荘子5

 赤ちゃんは、音のする方に顔を向けます。その視線の先の多くは、母親の声のする方です。それは、乳を与えてくれる存在を確かめるためでしょう。また、自分を見守っている存在がそばにあるという確信を持つためでもあるかもしれません。しかし、音がする方に顔を向けるようになる前から、赤ちゃんは音を聞いています。赤ちゃんの脳の構造は、妊娠36週ごろには大人とほぼ同じつくりになるのですが、その機能は、まだまだ未熟で、情報を上手に処理することはできません。その中で、感覚器官は、視覚を除けば、嗅覚、聴覚、味覚、皮膚感覚などは、大人並に発達しています。それらの感覚は、人として生きていくために、生き延びるために必要な機能だからだったからでしょう。
人は、昔、身近な母親の声のほかにいろいろな音を聞いたことでしょう。その中で一番耳に届く音は、さまざまな自然の音だったでしょう。風の音、風でそよぐ木の枝や葉、川の流れ、しずくの落ちる音、さまざまな音が自然界にはあります。また、恐ろしい音もあるでしょう。恐ろしい獣が近付く音、地震、雷、火事、嵐など様々な天災の音。それらの音は、さぞかし赤ちゃんを不安にさせたことでしょう。そんなときには、そばにいる母親の声親父親の声、みんなを守る大人たち仲間の声は気持ちを落ち着かせたに違いありません。また、人間が少し進化してくると、大人を含めて気持ちを和らげる音を自ら発することができるようになります。それは、人が叩く音、人が吹き鳴らす音、人がはじく音などです。
しかし、人の力ではどうしても防ぐことができない事柄にぶつかるとき、どうしたらよいかわからなくなったときに、聞こうとする「声」があります。それは、「天の声」です。しかし、その天の声は、何を通して私たちに伝えるのでしょうか。巫女などの占い師の言葉によって伝えられると思っていた時代もあったでしょう。しかし、人を介しての場合は、どうしてもその人の主観がどこまで入っているのかがわからないことがあります。天の声には、いろいろな雑念、思惑、善悪の判断すらも入ってきてはいけないのです。
笛の音のことを「籟」といいます。「人籟」というのは人が奏でる笛ということですが、息から吐き出されるものということで言えば「言葉」もそうでしょう。では、「地籟」とえば、大地が吐く息、つまり風が奏でる音です。では、天が吐き出す音、天の声である「天籟」とは何かということを、「荘子」斉物論の中で説明しています。
南郭子が弟子の子游に向かってこう言います。「女聞人籟而未聞地籟 女聞地籟而未聞 天籟夫」と。人の奏でる音、言葉は聞くことができます。また、地が奏でる音も聞くことができます。しかし、まだ、天の声、言葉は聞くことができないというのです。地籟にせよ、人籟にせよ、鳴るものは千差万別ですが、それぞれおのずからなる音を生じ、おのれの音色に鳴り響くのです。それは、何がそうさせているのでしょうか。また、同じように、人間は、さまざまな喜怒哀楽などの感情が生まれますが、それは、何がそれを生成させているのでしょうか。それは効果だけがあって、かたちをもっていません。しかし、喜怒哀楽、悲嘆や執着の気持ちをどうしても持ってしまいがちです。
実は、自然界の中にあるさまざまな音は、音(押しつけがましい主張)がありません。「無音の音」と言われる所以です。善悪の考えが何一つないのです。そこには、迷いがありません。それら自然の音は、実は天の音なのであると荘子は言います。狭い世界の中で、小さな自分の存在を中心に世界を見ていることが多いのです。西洋の考え方では、人間を中心にした自然であり、自分の生き方に都合のいいように自然を見て世界を造りだしてしまいがちでした。しかし、自然の中から自分を見たらどうなるのか、ということが天の声を聞くことに近づくのではないでしょうか。
そういう意味では、赤ちゃんは、母親の声の中に天の声を聞いているような気がします。