江戸時代の理科

どんな時代でも、それぞれの分野で秀でている人はいるものです。しかし、その才能も、それを伸ばす環境がなければうずもれてしまいます。 過去から現在まで、そのような人がたくさんいたことでしょうね。また、戦争のような多くの死者を出すような時代では、たくさんの才能を持った人たちが、その力を発揮することなく亡くなっているでしょう。そういう意味でも、世に名を残す人々は、いろいろな条件を満たした結果ですので、幸せなわずかな人たちかもしれません。
 からくり儀右衛門は、父親の仕事ぶり、街の人々の生活などから刺激を受けました。同時に、書物からも刺激を受けます。その一つが幕末に出版された「機巧図彙」(からくりずい)という手本書です。この書は、日本最古の機械工学書で、寛政8年(1798)に、首・上・下の全三巻が江戸で出版され、のちに大阪や京都でも再版されています。著者は、土佐藩の細川半蔵頼直ですが、内容はその書名のとおりで、江戸からくり人形が当時のまま復元される事を可能にした書物です。時計やからくり人形などの構造・製造過程を詳しく説明し、技術だけでなく、発明工学技術の発展に必要な学ぶ心と精神のありかたまでが記されています。この内容を見ると、儀右衛門がさぞかし興味を持っただろうということが推測されます。また、この書物の出版の革命的意味は、当時、技術は師から弟子へ秘密に伝えられ、門外不出が当然な時代に、初めての技術公開書として出版されたからです。
当時のヨーロッパの人に「日本は蒸気を使わない技術において、世界最高の域に達している」と言わしめたほど、人々に驚きと感動、喜びを与える「からくり」に人一倍、心を打たれ、傾倒していったのは儀右衛門でした。彼は、朝から晩まで、小刀を手に図案とにらめっこし、睡眠時間を惜しんで創意に燃えたのでした。この「機巧圖彙」に先駆けて、1730年に出版されたのが「機訓蒙鑑草」です。この本の内容は、松・竹・梅の3部からなり、松では、28種のからくりを江戸の情景と共にイラストで描かれ、梅と竹では、図説が記されています。「機訓蒙鑑草」は謎解き本に、「機巧図彙」は技術書に近いものであったようです。
このほかにも、江戸時代に読まれた「理科」の教科書があります。日本で最初の百科図鑑であり、天文地理から器具や建築、人物、動植鉱物におよぶ、さまざまなものや事柄について、達者な絵を載せ、漢名の見出しと和名、簡素ながら学問的な解説を記している「訓蒙図彙」があります。この本書は寛文16年(1666)、京の朱子学者・中村〓斎が編纂したものですが、「訓蒙」とは、子どもに教え諭すこと、「図彙」とは、たくさんの図を集めたものという意味で、彼は、こどもに諸物の名とその特徴を教えるために著したといわれています。その後、何回も再版が重ねられ、ドイツ人のケンペルが著した「日本誌」にも、この「訓蒙図彙」が転載されています。
室町中期に成立した字引だった節用集は、語をいろは順に分け、さらに天地・時節・草木などの門を立て、意義によって分類・配列したものです。これも、理科の教科書です。それが、江戸時代に改編・増補した多種多様の節用集が刊行され、やがてはいろは引き国語辞書の代名詞のようにもなりました。「節用」という言葉の語源は、論語の学而篇に「節用而愛人」という言葉がありますが、節用とは増税や増役を招くような事業をみだりに行わず、人を愛せよという意味で、節約を促しています。この中の「節用」から採ったという説があります。しかし、どうも、「史記」の「節用」という日常随時用いるという意味から採ったような気がします。
江戸時代にも、立派な理科の教科書が子ども用にもあったのですね。

