私の高校の同窓会の名前は「如蘭会」と言いますが、この由来は「易経」の「繋辞伝上」にある「二人同心、其利断金、同心之言、其臭如蘭。」から採られています。

「二人が心を一つに合わせ、協力すれば、堅い鋼鉄も断ち切るほどの力を発揮し、心を合わせて一致団結しているその言葉は、蘭の花の香りのように周りの人々へ影響を与えるものである」という、心と志を一つにした人々の集まりの力の強さを表現しています。集団のもつ力は、個人の力の何倍もの力を発揮し、周りに影響を及ぼすのですが、その影響力を蘭の花の香りにたとえているのが面白いですね。
同じような名で「如水会」という、一橋大学の後援等を目的とした文部科学省所管の社団法人があります。この名前は、渋沢栄一が命名したと言われていますが、「荘子」の一節「君子交淡如水」から採られています。君子の交わりは、淡きこと水の如しということですが、ここでも老子の理想的な生き方の「水」が付き合いでも理想のように荘子に引き継がれています。水のような付き合いとはどういう付き合いなのでしょうか。老子が言う、水は相手の器に合わせ、自らは決して主張をせず、指示せず、争いもしません。老子は、「上善如水」と言った後に、次のような言葉を続けて、水のように生きるということは、そのような心でいることなのか、そのような心をもつと、どのような行いをするようになるのかを述べています。
「居善地 心善淵 與善仁 言善信 正善治 事善能 動善時 夫唯不爭 故無尤」
水は、生きるものにとってはとても大切なものです。水は、万物に恩恵を与えています。同じように、その人がいるところは、水が地を潤す様に、自然の姿のままで、報酬も求めず、相手にも寄らず、人々を善化していきます。その時のその人の心は、淵のような深さや永遠性をもち、澄み切っています。そして、無償の愛をもって人に対して寛容であり、慈しみの心である仁の心で人々に接していきます。その人の言葉には、嘘や偽りがなく、常に信用のおける真実の人なのです。人を治めようとする場合には、私心があってはならず、人と争ったり、反目をしません。そして、いったん事を成そうとしたときには、その為に能力を活かして働きます。そのために、普段からその道の実力を養っておき、その力を普段は隠しておきます。また、動く時にはその機を知り、時を逸することがありません。そのような生き方をすれば、人は争う想いが無くなり、真に平和の心になれば、全ての善き行為がその心から生まれ出でて、間違いがなくなります。
荘子の言葉の「君子交淡如水」に対して、「小人交甘如醴」という言葉が続いています。君子の交わりとは、水のようにある意味で淡泊な交際であるといいます。それに対して小人の交わりは甘きこと醴の陽だと言います。「醴」とは甘酒のことで、甘くてベタベタしていることを表しています。君子の交わり方で淡泊がいいというと、なんだか冷たい感じがします。しかし、淡いというのは、過干渉せず、相手を受容し、つかず離れずの関係で、ただベタベタしないということです。べたべたするというのは、決して相手のことを思ってのことではなく、自分の欲求を相手に求めるということのような気がします。この関係は、友達だけでなく、職場の仲間、親子の関係にも言えることで、相手を尊重し、相手を信じるからこそ、淡き心を持つことができるのだと思います。
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老子の言葉
老荘思想と言うと、論語などと比べて一見難しそうに思えますし、あまりなじみがないように思えます。しかし、その言葉は、私たちは日常よく使うことが多いような気がします。そこから入ると、老子の言いたいことがよくわかります。
