集中

 以前、文科省に聞いたのですが、今ある小学校で、1時間の授業時間を短縮する試みが行われているそうです。その内容が、昨日の朝日新聞に取り上げられていました。「授業時間 割ったり足したり」という記事です。現在、授業一コマは小学校45分、中学・高校は50分がスタンダードです。私の高校は、都立高校という公立校でしたが、1コマ100分で、1日3コマでした。ですから、時間割は2週間で1サイクル、最後の土曜日は休みでした。それが、近年、教える内容に応じて短く「小分け」にする試みが続いているようです。それは、どうも「子どもの集中力が落ちている」ことが原因のようです。
 最近行われている試みとして鹿児島県のある中学校では「放課後モジュールタイム」ということで、25分間の授業を1日の終わりに設けているそうです。現在の学習指導要領が施行されてから、1コマの授業時間を必ずしも50分としないで弾力的に運用することが可能になっているからです。この中学校での生徒の感想は、「集中して勉強ができた」「苦手なところがわかった」というようなもののようです。
 「集中力」という著書がある立正大学名誉教授である山下登美代教授は、朝日新聞の記事の中で子どもの勉強に集中できる時間の限界は、「一般的には小学生は『学年×10分』と言われています。」と話しています。低学年の頃は、周りの音などに反応し、すぐに注意がそれがちですので、教員は逆に音を出したり絵を使ったりして子どもの目をうまく導かなければなりません。しかし、それが高学年になるにつれて、やる気や好奇心が育って集中力がついてくるものですが、近年は全般的に子どもの集中力が落ちたと言われています。それに対して山下教授は、「小学校高学年でも、音や視覚効果で子どもたちの関心を引く必要が出てきている。背景には社会環境の変化がある」と言っています。今のテレビやゲームは、限られた画面の中にたくさんの情報が流れています。「目や耳からたくさんの刺激が入ると、注意が分散している状態になる。それが子どもにとって当たり前の生活になると、例えば先生一人の声を耳で聞いているだけの授業はひどく耐えがたいものになってしまう」というのです。
 このような背景を踏まえ、授業時間を短くする試みは、なんと大学でも始まっているそうです。メールやツイッターをやっていると、「読む」「聞く」「書く」はすべて短いし、テレビのインターネットは興味があるところだけ見る。おもしろくなければすぐ他のページに行く。最近の若い世代の特徴をこうあげます。そして、この記事の中で、今の学生たちは、IT機器を短い時間で同時並行的に使いこなすというように、今の社会ならではの知識を得る方法にたけている面もある。集中力は当然身につけさせたいが、昔からの授業スタイルを押しつけて才能を消してもいけない。悩ましい問題ですと結んでいます。
 最近、世界では「乳幼児期における権利」を検討していますが、この「乳幼児期」とはいつのことを言うかというと、出生、乳児期、就学前期間、および、学校への移行期にあるすべての子どものことを指すようになっているようです。それは、出生から8歳までの期間を乳幼児期に関する適当な作業的定義として提案しているのです。小学校入学する時期を境に昔からの学校教育方法に切り替えるのは、どうも無理があるようです。

