がありました。彼は大の漱石ファンだそうで、講演では漱石が苦悩の末にたどりついた「自己本位」という生き方について熱く語ったようです。私は、その講演は聞いていませんし、講演内容はわかりませんが、前から漱石の「自己本位」に興味がありましたし、その考え方に共感し、今の私の心境に近いものがあります。
 夏目漱石は、晩年にはいろいろな人に慕われ、人を育てるのですが、その人生は必ずしも順調ではなかったようです。母親が高齢出産で、漱石誕生の翌年に江戸が崩壊し夏目家が没落しつつあったことなどから、生後4ヶ月で里子に出され、更に1歳の時に父親の友人に養子に出されます。その後も、9歳の時にその夫妻が離婚したため正家へ戻りますが、実父と養父の対立により夏目家への復籍は21歳まで遅れることになります。そのような家庭環境の混乱からか、学生生活も転校を繰り返し、小学校をたびたび変えます。中学以降も、12歳の時に東京府第一中学校に入学しますが、漢学を志すため2年後中学校を中退、二松学舎へ入学しますが、2ヶ月で中退します。その2年後、神田駿河台の英学塾成立学舎へ入り、17歳のとき、大学予備門に入学します。ここから、頭角を現し、ほとんどの教科において主席で、特に英語はずば抜けて優れていたようです。23歳のとき、東京帝国大学英文学科へ入学し、特待生に選ばれます。
大学卒業後、東京高等師範学校の英語嘱託を経て、松山の愛媛県尋常中学校に英語科教師として赴任します。ちょうどこのころ静養のため帰郷していた子規と共に俳句に精進します。年末のNHk「坂の上の雲」にも登場すると思います。33歳のとき、文部省から英文学研究のため英国留学を命じられ、渡英します。最初は勤勉に励んでいましたが、じきに英文学研究への違和感を感じ始め、神経衰弱に陥り、下宿先を何度も変えます。そんな中、 池田菊苗という化学者と出会い、刺激を受け下宿に一人こもりきりで研究に没頭し始めます。これを耳にした文部省は、急きょ帰国を命じます。帰国後、小泉八雲の後任として東京帝国大学英文科講師となりますが、彼の分析的な硬い講義は生徒に不評で、「八雲留任運動」が起こり、神経衰弱を再発させてしまいます。そのような中、高浜虚子に小説を書くようにすすめられ、38歳のとき 「吾輩は猫である」を執筆し発表します。
結果的に英文学から小説家に向かわせたのが、イギリス留学をしたときに感じた「違和感」でした。それは、日本人とまったく異なる生活を営む西欧人の姿を見、日本人には英文学の本質をわかることができるかと悩むのです。その結果、たどり着いた答えが、自分の感じ方を大切にするという「自己本位」だったのです。自己本位とは、自分自身を大事にして自由に生きていこうという考え方です。そして、自己本位とは、自己中心的な個人主義とは違って、他人の個性・自由をも尊重していく考え方だと悟るのです。もう少し、その考え方を探っていきたいと思います。

歴史つながり

 最近、何人かの人に「最近は、NHK大河ドラマつながりの場所に行かないのですか?」と言われることがあります。私は、毎年、妻とどこかに出かける時に、どこに行くか迷うことがあるので、その年のNHK大河ドラマの舞台を訪ねることにしています。今年は「龍馬伝」ですので、坂本竜馬に関係ある地を訪ねることになっているからです。しかし、坂本竜馬と言えば、土佐の高知と、現在活躍している長崎ですが、高知には「功名が辻」のときに山内一豊つながりで訪問しています。しかし、その時には、山内一豊が主役のため、彼はいい人として描かれていますが、龍馬伝では、彼が築いた身分制度が、幕府を倒すきっかけの一つになっていったとは歴史の因果を感じます。そういう意味では、NKH大河ドラマつながりは、舞台になった地を訪れることだけでなく、今までのドラマの出来事が、後の歴史にどのように影響していくのかというつながりを知ることも面白いですね。
 NHK大河ドラマ「龍馬伝」は、ずいぶんと大詰めに来ましたが、今年の1月3日の第1回放送は、「上士と下士」という題でした。当時の土佐藩においては関ヶ原の合戦以来、厳しい身分制度があり高知城城主山内家の出身である尾張や美濃出身の正規の藩士を上士といい、山内家が高知に入る前の藩主、長宗我部士の遺臣や、農民、商人から取りたてられていた藩士を下士として、厳しくも理不尽な身分制度がまかり通っていた時代が描かれていました。
土佐藩における上士は、原則的に家老・中老・馬廻・小姓組・留守居組の五等級に分けて構成されていました。また、下士は、郷士・徒士・足軽・武家奉公人に分かれていました。そして、土佐郷士の懐柔政策の一つとして、下士の中でも格式が最上位にある郷士や、その働きが認められた場合に上士の格式の最下位にあたる留守居組に昇格する場合もあり、それを白札と言いました。少し前に、ドラマの中で悲惨な最期を遂げた武市半平太は、白札郷士という留守居組に昇格しています。また、主人公の坂本竜馬は、郷士という家格の家に生まれました。本来、江戸時代の郷士とは、八王子市における「千人同心」のように、普段は農村で農業を行っていた武士のことや、または苗字帯刀を許された農民のことを指しましたが、土佐藩の場合は、関ヶ原の戦い以前に四国を支配していた長宗我部家の旧臣らで、山内家が土佐藩を統治するようになってから下級武士として藩に仕えるようになった武士を指す名称として用いられています。しかし、その中で、坂本家は、元々商家で郷士身分を金で買って譲受郷士になった商人であり、経済的にはかなり裕福な家だったようです。
今、放映されている「龍馬伝」の最近重要な舞台になっているのは伏見の「寺田屋」です。
teradaya.JPG
現在でも、宿屋を経営していて、もちろん見学ができるのですが、宿泊もできます。妻とは、昨年暮れに訪れました。ここを仕切っているのは女将のお登勢です。彼女は、池田屋で働いていた「おりょう」と龍馬を結びつけます。そのためか、寺田屋の横には「お登勢明神」があり、そのわきの立て札には、「坂本龍馬とお龍さんを結んだ寺田屋の女将お登勢は百年祭を記念に神と祭られ将来の若き男女の守り神になりました。」と書かれてあります。なんでも、守り神になるのですね。
otosemyoujin.JPG

