江戸時代の理科について考える前に、戦後間もなくの昭和22年に小学校学習指導要領の初版を発行した後、27年に出された、その改訂版において、理科の指導目標を見ていたいと思います。その内容は、実例を取り上げて、理科とはどういう科目であるかを考察しているとても興味深いものです。
ここに書かれたある理科の指導目標は、「すべての人が合理的な生活を営み、いっそうよい生活ができるように」ということで、児童・生徒の環境にある問題について身につけるものとして三点を挙げています。「物ごとを科学的に見たり考えたり取り扱ったりする能力」「科学の原理と応用に関する知識」「眞理を見出し進んで新しいものを作り出す態度」です。この目標を達成する為に、理科の根本になる科学について、しっかりした考えをもっていなくてはならないとしています。「自然現象の事実」とはどういうことかということを、こんな例が挙げられています。
「あるこどもがかえるを飼って、その成長の変化を観察して、記録を作った。父親がその記録を見ると、かえるの変態が動物学の本に書いてあるものに比べて、1か月も長い日数がかかっていることに気がついた。それで、こどもの観察した事実がまちがっていると考えて、こどもの記録の日付を訂正して、動物学の本にあるように書きなおした。」
この父親の対応について、このように考察しています。「この父親は、動物学の本に書かれたかえるの発生を、そのままうのみにしてしまって、こどもがすなおに観察したかえるについての事実を無視してしまったのである。このような取扱を受けたこのこどもは、まちがいのない事実、言い換えれば自然現象における真実というものを、どういうふうに考えるであろうか。父親が狭い科学的な知識をふりかざして、こどもがとらわれない心で観察した自然の事実を誤りであると決定したのである。この父親は『いついかなる場合にも、自然現象には誤ということはあり得ない。』ことを忘れているものである。この自然現象を人が解釈する場合に、人の解釈が誤っていることは起りうることである。科学のことを考えるにあたって、まず第一に重要なことは、この自然現象の真実とは何かを、はっきりわきまえることである。」
次に、「科学の客観性と普遍性」について、こんな例をあげています。
「おたまじゃくしを洗面器で飼っている3年生のこどもがあった。後足が出、前足が出て、尾が短くなったある日、いく匹かの小がえるに逃げられてしまった。こどもはがっかりしたが、別に深くも気にとめなかった。ところが、翌日また逃げられた。再度のことではあるし、かえるのきわめて残り少なくなった洗面器を見たこどもは、『いったい、どうして逃げられたのだろう。』と考えた。こどもはいろいろと、かえるについての経験を思い浮べた。そして、池にいるかえるを考えた。池の中のかえるは、岸や石にはいあがったり、また、水の中にもぐったりしている。その事実から、『おたまじゃくしは水の中が好きなのだけれど、かえるになると、陸も好きになるのだろう。』こう考えて、砂や石で洗面器に陸を作ってやり、金網の蓋をした。かえるは、水の中を泳いだり、陸にあがって休んだりした。かえるを飼うことがこれでできた。」
ここでは、今とても大切なものとして見直されている「探究心」が科学の基本であることを言っています。そして、その問題を解決しようとする為に、まず、これまでのいろいろな経験を思い出してみます。それではわからない場合には、ある予想をたてて、いろいろと実際にためしてみます。それらを繰り返すことで、自分に納得のいく解釈を下して、はじめて満足できるのであり、この解釈が自然科学的な知織であるといいます。
私たちは、ここに書かれてある父親の態度のように、「狭い科学的な知識をふりかざして、こどもがとらわれない心で観察した自然の事実を誤りである」としていることが多いかもしれません。
先日も、終戦間もない頃の指導要領の話題がありましたが、理科の指導目標もとても的を得ていて感心しました。結局、科学する心とは、身の回りの自然現象をしっかり観察して、見つけた疑問や不思議を大切にすることですね。決して大人はその邪魔はしてはいけない。ネットで「女子中学生の小さな大発見」という本を見つけました。鳥肌は顔と足首にはできない。醤油は凍らない。卵は塩水にも砂糖水にも浮く。昇りのエレベーターでジャンプすると体が少し浮く。ーどれも女子中学生が見つけた不思議ですが、どうしてそうなるか説明できますか?
目の前の現象をありのままに見るということは、いろんなことを知れば知るほど難しくなっていくんですね。ありのままに見るということに関しては、確かに子どもの方が優れていると感じることが多いです。その子どもの気づきに対して大人がどう対応するか、子どもの人格形成にも大きく影響する部分なので気をつけなければいけません。こうしたことを考えるときにいつも思うことが、今までの知識や経験を持って、それにとらわれることなく物事をそのままに見ることができれば、いったいどんな世界が見えるんだろうということです。それの出来る人が様々なモノを生み出してきたんでしょうね。
保育の現場でも園庭や散歩に行ったときに見つけた虫について質問をされます。この虫は何を食べるのか?どのくらい大きくなるのか?などです。その時は自分の持っている知識で答えていますが、実はそれが子どもの探究心を無くしていたのですね。また図鑑などで子どもと一緒に調べることも大切かもしれませんが、それよりも実際に見た物や実験などして、自分の目で見て納得するまで調べることが大切ということが分かりました。
私も小中高を経てきたわけですが、たとえば「理科」の学習指導要領に書かれ今回紹介されていた「理科の指導目標」のような私たち生徒がめざすべき課題は聞いたことがない、あるいは全く記憶に残っていません。前にもコメントで書いたと思うのですが、何のために学習するのか、本当に理解せずにただただ覚えていたような気がします。この「何のため」は今回の目標に明記されています。もし毎回この目標を授業の中で確認しながら先生の話や自分たちが関わる実験に熱中していたら授業はとても楽しいものになったに違いありません。「科学の原理と応用」とか「眞理を見出し」とか「自然現象の事実」とか哲学的で高尚です。これらのことを実現するために幼児期に確固たるものにすべきが「探求心」ですね。学習の基本がこの「探求心」であることは強調しすぎても過ぎることはないと思います。
「狭い科学的な知識をふりかざして、こどもがとらわれない心で観察した自然の事実を誤りであるとしている」という言葉を見て狭い範囲で子どもを見るのではなく。子どもの探求心を大切にし、その可能性をのばしていくことの大切さを感じました。しかし、今回一番感じたのは育児書や保育書や去年のその年代の子どもの姿を参考にしすぎて、今の子どもの姿を見ていないことがよくあることでした。子どもの姿はつねに違い、決してそういった書類の子どもの姿と同じではありません。つねに今ある子どもの姿を見て、保育を作りあげていくことが大切であるとこのブログを見て思いました。