荘子1

 荘子(そうし)は、老子の思想を楽しくわかりやすい内容で語っています。その書物は「荘子(そうじ)」と濁るのでややこしいですね。この本で、動物を人間にたとえたり、植物から生き方を語ったり、その工夫は、「遊び心」満載という感じです。しかし、その遊び心を発揮できるというのは、きちんと老子の考え方を学んでいるからであって、決してふざけているわけではありません。今、 園の有志の職員と勉強会をしているのですが、たとえば、子どもたちには理屈抜きで楽しいことをしてもいいのではないかという話になりました。その時、私は、「だったら、大学生のころのほうがもっと面白いことができたのではないか」「その後国家資格をとってからの面白さとは、どう違うのか」ということについて話し合いました。子どもは、よく「うんち」とか言いますが、荘子も同じように「うんち」という言葉を使って、道を説明しています。
あるとき、東郭子と荘子の問答です。
東郭子が「あなたのいう道はどこにあるのですか?」と荘子に尋ねると、荘子は、「どこにだってあるさ」「では、例をあげて説明してください」「虫けらの中にある」「そんな下等のものの中にあるのですか?」「ヒエの中にだってある」「ますます下等ですね」「煉瓦の中にだってある」「だんだん酷い物の中になっていきますが」「いやいや、うんこや小便の中にだってある」「……?」(「荘子」外篇・知北遊)
この後、荘子は、どうしてそういう「下等」なものばかり例にあげたのか説明しています。それは、東郭子が「道」を上等なものと思っていて、自分たちには手の届かない、特別なものだと思っているために、「道」というのは万物の根源であるからこそ、どこにでも「道」は存在するということを言いたかったのです。それと、道というのは、すべてのものの中にあるものなので、頭の中だけで考えるのではなく、事物をよく見ることで道を知ることができるのだということを言いたかったのです。これが荘子の「道」に対する考え方の基本で、この後、「万物斉同」という荘子哲学の真髄ともいえる部分の説明になっていきます。
荘子の「斉物論物」にこんなくだりがあります。「無非彼、物無非是。自彼則不見、自知則知。故曰 彼出於是、是亦因彼。」英語を初めて習った時に、私の教科書は、「This is a pen.」から始まっていました。その次が「That is a book.」でした。その時、「これ」と「あれ」の区別を教わりました。近くのものが「これ」で、向こうのほうにあるものが「あれ」ということは、もし、本のそばにいる人からすれば、本は「これ」になり、ペンは「あれ」になります。考えてみれば不思議ですね。他にも、1人称の「私」が、他の人からすると「彼」になります。そのように、その人の立ち位置で逆転するということは、たとえば、自分が「悪」だと思っているものが、相手から見ると「善」ということもあるのです。それは、時代によっても変わります。日光浴が体に良いと思われていたのが、日光浴は体に害であるというようにです。時代、見方、立場によって、物の善悪は変わってしまいます。
このように、人間の判断は一方的なものです。それに、彼という概念は、自分のことを是れということによって生まれてくる概念です。その二つは依存し合っているのです。よい子、悪い子という判断は、お互いの相対的な判断から来る基準であることを承知しておく必要があるでしょう。