歌舞伎座2

 先週末、長崎に行ったときに宿泊先に「ガーデンテラス長崎ホテル&リゾート」をとってもらいました。このホテルは、2009年7月にオープンしましたが、長崎港が一望できる稲佐山のふもとの長崎市秋月町に建っています。夜は、テラスやふろ場から日本3大夜景の一つと言われている長崎の夜景が眺められます。このホテルの設計を担当したのは、建築家の隈研吾氏です。彼の設計コンセプトについて、「これほど木材を使ったホテルは珍しい。周辺の森と長崎の素晴らしい景色に囲まれて優しい気持ちになれる。自分の離れができたという感じで皆さんに使ってもらいたい」と話しています。
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その言葉の通り、外壁は、木の板で覆われています。施設の敷地面積は約6万6千平方メートルで、レストランや結婚式場などから成る地上3階地下2階建てのグランドテラス(本館)ほか、平屋と地上2階地下1階建てのコテージ型ホテルが各1棟あります。総事業費は約35億円だったそうです。室内も木を基調とし、無駄なものを切り取り、非常にシンプルさを感じます。ティッシュボックスも木で造られたもので、また、部屋のオーディオは、持ち込んだiPodがさせるようになっています。
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 彼は、長崎から気に入られているのか、1965年、美術館と博物館の機能を併せ持つ施設として開館した「長崎県美術館」も設計しています。この建物のコンセプトは、「呼吸する美術館」だそうで、グッドデザイン賞やイタリアのマーブルアーキテクチュラルアワードのほか建築業協会賞、日本建築家協会賞、日本建築学会作品選奨など多数受賞しており、国内外からも高い評価を得ています。
 これらの建物を設計した若手で注目されている隈研吾が、新しい歌舞伎を設計する予定です。建て替える理由としては、建物の老朽化や劇場舞台機構の陳腐化、耐震性能や防災性能の確保、バリアフリー化への対応など諸機能の更新が急務、などのようです。また、今回の建替えの主眼は、歌舞伎の殿堂「歌舞伎座」の継承と考え、劇場は従来通りに低層で構え、その独立性を重視した日本様式の外観デザインとし、銀座の街並みに融合するものを目指しているようです。また、新たに魅力溢れる文化施設も整備し、最先端のオフィスの提供や防災支援、緑化整備等さまざまな機能向上も兼ね備えた建物にするために、地下4 階、地上29 階、塔屋2 階に、劇場のほか、事務所、店舗、駐車場などを設けるということです。平成22年5月に着工し、平成25年春竣工の予定で、事業費は約180億円だそうです。
 古いものから新しいものへの変化は、当然おきます。その時に、新しいものとは何かということは時代によって変わってきます。明日、上海国際博覧会が開幕します。今回は、中国が初めて開く万博で、246の国・国際機関などが参加し、過去最大規模のようです。このイベントを見ていると、日本で東京オリンピック、大阪万博を開催することによって、何かを変えようとしていたことを思い出します。今回の万博のテーマは「より良い都市、より良い生活」だそうですが、中国共産党が2008年の北京五輪に続く国家行事で求心力を維持し、政権基盤の強化を狙っている意図が感じられます。
 しかし、最近の日本における変化のテーマは、「伝統文化の見直し」が感じられます。前に進む変化から、深まっていく変化に変わりつつあることは、とてもいいことだと思います。