私の知り合いに、和菓子屋さんがいました。その和菓子屋さんの看板に「和光同塵」と書かれてありました。この言葉は四字熟語に使われていますが、出典は「老子」の4章の「和其光、同其塵」です。この言葉の「和光」とは、光を和らげるということです。光とは、自分の才能や徳、才知など輝いているところで、それを和らぐということは、その部分を隠して、そして、塵とは俗世間とか世俗という意味で、その中に交じってつつしみ深く、目立たないように暮らすことをいいます。それは、決して自分を隠してということではなく、いつも謙虚な深き心で、物事に取り組み、精進していくということだと思います。そして、他の人に共感し、常に学ぶ姿勢をもっているということでしょう。私は、よく職員から「先生は、遠山の金さんみたいですね」とか「水戸黄門みたいですね」と言われることがあります。それは、普段は庶民の中に同化して生活していて、いざとなると桜ふぶきの刺青を出すとか、印篭を出すからだそうです。私は「光」をもっているかどうかわかりませんが、「和光同塵の姿」であることを言ってくれている気がします。
この言葉は、仏教にもあります。仏教では、仏や菩薩が仏教の教化を受け入れることのできない人を救うために、本来の姿を隠し変えて、仮の姿をとって、人間界に現れることをいいます。救う相手と同じになる事で、相手に共感し、安心感を与えることによって、相手を道へ導くというわけです。「和光同塵の深き心」が仏を自在に変化させ、相手の立場になってものを考えることができ、そうすることによって相手に影響を与えることができるのです。保育の中で、情緒の安定は、「共感する」こと、子どもの立場になって考えることによってもたらされることと同じことなのでしょう。
その気持ちは、老子8章にある「上善如水。水善利萬物、而不争。」という言葉で表されています。「上善如水」という日本酒がありますが、この名前は、老子のこの言葉からとったもので、その思想に合わせて、澄みきった水の如き日本酒という意味だそうです。 老子は、水のように生きることが最も理想的な生き方であるとしています。水は万物に恩恵を与えるだけでなく、相手に逆らうことなく、相手の器に合わせて自在に形を変えます。この水のように、相手により態度を変える柔軟性は、私たちの職場でのモットーであり、子ども相手の保育者は、子どもに対して水のように常に柔軟性を心がけなければならないとおもっています。また、水は、人が嫌がるような低い所に流れていっても、淵のように謙虚な気持ちで、静かで深い心を持っています。水のように我と欲を捨て、相手の不愉快な言動にも腹を立てず、相手に対抗して意味のない競争をしたりもしません。常に、水のような静かで穏やかな心持ちでいることが理想な生き方なのです。「水は善く万物を利して争わず。」です。
日本の庭でのポイントは、光をどのように演出し、水をどのように配置するかです。強烈な光を和らげ、塵の溜りにも心を配り、水は、庭全体の気持ちに寄り添うように流れを作ります。日本庭園は、老子の思想を表しているのかもしれません。
老子
日本人の考え方にずいぶんと影響を与えた書物に、寺子屋や藩校で教科書として使われていた四書五経がありますが、その中の、論語、大学、中庸、易経を簡単に素人としての見方で解説してみました。しかし、これらは、どうしても道徳的な戒めが多く、どの人も君子にならなければと固く考えてしまいます。中国の人々も、儒教が国教となってから、やはりそういう思いをしたようで、そんなとき、老荘を思い出して、少し肩の力を抜いたようです。老荘思想とは、やはり中国で生まれた思想で、道家の大家である老子と荘子を合わせてこう呼んでいます。そうは言っても、この老荘思想を読めば力が抜けるほど、私はレベルが高くなく、それどころか、その思想からも学ぶことが多くあります。
日本人に影響を与えた思想として、儒教、仏教、道教が三大思想といわれています。その思想家の代表が孔子、釈迦、そして、老子で、三人は、ほぼ時を同じくして在命していたと言われています。しかし、この中で老子は、謎が多く、その人生も伝説的なことで包まれ、その書物や思想でさえ、彼のものではないかといわれているほどです。彼の表した書物の代表的なものであり、道教の開創の書として後世に伝わる「老子道徳経」の成立についてもこんなことが言い伝えられています。「紀元前600年頃の周の時代に、周の西方国境である函谷関で関所の役人を勤める尹喜は、ある日、青い牛にまたがってやって来る一人の老人と出会います。その老人にただならぬ徳の高さを感じ取った尹喜は思わず老人の前に跪き「おそらくあなた様は隠遁されるのであろうとお見受けします。その前にどうか私のために道について何か書き残していただけないでしょうか」懇願しました。彼のあまりの熱心さに、その老人はしばらく関所にとどまり、道と徳の意味を述べた書物を著したのち立ち去り、その後の消息はようとして知れないと言われています。」この書物は、さすが関所で短い間に書かれただけあって、五千余字からなる短い書物です。その中は、上篇の「道経」と下篇の「徳経」の二篇により出来ています。
