卓袱(しっぽく)

 長崎と中国とのつながりは慶長5年(1600年)に始まりました。しかし3代将軍徳川家光は鎖国令を出し、その後中国貿易船の入港が長崎だけに限られるようになりました。そこで、長崎に唐人屋敷が造られ、長崎市中に住んでいた中国人は現在の館内町の一区域に集まって住む事になりました。しかし、中国と付き合い始めたから唐人屋敷が作られるまでの80年間は、長崎市内で、さまざまな中国文化が日本文化と融合していきました、そのなかで、食に関するものは人間にとってとても興味があったことでしょう。彼らのご馳走・中国料理にお目にかかり、それが、その献立に茶碗蒸しがあった「長崎卓袱料理」がはじまったのです。
「卓袱」とは、「卓の覆い」ということで、テーブルかけのことを言います。そこから、朱塗りで、周囲に紅白の紗綾が垂れている中国風の食卓のことを言うようになり、そのテーブルに出される料理ということで、「卓袱料理」というようになりました。おもしろいのですが、一方、この「卓袱」のアクセントを「ちゃぶ」と言いますが、そこから日本では、折り畳みのできる短い脚のついた食卓のことを言うようになりました。それが「ちゃぶ台」で、漢字では「卓袱台」と書きます。それまでの「銘銘膳」などに象徴される日本食事形式に対比するものとして使われたようです。
長崎では、鎖国時代でも、さまざまな国と交易をし、文化を融合させた結果、オランダやポルトガル、中国の料理を巧みに取り入れ、和風にア レンジしたものを作り上げます。それが卓袱料理で、もともとは、家庭でのおもてなし料理として定着したもので、長崎地方の郷土料理の一つになっています。今では、料亭や割烹料理店で味わうことができます。その一つである寛永19年(1642)に誕生した「花月(引田屋)」で、少し前に卓袱料理を頂きました。
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朱塗りの円卓を数人で囲み、大皿に盛られたお料理を直箸で取り分けて食べます。初めに、そこの女将が挨拶に見えました。それは、この卓袱料理では、まず、女将の「御鰭(おひれ)をどうぞ」の言葉から始まるそうです。この料理の最初に出るのは、鯛の胸鰭が入っ た吸い物です。それを御鰭といいますが、これは「お客様お一人様に対して鯛一尾を使っておもてな しさせていただきます」という意味が込められているそうです。
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この花月は、江戸時代、長崎の丸山は江戸の吉原、京都の島原とともに天下の三大遊郭とうたわれ栄えた「丸山」にあります。ここは、江戸から幕末、明治と長崎を舞台に活躍した国際人の社交場でした。アジサイの名前にもなった「其扇」こと「楠本滝」は、当時の引田屋の遊女でした。彼女とドイツ人シーボルトのロマンスを実らせたのもここです。その建物は、昭和35年には長崎県の史跡に指定され、全国的にも珍しい「史跡料亭」として営業しています。
この花月には、国賓の晩餐会にも使われる「竜の間」がありますが、今回は、タイル貼りの床に和風の天井、中国の様式を取り入れた窓を使った「春雨の間」で食事を頂きました。
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この部屋は、日本で最初の洋間だそうです。しかし、長崎ならではの和洋折衷の部屋です。また、ここの庭園は、長崎三大庭園の一つに数えられています。800坪の広さがあり、元禄時代の作庭といわれています。丸山という地は、その名の通り、丸い地形です。個々の庭園は、その地形を生かし、建物の中の各部屋から、立体的に庭を眺めることができます。
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さまざまな食からも歴史を感じることができます。