歌舞伎座1

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 昨日、建て替えのため今月いっぱいで閉場する歌舞伎の殿堂、東京・銀座の歌舞伎座で、昨年1月から続いた「さよなら公演」の掉尾を飾る「御名残四月大歌舞伎」が千秋楽を迎えたニュースが流れました。最後の舞台上では、市川団十郎をはじめ、そうそうたる歌舞伎俳優が、歌舞伎十八番をはじめ、人気演目を披露しました。今後の予定は、今日は関係者による「歌舞伎座修祓式」、明日は観客を入れた昼夜2回の「歌舞伎座閉場式」を開催してその役目を終えるようで、歌舞伎座の前にカウントダウンが表示されていました。「閉場式」は、坂東玉三郎らによる「京鹿子娘道成寺」などの舞踊や中村芝翫らの口上、手締め式が行われるようです。最後の演目は、団十郎が江戸の男だての総本陣・助六を演じた「助六由縁江戸桜」だそうですが、団十郎以外に菊五郎、仁左衛門、左団次、玉三郎、勘三郎、三津五郎という超豪華版夢のようなオールスターキャストだそうで、ファンにはたまらないでしょうね。
歌舞伎座は、第1期の建物は、1889(明治22)年11月、当時の木挽町に開場、洋風デザインの劇場建築(木造で、内部は伝統的な和風)でした。建て替えられた第2期の歌舞伎座は、1911(明治44)年11月に帝国劇場に対抗して、純和風建築に改装されました。その後、大正4年には松竹の経営となります。大正10年10月、漏電のため全焼したため、直ちに耐火建築で建て替えることとなり、岡田信一郎に設計の依頼がありました。それは、岡田が学生時代から鑑劇が道楽で、松竹の大谷社長に顔を合わせたときには、歌舞伎や劇場建築について論じ、社長や周りの人を感心させたからだと言われています。
話はそれますが、岡田は、私の母校(高校)を設計しています。その建物の中で私が在学していたときには、講堂が残っていただけでしたが、それも1994年に取壊されています。また、岡田が有名なのは、妻が日本一の美人と言われた、もと赤坂芸妓の萬龍であったということです。彼女は、明治40年、「文芸倶楽部」が実施した全国百美人の読者投稿で九万票を獲得して見事一等になり、「酒は正宗、女は萬龍」と清酒や三越のポスターにもなっています。しかし、その人生は波乱に富んでいます。箱根の大洪水の際、貧血を起こしてしまい逃げ遅れかけたところを東京帝国大学の学生で、谷崎潤一郎と大親友であった恒川陽一郎に助けられます。翌年、再会した2人はやがて恋におち、翌々年学生結婚します。この大学生と芸妓のロマンスは当時、新聞紙上で大きく取り上げられました。ところが結婚4年目、恒川が病死し若くして未亡人になってしまいます。そこで、芸妓に戻るのかどうかが世間の関心を集めますが、翌年、建築家の岡田信一郎と結婚します。再婚後は病弱な夫の看護や設計事務所の手伝いに専念しますが、岡田が逝去し、再び未亡人となった彼女は、遠州流の茶道教授として多くの弟子に慕われる存在になったのです。
そんな岡田の設計した歌舞伎座は、建設中に関東大震災があり、内装用の桧材が焼失するなどで、工事の中断はありましたが、大正13年12月に竣工、翌年1月に華々しく開場式が行われました。それが、3代目の歌舞伎座です。しかし、第二次世界大戦が激しくなると興行もできなくなり、1945(昭和20)年5月の東京大空襲で焼け大屋根が落ちてしまいます。戦後、昭和24年から25年にかけて、大がかりな改修工事を行い、再興され、今度取り壊される歌舞伎座が出来上がったのです。それは、4代目で、設計は岡田の弟子であった吉田五十八で、外観は和風桃山様式で2002(平成14)年には国の登録有形文化財(建築物)に登録されているほか、ユネスコにも世界無形文化遺産として登録されています。
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新しい5代目の歌舞伎座はどんな建物でしょうか。過去から未来につなぐ変化は、いろいろなところで表われています。今、戦後の大きな節目に来ているのかもしれません。