からくり

 私がテレビ番組で好きだったものの一つに1969年にNHKで放送されていた「からくり儀右衛門」という番組があります。江戸時代、儀右衛門という少年が、いろんな発明をしていく物語ですが、もちろん少年ドラマということでだいぶフィクションの部分があるのですが、この儀右衛門は実在の人物です。彼は小さいころから特別な能力を発揮しますが、彼を紹介するHPには、まず「探究心」(儀右衛門は失敗を恐れることなく、チャレンジし続けた!)と書かれてあります。生まれつきの天才とは、生まれつき探究心が強いということでもあるのです。生まれつき、いろいろな知識を持ったり、生まれつき、未知のものを予知する能力があったのではなく、生まれつき探究心が強く、いろいろなものを知ろう、いろいろなものをやってみようという気持ちが強いということで、その結果、いろいろなことを知り、生み出し、発明していったのです。また、その探究心の強さゆえに、失敗してもなおかつ挑戦しようとしたのです。次のキーワードに「好奇」が書かれてあります。べっこう細工師だった父親のその高度な技能、手業を目の当たりにし、またあるときは近所の鍛冶屋へ出かけ、真っ赤な鉄の塊が鎌や包丁などに形が変わっていく様子を一心に見つめ、道具屋でかんなで板をけずるやり方を見たり、刃物のつくり方や傘づくり、漆塗り、人形づくりなど、幼い頃から、好奇の目で見つめ、創作の何たるかを知らず知らず学び、どうやってつくっていくのかをすっかり覚え込んでしまいました。
 また、彼が自らの道を拓くエネルギーにしたのは、「いたずら心」であったと書かれてあります。それは、私が大切にしている「遊び心」にも通じることです。こんなエピソードが紹介されています。儀右衛門が数えにして九つのとき、「これ、開けてみ?」と言って、自分が作った硯箱を開けるよう寺子屋の仲間に促します。それは、何の変哲もない硯箱でしたが、誰一人として蓋を開けることができませんでした。この硯箱こそ、発明家として最初に彼を有名にした「開かずの硯箱」だったのです。この箱を開けようとしてみんなが腕を組み唸る姿を見て彼は微笑みます。このように、常にまわりの人々を仰天させる小さないたずら心が、新しいものを発明していく動力なのです。彼が多く発明した「弓曳童子」をはじめとする、精巧な「からくり」は、そんないたずら心が生みだしたものです。
 彼の名は、田中久重といい、現在、国立科学博物館に保存されている「万年時計」は、彼が発明した中でも和時計の最高傑作ならびに江戸時代の技術の精華として名高いものです。彼が、75歳の時、政府の要請を受けて東京に移る。銀座に電信機などのメーカーとして「田中製作所」を開きます。その製作所の看板には「万般の機械考案の依頼に応ず」を書かれていたといわれていますが、何かを考えだすことが楽しくて仕方なかったのでしょう。田中製作所において久重は、電信機や時報機などの機器を次々と開発し、日本のエレクトロニクス分野に光明を開いていきます。そして、彼の没後、弟子の田中大吉が受け継いでいきます。それは、看板ではなく、「情熱」と「探究心」なのです。その後、田中製作所は「芝浦製作所」と改称され、さらに後には東芝と改称します。
「いたずら心」からさまざまなからくりをつくっていった久重は、次第に、日本初の製氷機械や自転車、人力車、精米機、川の水を引き上げる昇水機など、生活に密着した製品の開発改良にも情熱を傾けていきます。「人々に役立ってこそ技術」というポリシーは、大切にしたいものです。

