人は、他人と違いを感じ、他人を自分に合わせようとすることによっていさかいが起きます。その違いは、見方を変えれば、また、相手の立場になればわかるのですが、相対的なものであることが多く、本質をよく見つめると、それは同じであることに気がつくことがあります。その本質を見るためには、自分が広くなければなりません。以前、ブログで書いた気がしますが、園の職員が、「子どもが部屋から出て行ってしまうのですが、どうしたらいいですか?」と相談に来た時、私は、「その子が出ていく先まで部屋の中にしたら、出ないことになるのではないの?」と答えました。人は、どこまで許すのかという許容範囲を決めています。その決めている範囲とは、本当に子どもにとっての行動に必要な広さなのでしょうか。大人にとっての範囲であることのほうが多いのではないでしょうか。子どもの行動をよく理解し、その必要な広さをもっていたら、子どもをしからないで済むと思うのですが。それは、実際の広さだけでなく、心の広さにも言えることではないでしょうか。
荘子の「逍遥遊篇」に、こんな文章があります。「且夫水之積也不厚、則其負大舟也無力、覆杯水於幼†堂之上、則芥爲之舟、置杯焉則膠、水淺而舟大也、風之積也不厚、則其負大翼也無力、故九万里則風斯在下矣、而後乃今培風、背負靑天而莫之夭閼者、而後乃今將圖南、」ここでは、二つの例を出しています。その一つは、「そもそも水のたまりかたが十分深くなければ、そこに大きな舟を浮かべるのには堪えられません。杯の水をくぼみがある床の上にこぼすと、せいぜいほこりやちりならそのたまり水の舟になりますが、大きな舟を浮かべることはできません。もし、広く深い海であれば、大きい舟であっても浮かべることができるのです。これと同じで、人間も、心を広く深くすれば、大きな思いをもつことができ、思わぬ想像力が浮かんでくるものです。
もうひとつは、「風の積むや厚からざれば、則ち其の大翼を負するや力なし。」と言っています。風の集まりがじゅうぶん多くなければ、そこに鵬(創造上の大きな鳥)の大きな翼をのせるのには堪えられません。そこで九万里もの高さに上ってこそ翼の下にじゅうぶんな風が集まります。そうすると、そのうえではじめて、今こそ大鵬は風に乗り青々とした大空を背負って何物にもさえぎられず、そのうえではじめて、南の海を目ざすことができるのです。人も、志が大きければ大きいほど、その下に十分に風を積むことが必要です。そして、目標に向かうためには、努力が報われるためには、忍耐強く、翼の下に風を積むことです。大空へ舞い上がる志が大きければ大きいほど、 それだけたくさんの地道な努力が必要なのだということです。
そうはいっても、多くの苦悩や悩みがあるものです。しかし、荘子の「逍遥遊」にあるこんな言葉を聞くとホッとします。「「楚 之 南 有 冥 靈 者 以 五 百 歳 為 春 五 百 歳 為 秋 上 古 有 大 椿 者 以 八 千 歳 為 春 八 千 歳 為 秋 而 彭 祖 乃 今 以 久 特 聞 衆 人 匹 之 不 亦 悲 乎!」楚の南に荘子が想像して造った「木冥霊」という木があります。その木は、五百歳を持って春となし、五百歳を持って秋となします。ということはこの木の1年は二千年なので、この木が100年生きたとしたら、20万年生きることになります。また、上古の時代には大椿という木は、なんと八千年を春とし、八千年を秋としていました。そんな大きな時の流れを考えたら、人間の悩みはほんの小さなことになります。大きな気持ちになると 苦悩は解消するのです。
部屋から出てしまう子どもに対して、柵をつけるなりをして部屋から出ないようにしますが、例えば部屋を廊下までにしてしまえば、部屋から出たことにならない…確かにその通りですね。物事をもっと広い視野で見る必要がありますし、子どもの気持ちを十分に受容できる大きな気持ちも必要です。それ踏まえて、ブログに書かれている荘子の二つの文章はとても大切なことです。心を広く深くすることで、大きな思いを持つことができる。志を大きく持つことは地道な努力が必要。二つとも保育にも通じますし、それ以上に人が生きる上での大切なことだと思います。そして、時には悩んだ時も荘子の言葉を思い出し、大きな気持ちになり、少し楽になる事も大切です。
「人は、他人と違いを感じ、他人を自分に合わせようとすることによっていさかいが起きます。」本当にそう思います。でも、違いを認めることは簡単ではないことも実感しています。いさかいを起こしてしまった後に、違いを認めなければと反省することができるようにはなりましたが、なかなか大きな気持ちにはなれません。以前はその反省もできていなかったので、少しは変わってきているのかもしれませんが。
長大な時間といえば、法華経には三千塵点劫という遠い昔に釈尊が初めて成道したと説かれています。三千大千世界(日月や須弥山などの広がりを一世界とし、その千倍を小千世界、その千倍を中千世界、さらにその千倍を大千世界とする宇宙観)の国土を砕いて塵とし、東方に向かって千の国土を過ぎるたびに一微塵を落として行き、その塵が尽きた時にこれらのすべての国土をさらに塵にし、その一塵を一劫とする途方もなく長大な時間を言います。これは、現代的にいえば、ビッグバンを始まりとする宇宙の創生を描いたものといえるかもしれませんが、私たちの一生は宇宙の歴史に比べれば、ほんの一瞬にも満たない。そんな短い人生のなかで経験する悩みや苦しみは、それこそ取るに足りない塵みたいなものだ。どうせなら自分のことより他人のことで悩める自分になりたい。闇夜に友のために前を照らせば、自分の前も明るくなるから。
荘子の「逍遥遊篇」は大学学部在学時に学んだ荘子の特に印象に残っている部分でした。およそ30年ぶりの再会!無論、どのような講義を受けたかは忘れてしまいました。そして今回のブログで振り返り、というか新たな発見ができ嬉しくなっております。私は本当にチキンハートでドキドキオドオドはもとより小さいことを気にしたり気にかけたりします。これは何とかしないといけないと思いつつ何ともできないまま知天命の齢に到達しようとしています。「心を広く深くすれば・・・志が大きければ・・・」とあります。水と大鵬の譬はもう一度我を省みる上で大いに参考になります。「それだけたくさんの地道な努力が必要なのだということです。」とのご示唆を教訓として今日一日明日一日をがんばっていこうと思いました。
心を広く持つというのはなかなか難しいですが、そうありたいとつねづね思っています。実際、それができているかと聞かれるとそうではないのですが、「相手の立場になる」や「相対的なものの見方」を最近よく考えます。自分の考えを通すことも時には大事なときもありましすが、本質をよく見つめるとどちらも筋は通っているということがよくあります。その中で自分ばかりにならず、いかに心を広く持てるかがとても大事ですね。できずとも、心がけることで自分なりの基礎をしっかりと作り上げていきたいと思います