師弟

先日のフィンランドの方とのシンポジウムで、学校の質の高さについての話がありました。フィンランドは、学力を支える教師はとても重要だと考えられています。そこで、学校のほとんど大学院卒です。それは、必ずしも学力が高いということだけではなく、保護者のほとんどが大学卒であるために、それよりも高い学歴を持つという効果もあるようです。しかし、それだけではなく、教師は尊敬され、高貴な仕事だと思われています。ですから、教員希望者はとても多いそうです。しかし、だからと言って、必ずしも処遇がいいとは限りません。以前、ブログに書いたかと思いますが、教員の給料は、日本の教員を100とすると、フィンランドは56だと聞きました。ですから、逆に、処遇がいいからと言って教員になる人は少なく、その職業に魅力を感じている人が多いのだと思います。
江戸時代における「寺子屋」の教師はどうだったのでしょう。寺子屋は、その名の通り、もともとは寺で僧侶が教えていました。それが次第に浪人、医師、村役人の百姓や町人が過半数を超えるようになります。では、その資格というと、いい加減なものでした。寺子屋自体のほとんどは私立で、お上の許可はいらないし、お上も直接には関与しません。ですから、読み書きに自信があれば身分に関係なく、誰もが教えることができたのです。そのような姿は、幕末まで続き、NHK大河ドラマ「龍馬伝」の中でも、最初のころ岩崎彌太郎が近所の子どもたちに教え始める時が放映されていました。
そんな寺子屋の教師ではありますが、とても尊敬されていたようです。また、その時の恩義はずいぶんと生徒たちには感じていたようです。日本全国には、教え子たちが師の徳をしのび、恩に報いようと、顕彰碑や墓碑を建立しています。それを「筆子塚」とか、「師匠塚」「筆子塔」「筆子碑」といいます。寺子屋で学んだ子どもたちのことを、寺子と読んだので寺子屋なのですが、江戸後期になると必ずしも教師が僧侶ではなくなったために、子どもたちのことを「筆子」と呼ぶようになりました。ですから、「筆子塚」は、筆の供養塔ではないのです。この碑は、数ははっきりわからないそうですが、少なくとも万単位あるといわれています。しかし、その形の多くは、墓石が全体として筆の穂先のような形をしています。
勢多郡原之郷村(現群馬県富士見村)で名主や農業指導をするかたわら、父から受けついだ寺子屋九十九庵の師匠をしていた船津伝次平という人がいました。彼は48歳で急逝しますが、亡くなって4年後、教え子たちによって筆小塚が建立されます。そこには、こんなことが書かれてあります。「師の慈愛と筆子の報恩の関係で結ばれた固いきずなは、過去、現在、未来の三世にわたる契となって後世にまで及ぶであろう」
師弟の関係は三世の契です。それは、教育の素晴らしさでもあり、恐ろしさでもあります。教育は、今、目の前の子どもをどうするかということだけでなく、教育とは、人類が過去から受け継いできたことを、未来につないでいくことでもあるのです。そして、その結果は、時代を経てから表われてくるものなのです。目の先のことであたふたするべきではありません。

