考え方を形にするのはとても難しいことです。その形は、立体的な造形物の時もあり、言葉の時もあります。最近、男脳と女脳の違いで、男脳は「空間認知力」に優れている人が多いが、女性は「言葉による認知力」に優れている人が多いと言われています。建物を設計する時には、当然、紙の上に書かれた図面で考え方を説明します。しかし、その2次元の世界から3次元である立体物の建物を認識するのは難しい人がいます。それを、模型という同じ3次元のもので表現するとより分かりやすくなります。最近は、映像的にもその建物の中をあたかも歩き回っているように体験できるものもあります。しかも、あるきまわるのが子どもの視線や、車いすに乗っている人の視線も体験できます。
人としての生き方に対しての考え方を言葉にするのはとても難しいことです。それを、昔からさまざまな人が何とか伝えようとしてきました。私は、保育の世界にいますが、保育というのは常々言っていることですが、人としての生き方であると思っていますので、それを言葉で表現するのはとても難しいものです。しかも、その表現の捉え方が人によって違ってしまうと、全く違ったものとして伝わってしまいます。そんなときには、私はなるべくシンプルに語るべきだと思っています。それは、他のことでもそうですが、年齢を重ねるにつれて、いろいろなことを経験し、いろいろな人と出会い、いろいろなものを見、聞くにつれてそれが増えていくのではなく、いろいろなものがそぎ落とされ、次第にシンプルになってくる気がするからです。それは、たぶん、言葉とか姿には惑わされず、物の本質を見ようとするからかもしれません。ものの本質は、非常にシンプルなものだと感じます。しかし、なかなかそれを理解することや伝えることはシンプルゆえに難しいことなのかも知れません。
荘子「斉物論」にこんなことが書かれてあります。「大知閑閑、小知閒(間)閒(間)。」です。すぐれた知恵である大知あるものは、静かにゆったりとのんびりし、落ち着いたものですが、つまらない知恵である小知のものは、こせこせして、こまごまと詮索するものです。閒閒(間間)とは、こせこせして、細かいものを区別するさま。あれこれと穿鑿する貌(かたち)を言います。どうでもいいことをこまごまと詮索したり、つついたりする人がいます。それが、本質にどうかかわるのかよくわからないようなこと、いつまでも議論をすることがあります。保育の世界でも、幼保の関係、年齢別異年齢であるか、部屋のつくりがオープンであるかわかれているのかということは問題ではないのに、それにこだわります。保育の世界は、人の生き方であるとするならば、そんな形ではなく、どのような子どもの生き方を私たちは保証してかなければならないかということが問題なのです。
「大知閑閑、小知閒閒。」のあとに「大言炎炎、小言詹詹。」という言葉が続きます。偉大なことばは、あっさりとこだわりがなく淡泊ですが、つまらぬことばは、いたずらに口数が多く、くどくどとしつこく、煩わしいものであるということです。しかし、「炎炎」というのは淡々としているというほかに、内に情熱を秘めているという意味もあります。
熱い思いのある人の言葉は、かえって淡々とし、非常にシンプルであるからこそ人の心に訴えかけ、染み入るものです。私は、なるべく、そのような講演をしたいと思っています。
最近の保育界のニュースといえば、「幼保一元化」の論議の中で打ち出された「こども園」に「こども指針」の構想に、直接契約制度の導入だの民間参入だの「制度」の問題ばかりで、保育の中身に踏み込んだ話はあまり聞かれません。一年前の今頃は、保育指針の告示化と本格運用が現場で話題になっていたと思うのですが…。制度改革をめぐる専門家の会議録を読んでみても、木を見て森を見ない話で、大人の様々な思惑と利害の「ためにする議論」が多いような気がします。なにかすっきりしない。ほんとに、この国を動かす人は、藤森先生のおっしゃるように、どのような子どもの生き方を保障しようとしているのか。「こども」や「子育て」を政治の道具にしていないか。また機会があれば、心の襞にじんわり沁み渡るような藤森先生の講演をお聞きしてみたいものです。