その第1章は、「道の道とすべきは常の道に非ず。」とあります。老子の思想は、「道」について考えることが中心なので、道教と呼ばれますが、この道を中国語では「タオ」と言い、老荘思想のことを「タイオズム」とも呼ばれています。「道」について考えようという思想の第1章で、構えていた力が抜けていきます。「道というものは、定義できない」というのです。それは、他のあらゆる定義というのは言葉によってなされるものですが、道という概念は言葉に先立つものだからといいます。ただ、このときの「道」は、道そのものではありませんし、○○道というようなものでもありません。もっともっと奥深いものなのでしょう。しかし、そんな道であっても、言葉で表したり、普通の人が思うような「永遠不変」のようなものではないのです。人は、自然との共生の中で生きています。人は自然に育てられ、人は自然を生かし、自然と生活してきました。そんな自然とともに生きていくことこそ、自然なことなのです。名誉を求めたり、地位を欲したりするような生き方の中には幸せはないのです。老子にとって、立身出世とか名誉のために汗水流して努力するなど全く無意味なことで、自然と一緒に、自然のように生きることを目指したのです。それは、人間の生命は自然が作り、自然が育ててくれているからです。
老子は、世界の常識、世界の価値観を飛び越えて、のびのびと、自由に明るく、心豊かに生きていくことを提案しているのです。
一陰一陽2
先日訪れた温泉津温泉は、島根県にありますが、この地方を中国地方の中で山陰地方と言います。それに対して、瀬戸内海側を山陽地方と言います。この分け方は、易経の「陰」と「陽」の考え方を用いたのでしょう。それは、日が昇る方を「陽」、日が沈む側を「陰」としたのです。物事を、陰陽に分けてそのバランスをとっていくということは一見理解しやすい概念です。それは、いろいろな所に使えます。たとえば、「陰に偏ったり、陽に偏ったりすることから病気が生まれる」というようにですが、実際にそれがどういうことであり、どのようにしていけばということをすればいいかというと、たとえば「かたよった食事をしない」「デスクワークだけでなく、戸外運動もたまにはする」と分かりやすくなります。ただ、それは中庸がいいとか、バランスが大切というと簡単ですが、儒教の中で「中庸」が特に大切であると孔子が言ったように、実はなかなか難しいことです。
「一陰一陽之を道と謂う」というように、陰陽の世界は、天地の生命力の大作用なのです。陽が盛んに活動している時は陰が潜み、逆に陰が盛んに活動している時は陽が潜みます。このバランスの中では、どちらがいいということではありません。善悪で判断すべきものではないのです。「仁者はこれを見てこれを仁と謂い、智者はこれを見てこれを知と言い」というように、一陰一陽の道を、憐れ深い人は、これは仁愛の道であるといい、知識ある人は、これを知恵の道であるというのです。学者など研究者は、どちらかに偏ってしまったり、自分の分野からだけからものを見たり、考えたりしてしまいます。実は、仁は人を愛し憐れみ恵む陽の徳、知は物事の道理を究め知る陰の徳であり、そのバランスが道なのです。また、「百姓は日に用いて知らず」というように、一般大衆は、この道理を日々の生活の中で実践し、無意識に感じているのですが、それがどんな法則の中で行われているのかを知りません。ですから、「故に君子の道は鮮(すくな)し。」というように、この陰陽をきちんと理解し、それを実生活に生かすことができる人は少ないのです。