眠くて

園では、お昼寝がしたくない子が何人かいます。それは、もちろん子どもによってはそれほど昼間の睡眠時間が必要でない子もいますし、また、その日の昼間の活動によって休息の量や質は変わるはずです。それを、個人差や活動量を無視して、みんな一斉に昼寝をさせようとしたり、もう年長さんなんだから寝る必要はないと思いこんだり、園の昼寝は大人の都合で寝かせたり、寝かせなかったりしているところが多く見られます。もう少し、自由にさせてあげたらいいのにと思うことがあります。少し前の5月の連休後に、私の園に昼寝の取材が来たことがあります。それは、昼寝をしたくない子が、みんなが寝ている間、寝ないで本を読んで休息している写真を撮りたいということでした。事前に問い合わせがあったのですが、毎日寝ない子が5~10人くらいいるので写真は取れますよということできてもらいました。ところが、いざ、写真を撮ろうとすると、誰ひとり起きている子はいず、全員寝てしまっていました。職員に聞いてみると、子どもたちは全員連休中にいろいろな所に出かけて、1日中動き回っていたので「疲れたから寝る!」と言って寝てしまったそうです。私の園では、普段から寝ても寝なくても自由なので、子どもたちは言われてではなく、自分の体に聞いて選択しているようです。
それにしても、私がいつも一緒出かける職員はよく寝ます。昼間であろうが、人の話を聞いている時であろうが、すぐ眠り始めます。すると、R25という雑誌の特集記事「いくら眠くても就業中は寝てはならぬーーそれが社会人というものです。わかっちゃいるけど、ランチの後から午後3:00ごろにかけての睡魔はキョーレツ! 午後になると眠くなるのはどうしてなんだ?」というのを見つけました。
どうも、それは、普通のことのようです。「午後1~3時に感じる眠気は『ポストランチディップ』と呼ばれ、もともと人間はこの時間帯に強い眠気を感じる生体リズムを持っている」そうです。昼食をたべた後、だれでも引き込まれるような眠気が生じるのは、昼食による満腹感と結びつけて考えられていたのですが、最近では、この眠気が昼食の有無にかかわらず生じていることが明らかになり、ヒト固有のリズムとして認識されるようになったようです。この午後の眠気を、ポストランチ・デープ(post-lunch deep)とかポストブランチュアル・ディップ(post-brunchial dip)といいます。人は、1日24時間を単位として行動しています。しかし、人間の体は、12時間を単位としてリズムをとっているそうです。それを、サーカセミディアンリズム(半概日リズム)というそうです。
R25という雑誌の特集では、「だかといって「じゃあしょうがないよね!」とはいかないのがビジネスの現場。眠気に負けない方法ってないのかな?」という特集でした。そこに書かれてあったのは、もともとおやつの語源は「八ツ時」(午後2時ごろ)からきているのは、昔の人もちょうど眠くなるこの時間帯に、お茶うけを食べてアゴを動かし、お茶でカフェインを摂っていたからだそうです。一時的な対処方法ですが、カフェインを摂る、ガムを噛む、冷たい風をあびる、顔を洗う、周囲を明るくする、体を動かす、などがありますが、その中で特に効果的なのは、「おやつ」を食べることだそうです。
大人も、昼寝かおやつが必要なようです。

高学力

一昨日、フィンランドの保育、育児の考え方の話を聞きました。以前、園にフィンランドの方が見えたときに、「いいですね。フィンランドは学力が世界一だそうで。」というと、「フィンランドは、人口が非常に少ないので、一人の無駄も出せないのですよ。」と答えたのが印象に残っています。そもそもフィンランドの人口は、約527万人です。日本では、都道府県別ベストテンの中で、8位が北海道で、5,535,000人で、9位が福岡県の5,054,000人ですので、その真ん中くらいです。確かに、人口は、日本で言うと、一つの件くらいです。その国土の広さというと、日本の国土面積の約90%ですから、ずいぶんと人口密度は少ないですね。その国土の中で、山が少なく平坦で、最高峰でも1300m位しかなく、逆に湖の面積は国土の9.4もあり、湖と国土の大半を占める美しい森の国です。フィンランド人は自分の国や民族のことをスオミSuomiと呼ぶそうですが、その語源は湖、池を意味するスオSuoからきたと言われています。
そのフィンランドが世界的に注目を浴びるようになったきっかけは、OECD(経済協力開発機構)の2003年の生徒の学習到達度調査(PISA)で、フィンランドが読解力と科学的リテラシーで1位、総合成績でも1位という結果が、世界を駆けめぐったことによります。それに対して、日本の学力が世界のトップを維持していたのが、大きく転落したのです。そこで、文部科学大臣は競争を強化することを表明しました。その対策とは、「総合的学習」と「ゆとり教育」を改め、学習指導要領の見直しをしたのです。しかし、この見直しは少し勘違いしているところがあります。実は、この国際調査が測定しようとしたのは、旧来の「学力」ではなく、これからの時代に求められる知識と能力なのです。それに日本の教育が対応していないことからくる低下なのです。しかし、その結果を受けて、フィンランドを訪れる教育関係の人が増え、そのメソッドを求めて躍起になる教育関係者が多く見られます。
フィンランド政府は、なぜ学力が向上しているのかというと「総合教育」に理由があるとしています。そして、次のように説明しています。1、どんな処にすんでいても、また性別や経済的な事情、母国語の違いなどには関係なく平等な教育を受けている。2、生徒は近くの学校に通う。3、教育は全体として無料である。4、“選んで教育する”という教育ではなく、平等な総合教育である。5、中央が大綱を決め、地方が実行するという弾力的な行政である。6、すべてのレベルが相互に作用し合い、協力している。 また共通な理念を持っている。7、“一人一人が向上する”という方針に基づいて生徒を評価する。 したがって、いわゆるテスト主義(点数主義)でもなく、ランキング付けもしない。8、高い教員の資質、自主的な教員であることを基としている。9、“皆で社会を築いていこう”という学習概念に拠っている。
もちろん、日本に比べて税金が非常に高いゆえにかなえられていることもありますが、考え方の違いについては、参考になります。まず、2番目の「近くの学校に」は、最近、小学校の選択性や、私立小学校への入学希望が増えている日本とは逆の考え方です。そして、是非、日本でも大切にしてほしいのは、6番目のお互いの「協力」です。それは、9番目の「皆で社会を築いていこう」という意識を支えます。シンポジウムで印象に残ったのは、園と保護者が同じ価値観を持って、協力して子どもたちの育ちを見守っていこうという姿勢でした。

