時の書6

わたし達は、人生の中で今はどういう時期か考えます。その基準の多くは、自分の年齢です。また、新しい環境に入った時、たとえば社会人になってからどのくらいたっているのか、です。そのほか、時代、社会、家族、それぞれ動いています。その変化に対して、易経では、龍の成長にたとえて六段階であらわし、その段階を繰り返しているのだということが示されています。そのために、「大いに終始を明らかにし」ということで終わりと始まりを明らかにします。そして、それぞれの段階には、それぞれの役割があり、その役割に応じて人は生かされるのです。それを、「時に六龍に乗じ、もって天を御す」といい、その時々の龍の段階に応じて、素行自得し、与えられた持ち場で自分を発揮できるのです。
また、「乾道変化して、おのおの性命を正しくし」といいます。人は、おのおの「特命」という特別に天から授かったものをだれでも持っています。それら特質、徳性、特性、能力、持ち味などを生かしきることが「性命」です。そして、それを「正しくし」とは、その持ち味に素直になすことが必要だと説いています。「乾」という天の気は、その進む方向は変化するけれども、素行自得して天から授かった「性」を生かしきりなさい。すなわち、天から与えられた境遇を素直に受け入れて、それを生かし切り、自分を発揮しなさいと言っているのです。
その段階の中で、「潜龍」という次の段階は、「見龍(けんりゅう)」です。人を見て学ぶ龍です。師となる人物を見つけ、基本を修養する段階です。易経には「見龍田(でん)にあり、大人を見るに利あり」とあります。いままで、自分の志を持ち、じっと潜んでいた龍は、世間(田)に出てきます。まだまだ力はありませんが、少しずつ眼先が見えるようになってきます。そして、学ぶべき師(大人)に出会うために、人と出会い、物事の兆しをよく見なければなりません。そのためにも、この時期には、同時に見る力をつけないといけないのです。そして、真似をすることで「学ぶ」のです。まねることは本当の実力ではありませんが、本当の実力をつけるために、成長するために必要なことなのです。
この言葉を、孔子はこう解釈しています。「龍の徳あって正中なるものなり。庸言をこれ信にし、庸行をこれ謹み、邪を閑ぎてその誠を存す。世を善くして伐らず、徳博くして化す。易に曰く、見龍田にあり、大人を見るに利ありとは、君の徳あればなり。」
見龍が学ぶべき大人とは、龍徳を備え、正しく時に中(あた)るものでなければなりません。「龍徳」とは、大空に飛翔して雲を呼んで慈雨を降らせるだけの徳のある龍です。そして、まさにぴったりと時々にある人を見つけなければなりません。その人が言うことは常に誠実で嘘や飾りがなく、おこないも常にするべき時を心得ていなければなりません。それは「私」に偏らず、物事を客観的に公平に見て、その時にぴったりと合っていることが大切なのです。しかし、どんな成人といっても心の中にはよこしまな心を持っているものです。持たないようにすることではなく、自らの中に、よこしまな気持ちが起きないようにすることこそが大切です。誠心で事に向かい、世の中をよくしても得意になって誇らず、身に備わった徳は多くの人を感化するような師を見て、よく学ぶ見龍には、将来、ものごとを究め、治める徳があるのです。
そのような人と出会い、見つけ、そしてそれを師とし、その行いをまねて学ぶことが「見龍」の時期にあるものが必要なことです。

時の書6” への7件のコメント

  1. 保育を変えた時に、どのように変えるかを考えました。職員間でせいがの森保育園のいい所だけ真似しようかと考えましたが、藤森先生に相談した時に、「じゃぁ、今までの保育は昔の保育のまねをしているんでしょう。」と言われた時に、全部真似しようと思いやってみました。
    これからも、いいと思ったことは素直に真似します。

