海とTシャツ

今日から小中学校では夏休みです。我が子が小学生のころは、終業式はずいぶんと意識したものです。まず、通知表をもらう事と、次の日からの夏やすみの計画などで大変という思いと、子どもと一緒にワクワクしたものです。それが、今はとんと興味はなく、いつから夏休みかもわからないほどです。まあ、園に学童クラブがあるので、今日から小学生が午前中から来ていて、大変だと思うくらいです。
 夏休みがいつからかわからなくなる理由の一つに、「海の日」があります。この日は、現在は、「国民の祝日に関する法律」によると、「七月の第三月曜日」と決められており、その趣旨は、「海の恩恵に感謝するとともに、海洋国家日本の繁栄を願う。」とあります。ところが、その日の由来はとても古く、明治9年(1876)、明治天皇が、50日をかけて東北地方を巡幸した際、はじめて乗船し、青森から函館を経由して横浜に到着した日が7月20日で、この日を、長く「海の記念日」としていたのです。その日を、平成7年の法改正で翌年より「海の日」として祝日になりました。そして、平成13年の祝日法の改正(いわゆるハッピーマンデー法の第二弾)によって平成15年からは7月の第3月曜日とされたのです。
これらのいきさつがあるのにもかかわらず、現在、由来を聞くと、「私たちの国は、四面を海に囲まれた海洋国で、はるか昔から外国からの文化の伝来をはじめ、人の往来や物の輸送、産業、生活な どの各分野にわたって、海に深くかかわってきました。昨今、ウォーターフロントが開発・整備され、マリンレジャーが広く普及するなど、海を利用する機会が多様化しましたが、一方で地球環境の保全という観点から特に海の役割が一層高まっており、海洋汚染防止などの必要性が一層高まっています。このような海の重要性にかんがみ、国民の祝日「海の日」を設けようと国民運動が大いに盛り上がり、その結果、平成8年から「海の恩恵に感謝し、海洋国日本の繁栄を願う日」として7月20日が国民の祝日「海の日」として制定された。」とあります。まあ、時代でこのような趣旨は分かりますが、なんだかごまかされた気がします。
もともと7月20日が海の日であり、海と言えばTシャツが似合うということと、「T」がアルファベットの20番目の文字だということもあり、愛知県のファッションメーカー・ファッションミシマヤが、TシャツをPRするためにこの日を「Tシャツの日」とすることを提唱しています。Tシャツは、第一次世界大戦で、ヨーロッパに進攻した米国陸軍兵士の一部が、当時の官給品であるアンダーシャツがウール製であったため、肌にちくちくするとして、フランス農民が着ていたこの種の軽い綿素材で出来たシャツを買って着用したところ、実用性、着脱性にすぐれているということから本国に持ち帰ったのが起源だとか言われています。Tシャツというネーミングも、広げた時の形態をとってつけられたようです。それが、今や、街着として、1年中を通して着るようになり、このTシャツを着て、バイクをとばすという風潮になり、その胸や背にグループ名などを書きなぐったのが、今日のTシャツへの文字や図柄入りの始まりといわれています。今は、いろいろなデザインのものが多くなりました。また、オリジナルのマークや模様を入れるようになりました。
先日の土曜日、園に保護者の方々がボランティアとして園内清掃に来てくれました。その姿を見て、びっくりしたのですが、なんと、おそろいのロゴ入りTシャツを着てきました。とても素敵だったので、私も数人の職員同様、購入しました。
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野菜