教育改革

7月27日の朝日新聞にこんな記事が掲載されていました。 「今までの教科書のあり方は間違っている。たいがいにせえ!」「小中学校校長3万人の7割は、すぐやめていただきたい」このセリフはかなり衝撃的なものです。この発言は、「デジタル教科書教材協議会(DiTT)」の設立シンポジウムの席上でされたものです。最初の発言は、ソフトバンク社長の孫正義氏のものであり、二つ目の発言は、元中学校長の藤原和博氏のものです。
この協議会は、産学連携でデジタル技術を活用した学習環境の実現を目指すもので、発起人のひとりである孫氏は講演の中で、日本の競争力低下を憂え、「今日本が教育を改革しなければ国家の成長はない」と語り、30年後に社会の中心で活躍する人材に必要な交渉力、プレゼン能力、リーダーシップなどの資質を育てるのは急務として「将来の日本の競争力を支える武器」であるデジタル教科書の必要性を強調しました。これからの人材に必要な資質は、まさに日本の抱える問題です。ただ、それがデジタル教科書の必要性に結び付くかは、まだ私は考えていないのでわかりませんが、昨日、私もたまたま埼玉の幼児教育センターでの講演で話したことと同じことを言っています。「鎌倉幕府成立を2、3年違って覚えたところで誤差。『だいたい千年前』で十分、あとはネットで調べればいい。大事なのはなぜ幕府ができたかを分析する能力なのに」と教科書内容の丸暗記を求める教育を厳しく批判したところです。
 また、杉並区立中に民間人出身校長として勤めたこともある藤原和博(現在東京学芸大客員教授)の発言も興味のあるところです。「正解を徹底的に教え込むだけの『正解主義』の呪縛を外さなくては日本の教育の未来はない」という藤原氏は、「現場の教員はまともだが、問題は校長先生。管理はしても創造的なマネジメントができず、できる人を引き下ろそうとする」と新しい試みに反対する守旧派を痛烈に批判しました。
 この二人の発言は、何も学校教育に限らず、幼児教育の世界でも似たり寄ったりのところがあります。もともと新しいことに取り組むことを抵抗することが多い中、直接利益に結び付かない分、非営利の組織や、公の機関ほど改革にはしり込みをします。長い間、培ってきた「文化」を守ろうとするかのようですが、実は、文化を壊していることに気がつかないのです。自分の心地よさだけを求め、かえって、居心地悪い世の中になっていくことに目をつぶってしまっているのです。また、いいとわかっていても、「そうは言っても」「現実はねえ」「そんなに急には無理で、もっとじっくり検討してから」と言ってなかなか取り組みません。
 同日の毎日新聞の社説に「ひきこもり70万人 国の危機と認識しよう」ということが書かれてありました。「自分の部屋からほとんど出ない、近所のコンビニに行くだけ、という人は23万人。趣味に関する用事の時だけ外出するという人も加えると約70万人に上る。」という内閣府の実態調査で明らかになった「ひきこもり」の推計数を受けての社説です。さらに「自分も部屋に閉じこもりたいと思うことがある」などの潜在群は推計155万人もいるということで、「少子化で先細りしている若年層がこれでは、この国の未来はどうなるのだろうか。」と危惧しています。ひきこもりは15年以上前から問題が指摘されてきたにもかかわらず、改善するどころか、ますます悪化しています。政府は、「子ども・若者ビジョン」を策定し支援策を進め、事業仕分けで「コストの割に効果が薄い」との理由で廃止された、3カ月間の合宿で生活・就労訓練を受ける「若者自立塾」にしてもあまり効果はなかったようです。
 もう少し根本的なところ、ひきこもった若者をどうするかだけでなく、ひきこもらない若者をつくるための乳幼児教育に、思い切って変えていく勇気を持ってほしいと思います。それは、言われたとおりに動く子ではなく、社会の一員になるために、集団の中で自己の主体性を見つけ、自分に自信を持った子どもにするような幼児教育が必要だと思います。

理科

 江戸時代の理科について考える前に、戦後間もなくの昭和22年に小学校学習指導要領の初版を発行した後、27年に出された、その改訂版において、理科の指導目標を見ていたいと思います。その内容は、実例を取り上げて、理科とはどういう科目であるかを考察しているとても興味深いものです。
 ここに書かれたある理科の指導目標は、「すべての人が合理的な生活を営み、いっそうよい生活ができるように」ということで、児童・生徒の環境にある問題について身につけるものとして三点を挙げています。「物ごとを科学的に見たり考えたり取り扱ったりする能力」「科学の原理と応用に関する知識」「眞理を見出し進んで新しいものを作り出す態度」です。この目標を達成する為に、理科の根本になる科学について、しっかりした考えをもっていなくてはならないとしています。「自然現象の事実」とはどういうことかということを、こんな例が挙げられています。
 「あるこどもがかえるを飼って、その成長の変化を観察して、記録を作った。父親がその記録を見ると、かえるの変態が動物学の本に書いてあるものに比べて、1か月も長い日数がかかっていることに気がついた。それで、こどもの観察した事実がまちがっていると考えて、こどもの記録の日付を訂正して、動物学の本にあるように書きなおした。」
 この父親の対応について、このように考察しています。「この父親は、動物学の本に書かれたかえるの発生を、そのままうのみにしてしまって、こどもがすなおに観察したかえるについての事実を無視してしまったのである。このような取扱を受けたこのこどもは、まちがいのない事実、言い換えれば自然現象における真実というものを、どういうふうに考えるであろうか。父親が狭い科学的な知識をふりかざして、こどもがとらわれない心で観察した自然の事実を誤りであると決定したのである。この父親は『いついかなる場合にも、自然現象には誤ということはあり得ない。』ことを忘れているものである。この自然現象を人が解釈する場合に、人の解釈が誤っていることは起りうることである。科学のことを考えるにあたって、まず第一に重要なことは、この自然現象の真実とは何かを、はっきりわきまえることである。」
 次に、「科学の客観性と普遍性」について、こんな例をあげています。
 「おたまじゃくしを洗面器で飼っている3年生のこどもがあった。後足が出、前足が出て、尾が短くなったある日、いく匹かの小がえるに逃げられてしまった。こどもはがっかりしたが、別に深くも気にとめなかった。ところが、翌日また逃げられた。再度のことではあるし、かえるのきわめて残り少なくなった洗面器を見たこどもは、『いったい、どうして逃げられたのだろう。』と考えた。こどもはいろいろと、かえるについての経験を思い浮べた。そして、池にいるかえるを考えた。池の中のかえるは、岸や石にはいあがったり、また、水の中にもぐったりしている。その事実から、『おたまじゃくしは水の中が好きなのだけれど、かえるになると、陸も好きになるのだろう。』こう考えて、砂や石で洗面器に陸を作ってやり、金網の蓋をした。かえるは、水の中を泳いだり、陸にあがって休んだりした。かえるを飼うことがこれでできた。」
 ここでは、今とても大切なものとして見直されている「探究心」が科学の基本であることを言っています。そして、その問題を解決しようとする為に、まず、これまでのいろいろな経験を思い出してみます。それではわからない場合には、ある予想をたてて、いろいろと実際にためしてみます。それらを繰り返すことで、自分に納得のいく解釈を下して、はじめて満足できるのであり、この解釈が自然科学的な知織であるといいます。
 私たちは、ここに書かれてある父親の態度のように、「狭い科学的な知識をふりかざして、こどもがとらわれない心で観察した自然の事実を誤りである」としていることが多いかもしれません。