私たちの人生は、一陰一陽の作用の中で営まれています。その中で、おおむね、「陰」と「陽」の分け方は、「陽」は非常に行動的で、能動的であるのに対して、「陰」は、受容的、内省的な性格を持っているとします。その考え方で行くと、男は「陽」で、女は「陰」、母親は「陽」で、息子は「陰」となり、母親は女性という立場からすると「陰」ですが、子どもに対しては「陽」という立場になると解説しています。しかし、私は、最近の考え方では、子どもは「陽」であると思っています。子どもは非常に活動的な生き物ですし、能動的な生き物です。その行動を受容するのが大人でしょう。母子関係は別として、少なくとも保育における保育者と子どもの関係では、保育者はあくまでも「陰」であるべきだと思っています。それは、非常に「陽」である子どもとのバランスです。子どもは、自らの中に「陰」を持つことを学んでいません。何でも知りたがり、なんでもやりたがるのです。また、逆に保育者が「陰」が強くなければ、子どもの探究心を引き出せないと思います。保育者はあくまでも子どもを信じ、慈愛をもって受容する精神が必要です。その保育者の心得が「MIMAMORU」だと思います。
一陰一陽1
そろそろ「易経」についてはひと先ずおしまいにしたいと思います。人生において、これほどまでに易経が私たちの心の中に影響をしているとは、意識をしませんでした。まだまだ理解するには入口ですが、あまりそればかりではかえって話題が狭くなってしまうので、折に触れてまた見直そうと思っています。
最後に、易経に関しての中心課題である「陰陽」について考えてみました。
易経の本文の解説として「十翼」がありますが、この中に「繋辞上伝」と「繋辞下伝」があります。この伝は、易経の概論を哲学として高め、解説したものです。この中に、易経が単なる占いから哲学としての書である証明に「形而上者謂之道、形而下者謂之 器」(形より上なるもの、これを道といい、形より下なるもの、これを器という)という文があります。形として目に見えるものの以前のもの、それを「道」と言っています。ここで言う「道」とは、人としての生き方、すなわち「時」を知ること、変化を知ることという「兆し」であり「幾」であるのです。それが、「陰」と「陽」の世界なのです。「一陰一陽これを道と謂う。」という文言になるのです。そして、形になって、目に見えるようになったものが「器」です。これは、形だけでなく、行動や言葉での表現も含みます。私たちは、このような「器」を通して、「道」を学んでいくのです。これが易経なのです。
哲学の世界で、アリストテレスに代表される、現象を「超越」してその背後にある本質や根本的な世界、存在を純粋な思考や理性、あるいは直観によって探求・研究する学問をメタフォジックスと言いますが、これは、「形より(而)上のものを考える学問」ということで、易経のこの部分をとって「形而上学」と訳されています。易経の中で、それについて書かれているのが「繋辞伝」(けいじでん)なのです。
「一陰一陽これを道と謂う。 これを継ぐ者は善なり、これを成す者は性なり。仁者はこれを見てこれを仁と謂い、知者はこれを見てこれを知と謂い、百姓は日に用いて知らず。故に君子の道は鮮し。」
世の中が一定ではなく、変化していきます。また、世の中のものは同じものでも見方によってはその価値は変化します。その変化は、決まって起こるような春夏秋冬のようなものがあります。それは、それぞれの季節に役目があるからで、陰と陽の役目を行うのです。春夏は盛んに伸びていく陽ですが、秋と冬は蔵に納める陰です。それが呼応しあって、お互いが生かしあって、植物が子孫を後世に残していくのです。人生においても、陰と陽は繰り返し現れます。勢いが盛んで、前進しているときはようで、何事にもうまくいかず、挫折する時には陰です。しかし、これはどちらも、人生においては必要なことであり、両方とも持つことで次に変化が生まれるのです。陰陽は入れ替わり変化します。陰と陽は循環しながら助け合い、補い合いながら新しいものに変化し成長発展していくのです。
人は、陰陽の微妙な変化を察知して対応していかなければなりません。孔子が易を深く学んだと言われているのには、この理由からです。人間が正しく自己の運命の道すなわち天命を歩んでいくには陰陽の道の微妙なところを察知することだからです。
私が、このブログを書きながら学んでいくのは陰で、その学んだものを社会に還元し、学んだことをもとにして社会に貢献していくのは陽です。どちらも必要なことです。