よく、話題になりますが、「スイカは野菜か」ということが職員の中で話題になっていました。それは、ある職員がテレビで「スカイの種が入らないで切りわける方法」を放映されていたのを見て、そのやり方を他の職員に話していたことが発端でした。今、梅雨が明けて毎日暑い日が続きますが、そんな時には、果物と言えば「スイカ」が欠かせません。そこで、そんな話題になったのですが、私は、大まかに言うと、草は野菜で、木は果物じゃないの」と言い、「いわゆる1年で枯れてしまう1年生のものは野菜で、次の年までその木が残っていて、そこに実をつけるものが果物だと思うよ」と言ってはみたものの、自信はありませんでした。というのはじゃあ、メロンは?」「イチゴは?」と聞かれるとわからなくなります。先日、朝日新聞のコラム天声人語に、こんなことが書かれてありました。
「トマトは野菜か果物か、という古い論争がある。往時の米国でのこと、輸入野菜には10%の関税がかかるのに、果物は非課税だった。業者がトマトも果物だと訴えると、「デザートにならない」との理由で退けられたという。近刊『極楽トマト』(講談社)で知った。サラダにしたり、小エビを詰めたり、なるほど、赤い実の役どころは前菜か付け合わせのようだ。蒸し暑い夕には、うんと冷やしたのに塩をふるだけでいい。」
 そういえば、最近、フルーツトマトという品種もあり、食事の後にデザートとして出てくることがありました。それは、たぶん、植物的にどっちではなく、フルーツ感覚で食べるかどうかの気がします。
 そう考えると、野菜か果物かという区別というより、どんな感覚を持ってそれを食するかという感覚の問題のほうが重要な気がします。そこで、一般的に果物として食されているが、実は野菜に分類されるものを、農林水産省では「果実的野菜」として表記し、野菜で扱います。例えばメロンやスイカ、イチゴの様なものです。また、逆に果物でありながら、野菜として食べているものもあります。それを「野菜的果実」というようです。たとえば、調理の面から言うと、柚子・すだち・レモンなどや、果物は実が熟した食頃に収穫され、食べられる物と言うとしたら、未熟なパパイヤ・アボカド等は野菜的果実と言えるかもしれません。
農学(果樹学)から見た場合は「収穫しながら永年作物として育てることができる」ものを果物に分類しますので、海外では、トマト(ミニトマト)を果物として認識している国もあります。逆にパイナップルとバナナは多年生草本植物となっており、栽培の仕方によっては野菜と見ることもできるようです。食べる人の意識(甘さで決めるとか、生で食べるのが果物、火にかけたりドレッシングなどで食べるのが野菜などで分けたり、タネを食べられないのが果物、タネごと食べるのが野菜など)・作る人の意識・農水省の定義・農学と植物学などからの分類があるので、どちらかであるかという議論は意味がないことになります。
 嫌いな子供が多いのが野菜で、そうでないのが果物だという人もいますが、どちらに分類するかに関係なく、私はどちらも体が定期的に欲します。

神楽

「神楽」の起源は、古事記および日本書記の中で、天照大御神(あまてらすおおみかみ)が弟神・須佐之男命の悪業に腹を立てて天の岩屋戸に隠れた際、天の宇津女命(うずめのみこと)が岩屋戸の前で舞ったとされる神話が定説となっています。
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先日、見る機会があった石見神楽の一つ目の演目は、これを題材にした「岩戸」でした。実は、古事記におけるこの神話は、かなり卑猥の部分があり、本来は子どもたちに聞かせる話ではないのですが、神楽ではそれを格調高く演じています。このように、単純に、もう一度古事記を子どもたちにというのも考えものですが、この神楽を見に、地域の子どもたちが集まり、真剣なまなざしで見つめる姿は、日本に伝わる迫力ある舞踊に魅せられている姿であり、そこには、こうやって文化が伝承されていくのだという確信が持てました
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もうひとつ、それを感じたのが、石見神楽で演じる後ろで楽器を鳴らしていく子です。石見神楽で使用する楽器は「太鼓」「締太鼓」「銅拍子」「笛」の四種類です。舞の序段の拍子は舞歌に合わせて静かにゆっくりと囃し始めます。しばらくして、鬼などの出現が近くなったり、神と鬼との格闘などのクライマックスの段になると拍子が変わり、テンポが非常に速くなり、音も激しく奏でます。そして、鬼が退散した後、神の喜びの舞になると賑やかに囃し、最後はゆっくりと締めて舞い納めとなります。これらの演奏の中心は、太鼓で、囃子の中で全楽器をリードしていきます。同時に歌いを時々に入れます。また、唯一メロディーを奏でる笛の音色は、神楽の神秘性を増してくれます。これらのリズムやテンポは、同じ石見神楽でも地域によって違うようです。
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今回見た神楽では、銅拍子を打ち鳴らしている一人に、眠気を必死にこらえながらもリズムを壊すことなく必死に奏している5歳児がいました。なんども眠くなりながら、打ち鳴らすテンポは決して崩れることなく、2時間半にもわたる講演を最後まで奏しきりました。
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今回の演目の二つ目は、「八幡」です。この神楽は、九州宇佐八幡宮に祀られている八幡麻呂が、異国から飛来した第六天の悪魔王が、人々を殺害していると聞き、神通の弓、方便の矢をもって退治するという話です。現在、全国にある八幡神社の総本社は、この宇佐八幡宮ですが、そこに祀られているのは、応神天皇と言われていますが、それらの話は古事記は取り上げられてはいません。
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次の演目は、「日本武尊」です。彼は、古事記の中では、ギリシャ神話におけるヘラクレスのような英雄です。その逸話はいろいろとあるのですが、神楽で演じられたのは、東国の平定に向かい途中の出来事です。途中、賊首の教によって、兄ぎし・弟ぎしに、尊は、大野に誘い込まれ八方より火を放たれますが、伯母君大和姫より授かった尊の宝剣が自然と抜けて、草を薙ぎ払い、守袋の中の火打石で迎火をつけて、兄ぎし・弟ぎしを退治します。この時の剣が草を薙ぎ払ったので、「草薙の剣」といいます。
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最後の演目は、最も人気があり、最も迫力がある「大蛇(おろち)」です。この話も、古事記の中では有名な話で、来年度の小学校の教科書でも取り上げられている「ヤマタノオロチ」です。須佐之男命(スサノウノミコト)が、出雲の国斐の川にさしかかると、嘆き悲しむ老夫婦と稲田姫に出会いました。理由を尋ねると、八岐の大蛇(ヤマタノオロチ)が毎年現れ、既に七人の娘が攫われ、残ったこの稲田姫もやがてその大蛇に攫われてしまうと言います。そこで、須佐之男命は、いろいろな木の実で醸した毒酒を飲ませ、酔ったところを退治します。そのとき、大蛇の尾から出た剣を「天の村雲の宝剣」と名づけ、天照大御神に捧げ、稲田姫と結ばれるという話です。