共生の中での共食

昨日のドイツの写真を見ていくつか気がつくことがあります。保育者が乳児に離乳食を食べさせる場面を周りで取り囲んでみている子どもたちは、さまざまな年齢の子たちがいることです。発達過程の異なる子どもたちが複数で取り囲んでいるということです。このような風景を見ると、日本では、それでは乳児は周りが気になり、気が散って落ち着いて食べることはできないのではないかということを危惧するでしょう。乳児にとっては、食べさせてくれる大人一人だけを見ることによって、誰が食べさせてくれているのか、また、きちんとここの発達を理解した人がいることが子どもに安心感を与えると思われています。また、家庭ではお母さんは一人であり、いろいろな人に見てもらうわけではないということも言われます。しかし、人はいろいろな環境で育ち、その環境から保育のモデルを求めることがありますが、私は下町で育ちましたが、お母さん一人が必ずしもいつも子どもの世話をしていることはありませんでした。家にはお子守さんがいたり、お手伝いさんがいたり、また、近所のおばちゃん、いろいろな人に抱かれて育ちました。また、家族内にも兄弟がたくさんいましたし、祖父母がいた家庭も多くありました。いつも同じ人がおむつを替えたり、食事を食べさせたりしてはいませんでした。ただ、それらの人々は、突然ある日子どもを見ていたわけではなく、普段から、社会みんなで子どもたちを見守っていたのです。子どもたちが安心感を持つのは、お母さん一人が自分を見ていてくれるのだという気持ちよりも、地域の人みんなが見てくれているのだという確信のほうが精神的に安定をもたらしていた気がします。これは、隣の家が遠いところにある過疎地などは違うかもしれませんが、逆に村の人がみんな家族という意識だったような気がします。
川田学準教授は、学術集会の中でこう言っています。「親が子どもと向き合って、じっくり食事をとるということは大切なことかもしれません。しかし、幼い子どもにとって食には遊び的要素だ満載で、思い通りにはなりませんし、1対1で向き合っていると息苦しくなることもあるように思います。」かつて、あるベテラン保育者から言われたことがあります。「食事は遊びではあるまいし、手でぐちゃぐちゃ食べたり、手づかみで食べたりするなんともってのほかです。ですから、私たちは、乳児から子どもの後ろに回って、キチンと手を添えてあげてスプーンの使い方を教えるのですよ!」もちろん、食事は大人のいう「遊び」ではありません。しかし、子どもにとっての学びである「遊び」であることとしての食として見直さなければなりません。しかし、どうしても子どもの行動を母親がネガティブにとらえてしまうのは、現代的な環境にあると川田さんは指摘しています。「乳児と若い親という、発達的に最もかけ離れたペアによる1対1の食事ですと、子どもが他者を観察し、好奇心を働かせる余裕(遊び)が、また美味しそうに食べるのを見て思わず手を出してみたり、食具使用を模倣したくなるというプロセスがなかなか生まれにくいでしょうし、いきおい、“食べなさい”“遊ぶ”“自分でやりたがる”という面が、ネガティブにとらえられ、葛藤だらけの食事になってしまうこともあるでしょう。」
育児の中で、子どもの行動をネガティブとして受け取ることは、何も食事の場面だけではなく、子どもの特徴であるさまざまな行動についても起こりうることのような気がします。それが、最近の子どもへの虐待につながることになっていることもあるような気がします。子どもの遊び、生活の中で子ども集団での行動としての「共生(協力)」も「共食」と同じように人間としての特徴であることをもう一度思い出すべきでしょう。

共視共食

 今日から、このブログも6年目に入りました。
 おんぶには、スキンシップという面だけでなく、こんな役目があることをアーノルドという人が指摘しています。「(おんぶによって)あらゆる事柄を目にし、ともにし、農作業、凧あげ、買い物、料理、井戸端会議、洗濯など、身の回りで起こるあらゆることに参加する。彼らが4つか5つまで成長するや否や、歓びと混じりあった格別の重々しさと世間知を身につけるのは、たぶんそのせいなのだ。」このように子どもたちが他の人がするのを見ることは、社会性の発達の中で重要な役割をしていたのではないかということが最近発達心理学の中で重要視されてきているそうです。この行動を「共同注視(ジョイントアテンション)」というそうですが、おんぶにはそのような効果があったのであろうという指摘は、とても面白いと思います。
 同様に、最近、食事をみんなで一緒に食べることによる社会的認知的発達や、自己と他者理解に効果があるのではないかということを、香川大学の川田学準教授「食の中の模倣過程と自他関係の形成」ということで発表しています。これは、おんぶ同様に、みんなで食べる意味を社会性の発達の中で重要であるとするのは、とても面白い観点だと思います。いままで、みんなで一緒に食べることで食欲が増すということは知られています。また、最近、他の人と食べることで味覚が変わることもわかってきています。いわゆる、たくさん食べようとする意欲が生まれたり、好き嫌いがなくなるのは、みんなで食べることによるということが分かってきているのです。
最近、どこでも「食育」ということが言われていており、新しい学習指導要領、幼稚園教育要領、保育所保育指針にも食育が取り上げられ、食の営みとして見直されてきています。一方、一時期、家族の生活リズムの違いから子どもたちが一人で食事をするという個食や孤食が問題になり始めました。また、孤食をさびしいと感じずに、好むようになってきた子どもたちも問題になってきています。また、一緒に食卓で並んで食べていてもそれぞれのメニューが違う個食ということも問題になっています。また、乳幼児では基本的にはだれかに食べさせてもらわなければなりませんので、孤食はないのですが、母親と乳幼児2人きりで食事をするというケースが多いようです。
人類学的視点から見たヒトの食は、「人間は料理をする動物である」および「人間は共食する動物である」といいます。複数の個人が集って食事をするという共食が、ヒトの食を特徴づけ、また、人類における家族の起源と共食は深い関係にあり、子どもは家族を中心とした共食環境の中で、食行動や食文化はもちろん、他者理解や社会的ルールを学ぶ機会を得てきたのです。特に、食の基本が形成される乳児期では、多くの発達過程が見える中での食事は、食の自立、食具使用の発達、社会認知的発達においてとても重要であったようです。
最近取り上げられる「食育」は、栄養指導、料理活動、栽培活動での事例が多く、どれも「食材」に焦点が当たっていますが、誰と食べるかも重要です。そういう意味では、少子社会において、幼稚園や保育所で、子ども集団による食事はとても意味があります。特に、乳児からの食事も大人との二人きりで食べることは見直さなければならないようです。今年ドイツに行ったときに、園で保育者が乳児に食事を与えている姿を、幼児にも見せていました。
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文明化