時の書6

わたし達は、人生の中で今はどういう時期か考えます。その基準の多くは、自分の年齢です。また、新しい環境に入った時、たとえば社会人になってからどのくらいたっているのか、です。そのほか、時代、社会、家族、それぞれ動いています。その変化に対して、易経では、龍の成長にたとえて六段階であらわし、その段階を繰り返しているのだということが示されています。そのために、「大いに終始を明らかにし」ということで終わりと始まりを明らかにします。そして、それぞれの段階には、それぞれの役割があり、その役割に応じて人は生かされるのです。それを、「時に六龍に乗じ、もって天を御す」といい、その時々の龍の段階に応じて、素行自得し、与えられた持ち場で自分を発揮できるのです。
また、「乾道変化して、おのおの性命を正しくし」といいます。人は、おのおの「特命」という特別に天から授かったものをだれでも持っています。それら特質、徳性、特性、能力、持ち味などを生かしきることが「性命」です。そして、それを「正しくし」とは、その持ち味に素直になすことが必要だと説いています。「乾」という天の気は、その進む方向は変化するけれども、素行自得して天から授かった「性」を生かしきりなさい。すなわち、天から与えられた境遇を素直に受け入れて、それを生かし切り、自分を発揮しなさいと言っているのです。
その段階の中で、「潜龍」という次の段階は、「見龍(けんりゅう)」です。人を見て学ぶ龍です。師となる人物を見つけ、基本を修養する段階です。易経には「見龍田(でん)にあり、大人を見るに利あり」とあります。いままで、自分の志を持ち、じっと潜んでいた龍は、世間(田)に出てきます。まだまだ力はありませんが、少しずつ眼先が見えるようになってきます。そして、学ぶべき師(大人)に出会うために、人と出会い、物事の兆しをよく見なければなりません。そのためにも、この時期には、同時に見る力をつけないといけないのです。そして、真似をすることで「学ぶ」のです。まねることは本当の実力ではありませんが、本当の実力をつけるために、成長するために必要なことなのです。
この言葉を、孔子はこう解釈しています。「龍の徳あって正中なるものなり。庸言をこれ信にし、庸行をこれ謹み、邪を閑ぎてその誠を存す。世を善くして伐らず、徳博くして化す。易に曰く、見龍田にあり、大人を見るに利ありとは、君の徳あればなり。」
見龍が学ぶべき大人とは、龍徳を備え、正しく時に中(あた)るものでなければなりません。「龍徳」とは、大空に飛翔して雲を呼んで慈雨を降らせるだけの徳のある龍です。そして、まさにぴったりと時々にある人を見つけなければなりません。その人が言うことは常に誠実で嘘や飾りがなく、おこないも常にするべき時を心得ていなければなりません。それは「私」に偏らず、物事を客観的に公平に見て、その時にぴったりと合っていることが大切なのです。しかし、どんな成人といっても心の中にはよこしまな心を持っているものです。持たないようにすることではなく、自らの中に、よこしまな気持ちが起きないようにすることこそが大切です。誠心で事に向かい、世の中をよくしても得意になって誇らず、身に備わった徳は多くの人を感化するような師を見て、よく学ぶ見龍には、将来、ものごとを究め、治める徳があるのです。
そのような人と出会い、見つけ、そしてそれを師とし、その行いをまねて学ぶことが「見龍」の時期にあるものが必要なことです。

時の書5

私が子どもの頃、家で秋田犬を飼っていました。その犬は、何回か品評会で賞をとったのですが、真っ白い大きな立派な犬でした。その背中にも乗れるほどでしたが、その犬の名前は「白龍号」といいました。南総里見八犬伝にも、最初に「白龍」が出てきます。そこで、里見義実が龍について詳細に語る場面があります。これは、たぶん滝沢馬琴が易経を知っていて、それに影響されているのではないかといわれています。その龍とは、易経ではどのように使われているのでしょう。洞察力、直観力を身につけるのは難しいことですが、易経では、冒頭の卦「乾」の本文は乾為天と呼ばれる龍の話から入っています。地に潜んでいた龍が力をつけ、大空へ翔けのぼり、やがて降り龍となるという龍の成長過程に、リーダーとしての「時の変化の道理」を学ぶというものです。易経では、洞察力を「見る」という字を使います。「節」という考え方があります。物事の節目を考えながら進めば、簡単に進めることができます。その節目を考えることが「時の変化の道理」の一つなのでしょう。物事が起きたときに、その節目の兆しがきっとあったはずです。流れが変わった、解決の道に変わった時にも、「兆し」があったはずです。それを見るのが、リーダーです。「卦」とは、易経に出てくる六十四の物語のことです。それぞれの物語は六段階の時の流れで構成されています。時の流れは起承転結で語られたひとつの物語になっています。
一国の君主は「龍徳」を身につけるための学問として、易経を学んでいました。龍徳とは龍のような精神、品性、人間性、そして力です。龍の成長を六段階で表しています。
第一段階は、「潜龍(せんりゅう)」です。私のこのブログのタイトルは「臥竜」と言いますが、これに近いものがあります。地に潜み隠れたる龍で、志を抱き、実現のための力を蓄えるという段階です。習い事や、社会人としての成り立て、新しく仕事を始めるときは、常に「潜龍」から始まります。そんなとき「潜龍用うるなかれ」と初めに書かれてあります。それは、潜龍の段階にいる人を受け入れたり、責任を持たせたり、重用してはいけないということです。この段階にいる人を用いたら必ず失敗したり、信用を落としたり、物事がうまくいかなくなります。では、自分が潜龍の段階にあるときには何に気をつけたらいいのでしょうか。この時期に必要なものは、志です。潜龍の時には、取り上げられず、評価されず、自信も無くなりがちですが、それは、決して力がないわけではなく、土壌がまだ育っていないからです。将来は大空を飛翔する素質があっても、経験も実力も不足しているからです。そんなときには、あせって結果を出そうとせず、これから何をしていくのか、何を目指していくのかという志を持つことです。そして、これからの準備をすることで、幾がやってきます。「君子は、幾を見て作つ」ために、よい機会が来たときに直ぐに行動ができるように準備する時期が潜龍なのです。芽生えるために土壌を豊かに耕さなければなりません。まずは志ありき。潜龍の時代は大きな志を抱く時期、志を育てる時期なのです。「確乎不抜」という四文字熟語の原点は、易経です。「確乎としてそれ抜くべからざるは、潜龍なり」ということで、このなかの「それ」は、「志」のことです。しかし、その志は、決して、自分だけのためのものであってはいけません。私利私欲を満たす野心や野望ではいけません。世のため人のためになること、社会に貢献することである志は、やがて大空を飛翔して雲を集め、慈雨を降らせるようになるのです。潜龍の時代にどのくらいの志を抱くかによって、将来どのくらい飛び立てるかが決まってしまいます。今の若い人は、高い志をもつ前に、人に認めてもらいたがります。潜龍の時代に世に出ようとするのは、冬に氷の上に種をまくようなものなのです。潜龍の時代は、用いられないから、認められないから、恵まれない時期だからこそやるべきことがあります。自分を見つめ、志を抱いたりすることに深く集中できるのは、潜龍の時代だけです。

