荘子3

 人は、他人と違いを感じ、他人を自分に合わせようとすることによっていさかいが起きます。その違いは、見方を変えれば、また、相手の立場になればわかるのですが、相対的なものであることが多く、本質をよく見つめると、それは同じであることに気がつくことがあります。その本質を見るためには、自分が広くなければなりません。以前、ブログで書いた気がしますが、園の職員が、「子どもが部屋から出て行ってしまうのですが、どうしたらいいですか?」と相談に来た時、私は、「その子が出ていく先まで部屋の中にしたら、出ないことになるのではないの?」と答えました。人は、どこまで許すのかという許容範囲を決めています。その決めている範囲とは、本当に子どもにとっての行動に必要な広さなのでしょうか。大人にとっての範囲であることのほうが多いのではないでしょうか。子どもの行動をよく理解し、その必要な広さをもっていたら、子どもをしからないで済むと思うのですが。それは、実際の広さだけでなく、心の広さにも言えることではないでしょうか。
 荘子の「逍遥遊篇」に、こんな文章があります。「且夫水之積也不厚、則其負大舟也無力、覆杯水於幼†堂之上、則芥爲之舟、置杯焉則膠、水淺而舟大也、風之積也不厚、則其負大翼也無力、故九万里則風斯在下矣、而後乃今培風、背負?天而莫之夭閼者、而後乃今將圖南、」ここでは、二つの例を出しています。その一つは、「そもそも水のたまりかたが十分深くなければ、そこに大きな舟を浮かべるのには堪えられません。杯の水をくぼみがある床の上にこぼすと、せいぜいほこりやちりならそのたまり水の舟になりますが、大きな舟を浮かべることはできません。もし、広く深い海であれば、大きい舟であっても浮かべることができるのです。これと同じで、人間も、心を広く深くすれば、大きな思いをもつことができ、思わぬ想像力が浮かんでくるものです。
もうひとつは、「風の積むや厚からざれば、則ち其の大翼を負するや力なし。」と言っています。風の集まりがじゅうぶん多くなければ、そこに鵬(創造上の大きな鳥)の大きな翼をのせるのには堪えられません。そこで九万里もの高さに上ってこそ翼の下にじゅうぶんな風が集まります。そうすると、そのうえではじめて、今こそ大鵬は風に乗り青々とした大空を背負って何物にもさえぎられず、そのうえではじめて、南の海を目ざすことができるのです。人も、志が大きければ大きいほど、その下に十分に風を積むことが必要です。そして、目標に向かうためには、努力が報われるためには、忍耐強く、翼の下に風を積むことです。大空へ舞い上がる志が大きければ大きいほど、 それだけたくさんの地道な努力が必要なのだということです。
そうはいっても、多くの苦悩や悩みがあるものです。しかし、荘子の「逍遥遊」にあるこんな言葉を聞くとホッとします。「「楚 之 南 有 冥 靈 者 以 五 百 歳 為 春 五 百 歳 為 秋 上 古 有 大 椿 者 以 八 千 歳 為 春 八 千 歳 為 秋 而 彭 祖 乃 今 以 久 特 聞 衆 人 匹 之 不 亦 悲 乎!」楚の南に荘子が想像して造った「木冥霊」という木があります。その木は、五百歳を持って春となし、五百歳を持って秋となします。ということはこの木の1年は二千年なので、この木が100年生きたとしたら、20万年生きることになります。また、上古の時代には大椿という木は、なんと八千年を春とし、八千年を秋としていました。そんな大きな時の流れを考えたら、人間の悩みはほんの小さなことになります。大きな気持ちになると 苦悩は解消するのです。