 東京も梅雨に入っています。今日は晴れていますが、明日から雨の日が続くそうです。子どもたちは外に行けず、体を持て余し、ストレスがたまってしまいそうです。そんな心情を歌った歌が、北原白秋作詞・弘田龍太郎作曲の「雨」です。「雨がふります 雨がふる 遊びにゆきたし 傘はなし 紅緒の木履も 緒が切れた」遊びに行きたい子が、雨を恨めしそうに見ている姿が目に浮かびます。「雨がふります 雨がふる いやでもお家で 遊びましょう 千代紙おりましょう たたみましょう」この歌詞を読むと、子どもの気持ちがわかります。まず、「いやでも」とあるところを見ると、本当は子どもというのは、外で遊びたいのです。では、仕方ないので家で遊ぶとしたら、千代紙を折ったり、たたんだりして遊ぶところを見ると、女の子かもしれません。ということは、女の子でも外で遊びたいようです。それは、刷り込みかもしれませんね。その子が折り紙を折っていると、外で声がします。その声は、なんと、「雨がふります 雨がふる けんけん小雉子が 今啼いた 小雉子も寒かろ 寂しかろ」小さいキジのようで、「ケンケン」とないています。それは、雨に当たって、寒いからなのでしょう。キジの鳴き声は、雨の日の寂しさを強調しているかのようです。何も音がしないよりも、静寂さを感じます。そろそろ折り紙にも飽きました。というより、千代紙は貴重なので、1枚おれば終わりなのでしょう。まだ、雨はやみそうにありません。そこで、人形を寝かしつけます。「雨がふります 雨がふる お人形寝かせど まだ止まぬ お線香花火も みな焚いた」まだ雨はやみそうにないので、線香花火をやって止むのを待っていようとしたら、すべての線香花火をやり終えてしまった。どうして、雨の日に線香花火なのでしょう。それは、その燃え方が、寂しさを増すからなのでしょう。あくまでも、女の子の遊びの種類は、寂しさ、静けさを強調するための小道具なのです。
昨日、フィンランド在住の女性の方と、保育についてのシンポジウムを行いました。その発表の中で、フィンランドの幼児施設では、ほとんど毎日森に行きます。雨が降っても、室内で遊ぶことはしないで、レインコートを着て出かけるという報告がありました。子どもにとっては、雨も教材であり、遊び道具なのです。雨には雨の良さがあると考えるようです。こんな言葉がスクリーンに映りました。「天気に良いも悪いもない。悪いものがあるとしたら、その天気にそぐわない服装をすることである。」というものでした。検索で、「雨の日 遊び」を入れてみると、「雨でも目一杯遊びたいですよね。梅雨時に便利な室内施設を集めてみました。雨降りなんかに負けずに遊びに行こう!」やっぱり、室内です。
しかし、雨の日も子どもにとっては魅力的なものです。雨の時の子どもの心情を歌った歌「あめふりくまのこ」(鶴見正夫作詞、湯山昭作曲)があります。この歌詞は、すべてひらがなで、5連からなっています。第1連は、山に雨が降りだし、だんだんと本降りになり、地面に川筋ができました。その川筋は、小川みたいな川筋になり、あちこちに水たまりもできていることでしょう。第2連で、熊の子が登場してきます。川遊びごっこをしてあそびます。まず、雨降りでできた川筋の小川の覗き見します。魚がいるかなあと覗き見します。第3連は、できた小川には何もいないことが分り、熊の子は水を手ですくって飲みます。第4連は、それでもどこかに魚か小さな生物か何かがいるような気がして、落ち着きません。気がかりなのです。ですから、もう一度のぞいて見ます。第5連は、雨はなかなか止みません。そこで、熊の子は葉っぱを自分の頭上にかぶせて、自分の体が雨にぬれるのを防ぎます。
なんて、雨の中の子どももかわいいことでしょう。