温泉町
温泉についてのブログが久しぶりだと聞くと、また書きたくなります。後ろから読んでも~ではありませんが、地元の人や温泉好きには簡単でしょうが、私は最初「温泉津温泉」とは何て読むのかと思ってしまいました。「温泉の中の温泉」とか「海の入り江を挟んだ温泉」というような温泉だと思っていました。しかし、この温泉は、発見されてから1300年の歴史を持っていると言われているように古くからとても有名な温泉です。その発見のきっかけは、旅の僧が、湯に浸かって傷を治している狸を見つけたとか、大国主命が病気のウサギをお湯に入れて救ったことから始まったともいわれています。この大国主命のいわれを聞くと「いなばの白ウサギ」を思い出しますが、この温泉は、その話が伝わる因幡の近くの島根県にあります。
ここは、湯治場として評判の由緒ある温泉です。宿がいくつかありますが、外湯は「元湯泉薬湯」と「薬師湯」の2箇所あり、両方とも源泉に一切手を加えない、生の温泉が浴槽に入っています。

二つのうち、薬師湯は、2005年9月付けで、日本温泉協会の新基準による審査結果、全項目「オール5」の天然温泉として認定されました。この認定は全国に僅かしかなく、山陰地方ではここだけです。今日、この薬師湯に入りました。この湯につかるのは2度目です。その建物は、大正初期に建てられたレトロ調の洋風木造建築物で、建築学的にも貴重な建物と言われ、温泉津に現存する温泉施設としては最古のものです。屋根から突き出した湯気だし塔や装飾棟を始め、ステンドグラスや軒下のアーチの細工などがとてもレトロな雰囲気と、モダンさを出しています。また、その湯は、明治5年(1872年)の浜田大地震の時に地殻変動で大量に噴出した温泉なので、『震湯』とも呼ばれており、源泉湯は約46度です。
この温泉津温泉は、その温泉が有名というだけではありません。温泉津港から山側に伸びる古風な温泉街は2004年(平成16年)7月、温泉街としては初めて国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されています。学校で習いますが、町の形成には、城下町、宿場町、門前町、寺内町、港町、農漁村などの周囲の環境と一体をなして歴史的風致を形成していった町が残されています。ここ温泉津は、温泉で有名ですが、最初は、中世から近代に隆盛を誇った石見銀の輸出港でもあったために港町として選定されました。その後、温泉町という項目も設けられたために、10軒近くの木造旅館が軒を並べる街並みとして、日本で初めて「町並み保存」に登録された「旅館街」なのです。

また、温泉津町は、世界遺産 石見銀山の遺産区域、「沖泊り港」が残る町です。沖泊り港の歴史は古く、石見銀が見つかる以前、室町から、風待ち港として、栄えていたそうで、その入り江は風が強い日でもとても静かです。この港には、船をつなぐのに使っていた鼻ぐり岩や、室町の作とされている海の神様を祭った恵比寿神社などが残っています。その後、石見銀が見つかってからは初期の銀積出港として、この港をつかっていたそうで、そのころ、使われていた銀の運搬道が今も「銀山街道」として温泉津町には残っています。当時、江戸の人口が100万人だったころ、石見天領の周辺には、10万~15万人もの人が住んでいたとされています。当然その、物資の調達には船が使用され、温泉津港には大きな廻船問屋が軒を連ね、当時の文献には、出雲阿国も公演をしたと記録が残っています。

今回、温泉津温泉街の中で宿泊した旅館は、明治43年の創業100年弱の、木造三階建てでした。建物のいたるところに残っている、明治時代の面影に囲まれ、当時の繁栄振りを思い起こしていました。
謙
カメラメーカーに「ミノルタ」という社名の会社があります。この名前の語源は、「実る田」だそうです。農耕民族ならではの命名のいわれですが、もうひとつ、この言葉から戒めが感じられます。それは、「実るほど頭(こうべ)を垂れる稲穂かな(実るほど頭(あたま)の下がる稲穂かな)」という言葉が思い起こせるからです。稲穂は実るほど頭を垂れてきます。それと同じで、人も歳を重ね、人格が高まり、実っていくほど、人々への感謝の念が大きくなり、相手に対して態度が謙虚であるという意味です。