時の書4

昨日は暖かかったので、長崎で少し竜馬つながりの場所を歩いてみました。
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龍馬は、勝海舟の弟子となって、その影響から海運業のほうに行くのですが、その勝に対して後世の人はどうも好き嫌いがあるようです。それは、彼の言い方がずいぶんと切符がいいからということがあるような気がします。私は、東京の下町育ちですので、なんとなく、わかるのですが。その勝の言っていることで、易で言う「兆し」の大切さを言っている言葉がいくつかあります。「機は感ずべきもので、言ふことの出来ず、伝達することの出来んものです」「機先を制するといふが大切だが、機先に後れると、後の先といふものがある。」
物事を明らかにし、易を見るためには、時の変化を微細な粉末にすり砕くほどに深く研究して極め、「幾(き)」兆しを察する能力を養わないといけないのです。その能力とは、物事の深きを極め、洞察力を養うことで、これからの時代が要請していることを知ることです。そして、その社会が向かうところに対して、自ら進むべき道を知ることです。その力、特にリーダーに求められる能力です。
「それ易は聖人の深きを極めて幾(き)を研(みが)くゆえんなり。ただ深きなり、故によく天下の志に通ず。ただ幾(き)なり、故によく天下の務(つとめ)を成す。ただ神なり、故(ゆえ)に疾(と)からずして速やかに、行かずして至る。」(繋辞上伝)
竹村亞希子さん編「易経1日1言」(到知出版社)によると、この言葉をこのように解説しています。「幾」を知ることは、物事の機微、兆しを見ただけで、声なき声を聞き、見えないものを読み取ることである。それゆえ社会に役立つ務めをなすことができるのである。」変化が起きてから、人がやってからでは人の役には立たないというのは、ずいぶんと厳しいですね。
易というと、占いのイメージが強いかもしれませんが、占いは、古代では重い意味を持ち、政治をも動かす重要なものでした。一国を率いるリーダーは、時の本流を洞察し、兆しを察する直観力が不可欠です。そして、「君子は、幾を見て作つ(たつ)」と言っているように、これから事が起きていく、その兆しをすっと感じること、そして、それに対して行動することが必要です。易経には、「きざし」という意味が二種類あります。「兆し」が一つですが、「萌し」という意味の時があります。この萌し(きざし)とは、春の訪れを知る、日の光りがあたり、春の植物が芽をだすなど「平らかにして、かたむかざるものはなし」という意味です。ですから、そろそろ春のきざしがあります」というときには「萌し」という字のほうを使わないといけないのです。しかし、易経で言う「幾を見る」は、「兆し」です。
その変化の中で、まさにその時に当たるときがあります。それを易経では、「時中(じちゅう)」といい、それを重んじます。「時にあたる、そのときにぴったりの」という意味です。レディネスといわれることかもしれません。たとえとしてこういう風に言っています。「春に種を蒔いたら、秋には実りを得ることができます。しかし、冬の氷の上に種を蒔いたら、実ることもなく、どんなに立派な種でも腐ってしまう。」いくら良いことでも、その時期を間違えたら良いものではなくなるということです。しかし、世の中には冬に種を蒔きたがる人が多くいます。冬だから、逆に条件が悪いので焦り、上手くいかないときには焦るばかりに失敗をします。冬だから、止まりなさいと警告されているのにも関わらず種を蒔こうとします。結果、冬の氷の上に種をまいてしまうのです。人は、ダメなときに頑張ろうとします。しかし、ダメなときにはじっとしていて、いいときに頑張って進んだほうがいいということです。