丑の日からヒキガエル

 先日、丑の日でウナギを食べた人も多かったと思います。この時期、体力を消耗することが多いので、この日にちなんで、ウナギでスタミナをつけようと思った人も多かったでしょう。こんな日を過ごすとき、つくづくと日本はいい国であることを実感します。それは、おおむね日本人は、なんでも食べることができるからです。世界では、いろいろな戒律など宗教上の理由から食べるものを制限する人が多くいます。イスラム教やキリスト教で食材を制限することがありますが、仏教でも食材を制限します。たとえば、精進料理では、修行のために 殺生を戒め なおかつ 匂いのきつい食材は 修行の妨げになるとして はずされます。肉や魚の動物性のものをとらないというのは、他にも、ベジタリアンでもヴィーガンでも、マクロビオティックでも見られることです。その中で、「酒、三厭五葷、仏門に入らず」と言われているように、仏教では、三厭五葷を食べないことがあります。
三厭とは「肉類・鳥類・魚類」のことで、五葷とはネギ(玉ねぎも含む)・ニンニク・らっきょう・ニラ・アサツキの臭いの強い野菜5種類のことを言います。三厭は、まあわかるのですが、五葷は体にいいような気がします。しかし、仏教では、独特な刺激成分を持ち、食べ過ぎると内蔵に悪い影響を及ぼすとして、人間の本性を傷つけてしまうと言われています。そのため、仏教では元来、この五種類の野菜を食べる事を禁じています。内臓に悪いと、なぜこれらの野菜が人間の本性を傷つけるのかというと、実は、五行(木・火・土・金・水)とか方角とか、八卦とかに関係しているようです。五行には人間の五臓にんにくが心臓、ニラが肝臓、ラッキョウが脾臓、ねぎが腎臓、あさつきが肺臓を害すると言われています。
この五葷三厭を「八戒」と言いますが、これらを食べないでいたことに三蔵が関心をして、「八戒」という名前を猪(ブタ)に与えて名乗るようになったのが、西遊記に出てくる「猪八戒(ちょはっかい)」です。この猪八戒を思い出したのも、昨日のブログの「天の川」から連想したのです。というのも、猪八戒は、もともと天界で天の川の治水管理とその水軍を指揮する大将である天蓬元師だったのです。
園でいま「ヒキガエル」を飼っていることはブログで紹介しました。このヒキガエルのことを「蟾蜍」(せんじょ)といいます。このヒキガエルは、後漢書の伝説によると、西王母の秘薬を盗んだ嫦娥が月に逃げて蟾蜍(ヒキガエル)になったといわれています。そして、そのヒキガエルは月に逃げたことになっているので、月の影が、うさぎと言われているのと、ヒキガエルとも言われています。また、猪八戒は、蟠桃の会で酔っ払ってこの嫦娥にからんだため、天蓬元師という職を首になって下界に落とされますが、その時に間違ってブタの胎内に生まれた為に、ブタの妖怪になってしまうのです。
一つのことについて考えると、次々と話題が広がっていくことは、このブログではよく起きることですが、それは、私たちは、過去からさまざまな関係性の中で生活しているからでしょう。決して、自分一人ではなく、また、突然と自分が生まれたわけではなく、原因があって、結果があるのです。その関係は、昔から伝わる逸話にも見られます。

