荘子2

荘子の言う「あれ」が、見方を変えれば「これ」になるように、この「あれこれ」の相対性は、天地間のあらゆる価値判断についてもいえるようです。それは、一見対立関係に見えるものが身の回りには多くあります。しかし、たとえば、上下、左右はもとより、生死、可否、是非の対立も、じつは互いに相い因り、相まって成立する相即的な概念であり、私たちの捉え方の問題です。生死の問題も、万物は生じては滅び、滅びては生ずるという「方生方死」「方死方生」の変化の流れのみが絶対なのです。最近、幼稚園と保育園の一体化などが議論されることがありますが、この間にある違いは、文化の違いと言われることが多いのですが、そうではなく、人間の偏見的分別にすぎないのです。その立場の違いが論じられるだけで、実は、人は生まれて大人になっていくという過程は、美香氏からの真理なので、それをどのように援助し、成長していく環境をどのようによいするかという大人の役目は、変わらないものなのです。
荘子の第二「斎物論篇に、「天地一指也、萬物一馬也」という言葉があります。一本の指も天地であり、一頭の馬も万物であるということですが、また、よくわからない言い方をしますね。老子の無為自然という、すべての存在をあるがままに肯定する境地を求めた荘子は、この世に存在するものは、個々の違いを越えて斉一なものであると考えます。すべての対立を超えた絶対的な観点からみれば、天も地も一本の指と同じものであるということです。
自分の手を見ると、指があります。それは、私の指です。目の前の他人にも指があります。それは、人の指です。その指の違いは何なのでしょう。確かに、その形は微妙に違います。指紋も違うでしょう。では、その違いは、その指の機能に何か影響があるでしょうか。指でものをつまもうとするときに、その指の機能は、人によって違うのでしょうか。その指自体の存在をよく見つめたとき、それはみんな同じになります。それが、私たちの認識は万物の実相に近付いたと言えます。そしてあるがままとして受け入れたとき、「道」と一体になるのです。
荘子は、みんなが違うというものに対して、立場を超えたときにはみんな同じに見えるということは、ほかにも何か所でも語っています。
「徳充符」では、「其の異なれる者より之を見れば、肝胆も楚越なり。其の同じき者より之を見れば、万物皆一なり」ということで、それが違っているという立場からすれば、肝と胆の間も楚と越ほどの隔たりがあります。しかし、それらは同じであるという立場からすれば、万物はことごとく一つであるのです。「斉物論」には、「達者のみ、通じて一たるを知る」とあります。ただ道の達人だけが、すべてが通じて一つであることを知るのです。道は、すべてはローマに通じるではありませんが、すべての道はいつか1本になります。自然界は、その道のもとですべてが共生しています。それは、お互いがお互いを必要とし、すべてが一体となります。決して、それは誰のものであるかとか、他人と自分を分ける必要はなくなるのです。すべてが一つであることを悟るのは道を知ったものであるのでしょう。
お互いが違うと言って差別するのは、その現象面だけしか見ず、本質を知ろうとしない人なのです。「天地も我と並び生じ、而して万物も我と一たり」なのです。