熱い思いのある人の言葉は、かえって淡々とし、非常にシンプルであるからこそ人の心に訴えかけ、染み入るもの…
不肖出雲屋、未だ10年前の某保育メーカー主催代理店全国大会での基調講演で藤森先生のお話を拝聴したときの鳥肌が立つような感激を忘れていません。
保育者ではない業者ですから門外漢のはずですが、心に染み入りました。
シナイ山で神の神託を受けたモーゼみたいな感じです(笑)
以来、拝聴したご講演やお言葉は、わたくしの業者としてのモノサシとなりましたので、藤森先生はじめ諸先生方にお役に立つものかたたないものかが判断基準になりましたので、異色の業者と言われるようになりました。
ところで別の業界にも身を置いておりますが、基本となる行動教則がございまして、我々はこれを原則として派生する各種の教範というものに基づいて計画や行動をしますが、その基本8原則の一つにこういうものがございます。
簡明:戦いは、錯誤と混乱を伴うのが常識である。
このため、戦いにおいては、全て簡明を基調としなければならない。
明確な目標の確立は、簡明の基本である。
昔、これを習いましたときは、独特の言い回しで十分理解できず、教官も「覚えておけ」という式でしたが、今回のお教えは根拠までお示しいただきました。
感謝もうしあげます。
藤森先生の講演からは熱い思いが十分に伝わってきます。でも更に研ぎ澄まされたというか、シンプルなものを目指しておられるなら、もっともっと聞きたくなります。保育が生き方だというのは全く同感で、だからこそ言葉から学ぶ以上に人の生き方から学ぶことが重要だと思っています。いかに生きるかという問題に向き合ったとき、様々なヒントを提示してもらっていることに気づくことができ本当にありがたく思っています。ただ、それに気づくことと人に伝えることは別問題です。まだまだ自分の思いには余計なものがたくさんくっついていて、シンプルには遠いです。まだまだ経験や年月が必要です。
男性と女性では脳の作りが違うからこそ、それぞれの役割があるのですね。そして、その違いをお互いに理解し認め合うことが、男女間では大切だと思いますし、それ以前に人が生きる上で重要な事です。そして人が生きる道を言葉にするのは本当に難しい事だと思います。藤森先生はブログの中で保育とは人としての生き方と言われていますが、ブログを通して保育の話はもちろん、人としての生き方を、とても分かりやすく解説しブログを通して教えて下さいます。優れた知恵というか、物事の本質が見えているからこそ、分かりやすくて、シンプルな言葉で伝わるのだと感じました。
物事をシンプルに考える。それも発想のひとつですね。それは本質を見抜いているからシンプルに考えることができて、こだわらなければいけないところとそうでないところが見えてくるのだと思います。こどもたちがより良く育つためにはどうしたらいいか、そのために私たち保育者はどういった取り組みをしたらいいかをもっとシンプルに考えたほうが答えに近づくと思いました。「幼保一元化」や「子ども手当て」を見ていても目先のことしか見えてないようなイメージが私にはあります。利害や私欲を考えず、シンプルに考えることが子どもたちにとって一番いいようにこのブログを読んで感じました。
限界を認識している人の言葉は深いですね。荘子先生の言葉はそのことを如実に語っています。私たちは大小、長短、善悪の二元の世界を作り上げています。人間の1人として何故?と問いを発します。無論、答えは出ません。今回のブログで「シンプル」ということを強調されました。そして思い当たるのがやはり「易経I-Cing」です。変易、不易、そして簡易。どうやら二元対立の先にある一元とはこの「簡易」!人間の業の深さ、その熾烈さは今更言うに及びませんが、シンプルに考えれば、幼保や年齢別異年齢等等の議論はさほどエネルギーを割く問題ではないのに、既得権益、がかかると人は冷静さを失い業の深さ熾烈さを露出します。何とも哀れなことです。