  2. 学ぶべき人を求めるとき、その人の考え方を学びたいというよりも、その人の生き方から学びたいと思えるかどうかを大切にしようと心がけています。自分の考えを惜しみなく外に発信し続け、その考え方に対しても厳しい目で検証し変化し続けている、そんな生き方をしている人に出会えることは本当に幸せなことです。今私が勝手に師と仰いでいる人は2人います。どちらも頭で考えた損得ではなく、自然に湧き出てくる「この人だ!」という感覚を信じての出会いでした。この出会いを学びにつなげられるか、そして自分自身を成長させられるかは自分次第。まねることから自分らしさを出すことにつなげていけるよう、厳しく楽しくやっていきたいです。

  3. 先日のコメントに、自分には二人師匠がいると書きました。まさに『誠心で事に向かい、世の中をよくしても得意になって誇らず、身に備わった徳は多くの人を感化するような』偉大な師匠です。一人は10代の時に出会い、生きることの喜びを教えてくれました。もうお一人は40代で出会い、学ぶことの愉しさを教えてくれました。時々、お二人の口真似を家内の前で披露しますが、いくら真似ても成長が伴ってないから駄目だと家内から馬鹿にされます(笑)。こんな小生でもいつか師匠の偉大さを証明できる弟子になりたいと思っています。

  4.  「潜龍」の次の段階は「見龍」。文字通り、見る事が大切な段階だと瞬間に感じました。しかし、見る事が大切だからと言って、ただ人を見るのでなく、自分が心から尊敬できる人を見つけ、その人をじっくり見て、真似る事がこの時期に大切なのですね。ただ真似る事が、本当の実力を付けるために必要な時期の時に、変なプライドを持たず、とにかく尊敬する人の真似をする事が大切だと思いました。そして真似る事を繰り返す事で自分が与えられた「特命」に気付き、「性命」になるのですね。

  5. 特質、徳性、特性、能力、持ち味などを生かしきることが「性命」、それを知り最大限生かしきることがまさに人としての最高の能力だと、このブログをみて思いました。まだまだ、自分の特性や見聞、徳性が分からず悩みの多い今はまだまだ、「潜龍」の状態なのだろうと思いました。
     また、人を真似て「学ぶ」ことは大事ですね。確かにまねることは本当の実力ではないかもしれません。しかし、真似をすることで自分の基礎ができと思います。そして、そこから自分の考えや思いをそこに載せていくことで自分らしさや自分の本当の実力が出るのだと思います。だからこそ、自分の尊敬する師を見つけることが大事なのでしょうね。そしてその先の「龍徳」につながるのだと思いました。

  6. 易経は、人の成長を龍の六段階になぞらえ、そして「その段階を繰り返している」とあります。私はこの「繰り返している」にとても興味を惹かれます。人の一生は、繰り返す、と言っても同じことにはならないでしょう。なぜなら私たちは確実に死に至る、すなわち死ぬための準備を日々行っていると言えるからです。昨日と同じ今日がないように、今日と同じ明日はないわけで、その文脈において、「繰り返し」とは何か、と疑問に思うのです。そこに「役割」という概念が出てきます。「繰り返し」ながらその都度「役割」が生じてくる。確かに、私自身がこの3年間を振り返った時「繰り返し」はあるが「役割」には微妙な変化があることに気付きます。「潜龍」⇒「見龍」そしてその次は?

  7.  〝「私」に偏らず、物事を客観的に公平に見て、その時にぴったりと合っていることが大切なのです。しかし、どんな成人といっても心の中にはよこしまな心を持っているものです。持たないようにすることではなく、自らの中に、よこしまな気持ちが起きないようにすることこそが大切です。誠心で事に向かい、世の中をよくしても得意になって誇らず、身に備わった徳は多くの人を感化するような師を見て、よく学ぶ見龍には、将来、ものごとを究め、治める徳があるのです。〟言葉にできなかった思いがこの度のブログを読むことで整理することができました。先の段階にある見龍への憧れがずっとあったことを改めて思います。その憧れというのが、現段階への自分へのモチベーションに留めるべきものであったのですが、そこにおける〝私〟に負け、生じた偏りを助長させるようにして押し進めてしまったのだと思いました。〝人生の中で今はどういう時期か〟を考える、そのことこそ、こうしてブログにコメントを書くことであり、このような機会をいただけていることに、本当に感謝の気持ちでいっぱいになります。

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