神話と歴史

今年の4月に、来年4月から使用される1、2年生の国語の全教科書に神話が登場するというニュースが流れました。現行の小学校国語教科書には、全学年で神話は掲載されていません。それが、来年4月から使用される1、2年生の国語の全教科書に神話が登場することになったのです。私の子どものころには、古事記が教科書にもありましたし、子ども用古事記の中での冒険ものを読んで、ギリシャ神話に近いわくわくした気持ちを持ったことを覚えています。確かに、正義や勧善懲悪などが素朴に描かれている神話は、いじめやネットによる情報過多など複雑な人間関係の中で生きている児童にとって新鮮に映り、「子供たちの心の中で強い印象を残す」という理由はよくわかります。しかし、江戸時代、本居宣長は,「古事記」を研究して「古事記伝」を書き、国学を大成しました。その国学は、有力な町人・百姓のあいだに広まり、のちに天皇をうやまう尊王論を育て、幕府を批判する思想になっていき、今NHK大河ドラマ「龍馬伝」で描かれている尊王攘夷に結び付いていきます。
今回、文部科学省によると、「古事記」「日本書紀」「風土記」のいずれかに含まれる話を神話として位置づけましたが、それは、歴史とか、史実ではないということをきちんと意識して伝えなければならないと思います。今回、教科書で取り上げられた神話は、どの会社も「古事記」であり、その中の「因幡(いなば)の白ウサギ」を5社中4社が、「ヤマタノオロチ」を2社が掲載、ある社は、これら2つに「海幸彦と山幸彦」などを加えています。確かに、これらにより当時の日本の様子を知る上での資料となることは間違いはありませんし、私たちの祖先が文字のなかったころから歴史を語り継ぎ、現在へ至ったことを子供たちに伝えることも重要です。
それは、多くの伝承文化が古事記に由来していることも多いので、古事記を知っていると、いろいろと興味を持つことできます。たとえば、いろいろと問題がありますが、今大相撲名古屋場所が解されています。その相撲の始まりは古事記にあるタケミカヅチノカミ(建御雷神)とタケミナカタノカミ(建御名方神)との国譲りの力比べといわれます。そして、日本書紀には、垂仁天皇の7年に野見宿禰と当麻蹶速が大和で相撲をとり、宿禰がすごい技をかけて、蹶速をふみ殺したとあり、宿禰は相撲の始祖とされています。これらの話を見ても、それはあくまでも神話の世界での話で、事実の裏付けはなく、真偽のほどはわかりませんが、ワクワクすることは確かです。
古事記を由来とし、それを知っていることで見方が深まるものに神に奉納する為に奏される「神楽」があります。先週末、「石見神楽」を見る機会があり、とても激しく、おもしろく興味深いものでした。
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石見神楽の公演を見たのは、温泉津温泉の龍御前神社を会場に、月1回行われているものでした。この龍前神社は、その名のとおり、神社の前に立って見上げると、神社裏の山の中腹に竜の顔に見える岩が見えます。これが「龍岩」と呼ばれる天然の巨石です。その龍岩自身が神の宿る存在として信仰されていて、その岩の前に1532年、「龍の御前神社」が創建されたそうです。
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ここで演じられた演目が、古事記と深いつながりであることは明日のブログで紹介します。