易経では、謙虚、謙譲、謙遜の精神を最高の徳とします。易経の六十四卦の第十五卦は「地山謙(ちざんけん)」と呼ばれているものです。この卦は、上は地、下は山の卦でできています。本来は、山は高くそびえ立つものですが、この卦では地の下に山があります。これは、天から与えられた、大いなる才能を持ちながら、人の下にいる形を表しており、すなわち、謙の徳を象徴しているのです。このときの「謙」は、人として、自らの足りないということを知り、自省するという意味で、いくら偉くなっても、実績が認められても、決しておごらず、まだ自分としては未熟であり、足りないという心を持ちつづけることです。
「地中に山あるは謙なり」という言葉があります。このときの「謙」は、へりくだるという意味だけでなく、「快い」という意味もあります。高い山が自分は高くないと思って、地の下に行くように、快くへりくだるのは真の謙虚さなのです。たとえば、物事を学べば学ぶほど自分の学びが足りないと思い知らされます。いろいろなことを知るにつけて、なにも知らないことを思い知らされます。ですから、恥ずかしくて自慢などできなくなり、それどころか、もっと勉強しようという気持ちになるものです。「地山謙」は、そのようにへりくだる精神の大切さを説いている卦なのです。
「人道悪盈而好謙」(人道は盈(えい)を悪(にく)みて謙を好む)という言葉が易経にあります。「盈」は満ち足りた状態でるとか、昇りつめた状態であるということから、驕慢とか、傲慢という意味です。人の道は、低くへりくだるものこそが、最も高みに至ると言っています。人は、たとえ成功者であっても、偉い人であっても、もし高慢であれば嫌い、逆に謙虚な人に対しては、惹かれて手を貸したいと思うものです。そして、いくら身分が低かろうと、謙虚に生きる人を誰もさげすみはしないのです。ですから、謙虚な態度を終りまで貫いて崩さないのが君子であり、「謙」の徳は、終わりを飾るものであるのです。
「謙は亨る。君子は終りあり。」という言葉があります。これは、「たくさんのものを持つ者は、それ以上欲張ってはいけない」ということで、謙遜でなければならないということを教えています。そして、謙遜な人は、尊い地位にいるとしたら、その徳ますます輝き、もし、低い地位にいたとしても、その人格の高さ故に、その上に出る人はいないのです。これが卦辞に、「君子終りあり」というゆえんなのです。
私は、常に学ぶ姿勢を持つことで、謙虚な姿勢を持てるのだと思います。学ぶ姿勢を持つということは、まだまだ自分は学ぶことがたくさんあると感じる心だと思います。それは、きちんと自己評価ができる人なのでしょう。
湯の花
先日、鹿児島に行ったときにお土産に「湯の花」を頂きました。その注意書きにこう書かれてあります。「ぬくもりがちがいます!浴槽、風呂釜を傷めません。」

この注意書きは、まず、ぬくもりが違うということは、その湯の花を採取した温泉と同じ効用があるということです。私が頂いた湯の花は、霧島温泉ものですので、霧島温泉と同じ効用ということでしょう。もともと湯の花とは、高温で湧出した源泉が大気温や浴槽との温度差によって冷却されて、源泉中の温泉成分や混在していた物質の沈殿が発生したもので、それが粒子状になって浴槽の底に沈んだり、糸状になって浴槽内を漂ったり、浴槽の壁面や湯口に付着しています。ですから、なんだか汚れのような、ごみのように思う人がいるので、「ぬめりや浮いているものは汚れではなく、湯の花によるものです」などという注意書きが掲示されていることがよくあります。
この湯の花は、湯花、湯の華、湯華など、他の字をあてていることもあります。そして、それらを集めたて乾燥させたものを入浴剤として販売しており、それを自宅のお風呂に溶かして入浴すれば、温泉と同様の効用が得られるというわけです。この「湯の花」の摂取方法には、それが天然であるがゆえにとても歴史があります。まず、その採取には主に二通りの方法があります。一つは源泉の地熱地帯に藁ぶき小屋を建て、小屋の中に青粘土を敷き詰め、粘土から析出し結晶化した湯の花を収穫する方法です。この方法は、大分県別府市の明礬温泉で江戸時代から行われ、明礬は火薬の原料にもなるために、1730年(享保15年)からは幕府の専売品として独占的におこなわれていたようです。そして、ここでの湯の花製造技術は2006年、国の重要無形民俗文化財に指定されています。