外国人が日本や日本人を見て素晴らしいというのは、必ずしも的確な指摘ではなく、未知のもの、東洋的なものへのあこがれからよく見ることもあるでしょう。しかし、その誇張の中にも、我が国を客観的に見たときに、そのように見えるのだということも確かですし、数カ国を旅した中で、他の国の批評を見ると、必ずしも誉めているわけではないことがわかります。明治維新の直前の1865年に、トロヤの遺跡を発掘したドイツ人ハインリッヒ・シュリーマンは、日本と清国を訪れています。そして、その両国で見聞きしたこと、考えたことを細かく記した「シュリーマン旅行記、清国・日本」という本が出版されています。そこに書かれてあることは、彼の目、外国人の目からですので、確かな評価かわかりませんが、なんだか、今の日本にも当てはまることがあります。彼は、その書籍の中で、日本の文化・風俗、教育は賞賛しているのですが、当時の政府の政治活動には厳しい評価をしています。どうも、日本というのは、文化は素晴らしいものを持っているのですが、政治や外交は下手のようです。たとえば、「封建体制の抑圧的な傾向は民衆の自由な活力を妨げ、抹殺する方向に動く」と、幕末の封建制を批判しています。また、「この国の将軍は各地に散在する大名らの利害を優先的に考えるあまり、外国との自由な接触によって莫大な利益を得、知的道徳的な進歩が促され、封建体制による支配が揺らぐことを危惧している。」と、民衆よりも一部の階級を大切にし、利権を中心にした幕府の政治は、もうすぐ崩壊することを危惧しています。
その厳しい指摘に反して、日本における教育は称賛しています。「日本には、少なくとも日本文字と中国文字で構成されている自国語を読み書きできない男女はいない」と記し、「教育はヨーロッパの文明国家以上にも行き渡っている」と、絶賛しています。江戸後期から幕末期における日本の教育水準は、来日した外国人にとっては驚きの的だったようです。そして、人々の勤勉で誠実で清貧なところ、町の清潔さに驚き、特に工芸品の巧みさについては、「工芸品において蒸気機関を使わずに達することのできる最高の完成度に達している」と大絶賛です。そして、「この国には平和、行き渡った満足感、豊かさ、完璧な秩序、そして世界のどの国にもましてよく耕された土地が見られる」と高く評価しており、「文明という言葉が物質文明を指すなら、日本人は極めて文明化されて」いるという言葉を聞くと、明治以降の「文明開化」というのは、何を指しているのかと思ってしまいます。
大森貝塚を発見したモースは、日本の風習の中でおもしろい所に目をつけています。彼の著作「日本その日その日」に、スケッチとともにこんなことが書かれてあります。「子どもを背負うということは、至る処で見られる。婦人が5人いれば4人まで、子どもが6人いれば5人までが、必ず赤ん坊を背負っていることは誠に著しく目につく。(中略)赤ん坊が泣き叫ぶのを聞くことはめったになく、又私は今迄の処、お母さんが赤ん坊に対して癇癪を起しているのを1度も見たことはない。私は、世界中に日本ほど赤ん坊のために尽くす国はなく、また日本の赤ん坊ほどよい赤ん坊は世界中にないと確信する。」そう言えば、最近、電車の中や町の中で、赤ん坊が火がついたように泣いているのに癇癪を起している母親の姿をよく見るようになりました。私が子どもの頃は、そう言えば、それほどそんな光景は見なかったような気がします。それは、おんぶのおけがだったのでしょうか。
また、おんぶの効用をスキンシップという面だけでなく、こんなことも言っています。「小さな子どもを一人家に置いて行くようなことは決してない、彼らは母親か、より大きな子どもの背にくくりつけられて、とても愉快に乗り廻し、新鮮な空気を吸い、そして行われつつあるもののすべてを見学する。日本人は確かに児童問題を解決している」