天の川

先日の土曜日は、園の夕涼み会でした。以前、ブログで書きましたが、毎年私の役目は、プラネタリウムで天井に映し出された星空を眺めながらいろいろと星にまつわる話をすることです。まず、映し出された星空で目につくのは、天体を横切る白い帯です。「これは何でしょうか?」と問い掛ける前に、会場の子どもたちは一斉に「天の川、天の川!」と叫びます。先回って子どもたちは叫ぶので、私は意地悪くこう答えます。「これは、ミルクをこぼした跡です。空にミルクをこぼしてしまったので、それが流れてしまったのです。ですから、これを、ミルキーウエイと言います。」それを聞いた子どもたちは、一瞬だまります。それは、自分が知っているのとは違うと思うからです。すかさず、「しかし、日本では、これは天にかかる川ということで、天の川と言います。」と言って、話を始めます。最近の子どもたちは、いろいろな知識を知っています。天の川ということは知っています。しかし、その流れを見て、美しいという前に、名前を連呼します。また、その名前を言えるだけで知ったつもりになって、どうしてそんなものがあるのかを疑問に持とうとしません。その白い帯は、何でできているかの疑問を持ちません。つくづくと、小さいころの知識は、表面的な名前ぐらいであるのにもかかわらず、もう探究心を持たなくなってしまうだということを実感します。
 実は、この天の川に関する不思議さは、宇宙の存在自体を解明するうえでとても重要なことなのです。天の川は、光が細長く密集している姿をしているということは、星が細長く極めて密集しているという事です。では、なぜここだけ星がこんなに密集しているのかということを考えることが重要です。それを考える上で、まず、宇宙は何からできているのかという事を考えていかなければなりません。実は、宇宙は、さまざまな銀河からできているのです。銀河とは、1000億個ほどの星の集まりのことです。私達の住んでいる太陽系は、「銀河系」という銀河の中にあります。その銀河の形は、薄い円板のような「渦巻銀河」です。私たちは、その銀河系の中からいろいろな銀河を見ているのですが、私たちが属している銀河系のまたの名を「天の川銀河」というように、実は、天の川は、私たちが属している銀河を中から見た姿なのです。ですから、星がいっぱい見えるわけです。銀河は薄い円板型をしているので、真正面から見ると広く見えますが、星はそれほど密集して見えませんが、それは、外から銀河系を見た場合です。
また、太陽系は、銀河系の端の方にありますから、銀河の中心のほうを見ると多くの星が見えますし、端の方を眺めると、それほど星は多くありません。実は、夏見える銀河は、中心のほうを見ているので、夏の天の川がきれいですし、冬は、銀河中心と反対の方向を見ていることになるので、夏と比べると星の数は多くありませんので、それほどきれいではありません。この両方向を見ることによって、銀河の大きさとか、どのくらいの星が集まっているのか、太陽系は銀河系のどのくらいの位置にあるのかがわかるのです。
 この銀河系の渦巻きの直径はどのくらいかというと、約10万光年です。光の速さで、10万年かかります。では、銀河系の中心から太陽系はどのくらいのところにあるのかというと、2万8千光年のところにあります。宇宙には、まだまだ不思議なことが多いし、解明されていないことも多いのですから、簡単に「知ってる、知ってる!」ということで片づけてほしくはありません。