地理

社会という科目で学ぶことは、社会諸科学を学ぶことを基礎としていますが、それは、大きく分けて、地理、歴史、政治、経済、社会、倫理があります。さらにその基礎として、生活科があるのですが、その目標の中に、地理に近い内容の部分には、「自分たちの生活は地域の人々や様々な場所とかかわっていることが分かり,それらに親しみをもち,人々と適切に接することや安全に生活することができるようにする。」「 公共物や公共施設はみんなのものであることやそれを支えている人々がいることなどが分かり,それらを大切にし,安全に気を付けて正しく利用することができるようにする。」「多くの人々の支えにより自分が大きくなったこと,自分でできるようになったこと,役割が増えたことなどが分かり,これまでの生活や成長を支えてくれた人々に感謝の気持ちをもつとともに,これからの成長への願いをもって,意欲的に生活することができるようにする。」とあるように、いわゆる地理は、場所を覚えるとか、その地域の特産を知ることから始まるのではなく、自分は、いろいろな人たちの中で生きていることを知ることによって、自分を知ること、自己を主体として生きること、これからの人生を、意欲を持って生きていくことなどを目指しています。それが、1,2年生の課題なのです。
 江戸時代は、今ほど情報が豊かではありません。そこで、まず、自分たちが住んでいる地域以外の場所にはどんなところがあって、そこはどのようになっているかを知ることから始まります。その時に使われて教科書は、東海道や中山道など諸道別に国名を並べた「国尽」があります。「国尽」には、「世界国尽」という福沢諭吉が1869年に書いた書籍がありますが、これは、世界各国の地理・歴史を、七五調の唱歌体で記述したもので、明治時代にはやはり学校の教科書に使われたこともありました。その本は、福沢が参考にしたのだと思いますが、「日本国尽」という安土桃山時代の往来物があります。この著者はわかっていませんが、慶長2年(1597)に初刊されています。内容は、日本国内諸国名を畿内七道に分類列記し、学習記憶に便利なように編集した教科書であり、日本最古の国尽型往来物です。それが、江戸時代には、日本諸国の国の名をすべて列挙して、歌いやすいようにつづったものがでて、習字の手本とされました。歌いやすいように作られているのは、声を出して暗唱していたからです。また、この国の名の配置が北からとかいうのではなく、街道を歩いているがごとく並べられているのも、身近なところから次第に全国に関心を広げていくのに効果的だったことでしょう。
女の子には女の子用の往来物があったように、この「国尽」にも女の子用があったようです。それが、「国尽女文章」というものです。そのほか、街道ごとに並べたものだけでなく、江戸城を起点として江戸の町を歩くように紹介されている「御江戸名所方角書」がありますが、これは、江戸城を中心にして各方角に分けて地名、町名、神社仏閣名などを連ねてゆくもので、江戸の地理とともに文字も学習するものでもあったようです。これもまた生活を営む上で、江戸及び江戸近郊の人々にとって必須の学習事項だったのです。また、地誌を盛り込んだ「都名所往来」として「京都往来」や「浪花往来」などもあり、そこには、地域の行事や特質などが書かれてありました。その他にも地誌的な教養は、「隅田川往来」「浅草詣文章」など「参詣型」と呼ばれる体裁の往来で盛んに取り上げられていたようです。
 お間の強化よりも教養的なもの、実用的なものの色彩が強かったようです。

