荘子は、荘子の中で、さまざまなたとえを使って道を説明します。その中で、いくつか面白い話を紹介しましょう。
「大を用うるに拙なり」という「大きなものを用いるには、それなりの用い方がある。大きいからといって役に立たないと思い込むのは、愚かなことである。」という意味の言葉があります。これには、こんな逸話があります。
恵子が荘子にこんな話をしました。「魏の王が私に大きなひょうたんの種をくれました。私はそれを植えて実がなったのですが、それがあまりに大きくて、それに飲み物をいれてみたら、なんと五石もの量が入るのです。すると、あまりにも重くて簡単には持ちあげられません。そこで今度は、それを割って、ひしゃくを作ってみたのですが、あまりに大きくて、鍋の汁を汲むこともできません。そのようにあまりに大きすぎて使いようがないので、それをぶちこわしてしまいました。」それに対して荘子は、「あなたは、大きなものの使い方がへたですね。五百石のものが入るひょうたんがあるなら、それをくりぬいて、大樽の舟にしたてて、長江のひろき流れか湖のはるかなる波に浮かんで、心ゆくまで水と空の大自然のなかに自己を遊ばせたらよいものを。それをしないで、『これは無用だ』と嘆き悲しむなんて」と言いました。
この世には、大きいもの、小さいものなどさまざまな「物」が存在します。それを、ただひょうたんだからと言って、水や酒を入れる入れ物にしたり、二つに割ってひしゃくにしたりと常識的な使い方しか考えつかないとしたら、貴重なものでも、無用に長物になってしまいます。物を上手に使うとは、世間の常識にとらわれず、その物に合った使い方・使い道を見つけることです。
もうひとつ「朝三暮四」という言葉があります。この故事は、「荘子」斉物論にでています。
宋の狙公が、飼っている猿にトチの実を与えるのに、朝に三つ、暮れに四つやると言うと猿が少ないと怒ったため、朝に四つ、暮れに三つやると言うと、たいそう喜んだという故事です。これは、大辞林によると、目先の違いに気をとられて、実際は同じであるのに気がつかないこと。また、うまい言葉や方法で人をだますこと。とあります。しかし、この故事の解釈にはいろいろとあります。単に機転を利かせて、家族同然の猿に、納得しやすい形の答えを提示したというだけ、という解釈などです。
この猿は、実際は同じことでも、違った形で提案をしたら喜んだのはなぜでしょう。実質上は何の差異もないのに、一方については喜び、他方については怒るのは、なぜでしょうか。たんに、猿は愚かだからということではなさそうです。一見無理そうに見えても、必ずどこかに別の道があるものです。自分の考え方、自分の提案だけが正しいと固執していると、道は見えてきません。いくらあくせくと心を煩わせても結局は同じことなのです。
「朝三暮四」であろうが、「朝四暮三」であろうが、結局は同じことなのに、その目先の違いに騒ぎ、その違いに躍起になることがあります。もっと、広く、先を見通した見方をすれば、本質が同じだということに気がつくことが多々あります。
臥竜塾では極力政治ネタには触れないということなので、コメントしづらいのですが、鳴り物入りで決まった子ども手当の支給が始まりました。今年は子ども一人当たり1万3千円。しかし来年からは満額の2万6千円が支給されるのかどうも怪しい。元々財源のあてもなく、現与党の選挙対策のためにエイヤーで決められた政策で、巨額の赤字国債を発行して何とか今年度はしのいだものの、これからどうなるのか。いずれにしても、この国の借金は子ども達の世代まで続くわけだから、「朝三暮四」もいいところだ。どっちみち、消費税は上がるだろうし、子ども手当をもらっても使わないで貯蓄に回すのが賢明かも。間違っても親の遊興費にだけは使って欲しくないなあ。
世間の常識にとらわれないようにするには、まずそのものをよく見るということがあると思います。そして更にいろんな人が見た結果、自分とは違った見方があったとしても、自分の見方にこだわることなくそのものから目を逸らすことがなければ、「本質は同じ」というところにたどり着ける、そんなイメージを持っています。必ずどこかにある別の道を見つけたいと思います。
「大を用うるに拙なり」意味を読んで、とても大切な言葉だと思いました。私も物を見るときや使うときは、常識的に見て、使う事しかできていないと思います。ブログに書かれている逸話でひょうたんが出てきましたが、おそらく私も常識的な使い方しか思い浮かばなかったと思います。保育園で行事の時や各部屋の装飾をする時に色々と作りますが、どうも、ありきたりな装飾しか考える事しかできません。ひょうたんを船にするような、常識に捉われない使い方、使い道を見つける能力を身につけたいです。そして身につける為にも、ただじっと考えてもアイディアは浮かばないと思います。外へ出て、色々な物を見たりする事で身に付くような気がします。
発想の転換とはよく言われますが、なかなか難しいものですね。私自身はまだまだそれ以前に発想力をもっとつけなければと思いました。発想の転換ができるにはセンスも関係があるのではないかと思います。実際、自分の場合センスがないので大変なことが多くあるのですが、その分、今は人の発想したものを吸収することが大切ではないか思いました。常にそういった目線をもっていることで、基礎をかため、今までなかったセンスを磨いていくこともできるのではないかと思います。以前ブログであった「乾龍」の話のようですが、基礎を固め、発想の転換ができるほどの柔軟な創造力をつけていきたいと思いました。
今回のブログ「荘子の故事」より思い出したのが「大は小を兼ねる」でした。私が勤める園は基本的にオープンスペースです。私が従来経験してきたスペースはいわゆる壁によって小さく仕切られ各部屋が割りと固定的に活用される、そうしたものでした。部屋がオープンだとパーティションによって結構自由自在にレイアウトが可能です。融通無碍。こうした「空間的環境」から「大は小を兼ねる」を実感しています。それから「無駄」について、です。私は常々「無駄の効用」ということを思っています。実はこの世に存在するもので正味「無駄」なものは存在しないという立場をとっています。しかし、この世では全てが全て並列に存在することは不可能です。よって、優先順位をつける必要が出てきます。この「優先順位」の結果、いわゆる「無駄」のレッテルを貼られる場合があります。それもまた致し方のないことです。私たちの世界には限界があるのですから。老子荘子はこのことを抑えているとより味わい深いですね。