勝と龍馬

 昨日から、若い人でにぎわう長崎に来ているので、易はちょっと休憩して、若い人にも人気のある話題に少し変えます。NHK大河ドラマ「龍馬伝」が相変わらず好調で、各地は龍馬を訪ねてにぎわっているようです。この連休も大変でしょうね。私も、その舞台となる地を、毎年の恒例で時間を見ては妻と訪ねることにしていますが、今年は混んでいるので、工夫がいるようです。その中で、4月初めの日曜日に勝海舟の屋敷跡を訪れました。
その場所は、六本木ミッドタウンから赤坂側に降りたところにある氷川神社の裏手にありました。この社殿は、享保15年(1730)に、造営の奉行は老中岡崎城主水野忠之に命じて、8代将軍徳川吉宗により建立されたものです。訪れた氷川神社は、桜がほころび始めたころで、街中でありながらひっそりしていました。
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その裏手にあるという「勝海舟邸跡」は、周りを何度かぐるぐる回りましたが、なかなか見つかりませんでした。やっと見つけた碑は、喫茶店のわきの茂みの中にありました。
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そのそばにある「勝海舟邸跡の記」にはざっとこう書かれてありました。「この地は、幕末から明治にかけて、幕臣として活躍した勝海舟が安政六年(1859)から明治元年(1868)まで住んだ旧跡である。海舟は終生赤坂の地を愛し、三カ所に住んだが、当初居住中の十年間が最も華々しく活躍した時期に当たる。(中略)文久二年(1862)十一月、海舟を刺殺しようとして訪れた旧土佐藩士坂本龍馬らに世界情勢を説いて決意を変えさせ、逆に熱心な門下生に育てて、明治維新への流れに重要な転機を与えることになったのもこの場所である。」
先週の大河ドラマの内容は、「龍馬が、松平春嶽から紹介状をもらいうけ、勝麟太郎の屋敷を訪ねます。龍馬は勝の弟子にしてほしいと頼みますが、勝は拒否します。続いて勝の屋敷を訪れた武市から、龍馬の“幕府も藩もいらぬ”という言葉をきいて興味を覚えた勝は、再び龍馬を呼び出し、弟子にすることを決め、龍馬を品川の咸臨丸に連れて行く。」というものでした。 碑からすると、坂本と勝が出会ったのは、この場所のようです。一説には、脇の氷川坂で出会いがあったともいわれています。今回のテレビの中で、勝役が「龍馬かぶれ」で有名な俳優で歌手の武田鉄矢が演じていますが、金八先生のイメージが強かったり、福岡のイメージだとか、あくが強いキャラクターが強い分、勝役には賛否両論があるようです。しかし、当の本人は、一昨年、「龍馬を育てていただきたい」と勝役のオファーを受け、「思わず目頭が熱くなった」と感激。自宅の部屋に飾ってある龍馬の写真の前に、小さな杯と、龍馬の好物だった混ぜご飯を供えたといいます。
勝と出会った龍馬は、勝の愛弟子になり、龍馬の思想に影響を及ぼします。開国主義も海運国の降盛も、勝の指導によるものともいわれ、薩長同盟が成功したのも、勝が龍馬に西郷を紹介したのが始まりだともいわれています。龍馬のほうも、勝に仕えていたのがとてもうれしかったらしく、故郷の姉にあてて、「おれは今、勝海舟と言う日本第一の人物の弟子となって働いている」との手紙を再三にわたって送っています。また、勝の有名な言葉に、「薩長連合、大政奉還、あれはみんな龍馬ひとりでやったことさ」というのがありますが、龍馬は勝からの評価も高かったようです。
勝は、一度引退の徳川慶喜に従って、静岡市に移りますが、再び上京し、満76歳で亡くなるまで赤坂区氷川町四番地に住み、ここでの話をまとめたのがこの地名をとった「氷川清話」です。この屋敷跡は、区立氷川小学校敷地として使われていましたが、児童の数が減り、廃校になっています。いまは、老人施設などになっていて、石碑だけが残っています。
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時の書3