生態

 今日、園の職員たちと、「エコ」って何かという話題になりました。エコは、エコロジーの省略形ですが、和製英語です。このエコロジーというのは、生態学と言い、生物と環境の関係を研究する学問のことを言います。同じようにエコノミーを略して「エコ」ということもあります。これは、経済という意味で、エコロジーとは全く関係ない言葉と思いますが、実は関係があります。それは、エコロジーもエコノミーも、その語源はともに古代ギリシアの市民の家政機関である「オイコス」に由来しています。OIKOS(オイコス)とは、ギリシア語で「家・棲家」という意味です。エコロジーとは、「自然界の生物の生存のための活動は、オイコスを成立せしめる論理を究明する学問」ということです。それが、
環境破壊や公害問題が表面化するにつれ、それを解決する学問分野であるとして生態学が注目を受けるようになりました。そこから、生態学的判断によって、それらの問題に対して必要と考えられる対抗策や、それまでの方法論への変更、見直し等を行なう運動が起こり、それらをまとめて表す言葉としてエコロジー運動(エコロジズム、エコロジスト)といった言葉が使われるようになった。そこから、次第にそれらの方向における運動や活動にエコロジーという言葉が使わり、環境を守る言葉としてエコという言葉が生まれたのです。
 生き物というものは不思議なものです。以前ブログでも取り上げられましたが、すべての生き物は、それぞれ己の遺伝子を子孫に残していくような遺伝子が組み込まれています。しかし、己の遺伝子を残すという非常に利己的な行為であっても、結果的に己だけでは生きていけないことを悟るのです。生き物は、環境に影響を与え、環境は生き物に影響を与えるます。そこには、相互作用があります。また、それぞれの生き物は、それぞれに役割があり、その役割はそのうちのどれかがなくなっても全体が成り立たなくなることが多いのです。そのお互いに強制して成り立っているということは、なにも地球、宇宙規模だけの話ではありません。「荘子」斉物論では、こんなことを言っています。「百骸、九竅、六臓、かねて存す。われ、たれとともに親(しん)たらん。なんじみなこれを説(よろこ)ぶか。それ私するありや。かくのごときはみな臣妾たることありや。それ臣妾はもってあい治むるに足らざるか。それ逓(たがい)に君臣とあいなるか。それ真君ありや存せりや。もし、その情を求め得ると得ざると、その真に益損なし。」
人間の体の中の話を例に出しています。私たちの身体というのは非常に不思議なもので、心臓も肺も胃腸もそれぞれの役割があり、それぞれがそれぞれの役割をしていることでうまく機能しています。しかし、私たちは、それを意識しているわけではありません。そんなことは考えてもいません。それぞれを動かしている筋肉は、不随筋といって、意識を持って動かしていないのです。それなのに、健康であればちゃんと動いてくれます。また、それぞれの機能は、それぞれ関連し合っています。身体の諸器官は単にそれぞれの働きをするだけでなく密接に連携しています。しかし、この連携も、意識して行っているわけではありません。しかし、どこかで働きを統括していなければまとまりがつかないはずです。きっと、どこかに私たちの理解を超えた「真君」が居るのではないかということを、荘子は考えます。考えようと考えまいと、私たちの身体が統一をなしているという事実には何の変りもないわけです。それが、生きる上での「道」であるというのです。