1,2年生

 私が子どもの頃は、学校の社会と理科という科目が1年生からありました。それが1,2年生では、生活科という科目になりました。この生活科は、1,2年生の生活は、だいたいにおいて家庭・学校及び身近な社会に限定されているために、まず、生活の中で、生活経験を中心に学習すべきであることとしています。そのために、生活を営む上で1,2年生という年齢が、どんな特性を持っているかを理解しなければなりません。戦後の昭和22年に、文部省が学習指導要領の試案をつくるときに、社会科編では、まず、1年生及び2年生における心理的特性を参考に挙げています。19項目ありますが、とても参考になるので挙げてみます。
「児童は非常に活動的で、自分たちでいろいろなことをするのに興味を持っている。」「さわって見たり、味わったり、においをかいだり、五感に訴えることが多い。」「することが各人別々で、一つのことをいっしょにしようとする傾向は弱い。」「すわってやるよりは、動きまわる生活に興味を持っている。」「 指の細い筋肉は、大筋に比べて発達していないので、細字を書くことや、物を縫ったりすることには、困難を感ずる。」「注意は持続せず、容易にくずれる。」「活動の結果がすぐあらわれる場合に興味を感ずる。」「身辺の事物について盛んに質問する。」「現実のことと想像したこととをはっきり区別しない。 」「自分というものについて、いろいろ気に病んだり、反省したりしない。」「両親の愛情と教師の親切がないと、感情が著しく不安定になる。」「他の男の子・女の子に対してあまり差別をしない。」「親・兄弟・教師等、自分以外のもの、即ち周囲の社会から自分に与えられる注文を理解しはじめる。」「仕事を受け持ってやることがそろそろできる。」「長上の権威に対して従順である。」「家族の関係を理解しはじめる。」「周囲の世界がだんだんよくわかって来る。」「自分たちの生活に直接関係のない環境の事物については、理解が困難である。」「時間・空間及び距離については、ごく限られた程度しか、理解できない。」
 これらを読むと、今の小学校の教師に、もっと子どもの心理、発達を理解してほしいと思います。この年齢では、「すわってやるよりは、動きまわる生活に興味を持っている。」とあるように、じっと座って人の話を聞きなさいという注意は、子どもの発達を知らないのです。しかも、それはしつけの問題だと錯覚している教師が多いように見受けられます。また、「時間・空間及び距離については、ごく限られた程度しか、理解できない。」とあるように、「いつまで遊んでいるの!」とか、「もう、給食の時間でしょ!」「そこには行ってはいけないと言っているでしょう!」と怒るのも、1,2年生では無理な話です。それを、幼児に対しても怒る先生を見かけることがあります。
 特に、小学校1,2年生の特徴として、「両親の愛情と教師の親切がないと、感情が著しく不安定になる。」ということは、肝に銘じてほしいですね。子どもが落ち着かない、じっとしていない、騒がしい、それらは、教師の親切がないからです。この文言は、教育は、親子の愛着形成と、先生との信頼関係による情緒の安定がなければ行われないことを示している重要な項目です。