江戸の教育

薩摩スチューデントたちや長州ファイブのメンバーたちが広い世界から受けたカルチャーショック、驚き、恐れ、それにもまして好奇心の旺盛さから、近代日本の建設に活かそうという若い情熱を感じます。また、メンバーの体験は、自分たちの国をその内側からではなく、外側から客観的にとらえていくという共通の経験があることによって、帰国してからのつながりができていったような気がします。
しかし、明治になっての変化は、江戸時代が長く維持され、鎖国政策の中で外国に左右されず、長く緩やかな日本型の合理化・近代化をしていったのです。その近代化は、他国の影響を受けないだけに非常に自律的な形をしていました。ですから、寺子屋への就学率も、義務教育という形はとらなくても、世界の中で非常に高い就学率を誇ることができたのでしょう。その自律的な近代化は、この過程で現在まで続く日本型社会を形成してきました。そして、その中でも何々の改革が何度か行われています。その改革で、国家システムは合理化され、国家主導のもとで、国民教育も大いに普及したと言われています。
すべての近代化が、明治維新によってはじまったというのは間違っていて、規制緩和、地方分権、首都機能移転などの今日的な政治課題同様、教育制度においても、江戸時代に国民諸階層の教育制度が整備されており、幕府、藩、庶民のレベルでの郷学、町や村の寺子屋など、国民的規模で整備されています。この整備は、国家が庶民を教育の対象として捉えていたことは、日本では教育に対する国民の意識が高かったことを示しています。そして、この国民的規模での社会の近代化・均質化が、明治以後活躍した人材の育成に貢献したのです。
江戸時代の教育が非常に進んでおり、その中で、以前のブログでも何回か取り上げたのですが、最終的には四書、五経という儒教の基礎を勉強させるべきと述べていますが、それまでには、発達段階に応じた教材として往来物の利用をしてきたことがあります。その様子を、外国の人からはどのように映っていたか、いろいろな書物から知ることができます。
黒船に乗ってきたペリーは、「ぺルリ提督日本遠征記」の中で、本が安く大量に売られていることを驚き、「教育は同帝国至る所に普及して居り」と、教育の普及ぶりを評価しています。プロイセンの画家ハイネは、「ハイネ世界就航日本への旅」という書物の中で、子どもたちがしっかりと男女ともに小学校に入って勉強し、読み書きと祖国の歴史を教わっていると書いています。同じことが、イギリス外交官の秘書ローレンス・オリファントも、「エルギン卿遣日使節録」で、「子供たちが男女を問わず、またすべての階層を通じて必ず初等学校に送られ、そこで読み書きを学び、また自国の歴史に関するいくらかの知識を与えられる」というように書いています。また、ロシア海軍軍人ゴロウニンは、「日本幽囚記」に、「日本の国民教育については、全体として一国民を他国民と比較すれば、日本人は天下を通じて最も教育の進んだ国民である。日本には読み書き出来ない人間や、祖国の法律を知らない人間は一人もゐない」また、「しかしこれらの学者は国民を作るものではない。だから国民全体を採るならば、日本人はヨーロッパの下層階級よりも物事に関しすぐれた理解をもってゐるのである」と、非常に高い評価が記されています。スイスの全権主任アンベールは、「アンベール幕末日本図絵」上巻で、「成年に達した男女とも、読み書き、数の勘定ができる」と、驚いています。イギリスの初代駐日公使オールコックは、「大君の都」に、「日本では教育はおそらくヨーロッパの大半の国々が自慢できる以上に、よくゆきわたっている」と述べています。
外国に行った日本人は、いろいろな進んだ文明に驚いていますが、日本に来た外国人たちは、日本のすすんだ教育に驚いているのです。