ドイツ自動車

 今年も、今月末にドイツ研修に出かけます。先日、事前研修を行いました。今回も、数人が外国は初めてという参加者がいますが、そんな人を羨ましく思います。幕末にイギリスに留学した薩摩の若者たちは、行く先々で、珍しいものを見ます。どれを見ても、すごいと思ったでしょう。イギリスについても見るもの聞くものが新鮮だったようです。彼らは、貪欲にいろいろなものを見、学び、習得していきます。そのうちに、イギリス人を教えるようにまでなります。それを見たイギリス人たちは、日本人は、最初、何も知らない、何もできないのを見て、なんて野蛮な、遅れている国民なんだろうと思っていたのが、なんて優秀な人種だろうと思いなおします。彼らが、もともと優秀だったこともあるでしょうが、初めて見聞きしたことに対しての非常な探究心があったからでしょう。そんな意味でも、初めて海外に行く人は、きっと、何にでも感激するでしょう。私が、初めて外国に行ったのは、カナダでした。カナダについて、まず感動したのは、滑走路に生えている雑草を見たときでした。これは、外国の草なんだと変に感動したことを今でも思い出します。その次に感動したのは、町に出ると、走っている車はみんな外車ですし、道ですれ違う人はみんな外国人です。初めての時は、当たり前のことにいやに感心します。
 ドイツに行って、まず感動するのが、ドイツのタクシーです。ほとんどは、なんとベンツなのです。日本では、めったに乗れない車種にふつうに乗るのです。ベンツがタクシー業界で70%以上の圧倒的シェア-を誇っていましたが、それは、早い時期にディーゼルエンジンやオートマチックを手がけたことや、長持ちで丈夫だからだそうです。しかし、最近は、30%位に下がってしまっているようです。それは、売り出されたベンツの車種は、たくさんのエレクトロニクスが搭載されているEクラスだからです。タクシー業界では、そんなものが積まれても、こわれれやすくコスト増大になるだけだと思うからです。
ところで、タクシーに乗って、走り始めるともっとびっくりします。タクシーは、日本でいう高速道路であるアウトバーンに入ります。もちろん、料金所がないので、いつ入ったかわからないのですが、次第にスピードを上げていきます。速度違反は大丈夫か心配になりますが、基本的には、アウトバーンは、スピードは無制限です。タクシーは、ほぼ200㎞で走りますが、それを勢いよく抜いて行く車があるのにびっくりします。それは、ポルシェであったり、BMWであったり、フェラーリです。
ドイツは、有名自動車ブランドの宝庫です。ベンツ、BMW、ポルシェ、アウディ、フォルクスワーゲン、オペルなどなどです。しかし、こんなニュースが流れました。「欧州自動車最大手の独フォルクスワーゲンは、2009年8月13日、ドイツ高級車メーカー・ポルシェと2011年までに経営統合すると正式発表した。」そのニュースを聞いて、あのビートルと言われた、独特の車体形状でとても人気のあったフォルクスワーゲンがポルシェと一緒になるというので、ビックリですが、実は、そのフォルクスワーゲン・タイプ1を設計した技術者は、フェルディナント・ポルシェの息子であるフェリー・ポルシェで、彼が1947年に設立したのが、フォルクスワーゲンです。また、ベンツも、長年ドイツを代表する企業でしたが、数年前、米自動車メーカー・クライスラーと合併し、その後日本や韓国のメーカーと組んで世界戦略を展開しています。
昔からの名前にだけしがみついていると、その名前でさえ残せなくなっていきます。時代は、容赦ありません。