さまざまな庭訓往来

 日本では、江戸時代までは学問は公家や僧侶に対して行われてきましたが、江戸時代になると武士や庶民も学ぶようになりました。庶民に対しての教育には、大きく寺子屋が貢献することになるのですが、同時に、各藩では武士に対しての教育にも力を入れるようになりました。それが藩校です。この藩校で学ぶ内容は、寺子屋での庶民に対する内容と少し違ったものでした。読み・書き・そろばんを中心に教える寺子屋での民衆の教育に対して、人との関係を学ぶ為に忠義や孝行をたいせつにする儒学が、武士の社会では,階級を整え、政治の安定を図ろうとするために、なかでも朱子学が広まりました。そのきっかけが、5代将軍綱吉で、彼は孔子をまつる聖堂を江戸に建てて武士に学問をすすめ、その影響で、各藩でも武士の教育に力を入れるようになり、18世紀中ごろには、各地に藩校が建てられました。
教科書も、室町時代の前期には、貴族社会向けに作られたものを使っていました。その代表なものが「庭訓往来」といわれる往来物です。それが、江戸時代には、「絵本庭訓往来」のように武家から、商人、職人、農民など様々な階層に向けて工夫を凝らしたものが出版されるようになります。そして、文化・文政年間には、京都や大阪や地方の出版元からもその地域にあった「庭訓往来」が出版されるようになります。たとえば、「永楽庭訓往来」名古屋で代表的な書肆(出版社兼書店)であった永楽屋東四郎が出版したものです。この「永楽庭訓往来」は、読みがながつけられており、庶民にもつかわれたのではないかといわれています。これを見ても、教育は地域を重視していたことが分かります。
これら「庭訓往来」は、基本的には擬漢文体で書かれ、武士・庶民の日常生活に必要な実用的知識を、網羅的に収録しています。1年12ヶ月の往信返信各12通と8月13日の1通を加えた25通からなり、多くの単語と文例が学べるよう工夫されています。内容としては、「新年の会遊」「花見詩歌の宴」「地方大名の領国統治、勧農、館の造り、果樹」「領地の繁栄と為政の心得、市町の経営と諸職業人の招致、商取引の施設と業種、諸国特産品」「家財家具、調理品名」「盗賊討伐への出陣、武具乗馬の借用、出陣の命令系統と心得、武具・馬具の名称」「競技会の衣装、諸具、諸器」「司法制度、訴訟手続き、問注所・侍所の組織と職掌」「将軍家若宮の行列の威容」「大法会に寄せて、伽藍・仏像、法会の式次第、役僧、舞童、諸道具」「大斎の行事にちなんで、点心、寺家の諸役、僧位僧官の名称、布施物、点心用の食品・菓子・茶具・汁・菜などの食品食物」「病気の種類と治療法、病気予防・健康保持のための禁忌」「地方行政の制度、着任の模様、行政管理の模様」などです。この項目を見ると、当時、どんなことを学んだかがよくわかります。
この「庭訓往来」には葛飾北斎が挿し絵を描いているものがあります。それが、「絵本庭訓往来」です。北斎の独特の挿絵が入ることによって、実にわかりやすくなっています。また、「女庭訓往来」という女性用の「庭訓往来」もありました。その内容は、「女中嗜草」「三弦の名所」「琴の名所」「いろはの始り」「歌かるたの起り」「しみもの落し」「諸病の妙薬」「和歌の始り」「七夕の歌づくし」「男女相性の事」「ゆめはんじ」「呪咀秘伝」などでした。
これらの内容を見ても、女性が学んでいたことがわかります。教科書は、その時代に内を学んでいたか、何を学ばせたかったかがわかります。

進化論も進化

 進化論も進化しています。進化と言えば、昨年園では、生命の進化と人の進化を並べ、その進化の度合いを見ると、赤ちゃんの1日は、生命の進化の50万年分にあたるということを保護者に伝え、赤ちゃんの1日1日を大切にするように、また、個人差があって当然ということを理解してもらいました。
 そんな生命の40億年の歴史を簡単に言うと、「生命は海に生まれ、魚になり、やがて陸に上り、トカゲになり、ネズミ、サルを経てヒトになりました」ということがありますが、この内容が少しずつ違っていることが分かってきています。最近、わかってきたことは、海にいる魚は最初から海にいたと考えていたのですが、そうではなく、大昔に一度川を上り、再び海に戻った仲間だそうです。最初に約4億年前に海に誕生した魚は、今の魚とは違い、背骨がなく、弱者だったわたしたちの祖先は、住みやすい海での生存競争に敗れ、河口から川に逃れていきます。しかし、海水と川の淡水では塩分濃度が違います。ですから、海から川に行くためには、体の内外の塩分濃度の違いは生物にとって大問題です。そこで、その対策のために魚たちは腎臓をつくり出し、体内に入った水を尿として排出しました。しかし、反面、淡水中では、海水と違ってカルシウムが不足します。そこで、カルシウムを蓄えるために硬い背骨を生み出したのです。
しかし、骨に摂取したカルシウムを蓄えなければなりません。このカルシウムは、食事やサプリメントで摂取しても、それだけでは血中カルシウム濃度があまり上がりません。血中カルシウムが骨に定着するには「活性化されたビタミンD」が必要なのです。この「活性化された」ということが重要です。ビタミンDは食事やサプリメントで摂ることができるのですが、それらはすべて不活性なビタミンで、不活性を活性化させるのが「紫外線」なのです。人間は、皮膚から太陽の紫外線を取り込むことによって体内に活性化されたビタミンDを作るのです。いくらカルシウムを摂取しても、このビタミンDが足りないとクル病になったり、骨粗しょう症になったりします。
オーストラリアで、紫外線による皮膚がんが問題になりました。それによって、日本でも、首筋まで覆う帽子をかぶっている園が多くなりました。しかし、どうしてオーストラリアで問題になったかというと、こう言われています。もともとのオーストラリアの原住民であるアボリジニといわれる人たちの肌は濃褐色で、強い太陽光線から肌を守るために備わったものです。そこに、太陽に当たる時間が少ないヨーロッパに住んでいた人たちが、住んでいるからです。ヨーロッパ人に肌が白く、目が青く、金髪の人が多いのは、少ない太陽光線を十分体に取り込めるように、進化の途中でメラニン色素をなくしてきたからです。その人たちが強い日光の中にいるのは無理がありますね。
しかし、最近、「適度な日光浴は皮膚ガンを防ぐ」というような「紫外線=ガン要因」説が覆されています。それを発表したのは、イギリスのロンドン衛生熱帯医学校とオーストラリアのシドニー大学の研究グループです。その研究では、屋外でよく日光を浴びている人よりも、日中ほとんど日光に当たらないオフィス勤務者に皮膚ガン患者が多いことが判明しました。研究グループのヘレン・ショー博士によると、オーストラリアやイギリスの場合、日光浴と無縁のオフィス勤務者の皮膚ガンの発生率は、日光浴をする人に比べて、実に2倍(!)近くにまでハネ上がることが分かり、適度な紫外線浴は、むしろカラダの抵抗力を高め、皮膚ガンの発生を抑制する方向に働くといいます。
そこで、お年寄りは日光に当たることが少ないので、なるべく日光に当たるようにした方がよく、また、女性の場合はホルモンの関係から、更年期になると男性よりも骨粗鬆症になりやすいので、それを防ぐためにも、若いときから充分陽に当たり、強い骨をつくっておくことが大切だと言われています。また、成長期の子どもは、できるだけ屋外で元気に遊ばせ、充分な紫外線が必要だと言われています。だからと言って、真っ黒に日焼けするのは、よくないので、万全のUVケアをして紫外線を浴びることが重要だと言われてきています。