幕末に

 いよいよNHK大河ドラマ「龍馬伝」が大詰めに近づいてきました。龍馬というと一番の功績と言われるのが、中岡慎太郎と奔走し、犬猿の仲であった薩摩藩と長州藩を結びつけた「薩長同盟」です。
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竜馬と慎太郎像
私が子どもの頃は「薩長連合」と言っていたのですが、最近では「薩長密約」とか「薩長盟約」と呼ばれることも増えてきました。テレビを見ていると、本当に薩長は仲が悪いようですが、どうなのかはいろいろな説があるようです。しかし、どちらにしても、両藩がその後の倒幕の中心になっていくのは確かですし、明治になってからも多くの要職を薩長で占めていたことも事実です。その影響を、今でも感じるくらいですが、なぜ、薩摩と長州が中心になったのでしょう。その理由の一部は、両藩とも先を見る力があったということでしょう。先を見るというのは、攘夷と言いながら、欧米の文明の進んでいることを認め、攘夷などはできるものではなく、それよりも早く欧米の文化を学んだ方がいいと思っていたことです。
 実は、薩長は同盟を結ぶ前から、同じような考え方をし、両藩の関わりを持っていたのです。薩摩藩は、薩英戦争でイギリスと戦って、イギリスの文明のすすんでいることを目の当たりにします。そこで、攘夷の不可能を悟り、1865年、島津久光の意向でイギリスに国禁を犯して15名の留学生と4名の引率者を派遣しました。その薩摩藩派英の留学生のことを、「薩摩スチューデント」と呼びました。このメンバーであった森金之丞(森有礼)は、外務卿、初代文部大臣になりますし、松村淳蔵は、海軍中将、畠山丈之助(畠山義成)は、東京開成学校(東京大学の前身)の初代校長になります。
一方、これに先立って、これより数年前に長州からも秘密裏にイギリスへ留学のため派遣された5人がいました。こちらは「長州ファイブ」呼ばれ、映画にもなって話題になりました。メンバーの5人は、それぞれ功績を残しています。井上聞多(井上馨)は、初代外務大臣で、欧化政策を推進し、不平等条約改正に尽力します。遠藤勤助は、造幣事業に一生を捧げ、「お雇い外国人」から独立し、日本人の手による貨幣造りに成功します。山尾庸三は、グラスゴーで造船を学び、明治4年に工学寮(のちの東京大学工学部)を創立し、また、聾盲唖教育の父とも呼ばれています。伊藤博文は、もちろん初代内閣総理大臣となり、大日本帝国憲法を発布します。野村弥吉(井上勝)は、鉄道の父とよばれ、新橋?横浜間に日本初の鉄道を敷き、以後、全国の鉄道敷設工事を指揮しました。岩崎彌太郎とともに小岩井農場を創設します。
イギリスでは、時を同じくしてイギリスの留学していた薩長は交流をしていたようです。それにしても、イギリスに着くまでに見た外国の姿や、イギリスに着いてからも驚きの連続だったでしょうね。そんな日本人を見たイギリス人は、日本人はなんと野蛮で遅れている国民なのだろうと思いますが、しばらくしてその日本人たちは、農機具などすぐにマスターし、イギリス人たちを指導するようになります。今度は、イギリス人たちは、日本人はなんと優秀な国民だと思うようになります。それは、彼らのあくなき探究心の現れですが、もうひとつは、江戸時代の教育の成果ともいえます。
進んだ外国の文化に触れて驚く彼らですが、実は、日本の文化も決してひけをとらない高い水準を持っていたのです。