ターニングポイント

 それぞれの時代には、ターニングポイントと言われる変化のきっかけとなる出来事があります。私たち日本人は、よく「戦前、戦後」といういい方をしますが、終戦の時期が大きなターニングポイントで、その前と後では、教育や生活、経済などあらゆる面で変化をしました。今、南アフリカでサッカーのワールドカップ(W杯)が行われていますが、この大会が南アフリカにおいてターニングポイントになるであろうと言われています。今後、南アフリカでは、私たちが「戦前・戦後」と使うように「大会前・大会後」という言葉が使われるであろうと言われています。
 今、NHK大河ドラマで放送されている「龍馬伝」の時代の大きなターニングポイントは、明治維新でした。維新前と、維新後では大きく変化します。それは、江戸時代から、明治時代への変化でもありました。それはまた、幕府から朝廷への政権の変化でした。その時期を迎えるにあたって、その前には生む苦しみというような、様々な犠牲者を出します。そして、その犠牲者を多く出した出来事が、ターニングポイントとなる時期を早めたり、遅めたりします。
 昨日と先週に放映された「龍馬伝」では、その大きな出来事としての「池田屋事件」が取り上げられていました。この事件によって、明治維新が1年遅れたとも、尊攘派を刺激してしまい維新を早めたともいわれています。司馬遼太郎の新選組副長土方歳三の生涯を描く長編小説、歴史小説である「燃えよ剣」の中には、こう書かれています。「池田屋の変によって新撰組は雷鳴をあげたが、歴史に重大な影響をもたらした。普通、この変で当時の実力派の志士の多数が斬殺、捕殺されたために、明治維新が少なくとも一年遅れたといわれるが、おそれく逆であろう。この変によってむしろ明治維新が早く来たと見るほうが正しい。あるいはこの変がなければ、永久に薩長主導によるあの明治維新は来なかったかもしれない。革命には、革命派の凶暴な軍事行動が必要だが、当時の親京都派諸藩のいずれも、それへ飛躍する可能性も気分も無かった。どの雄藩の首脳も、幕府に盾をつくなど考えもしていなかった。ひとり、三十六万石の長州藩という火薬庫が爆発したのである。」
 この事件は、一方では、新撰組が、その名前を高め、その存在を認めさせるために利用したとも言われていますが、結果的に新撰組の命を縮めたことになったのです。今年の初め、妻と池田屋を訪ねてみました。現在、池田屋は、京都三条木屋町の旅籠の雰囲気をリアルに再現していますが、なんと、居酒屋としての再現です。まあ、仕方ないかという感じです。
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 この事件をきっかけに「禁門の変」が起きます。この事件は、別名「蛤御門の変」ともいわれていますが、その蛤御門は現在の京都御苑の西側に位置しています。その場にも行ってみました。そこの立て札には、こう書かれてありました。「江戸時代末期の1864年、この門の周辺で長州藩と、御所の警護に当たっていた会津、薩摩、桑名藩との間で激戦が行われました。この戦いが「禁門の変」で、門の梁にはその時の鉄砲の弾傷らしき跡が残っています。この門は、江戸時代の大火で、それまで閉ざされていた門が初めて開かれたため、「焼けて口開く蛤」にたとえて、蛤御門と呼ばれるようになったといわれています。」
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 この出来事によって、薩長の敵対意識が増すのですが、それがかえって薩長同盟を結ぶことにつながっていきます。時代は、何がどの様に影響し、どのように動いていくかわからないですね。

荘子5

 赤ちゃんは、音のする方に顔を向けます。その視線の先の多くは、母親の声のする方です。それは、乳を与えてくれる存在を確かめるためでしょう。また、自分を見守っている存在がそばにあるという確信を持つためでもあるかもしれません。しかし、音がする方に顔を向けるようになる前から、赤ちゃんは音を聞いています。赤ちゃんの脳の構造は、妊娠36週ごろには大人とほぼ同じつくりになるのですが、その機能は、まだまだ未熟で、情報を上手に処理することはできません。その中で、感覚器官は、視覚を除けば、嗅覚、聴覚、味覚、皮膚感覚などは、大人並に発達しています。それらの感覚は、人として生きていくために、生き延びるために必要な機能だからだったからでしょう。
人は、昔、身近な母親の声のほかにいろいろな音を聞いたことでしょう。その中で一番耳に届く音は、さまざまな自然の音だったでしょう。風の音、風でそよぐ木の枝や葉、川の流れ、しずくの落ちる音、さまざまな音が自然界にはあります。また、恐ろしい音もあるでしょう。恐ろしい獣が近付く音、地震、雷、火事、嵐など様々な天災の音。それらの音は、さぞかし赤ちゃんを不安にさせたことでしょう。そんなときには、そばにいる母親の声親父親の声、みんなを守る大人たち仲間の声は気持ちを落ち着かせたに違いありません。また、人間が少し進化してくると、大人を含めて気持ちを和らげる音を自ら発することができるようになります。それは、人が叩く音、人が吹き鳴らす音、人がはじく音などです。
しかし、人の力ではどうしても防ぐことができない事柄にぶつかるとき、どうしたらよいかわからなくなったときに、聞こうとする「声」があります。それは、「天の声」です。しかし、その天の声は、何を通して私たちに伝えるのでしょうか。巫女などの占い師の言葉によって伝えられると思っていた時代もあったでしょう。しかし、人を介しての場合は、どうしてもその人の主観がどこまで入っているのかがわからないことがあります。天の声には、いろいろな雑念、思惑、善悪の判断すらも入ってきてはいけないのです。
笛の音のことを「籟」といいます。「人籟」というのは人が奏でる笛ということですが、息から吐き出されるものということで言えば「言葉」もそうでしょう。では、「地籟」とえば、大地が吐く息、つまり風が奏でる音です。では、天が吐き出す音、天の声である「天籟」とは何かということを、「荘子」斉物論の中で説明しています。
南郭子が弟子の子游に向かってこう言います。「女聞人籟而未聞地籟 女聞地籟而未聞 天籟夫」と。人の奏でる音、言葉は聞くことができます。また、地が奏でる音も聞くことができます。しかし、まだ、天の声、言葉は聞くことができないというのです。地籟にせよ、人籟にせよ、鳴るものは千差万別ですが、それぞれおのずからなる音を生じ、おのれの音色に鳴り響くのです。それは、何がそうさせているのでしょうか。また、同じように、人間は、さまざまな喜怒哀楽などの感情が生まれますが、それは、何がそれを生成させているのでしょうか。それは効果だけがあって、かたちをもっていません。しかし、喜怒哀楽、悲嘆や執着の気持ちをどうしても持ってしまいがちです。
実は、自然界の中にあるさまざまな音は、音(押しつけがましい主張)がありません。「無音の音」と言われる所以です。善悪の考えが何一つないのです。そこには、迷いがありません。それら自然の音は、実は天の音なのであると荘子は言います。狭い世界の中で、小さな自分の存在を中心に世界を見ていることが多いのです。西洋の考え方では、人間を中心にした自然であり、自分の生き方に都合のいいように自然を見て世界を造りだしてしまいがちでした。しかし、自然の中から自分を見たらどうなるのか、ということが天の声を聞くことに近づくのではないでしょうか。
そういう意味では、赤ちゃんは、母親の声の中に天の声を聞いているような気がします。