江戸時代の国語

 江戸時代の寺子屋における教育の6,7割は、今でいう「国語」だったようです。当然、寺子屋で習う内容が「読み、書き、計算」ですから、3分の2が国語ということになります。しかし、読み、書きが別々ではなく、「いろは」を声に出して言いながら、お手本を見ながら書いていたようです。このように「いろは」を習うのであれば、全部で平仮名は47文字覚えればいいことになります。しかし、江戸時代の子どもたちはそうはいきません。それは、今でいう「あ」にしても、いろいろな字があったからです。これは「変体仮名」と呼ばれているものです。
 平仮名の起源は、中国由来の漢字を用いて日本語の音節を表したことに始まります。奈良時代、万葉集では、歌を漢字の音や訓を使って表現しました。ただ、音を当てはめたものですので、中には元々の漢字の表わす意味とは関係のない使われ方をしているものも沢山あります。たとえば、「春」を「波流」、「やまと」を「八間跡」、「くに」を「久爾」というように、一音節を一字で書き表しました。この時代の仮名は万葉集でたくさん使われていることから「万葉仮名」と呼ばれています。万葉仮名は、古事記・日本書紀にも使われています。この万葉仮名は、該当する漢字の楷書や行書で書かれていましたが、平安時代になると草書で書かれるようになりました。その字体の上から漢字から分化し、後にひらがな・カタカナに発展していったと考えられています。平仮名という言葉の語源は、文字を借りると言う意味の「かりな(仮名)」にあるとされています。それに対して漢字のことは「真名(まな)」と呼ばれていました。
 もともと平仮名には日本語一音に対して多くの字体がありました。例えば「あ」の文字を表すのに「安」「阿」「悪」「愛」をもとの字としてその字のくずし字が使われていたことが知られています。さらに同じ字母からも数種のくずし字が生まれていました。しかし、明治33年「小学校令施行規則」によって仮名は一音一字に統一されました。「あ」という音には、「安」をくずした字体である「あ」だけを使用することとされました。そこで、この規則ではずされた字形の仮名を「変体仮名」と呼ぶようになりました。この変体仮名を、江戸時代の子どもたちは覚えたのです。私の母は、今でも手紙を書くときに変体仮名を使います。私が子どもの頃、その文字を使っているのを見て、どの崩し字を使うのか不思議でした。聞いてみると、全体の文字のバランスだと言っていましたが、とっさに選んで使っていたようです。現在では書道などでしか使用されていませんが、江戸時代の子どもたちは、これらをすべて覚えていたのです。
 寺子屋に入学した生徒は、男女を問わず「いろは」の後に漢字を習いますが、数字だけは先に習いました。数字は、すべて漢数字ですが、この漢数字は、筆遣いの基本的な筆の運びがあり、たとえば、「一」「二」「三」などは、バランス良く横棒を引く練習になります。また、漢数字だけは間違って読まれると大きなトラブルの原因になるために、崩し字は使いませんでしたので、最初に教えたのでしょう。
次に漢字を覚えるのですが、これらを教える寺子屋の師匠は、ただ、単純に覚えこませることをせずに、いろいろと工夫をします。たとえば、身近なところから言葉を増やしていくことをしたり、鳥や花などすでに知っているものの名前を書かせることから始めたり、決まった順序ではしませんでした。子どもたちは、字を覚え始めると、まず、覚えたい字は、自分の名前です。そこで、源・平・藤・橘など、姓氏の頭の字を列記した「名頭」を使います。
今でも、漢字を教える順序は、議論のあるところです。

