時の書3

易経では「窮まれば変じ、変ずれば通じ、通ずれば久し」と云いますが、これは、行き詰ったら変えてみて、そうすれば人にも理解してもらえるようになり、そ子から変わらないものが見つかるということを言っています。来月のインターネットラジオでの話の内容がこのことで、保護者から、苦情なり要望が出たときに、その要望にこたえるのか、無視するのかということではなく、まず、その要望に対する園の考え方は、「その要望の内容は、変えてはならない原理原則なのか」と考えることが「不易」で、それとも「この問題は変えなければならないモノゴトか」と考えることが「変易(流行)」であり、「この問題をシンプルな方向にリードしたか」ということが「簡易」です。このように考えて、保護者からの要望にこたえていくことが必要です。
私たちの日常行動の基準は、「対象となるモノゴトをどのように評価選択したか」で決まりますが、その際、行動の元になる判断基準や思考や価値観は人によって様々です。その表面的なことだけから対応してしまうと、その時には納得してもらったかのように見えても、長い目で見た時に、その誤りに気づくことが往々にしてあります。逆に、大して意味のないことでも、かたくなに今までやってきたことを守り、変えようとしないこともあります。それは、本質が見えていないためです。一度決めたこと、ずっとやってきたことを変えないのは、決して意志が固いとか、自分の考えがしっかりしていることでもないのです。
易経には、「君子豹変す。小人は面を革(あらた)む。」という言葉があります。現在は、考えや態度をコロコロと変えるというい悪い意味で使われがちな言葉ですが、本来は、豹の毛が季節に合わせて抜け変わり、美しい斑文となることから、君子は時代の変化に合わせて自分の過ちを改め、素早く的確に変えていけるという意味なのです。そこから、君子はたとえ過ちを犯しても素早く善に立ち戻れるなどの意味も生まれました。それに対して、君子でない小人は、「変われる」のですが、それは「表面的なもの」にとどまってしまうというのです。確かに、私たちは過去のあやまちや自分のこだわりに引っ張られて意識や態度、生き方をすぐに変えられないものです。「こうありたい」「ああしたい」と思いながらも、結局「でも、?のためにできないんですよ」という言葉をよく聞きますが、それは、結局は自分に言い訳をしているに過ぎず、変えようとする勇気が足りないだけだと思うことがあります。そして、また、同じような毎日を過ごしてしまっているのです。
よく、「変わる時が来た」ということがあります。易経は、「時の書」といわれるように、その時が来た兆しを感じるために指南書でもあります。しかし、易経における「時」とは、ただの時間ではありません。易経の中には、「とき」「きざし」が詳しく書かれています。それは、「時が来た」というときも、そのような時間になったということではありません。簡単に言うと、易経の「時」とは、「時・処・位」をいいます。空間、場所、状況や立場・地位を含んでいるのです。人生には、さまざまなときがあります。苦しい時、うれしい時、悲しい時、喜びの時などありますが、それらの時は、その時の人生の意義、内容、勢い、変遷過程をあらわしているのです。易経は自然の変化と、人生の時を照らし合わせて考察できるように、人生で遭遇するであろう、ありとあらゆる六十四種類の「時」を例にあげ、その変化過程を解き明かしています。それが、占いに使われるのです。しかし、その時には、兆しを感じないといけないのです。それが、以前のブログで書いた東洋医学での「未病」なのです。