卓袱(しっぽく)

 長崎と中国とのつながりは慶長5年(1600年)に始まりました。しかし3代将軍徳川家光は鎖国令を出し、その後中国貿易船の入港が長崎だけに限られるようになりました。そこで、長崎に唐人屋敷が造られ、長崎市中に住んでいた中国人は現在の館内町の一区域に集まって住む事になりました。しかし、中国と付き合い始めたから唐人屋敷が作られるまでの80年間は、長崎市内で、さまざまな中国文化が日本文化と融合していきました、そのなかで、食に関するものは人間にとってとても興味があったことでしょう。彼らのご馳走・中国料理にお目にかかり、それが、その献立に茶碗蒸しがあった「長崎卓袱料理」がはじまったのです。
「卓袱」とは、「卓の覆い」ということで、テーブルかけのことを言います。そこから、朱塗りで、周囲に紅白の紗綾が垂れている中国風の食卓のことを言うようになり、そのテーブルに出される料理ということで、「卓袱料理」というようになりました。おもしろいのですが、一方、この「卓袱」のアクセントを「ちゃぶ」と言いますが、そこから日本では、折り畳みのできる短い脚のついた食卓のことを言うようになりました。それが「ちゃぶ台」で、漢字では「卓袱台」と書きます。それまでの「銘銘膳」などに象徴される日本食事形式に対比するものとして使われたようです。
長崎では、鎖国時代でも、さまざまな国と交易をし、文化を融合させた結果、オランダやポルトガル、中国の料理を巧みに取り入れ、和風にア レンジしたものを作り上げます。それが卓袱料理で、もともとは、家庭でのおもてなし料理として定着したもので、長崎地方の郷土料理の一つになっています。今では、料亭や割烹料理店で味わうことができます。その一つである寛永19年(1642)に誕生した「花月(引田屋)」で、少し前に卓袱料理を頂きました。
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朱塗りの円卓を数人で囲み、大皿に盛られたお料理を直箸で取り分けて食べます。初めに、そこの女将が挨拶に見えました。それは、この卓袱料理では、まず、女将の「御鰭(おひれ)をどうぞ」の言葉から始まるそうです。この料理の最初に出るのは、鯛の胸鰭が入っ た吸い物です。それを御鰭といいますが、これは「お客様お一人様に対して鯛一尾を使っておもてな しさせていただきます」という意味が込められているそうです。
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この花月は、江戸時代、長崎の丸山は江戸の吉原、京都の島原とともに天下の三大遊郭とうたわれ栄えた「丸山」にあります。ここは、江戸から幕末、明治と長崎を舞台に活躍した国際人の社交場でした。アジサイの名前にもなった「其扇」こと「楠本滝」は、当時の引田屋の遊女でした。彼女とドイツ人シーボルトのロマンスを実らせたのもここです。その建物は、昭和35年には長崎県の史跡に指定され、全国的にも珍しい「史跡料亭」として営業しています。
この花月には、国賓の晩餐会にも使われる「竜の間」がありますが、今回は、タイル貼りの床に和風の天井、中国の様式を取り入れた窓を使った「春雨の間」で食事を頂きました。
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この部屋は、日本で最初の洋間だそうです。しかし、長崎ならではの和洋折衷の部屋です。また、ここの庭園は、長崎三大庭園の一つに数えられています。800坪の広さがあり、元禄時代の作庭といわれています。丸山という地は、その名の通り、丸い地形です。個々の庭園は、その地形を生かし、建物の中の各部屋から、立体的に庭を眺めることができます。
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さまざまな食からも歴史を感じることができます。

