OECDが推奨する保育の質を高める5カリキュラムのうちの一つがニュージーランドの「テ・ファリキ」と呼ばれるカリキュラムです。ニュージーランドでは、1980年代から90年代にかけて、さまざまな団体、さまざまな協議会が存在していましたが、次第に一つの国基準乳幼児保育カリキュラムが出来上がっていったのです。そのカリキュラムの基本原理は、先住民族であるマオリの原理であった「子どもたちが学び育つように力を与える」を取り入れました。それが、「テ・ファリキ」というカリキュラムで、国としての統一カリキュラムです。もちろん、さまざまな独自性を訴える団体もあるでしょうし、一つに統一するのはおかしく、違いを認め合うべきだという主張もあるでしょう。しかし、国としての補助金を出す対象としてきちんと一つに決めたのです。それは、ドイツでも同じことが言えます。バイエルン州では、陶冶プログラムという統一したカリキュラムを持っています。
日本でも、保育所保育指針とか、幼稚園教育要領は告示化され、日本中の認可された園ではそれに沿って幼児教育を行うことが義務付けられています。しかし、現場を見ると、さまざまです。しかも、今回改訂されたにもかかわらず、保育が変わった気配は見られません。それは、いくら告示化されたと言っても、強制力がないためなのか、そのとり方がさまざま違っても可能なのかわかりませんが、どちらにしても統一カリキュラムではなく、ある方向付けである指針でしかないからでしょう。
では、江戸時代はどうだったのでしょう。江戸時代には、ある程度統一されたカリキュラムがありました。寺子屋などは、お上からの教育機関ではないのに、公権力の介入なしに自力での教育を行っているのに、どこでも同じような教育が行われたのです。それは、寺子屋の師匠の聖書ともいうべき書物がどこでも「論語」だったからです。そして、四書五経の文言の解釈が課題であったからです。
「江戸の教育力」(高橋敏著 ちくま新書)には、彼らが教育のよりどころにした孔子の言葉が引用されています。「子曰。有教無類」(衛霊公第15)という言葉があります。それは、人は、さまざまな生まれついての違いを持っています。それは、貧富の差であったり、年齢差であったり、性別、気質、習俗などの違いです。しかし、教育はそれらによって差をつけないで与えられるものです。与える平等ではなく、受け取る平等です。ユネスコが提案した「万人のための教育」であり、インクルージョンの考え方です。教育とは、このように偉大なものなのです。しかし、平等で生まれた人間の大半は、教育・学習によって差がつくのです。つまりは「生活環境」と「教育」の重要性を説いています。この考え方は、士農工商の身分階級からの解放を意味します。こんな言葉も挙げています。「子曰。性相近也。習相遠也」(陽貨第十七)です。「人間の生まれつき持っているものは、元々似たり寄ったりであるが、その後の習慣や環境や教育によって大きな差が出てくるものです。」孔子が学問・教育の力の絶対性を主張するのはこの故なのです。このことを肝に銘じて、寺子屋では教えていたのでしょう。
このことが、「中庸」にある冒頭の「天命之謂性,率性之謂道,修道之謂教。」の解釈に論議を呼ぶことになるのです。人が天から授かったものは、本性であり、その本性に従って生きていくのが、人の道である。なんだか、相矛盾するかのように見える言葉について、教育の意味を考えることになるのです。
江戸時代は、寺子屋というノン・フォーマルな教育が発達していたおかげで、親の収入や身分に関係なく、どの子どもも一人前に生きていくだけの教養を身につけることができた。それも「論語」という統一されたカリキュラムで。現代は、江戸時代のような身分制度はないが、変わって親の収入の格差や教育環境の差が子どもたちの成長に影響を及ぼしていると思う。「受け取る平等」という点でいえば、江戸時代の方が優れている。日本ユネスコ協会が、世界中の発展途上の国の子どもたちのために、「世界寺子屋運動」という教育支援活動を展開している。日本に生まれたTERAKOYA精神が世界の子どもたちの幸福に貢献していることは誇らしいことですね。
統一カリキュラムをつくってしまうと独自性が失われると聞くことがありますが、そのカリキュラムの中で地域などの特性に合わせてどう下ろしていくかを考えることで、十分独自性を発揮することはできると思います。さらに、カリキュラムが人の本質をおさえたものであれば、それがあることでむしろ中身は豊かになるようにも思います。独自性も捉え方次第だと思います。そうは言っても、私の場合は本質を理解することに時間がかかっているので、独自性を発揮できるようになるのはまだまだ先といった感じですが。
私たちが関わる保育界には世界各地の乳幼児教育カリキュラムが紹介されています。今回のブログ冒頭のニュージーランド教育省の「テ ファリキ」もその一つですね。このカリキュラム成立の歴史的社会的背景及びその実施に伴う困難な部分はあまり注目されずその出来上がった部分とその実施の評価のその上辺だけが取りざたされてきました。従って時間の経過と共にしっかりと対象化され客観化されることもなく「世界各地の乳幼児教育カリキュラム」の一つとして我が国保育界のショーケースの中を飾る一つのアイテム化しています。で、何を言いたいか、というと、こうしたことになるのも、我が国に国としての統一カリキュラムがないから、ということです。このことの歴史的分析をし始めると長くなるのでやめますが、このような状況ではどんなカリキュラムが紹介されても結局「オールタナティブ」的に評価されて終わりです。とてもザンネンです。さて、江戸時代の統一教育カリキュラムが「論語」「四書五経」と明示されました。鳥肌が立つほど感銘しながら納得したところです。このことについてもいろいろと考えていることがあります。また何かのおりに是非藤森先生に聞いて頂きたいと思っております。あ~これでまた先生の時間がなくなり多忙に拍車がかかり健康を害することに・・・。これは果たして如何すべきか?
国が示すカリキュラムに沿って教育することに対して、独自性を訴える人もいると思いますし、様々な違いがあるのは確かにあるかもしれません。しかし、乳幼児施設などの教育機関は、未来の国を支える人材を育成すると考えると、自分の思いだけで子どもを育てるのは少々疑問に思います。ましてや、補助金を貰って自分の思いを貫き通すのはもっとおかしいと気がします。国からお金をもらっている以上、やはり国が定めるカリキュラムに沿って教育を行うべきだと思います。そういう意味で日本は保育指針や教育要領が告示化になりましたが、実際にその通りに実践しているところはいくつあるのか気になります。日本がドイツやニュージーランドのようになるのは、まだまだ先の事のような気がします。
統一カリキュラムを実践することが大切ですね。ドイツやフィンランドなどではそれが当たり前であり、だからこそ、統一カリキュラムなのだと思います。日本では保育指針や教育要領など似たような指針あるにもかかわらず、それを深く掘り下げず、ただ従来の保育をしている保育園も多いように思います。まだまだ、保育者の意識や社会における教育の考え方が他国に比べ低いように思います。国のお金の使い方なども大切ですが、本来の保育の重要性や保育指針や教育要領の本来の意味付けなどをもう一度よく考えなければいけないと思います。それができてからの独自性ではないでしょうか。だからといって、とても難しいことですぐにはできませんが、そういったところにもっと目を向けていきたいですね。