筆順

 江戸の時代の寺子屋や藩校で学ぶ教科のうち、社会、算数とみてきました、もう一度国語について考えてみたいと思います。
少し前に、 職員の間で話題になったことがありました。それは、漢字の書き順(筆順)です。小学校で、やたらと書き順のことを注意されて、辟易としている小学生を見て、そんなに書き順にこだわる必要はないのではないかということを言う職員がいたのです。確かに、書き順というのは、漢字を覚えることと意味が違います。字は、間違って書くと、読み手が困りますし、自分の伝えたいことが間違って伝わってしまうことがあるので気をつけなければなりません。しかし、書き順が違っても読み手には関係ありません。また、パソコンなどで文字を打つ時にも書き順は関係ありません。書く時の手順であり、でき上がりには特に影響を及ぼさない気がします。
私が小学生のころは、書き順を覚えさせられ、テストにもよく出ました。その代表的なものが「右と左」「必」「飛」「上」「馬」などです。しかし、江戸時代では、今と違う書き順であったり、必ずしも正しい書き順というものが決まっていたのではないようです。しかも、書き順というのは過程の話なので、残っている書物ではなかなか確認できず、個々人の頭の中に記憶されているものであり、かなり、個人差があるようです。それは、筆記具の持ち方や字体の記憶や表出パターンの個人差などから、学習後に個人によって変えてくるからです。ですから、書物や文献などに示される筆順は、多くの学習者が記憶することを想定した、規範性を伴ったものです。
では、どうして書き順が必要かというと、さまざまな根拠があります。一つは、機能性を根拠とするもので、筆順と字形、筆順と運動、筆順と認知の各関係において、整え易さ、書き易さ、読み易さ、覚え易さがバランスよく働く字形になるからという観点です。しかし、縦書きか、横書きか、鉛筆で書くか筆で書くか、楷書か行書かによって違います。また、書きやすさか、覚えやすさかによっても違ってきます。ですから、覚えやすさを優先する中国と、整えやすさを優先する日本とは書き順が違います。例えば、中国では、「右」「左」の「ナ」の部分は「一ノ」という順序で統一していますが、日本では、「右」は「ノ一」の順に、「左」は「一ノ」の順に書き分けます。
また、字源を根拠とする書き順は、甲骨文字資料が発掘される以前の「説文解字」が字源研究の中心であった時代に流行した筆順根拠です。ここでは、機能性という視点よりも、字義の違いを筆順を通して明らかにすることに重点が置かれています。また、行書を根拠とするという考え方は、日本独特のものです。江戸時代は、「御家流」という行書が主流の書体でした。ところが、明治に入ると、公文書や教科書が唐様中心となり、楷書で書かれるようになります。そこで、行書筆順から楷書筆順を類推して決めたのです。
日本も中国も今日的には機能性という筆順根拠が主流です。しかし、日本独特な行書筆順があるため、それとの整合性を図ろうとする意図や字源を根拠とする筆順が残っていて子どもたちに強いているようです。
中国で行われている完全なまでに楷書筆順としての機能性が追究されているように、日本でも、もう一度、子どもたちが自然と書きやすいような筆順を考える方がいいような気がします。

算数

 「数学」という学問は、既に奈良時代以前に中国から伝えられ、「大学」で教えられていました。平安末期から鎌倉、室町時代には「かけ算の九九」は「一般人が暗記」せねばならない「必須の常識」でもありました。そして、「算盤(そろばん)」が輸入され、その計算法を著したのが「毛利重能」の「割算書」(1622)でした。そして、1627年、江戸初期に「塵劫記」という数学書が吉田光由という人によって刊行されますが、彼は毛利の門弟でした。彼は、中国の算術書を参考にしながら、自分のアイディアを盛り込んで作っています。
日本の数学に大きな影響を与えた中国の算術書とは、元の「朱世傑」が1299年に著した「算学啓蒙」であり、この本によって、「天元術」が我が国に入ってきます。天元術とは、算木や算盤などの計算具を使う中国発祥の代数学のことです。算木には正数をあらわす赤い算木と、負数をあらわす黒い算木の2種類があり、算盤と呼ばれるマス目を書いた紙や布の上に並べ、その組み合わせで高次の代数方程式を解く方法です。ここでは、未知数Xを天元の一と言っています。
 この本が、1658年に日本で復刻され、これを参考にした高等数学(高次方程式)を「沢口一之」が「古今算法記」として1671年に著わします。これは「未知数の指数、X」が「整数」に限られていましたが、天元術を正しく用いて解いた最初の書物とされています.そこで、算法根源記および改算記の遺題を天元術で解き,新たに沢口は、自身の遺題15問を遺していますが,これは複雑で,天元術で解くには相当困難です.しかも解答を明らかにしていないために、多数の算者がこれを手にし、解こうとずいぶんと苦しんだようです。そして、未だに解答した書物はないのです。この難問を 新たな演段術を考案してこれを解き,「発微算法」をあらわしたのが、いよいよ登場する和算の開祖「関孝和」なのです。
 関孝和は「算学啓蒙」を熟読し、天元術を完全に理解します。しかし、天元術には大きな制約があり、算木による方法の限界を悟った孝和は、一般の整式もあらわせる独自の方法を考案します。それが、和算の発展に大きな貢献をします。それについて、以前ブログでも取り上げました。日本で誇れる数学者であり、弟子や理解者から崇拝された孝和ですが、新しいことをしようとする人は、最初はいろいろと言われるものです。彼の功績をねたむ和算家たちは、彼の解法はでたらめで、答は間違いばかりだと非難します。また、その業績は中国の数学書の丸写しであり、しかも、それを他人に知られないよう書籍は焼却してしまったのだと指弾したのです。しかし、これらが全くの言いがかりであることは次第に分かり、孝和の解法や解答が正しかったのはもちろんのこと、彼が参考にした数学書も当時、入手不可能なものではなかったことがわかります。
 ここまで行くと、ずいぶんとマニヤックになり、数学に苦手な人からすると頭が痛くなるかもしれません。しかし、数字の持つ不思議さ、計算による解明、それらはすべての根源とされ、数学は学問ということでなく、生活に密着し、人生の哲学的なものとしても結びついていきます。「塵劫記」という書名からして、非常に深い意味があります。そして、その中で取り上げられている問題も、なぜか身近で、楽しい気がします。しかも、それを読むことで数学的知識が深まるだけでなく、かなや漢字に慣れるための教科書としても最適でした。ただ、計算ができるというのが算数ではないことがわかります。