もう一つは、草津温泉の湯畑のように木製の樋に源泉を通し、湯の花を析出させるほうほうです。草津温泉の湯の花は、硫黄分を生かし、古くはハチの巣の下で燃やして蜂の巣・蜂の子採りに使われたり、モグラの穴にかけてモグラよけ、林業の毒虫よけなど忌避物質として利用されたそうです。他にも火薬や電柱の碍子の中身、ガラス研磨といった無機的な利用や、かんぴょうの漂白、漬物の味調整、治療薬などとしての利用法があったようで、意外といろいろな所に利用されていたのですね。
いただいた湯の花の注意書きにもう一つ「風呂釜を傷めない」とありますが、単体の硫黄や金属の硫化物を含む湯の花は風呂釜を傷めることがあるからです。しかし、炭酸カルシウムや硫酸ナトリウム、硫酸カルシウムなどを主成分とする湯の花は、腐食性は低いようです。霧島温泉の成分には硫黄や硫化物は入っていませんので、風呂釜を傷めないだけでなく、説明書によると、かえって浴槽内の汚れをとったり、汚れが付着しないので掃除が楽であり、残り湯は洗濯にも使えると書かれてあります。その分、効用としては、ミネラル効果として体が温まるようです。
いま、いろいろな入浴剤が発売されていますが、よくブログで紹介する「○○湯」といわれる天然素材を使って季節感を味わったり、湯の花を入れて温泉気分を味わったりするのもいいですね。
学問
学問とは何なのでしょうか。私は、「見て、真似をし、人になぜかと問う探究心を持つこと」であると思っています。「問」とは、もともとは学習するための問答ではなく、占いを神に問うたことから出ている宗教儀式だったようです。しかし、今の学習の基礎である探究心を表す言葉が「問」であると私は思います。ということは、学問は生まれながらにして始められていることであり、逆に乳幼児期こそ、その基礎を作るのにとても大切な時期であると言えますし、その気持ちをいつまで持ち続けられるかが、一生学問を続けられるかということになるような気がしています。
もともと学問という言葉の出典は、易経の「文言伝」の中の「学もってこれを聚め、問もってこれを辯ち、寛もってこれに居り、仁もってこれを行う」という部分から出ています。竹村亞希子さんによると、「学問とは、学び、書物や師に問い、自問し、為すべきことを弁別すること。そして、学んだことを会得したら、「こうでなくてはいけない」と狭量にならず、人にも自分にも物事にも、寛容な心で思いやりをもって実行することが肝要である。」 と言っています。
この文言は、易経では「潜龍」が、学問することによって、「見龍」の段階になるとしています。また、学問とは何かを、福沢諭吉は「学問のすすめ」の中で解説をしています。これは、以前やはりブログの中で紹介しました。そこでは、やはり、「学問とは,唯むずかしき字を知り,解し難き古文を読み,和歌を楽み,詩を作るなど,世上に実のなき文学を云うにあらず。」とあります。易経の中で、「書物や師に問い、自問し」とあるように、覚えることに意味あることではないのです。たとえば、文字を覚えるのは、それが目的ではなく、覚えることによって、いろいろなことを知り、それゆえにいろいろな疑問がわいてきます。それを書物や師に聞くことが学問なのです。文字を覚えることは、目的ではなく、学問をするうえでの道具なのです。自ら働きかけることから学問が始まるのです。
これは、当たり前のことのように思えますが、最近の幼児からの英語熱の過熱ぶりを見ると、りんごをアップルだということを覚えることが目的だと思っている保護者が多いように思えます。「学問のすすめ」には、「古来漢学者に世帯持の上手なる者も少く,和歌をよくして商売に巧者なる町人も稀なり。」と書かれてあるように、覚えること、研究すること自体が学問ではないのです。今でも、「経済学者に会社を経営させると会社は傾いてしまう」と言われているのと同じですね。諭吉がすすめている学問も、そうではないことを記しています。