カラスの被害

 先週末の読売新聞に「トキだけじゃない…コアジサシにもカラス」という記事が掲載されていました。その内容は、渡り鳥のコアジサシの保護活動が行われている福島県いわき市の夏井川河口で、今夏は1羽の幼鳥も育たないまま巣が消滅したというものです。 コアジサシは、県のレッドデータブックで絶滅危惧1類に分類されており、繁殖が期待されていました。そのコアジサシが、4月29日に初飛来があり、6月5、6日に三つの巣で卵を抱いていました。しかし、その卵をカラスが食べてしまったのです。その後、6月27日にも再び二つの巣で抱卵が確認されたのですが、やはりカラスの襲撃で30日に巣がなくなったということです。
せっかく保護していても、他の生き物にやられてしまっては、自然界ではどう仕様もありませんね。そんなニュースを読むと、今年の3月に、衝撃的なニュースが流れました。佐渡トキ保護センターの訓練用順化ケージで放鳥を控えていたトキのうち9羽が、小動物のテンに襲われて死亡したというニュースです。その後、放鳥されたトキの産卵が確認されたにもかかわらず、次々に卵を巣の外に捨てているのが確認されたり、親鳥が捨てたり、カラスに奪われたりしていずれも繁殖に失敗したというニュースが流れました。
今、東京の都市部ではカラスが増え続けています。今年の3月に「東京都の鳥類繁殖状況調査」によると、カラスの繁殖は、1970年代には山手線の内側ではほとんど確認されませんでしたが、1990年代以降、多数確認され始めるようになったようです。数字的に生息数について言うと、昭和60年の都市部のカラスは約7千羽と報告されていますが、平成8年から平成11年の調査によると、23区内の大規模なねぐらにおけるカラスの生息数は、4年間で約1万4千羽から約2万1千羽へと増加しているそうです。さらに、平成13年の調査によると都内全域で3万羽から3万5千羽生息していると推計されています。本当に急激な増え方です。その原因は、もちろん人間にあります。最大の要因は、人が出す大量の生ごみだからです。都市部のカラスは自然界で苦労してエサを捜すことなく、栄養価の高いエサに確実にありつけるのです。
カラスが増えている原因は、餌だけではありません。住環境もカラスにとって都市部は、安全のようです。カラスの天敵となるオオタカ、フクロウなどの動物がほとんど存在しませんし、明治神宮や自然教育園など、夜間に人が出入りしないうっそうとした樹林は、集団で夜を過ごす習性のあるカラスにとって非常に都合のよいねぐらとなっているのです。さらに、カラスは針金ハンガーなどを使って、鉄塔やビルに巣作りをするなど、人が作り出したものを上手に利用しながら繁殖してきました。
私の園に菜園があるのですが、職員は、実をつけ始めることを迎えて、カラス対策を考え始めています。東京都では、対策を練っていますが、それは、数を減らす対策で、カラスによる被害をなくすわけではありません。職員が考えたのは、案山子を立てようか、CDなど光るものを吊るそうか、賢いカラスは、そんなことでは防げそうにありません。結局はネットを張るしかないようです。
先日訪れた島根の道の駅では、カラス除けではありませんが、こんなものを防ぐものを売っていました。おもしろいので、買ってはきませんでしたが、思わず写真を撮ってしまいました。
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江戸時代の教科書

