歌舞伎座1

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 昨日、建て替えのため今月いっぱいで閉場する歌舞伎の殿堂、東京・銀座の歌舞伎座で、昨年1月から続いた「さよなら公演」の掉尾を飾る「御名残四月大歌舞伎」が千秋楽を迎えたニュースが流れました。最後の舞台上では、市川団十郎をはじめ、そうそうたる歌舞伎俳優が、歌舞伎十八番をはじめ、人気演目を披露しました。今後の予定は、今日は関係者による「歌舞伎座修祓式」、明日は観客を入れた昼夜2回の「歌舞伎座閉場式」を開催してその役目を終えるようで、歌舞伎座の前にカウントダウンが表示されていました。「閉場式」は、坂東玉三郎らによる「京鹿子娘道成寺」などの舞踊や中村芝翫らの口上、手締め式が行われるようです。最後の演目は、団十郎が江戸の男だての総本陣・助六を演じた「助六由縁江戸桜」だそうですが、団十郎以外に菊五郎、仁左衛門、左団次、玉三郎、勘三郎、三津五郎という超豪華版夢のようなオールスターキャストだそうで、ファンにはたまらないでしょうね。
歌舞伎座は、第1期の建物は、1889(明治22)年11月、当時の木挽町に開場、洋風デザインの劇場建築(木造で、内部は伝統的な和風)でした。建て替えられた第2期の歌舞伎座は、1911(明治44)年11月に帝国劇場に対抗して、純和風建築に改装されました。その後、大正4年には松竹の経営となります。大正10年10月、漏電のため全焼したため、直ちに耐火建築で建て替えることとなり、岡田信一郎に設計の依頼がありました。それは、岡田が学生時代から鑑劇が道楽で、松竹の大谷社長に顔を合わせたときには、歌舞伎や劇場建築について論じ、社長や周りの人を感心させたからだと言われています。
話はそれますが、岡田は、私の母校(高校)を設計しています。その建物の中で私が在学していたときには、講堂が残っていただけでしたが、それも1994年に取壊されています。また、岡田が有名なのは、妻が日本一の美人と言われた、もと赤坂芸妓の萬龍であったということです。彼女は、明治40年、「文芸倶楽部」が実施した全国百美人の読者投稿で九万票を獲得して見事一等になり、「酒は正宗、女は萬龍」と清酒や三越のポスターにもなっています。しかし、その人生は波乱に富んでいます。箱根の大洪水の際、貧血を起こしてしまい逃げ遅れかけたところを東京帝国大学の学生で、谷崎潤一郎と大親友であった恒川陽一郎に助けられます。翌年、再会した2人はやがて恋におち、翌々年学生結婚します。この大学生と芸妓のロマンスは当時、新聞紙上で大きく取り上げられました。ところが結婚4年目、恒川が病死し若くして未亡人になってしまいます。そこで、芸妓に戻るのかどうかが世間の関心を集めますが、翌年、建築家の岡田信一郎と結婚します。再婚後は病弱な夫の看護や設計事務所の手伝いに専念しますが、岡田が逝去し、再び未亡人となった彼女は、遠州流の茶道教授として多くの弟子に慕われる存在になったのです。
そんな岡田の設計した歌舞伎座は、建設中に関東大震災があり、内装用の桧材が焼失するなどで、工事の中断はありましたが、大正13年12月に竣工、翌年1月に華々しく開場式が行われました。それが、3代目の歌舞伎座です。しかし、第二次世界大戦が激しくなると興行もできなくなり、1945(昭和20)年5月の東京大空襲で焼け大屋根が落ちてしまいます。戦後、昭和24年から25年にかけて、大がかりな改修工事を行い、再興され、今度取り壊される歌舞伎座が出来上がったのです。それは、4代目で、設計は岡田の弟子であった吉田五十八で、外観は和風桃山様式で2002(平成14)年には国の登録有形文化財(建築物)に登録されているほか、ユネスコにも世界無形文化遺産として登録されています。
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新しい5代目の歌舞伎座はどんな建物でしょうか。過去から未来につなぐ変化は、いろいろなところで表われています。今、戦後の大きな節目に来ているのかもしれません。