易経では「窮まれば変じ、変ずれば通じ、通ずれば久し」と云いますが、これは、行き詰ったら変えてみて、そうすれば人にも理解してもらえるようになり、そ子から変わらないものが見つかるということを言っています。来月のインターネットラジオでの話の内容がこのことで、保護者から、苦情なり要望が出たときに、その要望にこたえるのか、無視するのかということではなく、まず、その要望に対する園の考え方は、「その要望の内容は、変えてはならない原理原則なのか」と考えることが「不易」で、それとも「この問題は変えなければならないモノゴトか」と考えることが「変易(流行)」であり、「この問題をシンプルな方向にリードしたか」ということが「簡易」です。このように考えて、保護者からの要望にこたえていくことが必要です。
私たちの日常行動の基準は、「対象となるモノゴトをどのように評価選択したか」で決まりますが、その際、行動の元になる判断基準や思考や価値観は人によって様々です。その表面的なことだけから対応してしまうと、その時には納得してもらったかのように見えても、長い目で見た時に、その誤りに気づくことが往々にしてあります。逆に、大して意味のないことでも、かたくなに今までやってきたことを守り、変えようとしないこともあります。それは、本質が見えていないためです。一度決めたこと、ずっとやってきたことを変えないのは、決して意志が固いとか、自分の考えがしっかりしていることでもないのです。
易経には、「君子豹変す。小人は面を革(あらた)む。」という言葉があります。現在は、考えや態度をコロコロと変えるというい悪い意味で使われがちな言葉ですが、本来は、豹の毛が季節に合わせて抜け変わり、美しい斑文となることから、君子は時代の変化に合わせて自分の過ちを改め、素早く的確に変えていけるという意味なのです。そこから、君子はたとえ過ちを犯しても素早く善に立ち戻れるなどの意味も生まれました。それに対して、君子でない小人は、「変われる」のですが、それは「表面的なもの」にとどまってしまうというのです。確かに、私たちは過去のあやまちや自分のこだわりに引っ張られて意識や態度、生き方をすぐに変えられないものです。「こうありたい」「ああしたい」と思いながらも、結局「でも、?のためにできないんですよ」という言葉をよく聞きますが、それは、結局は自分に言い訳をしているに過ぎず、変えようとする勇気が足りないだけだと思うことがあります。そして、また、同じような毎日を過ごしてしまっているのです。
よく、「変わる時が来た」ということがあります。易経は、「時の書」といわれるように、その時が来た兆しを感じるために指南書でもあります。しかし、易経における「時」とは、ただの時間ではありません。易経の中には、「とき」「きざし」が詳しく書かれています。それは、「時が来た」というときも、そのような時間になったということではありません。簡単に言うと、易経の「時」とは、「時・処・位」をいいます。空間、場所、状況や立場・地位を含んでいるのです。人生には、さまざまなときがあります。苦しい時、うれしい時、悲しい時、喜びの時などありますが、それらの時は、その時の人生の意義、内容、勢い、変遷過程をあらわしているのです。易経は自然の変化と、人生の時を照らし合わせて考察できるように、人生で遭遇するであろう、ありとあらゆる六十四種類の「時」を例にあげ、その変化過程を解き明かしています。それが、占いに使われるのです。しかし、その時には、兆しを感じないといけないのです。それが、以前のブログで書いた東洋医学での「未病」なのです。