私が教員になっていた時のことがしばらく抜けなかったことがありました。それは、ラジオ体操をするときに、たとえば体を横に傾ける時、左に傾けるのが最初ですが、どうしても私は右から傾けてしまうのです。それは、いつも子どもの前に立って、子どもと向き合って体操をしていたために、反対側からする癖になってしまっていたのです。また、私が、子どもクッキングの本をつくった時にも、手元の写真を使うのですが、自分でやっているように手前から手を映すのか、大人がやっているのを見るように向こう側から手を出すのか迷ったことがありました。お手本を示して教えようとする時には、子どもと面と向かって教えると逆になってしまうので大変です。
ところが、江戸時代の師匠にはある特技がありました。「師タルモノ往々倒マニ文字ヲ書スルニ熟達スルコトニテ今ノ教師ノ企テ及ブベカラザルモノアリ」とあるように、逆さに文字を書けたようです。それは、師匠というものは、「是レ常ニ生徒ニ面シ」とあるように、いつも生徒と対面して正座して教えていたからです。「筆法ヲ授ケ即チ倒書スルヲ以テ知ラズ識ラズ此ニ至レルナリ、故ニ三四時間ニシテ少キモ三十人、多キハ五六十人ニ筆法ヲ授ケ終フベシ、若シ師ニシテ倒書ニ未熟ナランカ到底斯ク多数ノ生徒ヲ教授シ能ハザルハ勿論タリ」という文章を見ると、このころは、対面で授業し、30~60人並べて授業をしていたことがわかります。その多くの人数の生徒に対して字を教えなければならに師匠は、逆さに字を書いて指導していたようです。これはなかなかたいへんな技術ですが、当時の師匠は、これができたわけです。さすがプロですね。
このようなプロが教える寺子屋は、昨日のブログのように地域によって教える内容が違い、その内容によって使う教科書が違っています。しかし、どの地域の子どもでも学ばなければいけない、いわゆる基礎学力に関しては、寺子屋はいわゆる一斉授業形態はとらなかったようです。というのは、ある内容を子どもたちに伝えるというよりは、ある学力をきちんとつけようという意図があるからです。ですから、師匠は、筆子と呼ばれる生徒の学力に合わせて師匠がカリキュラムを組んで、それに適した教科書を選んだのです。いわゆる習熟度別授業の形態をとります。ところが不思議なことに、個々によって教科書を変えているのに、全国ではほぼ共通の教科書が使われるようになります。そんなことが背景にあって、日本は世界でも珍しい高い識字率を持つことになるのです。
貝原益軒が1710年に記した「和俗童子訓」巻之三に「年に随ふて教える法」という章があります。その初めにこう書かれてあります。「六歳の正月、始て一二三四五六七八九十・百・千・万・億の数の名と、東西南北の方の名とを教え、其生れ付の利鈍をはかりて、六七歳より和字(かな)をよませ、書習はしむべし。初めて和字を教ゆるに、「あいうゑを」五十韻を、平がなに書て、たて・よこによませ、書習はしむ。又、世間往来の、かなの文の手本を習はしむべし。」
 この内容は、今の小学生の教科書の内容に近いものがありますね。まず、漢数字、方角、そして、その子の習熟の程度に合わせて6,7歳ころから仮名を教え始めます。その時には、まず、「あいうゑを」の五十韻を、平かなで書いて、それをたてよこに読ませ、書けるようにします。その時には、世間往来の、かなの文の手本にして習わせるようにと言っています。