納得

 日曜日の朝9時になると、東京ではTBSラジオから天地総子さんの声で「ダイヤル ダイヤル ダイヤル ダイヤル 回せば ジャカスカ ジャカスカ … 子ども 電話相談室!」という元気な歌声が流れ、「全国こども電話相談室」が始まります。この番組は、1964年7月13日から2008年9月28日まで続いた人気番組です。司会者で印象に残っているのは、高階鈴子さんで、1966年4月から1970年5月まで担当していました。回答者として印象に残っている人として、永六輔さん、無着成恭さん、大橋巨泉さん、動物園長の矢島稔さん、そして、ドラえもんの声で回答していた大山のぶ代さん、天気のことについて回答した森田正光さんなどがいました。
 この番組では、子どもたちがさまざまな大人が答えに困るような質問や、今更聞けないような質問が多く出て、大人にも人気があったのですが、もうひとつ印象に残ることがありました。アナウンサーの女性の方が、回答者が答えたあとで「わかりましたか?」とか「わかった?」と念を押していたのを、ある時から全く言わなくなったことです。たぶん聴取者から局に、「しつこく子どもたちに念を押すのはどうか」とか「無理やりに子どもたちに納得させるのはどうか」という苦情がいったからだと思います。
 子どもたちはさまざまなことに興味を持ち、好奇心を持ち、知りたがります。よく大人に「なぜ?なぜ?」と質問をします。その問いに大人が答える時に、どの程度まで説明するのかを迷うことが多くあります。それは、質問をした子どもの理解度が年齢などによって違うからです。逆に、小さな子どもにわかりやすく説明するのは、とても大変です。たとえば、「テレビはどうして映るの?」と3歳児に聞かれたときにどう答えたらいいかわかりません。
 また、大人に対しても相手に納得がいくように答えるのはなかなか難しいことです。しかも、相手にだけ納得がいく答えをしていても、他の人にとって納得がいくものでなければ単に独りよがりにすぎないのです。以前のブログで紹介した「理科」という教科を学習するうえでの考え方があります。一人の人が納得がいったというのは、この人の頭の中で矛盾のない,調和のとれた一つの自然科学的な知識の体系ができたからですが、それは出発点であり、さらに,いっそう進んだ,あるいは完全な科学となるためには,納得のいった主体である自分を検討しなければならないといっています。この主体である自分が,単なる一個人限りのものであると,実は科学とはいえず、独りよがりでなく,多くの人が判断しても同じ結論が得られるものでなくてはならない。ということは,多くの人の経験した事実にも矛盾しない解釈が下されているということになるのです。これは,科学が主観的なものでなくて,客観性のあるものだといわれることだといいます。また,条件が同じであれば,常に同じ結果が,どこでも,いつでも得られなくてはならず、これか科学の普遍性といわれるものであるのです。
このように納得のいった解釈が,客観性や普遍性をもっているならば,このような解釈で築きあげられている知織の体系は,完全な科学ということができるのです。そして、そのような科学を子どもたちは,それぞれの発達の段階において持っていると考えられているのです。そして、その知識の体系は,だんだんと発達していき、次第に広く,深くなるのであって,子どもの科学といわれるものは常に進歩すると考えてよいです。ですから、幼児の疑問に対しては、質問に答えることではなく、そのことへの理解が深まるまで疑問を持続させることに意味があるのです。そのために不思議さに共感することが必要になってくるのです。

太平

 夏目漱石の「吾輩は猫である」という小説は、彼を自己本位の境地を自覚させることになるのですが、同時に、ロンドンで悪化した神経衰弱を和らげるために書かれたものであると言われています。そのため、自己本位に至る経過の中で、西洋かぶれを揶揄し、少々投げやり的なところがあると同時に、しばしば神経衰弱から逃れようと必死になっている姿も感じることができます。私は、この小説を読んで、その苦しみと、居直りは人へのやさしさと感情の繊細さからくる苦しみであり、誰でも持ちえている部分である気がします。
その時の気持ちが、この小説の最後の場面によくあらわれている気がします。
 「吾輩は猫である」の冒頭は、人によく知られてはいますが、最後のどうなるかはあまり知られていません。主人公である名前のない「猫」である自分は、「気がくさくさして」ビールを飲んでみようと思います。しかし、そんなにおいしいものではありません。命のあるうちに、なんでもやってみようと思うのですが、舌の先がピリピリして、腐った感じがしておいしくありません。しかし、人間だって「良薬は口に苦し」と言って薬を飲むのだからと思い、我慢をして飲みます。二杯飲んだところで酔ってきます。そして、ふらふらと外に出て行ったところ、なんと、水の入ったかめの中に落ちてしまいます。水を掻いても、後足で立ち上がろうとしてもそこに足がつきません。
 もがいて、前足で縁をがりがり掻いても少し浮きあがるだけで、すぐに潜ってしまします。そのうちに体が疲れてきます。気は焦りますが、足は利かなくなり、自分が何をしているかもわからなくなります。そんな苦しさの中で、こんな風に考えます。
 「その時苦しいながら、こう考えた。こんな呵責に逢うのはつまり甕から上へあがりたいばかりの願である。あがりたいのは山々であるが上がれないのは知れ切っている。吾輩の足は三寸に足らぬ。よし水の面にからだが浮いて、浮いた所から思う存分前足をのばしたって五寸にあまる甕の縁に爪のかかりようがない。甕のふちに爪のかかりようがなければいくらも掻いても、あせっても、百年の間身を粉にしても出られっこない。出られないと分り切っているものを出ようとするのは無理だ。無理を通そうとするから苦しいのだ。つまらない。自ら求めて苦しんで、自ら好んで拷問に罹っているのは馬鹿気ている。
「もうよそう。勝手にするがいい。がりがりはこれぎりご免蒙るよ」と、前足も、後足も、頭も尾も自然の力に任せて抵抗しない事にした。」
必死になって、その場から脱しよう脱しようとすればするほど、どうにもならなくなることを悟ります。無理を通そうとするから苦しいのだとわかります。もう、自然に任せようとします。そうして、こう最期を迎えます。
 「次第に楽になってくる。苦しいのだかありがたいのだか見当がつかない。水の中にいるのだか、座敷の上にいるのだか、判然しない。どこにどうしていても差支えはない。ただ楽である。否、楽そのものすらも感じ得ない。日月を切り落し、天地を粉韲して不可思議の太平に入る。吾輩は死ぬ。死んでこの太平を得る。太平は死ななければ得られぬ。南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏。ありがたい ありがたい。」
日月を切り落し、天地を粉せいして不可思議の太平に入るのです。逆説的にいえば、今存在している世は、太平ではないことが生きている証拠でもあるのです。