目的と手段の混同が他の分野でも見られることがあります。教育の目的でも同じようなことに出会うことがあります。少し前に、教育者の方に「乳児保育の目的は何ですか?」と聞いたところ、「親子の愛着形成です。」と答えました。わたしは、その答えはおかしいと思いました。愛着形成が目的ではなく、愛着形成をもとに、子どもが、さまざまなことに好奇心を持ち、自ら環境に働きかけることが重要なのです。愛着形成による情緒の安定は、目的ではなく、必要条件なのです。
知識を覚える教育から、知識を求める心を乳幼児教育で養い、その心に8歳以後に知識を注ぎ込むことによって、より高い探究心が生まれることが学問だと思います。
教思
儒教は、ある意味では「リーダーシップ論」であり、上に立つ者の心得が書かれてあります。それは、易経も例外ではありません。しかし、このリーダーとは、なにも会社や職場で地位のあるものというだけではないと思います。人として成熟していくうえでの心得であり、人としての生き方の指標でもあるのです。その教えを易経の中から拾い出してみました。
以前のブログで紹介したように、リーダーたるものは、「陰」と「陽」をわきまえることが必要です。たとえば、強くて前に進む性質は「陽」です。それに対して、自らを律し、感情をコントロールする力は「陰」です。もし、陽の力だけが勝ってしまえば、独善的になり、自分の力を誇示するようになってしまいます。そのために、陽の状態の時に、自らの中に陰の力を生じさせる力がなければリーダーにならないのです。その時生じた陰の力とは、受容、共感、柔和、傾聴という態度を生み、人の意見に耳を傾ける謙虚さを生みます。いくら能力に優れたリーダーであっても、自らの中に同時に陰を生み出し、陽の力をコントロールする力がなければ、後継者を育てることはできず、周りの人は次第に去っていってしまうのです。
よく「器量」ということが言われます。大将としての器量があるなどと使いますが、その時の器量は「陽」です。その立場にふさわしい行動をとることができ、実力があります。しかし、「陰」の部分が必要になります。それが「度量」です。人の意見に真摯に耳を傾け、よいものを受け入れる大きな心を持っていることです。
「教思無窮(きょうしむきゅう)」という言葉が「地澤臨」にあります。「地澤臨」という編は、「ちたくりん」と読み、高いところから低いところを臨み見るということで、人を育てるうえでの心得が書かれてあります。「君子もって教思すること窮まりなく、民を容れ保んずることかぎりなし。」と書かれてあることは、君子とは、人に教える時には、その人のことを深く思いやり、導いていくことが必要であり、相手の気持ちを受容し、共感するのには限度がありません。限りなく深く思いやり、受け入れ、繰り返し教え高めなくてはならないということを教えています。これは、子どもを保育するときにも心得なければならないことでしょう。
「火天大有」に「大有は柔尊位を得、大中にして上下これに応ずるを、大有という」と書かれてある部分があります。この「火天大有」という編は、組織、地位を保つときの心得が書かれてあります。「大有」は大いに所有するということで、占いの中では「火天大有の時、大いに通じる」というように、この卦は、天の上に太陽がさんさんと輝き、同じように気力、実力ともに充実する時です。しかし、この時期のことを竹村亞希子さんは、こう説明しています。「組織でいえば、ろうそくの芯がリーダーの役目である。つまり、組織を保つために、リーダーは技や力を他と競う必要はない。力のないリーダーであるからこそ、多くの人の能力を発揮させることができる。それが「大中」。これは大いに中庸を心得る者をいう。「大中にして上下これに応ずる」とは、ろうそくの芯に火が灯るような様をいう。ろうそくの火を思い描いてほしい。芯の部分は暗く、芯自体は光を発しないが、ひとたび火がつけば、芯を中心にまわりが明るく燃え上がる。」
そして、この素晴らしい時期を保つためには、「本来、能力があってもそれを覆い隠し、立場をわきまえ、自らの中に陰を生み出して、後継を育てるからである」というように、自分が光り輝くよりも、周りの能力を引き出してこそリーダーなのです。