時の書2

四書五経のひとつである「易経」という書物の名が、なぜ「易」なのか、古来よりさまざまな説がなされてきました。それは、この「易」(エキ)という語の語源によるものです。白川さんの「字統」には、いくつかの説が紹介されています。一つは、「とかげ、いもり、やもり」を並べてそのトカゲの形からとったという説、「日月を易と為す。陰陽に象るなり」とする説、もうひとつは、カメレオンであるという説です。いろいろな説がありますが、どれも「変化」を意味しています。「易経」は英語訳では「book of changes」といい、「変化の書」という意味です。つまり、「変化」について説かれた書物ということです。では、変化するものとは何かというと、それは「時」です。「易経」は、時について説き、そして兆しについて言及している書物であるために、学ぶことによって、時の変化を知り、禍の兆しを察し、未然にそれを避けるということを実践していけるようになると言われている所以です。
易経の中では、「春が来て、夏が来て、その次に秋が来て、冬になる。そして冬の次には新たな春が来る」と書いてあります。 このような自然の変化に則した、この世の中の時の変化変遷の法則を説いています。この変化の法則をわかりやすくあらわしたものに「易の三義」というものがあります。「周易正義」が引く「易緯乾鑿度」の「易は一名にして三義を含む」というものです。易の三義とは、後漢の鄭玄という儒学者の解釈によると「易」という字は、「変易」「不易」「簡易」(かわる・かわらぬ・たやすい)という1文字で3つの意味を持つということです。
あらゆる事物は常に創造変化していきます。宇宙は刻々と変化して止まず、時はめぐり巡り、すべての物事は変化しつづけ、ひと時たりとも同じ時はありません。その変化の中で、私たちも生々流転して、常に変化し続けます。「時」の中で生きているのです。これが「変易」です。そして、この「変易」は更にかわっていきます。時代と共に変えるべきこともあります、それは「環境変化への対応」や「少子化への対応」であったり、「高齢社会への対応」であったりします。また、政治の面でも、市場の面でも時代によっての見直しが行われなければなりません。「市場変化対応」といわれるものであり、「流行」といわれる生活習慣の中で服装や食事内容や住まい方を変えることもそれにあたります。天や地をはじめ自然界のあらゆるもの、森羅万象、時として人の心、行いなどすべては時の移り変わりとともに変化していくものなのです。
しかし、変化の中には一定の不変の法則があります。一年は春夏秋冬、一日は朝昼夜と時が循環して、絶えずめぐっていきます。昼と夜、夏と冬が交互に入れ替わって、順序を違えることなく変化します。万物の創造変化には必ず一定の理、法則性、根源が存在します。これが「不易」です。「不易」とは、時代が変わろうとも変えてはならない「真理や原理原則」、事業運営の面では、「経営理念や企業倫理」、生活習慣で言えば道徳やマナーと言った「人間関係の礼儀」などです。
しかし、何が変わり、何が変わらないかという判断は難しいものです。それを判断するために「原点や単純化の方向」が必要になります。事業運営では、経営理念も組織や諸制度も、なるべく多くの人に理解してもらわなければ意味がありません。なるべく簡潔にシンプルにするということは、生活習慣でも「シンプルライフ」と最近言われるようなことが必要になります。それが、「易簡(簡易)」という、容易い、分かり易いという意味です。小宇宙である私たちの人生の時も変易、不易にのっとって変化していきますが、この変化の法則にならったならば、「易」に対して容易に理解しやすくなり、変化に対してもスムースに運ぶというのです。