何々算

私が小学生の頃、算数の勉強に「自由自在」と「応用自在」という参考書を使っていました。そして、そこに書かれてある問題を解く練習をしていました。「自由自在」は、増進堂・受験研究社から発行されている、小学生・中学生を対象とした学習参考書です。この参考書の歴史は古く、1953年(昭和28年)に初版が発行されて以来、2400万部を発行したベストセラーで、現在でも受験研究社の主力商品になっているそうです。一方、応用自在は、自由自在が売れているということで学研が出した参考書ですが、いつ創刊されたかはよくわかりません。しかし、少なくとも私が小学校6年生の時にはあったので、すでに50年近くは使われています。
これら2冊の算数の参考書で、悩まされた問題が、文章題で、その解き方を分類して、「何々算」と名付け、それぞれの解き方を学びました。その中で最も有名なものが「鶴亀算」と呼ばれるものです。そのほかにも、思いつくだけでも、植木算、流水算、時計算、通過算、旅人算、方陣算、相当算、損益算、和差算、年齢算、分配算、差集め算、消去算、仕事算、こよみ算(カレンダー)、推理算、集合算 、やりとり算、塩水算、過不足算、平均算、ニュートン算、帰一算、倍数算などがあります。これらは、基本的には、中学校に入ってからは、方程式で簡単に解けるもので、それを使えばいいのにと思ったものでした。
しかし、今考えてみると、その解き方は、かなり芸術的である気がします。
江戸時代初期に「塵劫記」という本が刊行されています。初版本は、吉田光由という人が著したのですが、多くの海賊版が作られ、また、新版、改定版、増補版、簡易版、パロディ版などが出され、しまいには、500を超えるいろいろな版が出されたほど大ベストセラーになります。わたしたちの世界を10億集めて、これをぜんぶ粉にして、その粉の一粒ずつを別の世界の一つずつにつけていく。この粉がなくなったとき、その世界をまた粉にして、その粉一粒ずつを一劫として数えたものが、仏教の言葉で「塵点劫」と言います。とてつもない長い時間のことです。そこで、この本は、塵劫たっても(とてつもない時間を経過しても)変わらない真理の書という意味でつけられています。
この塵劫記は、第1条が「大数」で「一、十、百、…」、第2条が「少数」で「分、厘、毛、…」という端数の桁の名前です。そして、数量の無限に小さいほうが「塵」、無限に大きいほうが「劫」と言います。このように、数の桁の名称や単位のほか、掛け算九九などの基礎的な知識や、面積の求め方などの算術を日常生活に身近な話題をもとに、やさしく解説しており、一冊で当時の生活に必要な算術全般をほぼ学ぶことができるために、この塵劫記は、それまでの数学書と違い、生活のための数学を扱ったことで普及し、算数を学ぶ初めの教科書として江戸時代に使われたのです。
算数の問題を日常から取り上げていることから、最初に書いた「何々算」という形のものが多くありました。たとえば、容積を測る「俵杉算」、鶴亀算の原型の「孫子算経(ウサギとキジ)」、鍋の容積と金額を考える「入れ子算」、その応用編の「抜き入れ子算」、盗賊一味が盗んだものを不公平にならず山分けする「盗人算」、馬に乗る人と、歩く人を交代で旅をする「馬乗り算」(これは、旅人算になります)、油を移す「油分け算」、小野小町と深草少将との逸話から採った「小町算」、そして、有名な「ネズミ算」では、数が爆発的に増えていきます。
これらの「何々算」は、例題を一つずつ取り上げるととても面白いもので、ベストセラーになるのもわかりますね。