昆虫人気

 夜、出先から職員と一緒に園に戻ろうと、高田馬場駅の近くの少し閑静な住宅街を歩いている時でした。目の前の足元に何は動いているものが見えました。よく見ると、草むらから、道路を挟んだ草むらに移動しようとしているガマガエルでした。大きさは、体長10cmくらいあり、都会で見るカエルにしてはずいぶんと大きなものでした。最初は、それを見て素通ったのですが、しばらく歩いて行って、職員と顔を見合わせました。「捕まえて帰って、園児に見せようか」と言って、急いで職員に戻って捕まえてきてもらいました。幸い、その職員は、男性でしたので、ビニール袋に入れて戻ってきました。持って帰って、その日は、とりあえず水を少し入れたバケツの中に入れておきました。
 翌日、さっそく水を浅く張った中に大きな岩を入れた水槽に移しました。次の問題は、餌です。カエルは生き餌しか食べないとは知っていたのですが、ハエとかは捕まえることはできません。しかし、カエルは水の中の生き物だから、水の中のものを食べるだろうということで、生きた小海老をやったり、メダカをやったりしても数日間見向きもしません。そのうちに元気がなくなってきました。そこで、私が、ミミズでも捕まえるか、買いに行こうということで、少し行ったところの「爬虫類クラブ」というショップに行ってもらいました。そこから職員が興奮して戻ってきました。恥ずかしいのですが、やはり東京の人という感じです。
 まず、ガマガエルは水の中に入れておいたら死んでしまうと言われたそうです。カエルと言えば、水場と思いきや、ガマガエルは土の上で石や倒木の下で生息するそうです。そして、水は皮膚から摂取するので、容器の中に水を皿に入れておいておいことだそうです。そして、餌を買ってきたのですが、なんと紙袋に入れた「コオロギ」が50匹。このコオロギは、「フタホシコオロギ」といって、餌用にタンパク質、脂肪分、アミノ酸、ビタミンをバランスよく配合した高栄養で育てたものだとか。それを、3日に1回5匹くらいカエルのいる容器の中に入れてくださいとのことでした。
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 帰ってきて餌をあげてびっくり。入れた途端、目の前に来たコオロギを素早く舌を伸ばして捕まえた途端、飲み込むのです。職員みんなで、その瞬間をケースを囲んでのぞきこみます。子どもたちのところへは、今のところたまにしか行きません。まず、十分と職員が観察してからのようです。
 ということで、ガマガエルは食性は動物食で、昆虫類や、甲殻類、ミミズなどをこのむようです。しかし、中には、虫が苦手という人がいて、怖がりながら見ていますが、最近、「昆虫人気がジワリと増している」という新聞記事を見つけました。それは、飼育や標本で楽しむのではなく、食材としてだそうです。「昆虫料理試食会」でのメニューは、「スズメバチの幼虫ドリア」「アボカドサラダ、ツムギアリとヤナギムシのドレッシング仕立て」などだそうです。試食会を始めた内山さんによると、昆虫料理の鉄則は「毒などの調査で手間を惜しまず、しっかり熱を通す」ことだそうです。食品衛生責任者の資格を取り、時には英語の文献とも格闘して美食を追究した結果、自分や仲間が郊外の山野で捕獲したものだけでなく、「養殖」したものを中心に約60種類にのぼる虫を料理してきたそうです。その中で、「食卓の定番料理ならハードルも低い」と作った「蚕のさなぎカレー」「セミのチリソースあえ」は、初心者にも好評だったようです。
 それにしても、いくら好き嫌いのない私でも、ちょっと食べるのをためらいますが、「蜂の子」と呼ばれるクロスズメバチの幼虫やサナギ、イナゴを食べるのは、れっきとした日本の食文化です。しかも、最近の「火星居住計画」という先端科学でも、昆虫食はまじめに検討されています。人間は、どこまで探求心が強いのでしょうね。