大福

8月16日の岐阜新聞に「1000年以上の歴史を誇る美濃焼で知られる岐阜県多治見市。今、日本一暑いまちとして注目を集めている。食ではうなぎが名物だが、ほかにないものか?」という記事が掲載されていました。毎日暑い日が続き、食欲もなくなる今日この頃、何かおいしいものでもないかと探していたら、こういう記事にぶつかりました。そのおいしいものとは、真夏を涼しくする和のスイーツで、「たじみのブルーベリー大福」だそうです。白い餅の中に紫色のあんとブルーベリーが丸ごと何粒も入っていて、大福餅からブルーベリーのいい香りが漂い、ひんやり冷たい餅は柔らかく、口の中で、冷えた生のブルーベリーがはじける食感だそうです。そして、あんの甘みと果実の酸味が溶け合い、ほどよい甘さが染み込んだ餅皮が、口の中で溶けてなくなったという記者の感想です。
このブルーベリー大福は2007年から発売されているそうですが、この食感を読むと「いちご大福」を思い出します。このいちご大福は、昭和後期になって登場した新しい和菓子で、当時、不思議な組み合わせで私もずいぶんと食べたものです。この菓子の由来について、よくあるような本家争いがあるようです。老舗の一つである「とらや本家」は1985年(昭和60年)頃に自社で開発したと主張していますが、「製法が外部に流出するのを恐れて特許などの申請を行わなかった」ということで、現在、いちご大福の製造法の特許を保有しているのは、「大角玉屋」です。この店のHPによると、元祖いちご豆大福は、昭和60年に、当時、大福の中にいちごを入れるなんて誰も思いつかなかったところ、大福にいちごを入れたらおもしろいかもしれない!と、三代目・大角和平は発案し、作ってみたら、これがなかなかの美味。ということで、女性を中心に人気商品になったとのことです。
もともと、大福とは餅皮を薄く、小豆でできた餡を包んだもので、丸くふっくらしている様子がウズラに似ているので、当初はうずら餅とも呼ばれました。または、うずらの腹がふくれていること、食べると腹がふくれるので、「はらぶと餅」とも呼ばれていました。のちに「腹太餅」を「大腹餅」に書換えられたのですが、この「大腹」という字より、「大福」 の方が縁起がよいということで「大福餅」となったそうです。そして、この餅は、和菓子屋で売られていたのではなく、1780年頃は夜にこの大福餅を売り歩 くことが流行し、人々は冬の寒い夜などはそれを鍋で焼いて食べました。また賀寿の餅として大福 餅の上に「寿」と紅で記して賀寿当人が親戚への配り物としても利用されました。
この餡の代わりに、イチゴをはじめとして果物を使った大福が何種類か売り出されています。ブルーベリー大福のほか、栗大福、オレンジ大福、ピーチ大福、メロン大福などがあるそうです。「まるごとみかん大福」は、「秘密のケンミンSHOW」でも紹介されていましたが、愛媛みかんが丸々入った大福です。私は、夏ミカン大福を頂いたことがありますが、とてもおいしかったです。
また、中身が果物でないものを多く出回っています。小豆餡の代わりに梅の甘露煮が入っている「梅大福」、小豆餡にコーヒーの風味を付けたものや生クリームが入っているもの等がある「コーヒー大福」「カフェオレ大福」「モンブラン大福」、小豆餡の代わりにマロン・クリームが入っている大福、小豆餡の代わりにプリンのクリームが入っている「プリン大福」、ティラミスのクリームをコーヒー味の餅でくるんだ「ティラミス大福」、ここまで来ると、なんでもOKですね。しかし、歳を取ってくると、やっぱり中身は餡子に戻ります。