道草

 昨日、紹介した新宿区立「漱石公園」の計画は公募でした。そこに集まった「区民プランナー」を中心にリニューアルプランを策定し、詳細な設計図を作成し、工事を行ったものです。そして、昨年は、夏目漱石の生誕140年を広く伝えるため、区では関係各所と連携し、区全体として、漱石生誕140年記念事業 を、1年を通して実施していました。
新宿では、公園整備については、住民とともにいろいろな計画を進めるやり方は評価されると思います。私の園の裏にある「おとめ山公園」についても、第一次実行計画として、隣接する公務員宿舎用地(約10,000㎡)とあわせた「区民ふれあいの森」として整備するとしています。一時、公務員宿舎があまりにいい場所にあり、国民から非難が出たことがあり、それを売却することになりました。当然、それを購入するのは、土地開発業者とか、マンション業者であることが多いのですが、新宿区の場合は、その土地を区で買い上げ、しかも、それに隣接する公園を広げる計画を立てたのです。
しかも、その次の計画として、このおとめ山公園に隣接し「区民ふれあいの森」の要に位置する民有地を取得することにしたのです。それによって、この購入する民有地が、既存公園と整備予定の公務員宿舎用地との有機的な連携を持ち、それによって公園の機能を高め、よりよい公園としようとしています。その計画に、区民から「区民ふれあいの森検討区民委員」を募集して話し合いをしています。
いろいろな施設をつくるときに、バブルの時は大きなもの、豪華なもの、そんなことに価値を置いた建物が多くつくられました。しかし、その多くは維持費が多大にかかったり、また、利用しにくかったり、今では持て余している施設も多く見られます。もっと、利用者サイドに立った施設づくりが必要です。また、大きな、さまざまな機能を盛り込んだ建物を一つ作るよりも、住民の生活に密着した、生活圏内に点在する施設整備が必要でしょう。そして、壊すのは簡単ですが、自然なり、文化なりを残すような整備も必要です。
夏目漱石は、明治40年9月、早稲田南町に引っ越し、大正5年、49歳で「明暗」の執筆中に亡くなるまで、この地に住み続けました。この、漱石が晩年を過ごした家と地を、「漱石山房」といっていたところをリニューアル工事をし、公園として保存することにしたのが「漱石公園」です。その中で、どんな施設を残し、新しく何を復元しようかという話し合いの中で、「漱石山房」の家どんなであったろうかという話になったのだと思います。そこは、ベランダ式の回廊のある広い家で、庭には背丈を越す芭蕉がそよぎ、とくさが繁っていて、内部は、もとは医者の家ということもあり、奥の十畳は診察室として使われていたような板敷きの洋間があり、漱石は、この洋間に絨毯を引き、紫檀の机と座布団をしつらえて、書斎としていたようです。書斎の手前の十畳間が応接間となっており、毎週木曜日に午後からここを開放し、訪問者を受け入れたのが、「木曜会」の始まりです。
そんなこともあり、まず、ベランダ式の回廊の一部を復元したのでしょう。そして、公園内「交流施設」の愛称を公募し、その中から「道草庵」に決まりました。
mitikusatei.jpg
小説「道草」は、漱石の唯一の自伝的小説であり、大正四年(1915)に漱石山房で執筆されたというところからつけられています。「道草庵」では、漱石の関連資料やパネルを展示しています。 先日の日曜日に、道草して、妻と立ち寄りました。