よく行政の話で地方分権ということが言われます。それぞれの地域には、その地域なりの特徴があり、それぞれの地域事情に合わせた制度や考え方をする必要があるということが言われます。少し前に、ある研究者の人と議論をしました。その人は、過疎地の保育の研究をしている人で、過疎地には過疎地なりの保育の考え方があるべきであるという主張でした。私は、その地域なりという議論の前に、どの地域でも必要なものは何かという議論直すべきだという主張をしました。どの地域の子どもでも、基本的な発達は同じです。そして、子どもにとって必要な育ちというものは共通していると思っています。もちろん、その地域なりの必要な力はあるかもしれません。しかし、その子どもがどの地域で生活し、働くかわかりませんし、また、私たちもいつ過疎地で働くようになるかもしれません。赤ちゃんは、どんな地域で生まれ、どんな障害を持って生まれるかわからないので、すべての能力を持って生まれるという考え方があります。それを、その地域で生きるために必要なもの、自分で生きていくうえで必要なものを残して発達していくと言われています。
今回、ドイツに行って聞いたのですが、最近のドイツでは、ある保育内容の時間数が決められているそうです。それは、「言語教育」です。今回訪れたある園では、8割近くの子どもがドイツ国籍ではありませんでした。そこで、どの園でも、ドイツ語教育が義務付けられているのです。しかし、それは、決して「母国語を忘れろ!」ということではなく、母国語を大切にすることで、ドイツ語も話せるようになるという考え方の保育であるという説明をしてくれました。
「荘子・斉物論)」にこんな話が載っています。齧欠とその師匠である王倪の問答です。
「先生は万物に共通する普遍的真理をご存知ですね」「そんなものは知らない」「では、わからないということだけはご存知なんですね」「それも知らぬ」「すると一切は不可知であると判断するわけですか?」「それもわからぬ」
師匠の王倪は、弟子の質問に、知らぬ、わからぬの一点張りです。どうしてこんな答えをしたのでしょうか。本当に知らないのでしょうか。また、答えられないのでしょうか。これに続けて、王倪は、こう言っています。「人は湿気の多いところにいると腰を悪くし、ひどい場合には半身不随になって死んでしまうが、泥鰌は湿気を好む。人は木に登ったり高い所にあがるとブルブル震えてしまうが猿は平気だ。この三者に共通の、正しい居場所というのはあるのだろうか。人は家畜の肉を食べ、鹿は草を食い、ムカデはミミズをうまいと思い、トンビやカラスは鼠を好む。この四者に共通の正しい食べ物というようなものがあるだろうか。誰も知らない」
これらの違いだけを見ていると、その答えはないことになります。ということは、私たちの知っていることは、表面的なものであり、それは非常に頼りないものであり、相対的なものであるということを言っているのでしょう。それは、誰でも自分の立場や思いや考えからしか物事を見ていないからです。そんな自分からの世界を他人にも押しつけようと、自分の考えが正しいことを証明しようと、いろいろ理屈をこねて説得しようとします。こんな時に、荘子はこうすればいいと言っています。
何が正しい、正しくないのと論じたところで決着がつくものではありません。であれば、その違いをそのまま受け入れることだと言います。そうすることによって、同じもの、が見えてくるのでしょう。そんな経緯から荘子は、「道」を求めるようになっていったのかもしれません。
今の保育に出会い、その考え方の根本を何とかつかみたいという思いでいますが、まだまだ自分のものになっていないようです。それがこのブログを読んでよくわかりました。わかったつもりになってしまうこともありますが、これは生き方の問題でもあるんだと思いながら、自分の生き方に生かすことができていないことが、よんでいてよくわかりました。何だか自分が恥ずかしくなりました。自分の今の姿がはっきりと映し出された感じです。ありがとうございました。
都市部は4万人ともいわれる待機児童が出ているというが、その陰で地方の過疎地では極端な少子化で、幼児教育そのものが大きな危機に瀕していると思う。統合や休園でしのいでいるものの、制度の問題や自治体の財政基盤の弱さで十分な保育が保障されなくなっていると思う。園児が少ないので必然的に異年齢混合保育になっているが、いまだに年齢別保育論が基本だ。どの地域でも必要な子どもの育ちは同じはずだ。超少子化の過疎地だからこそ、年齢ではなく発達を重視した保育が求められると思う。
保育について語り合う時、よく都会と過疎地、中央(東京)と地方、補助金の多寡、地域の文化風習の違い、などなど、その「違い」がとても喧伝されます。このことは、ほぼ同じ年代の子どもたちを相手にする保育園、幼稚園、小学校も「違い」を強調しあっている向きがなきにしもあらず、です。こうして見てくるとこの国の人々は「違い教」の信者さんか?と思ってしまうほどです。しかし、人はオギャアと生まれこの世に生を受け、やがて成人し老人になり死んでいく、という一連の流れは同じです。身体機能もほぼ同じ成長発達を遂げます。人の認知能力は五十歩百歩、その意味では同じと言えるでしょう。それなのに何故も斯くも「違い」を強調するのでしょう。人として生きていくうえで何が必要か?その共通項、すなわち「同じ」ことは当臥竜塾が常に示唆していることです。疑問をお抱きの紳士淑女の皆さんには当ブログのアーカイブの再読をお奨めします。
ブログに書いてあるように、子どもはどんな地域で産まれ、どんな障害があるか分かりません。そういう意味で、全ての能力を持って産まれてきます。過疎地には過疎地の保育の考えがあると言っても、目の前にいる子どもは、他の地域にいる子どもと、大して違いはありません。子どもを大事にする考え方は根本的に同じであり、その根本的な考えをベースとした上で、様々な地域での保育の方法を考えるべきのような気がします。しかし、地域によって保育方法が違っても結局は同じ物が見えてくるのでしょうね。ただ、見える人というのは、しっかりと子どもの姿を見ている事が大切だと思います。
「誰でも自分の立場や思いや考えからしか物事を見ていない」たしかにそうですね。だからこそ、必死になればなるほど狭い範囲でしか物事を見られなくなってしまうのだと思います。実際、自分の経験でも似たようなことがあり、考えさせられることが多くあります。過疎地と都会の保育の話も一緒ですね。実際、子どもたちの発達を考えるとどちらも同じ発達を引き出してあげることが大事で、過疎地と都会とではその方法が多少違うというだけで本質は同じだと思います。その保育方法こそが独自性なのだと思いました。もちろん、子どもの発達やその他の育ちを重視するという基本があってこそなのですが、だからこそ、保育の基礎となる子どもの姿、育ちを見るカリキュラムが必要だと思いました。