西洋かぶれ

物事は、広い視野の中から見るべきです。これからの時代は、ますますグローバル化していき、世界は近くなっていくでしょう。そして、これからは世界で活躍する子も増えてくるでしょう。また、日本社会に多くの外国人が生活するようになるでしょう。当然、園にも外国人が増えてきます。保育の国際化を考える聖徳大名誉教授・上海市教育委員会諮間委員である日名子太郎氏は、外国人保育を行うにあたって、どうしても学ばなければならないことについてこう述べています。
「まず己れのこと、つまり日本の歴史・文化についての学習」が必要であると言います。「鎖国以来今日までのわが国の歩んできた道には数々の誤りがあり、しかもそれを何回も飽きることなく繰り返している傾向がある。外国人は、日本のことについて知りたいことが多く、関心も強い。逆に日本人はあたらしがり屋で日本の伝統文化も含めて無知に近いのは、もちろんわが国の親の考え方、進学中心の教育観といった方向へ直走りした結果によるものである。したがって、「温故知新」―古いものを理解し、その結果として新しいものに眼をむけること―という立場に立つことによって、まず古いものを十分に学び、大切にし、自国の歴史、文化について学び、その間に諸民族、諸外国とのふれ合い、関係などを知り、ついで新しいものへ関心を移すということが、ほんの形式的にしか行われていなかったということへの反省が必要である。」
戦後、どうしても日本は欧米に対して劣等感があります。それは、戦争に負けたからというだけでなく、長い鎖国をしてきた後の反動である明治期にも、西欧に追いつけということと、西洋化することがモダンに見え、日本社会全体が、一斉に西洋文明かぶれになりました。それと、どうも国民性としての「新し物好き」という気質もあるのかもしれません。そんな盲目的な西洋追従に対して、夏目漱石は、危機感を持ちます。圧倒的な優位にあった西洋文明一辺倒になっていくのを見て、そのような風潮に流されていく自分、社会を憂い、もっと自己を確立すべきであるとしてその風潮を律するための対抗原理として、「西洋」という「他人」本位への対立概念として、自己本位を掲げたのです。 数日前のブログでも書いたように、ただカタカナの名前を出し、そんな人がこう言っているというと、なんだかそれが正しいかのように思え、偉そうに吹聴する人を「吾輩は猫である」の中で皮肉っています。
“友人で美学とかをやっている人が来た時に下のような話をしているのを聞いた。「どうもうまくかけないものだね。人のを見ると何でもないようだが自ら筆をとって見ると今更のようにむずかしく感ずる」これは主人の述懐である。なるほどいつわりのない処だ。彼の友は金縁の眼鏡越しに主人の顔を見ながら、「そう初めから上手にはかけないさ、第一室内の想像ばかりで画がかける訳のものではない。昔イタリーの大家アンドレア・デル・サルトが言った事がある。画をかくなら何でも自然その物を写せ。天に星辰あり。地に露華あり。飛ぶに禽あり。走るに獣あり。池に金魚あり。枯木に寒〓鴉あり。自然はこれ一幅の大活画なりと。どうだ君も画らしい画をかこうと思うならちと写生をしたら」”
こう助言された猫の主人は、一生懸命に写生をします。しばらくしてきた美学をやっている友人に話したら、“美学者は笑いながら「実は君、あれは出鱈目だよ」と頭を掻く。「何が」と主人はまだわられた事に気がつかない。「何がって君のしきりに感服しているアンドレア・デル・サルトさ。あれは僕のちょっと捏造した話だ。君がそんなに真面目に信じようとは思わなかったハハハハ」”
漱石は、「野分」という作品の中で「西洋の理想に圧倒せられて眼がくらむ日本人はある程度に於て皆奴隷である」と言っています。もっと、自己本位という日本の文化を大切にすることが必要であることは、今の時代にも言えることです。