時の書1

 今の時代に求められる「学力」を評価するために「学力テスト」が行われます。私は常々「Plan Do See」ではなく、「Do See Plan」であるべきだと思っていますが、これは卵が先か、ニワトリが先かという議論と同じで、まわっているものですので、結局は同じことを言っているのかもしれません。しかし、人類が生まれてから今日まで、生きる営みは決して計画されてきているわけではありません。そして、その生活の中での経験や体験からより効率良くしようということを検証した結果、次回の行動を計画するようになったのだと思います。ですから、時代の変化は、常に計画より先に起きてくるもので、その変化をよく見なければなりません。それは、その変化の中で、変わらないものを見つけることでもあるのです。
私は、江戸時代までの日本における教育というシステムや教材に興味を持っていますが、その中で教科書として使われていた「四書五経」という、儒教の経書の中で特に重要とされる四書と五経があります。四書とは「論語」「大学」「中庸」「孟子」であり、このうち「大学」「中庸」は、五経のうちの一つとされている「礼記」の一章を独立させたものです。その四書について、このブログで何回か取り上げました。特に、この「礼記」から抽出された「大学」「中庸」については今回特に興味を持ったところです。しかし、五経の「易経」「書経」「詩経」「礼記」「春秋」は、「五経を以て四書よりも高しとする」といわれるほど重要のようです。しかし、これらは難しいですね。この五経をどのようにして藩校、寺子屋で教えていたのでしょう。四書のほうは毎日音読、復唱することで何となく意味が伝わってくるのですが、五経のほうはそうはいかないと思うのですが。また、内容も、今の道徳のようにも思えますが、その書からは、ただ人の生きる道を解くだけでなく、宇宙観を持ち、時間空間をも視野に入れた壮大なこの世の物語でもあるように私には思えます。ですから、それを読み解くのは私には無理ですが、その中の言葉、文章を切り取って、それを今の時代に生かす工夫はできると思います。
四書五経の筆頭に挙げられているのが中国最古の書である「易経」です。この書は、「帝王学の書」「学問・智慧の書」「哲学・倫理の書」、「処世術の書」、「道の書」などと言われていますが、多くの人のイメージは、「占いのテキスト」かもしれません。 しかし、本当は、「よく易を修める者は占わず」という荀子の言葉にあるように、よく易を学んだならば、占わなくても先々を知り、行うべき行動を判断することができるということなのです。ですから、易経は「時の書」ともいわれ、自分のおかれている立場など、出処進退に関する行動の指針となるべき法則、リーダーに不可欠である「時」の本質を見抜く洞察力、 わずかな「兆し」で将来を察知する直観力、危機管理能力を養うための指針ともなると言われています。
ずいぶんと前置きが長くなりましたが、少し、この「易経」について、今の時代に通用する、わかりやすい部分だけ、解説してみようと思います。おぼろげながら断片的に持っている易経に対する知識を、このブログがなければ、あらためて整理しようとしませんから。

テスト問題

  今日、小学6年生と中学3年を対象とした2010年度の全国学力・学習状況調査(全国学力テスト)が、全国一斉に行われました。このテストは、参加するかしないか、結果を公表するかしないかで随分もめていますが、今年はさほど大きな混乱はなかったようです。このテストの是非は別として、その問題内容にはずいぶん工夫が見られます。今年度の出題傾向について文科省は「日常生活に即して知識の応用力を問う問題や、他教科と関連づけた問題を盛り込んだ」と説明していますが、中学の国語で新聞記事の内容を読み取らせたり、小学校算数では日常の買い物場面を想定し、割引した金額を計算したりする問題が出されています。それらの問題は、ABに分けて、基礎知識を問うA問題、知識の活用力を調べるB問題となっていますし、児童生徒に生活習慣なども尋ねています。
 たとえば、算数Bでおつりを出す問題は、「同じ定価のえんぴつを3本買って、500円出しました。おつりは100 円でした。えんぴつ1 本の定価は何円でしょうか。」この答えを出そうとすると、答えは整数になりません。そこで、この問題はこの答えを出すのではなく、「おつりの金額を何円に変えれば,えんぴつ1本の定価が整数になりますか。」という問題なのです。また、国語Bでは、「この物語を読んで、あなたが思ったことや考えたことを、次の条件に合わせて書きましょう。○思ったことや考えたことをはっきりと書くこと○思ったことや考えたことの理由がかるように書くこと○60字以上?80字以内にまとめて書くこと」というようにほとんどの問題が、文章で考えを書かせるものになっています。
中学校の国語Bの問題も同様です。1問目の長文読解の長文は新聞になっています。(全国新聞という架空の新聞で、1面とコラムがあります)1面の記事が、「太宰治生誕100年目の桜桃忌」の記事と、囲みの連載「広がる食育」の最終回、コラムは、若い世代の本との出会いについてを話題にしています。その後の問いは、この紙面のトップ記事とコラムとの書き方の違いを問う問題で、3問目は、三つの記事の中で、どの記事の内容に興味を持ったかと、どんな内容に興味を持ったかを4行の罫の中に書く問題です。罫線だけが引いてあって、字数制限はありません。最後の長文読解の小説はオーソドックスに夏目漱石の「吾輩は猫である」でした。
とてもいい問題ですが、正解はどうするのでしょう。このような問題ですから、正答は例としてしか書かれていません。たとえば、記事の中で興味を持ったところは「食育」の記事として、「伝統的な郷土料理を献立に盛り込むことが広く行われていることに興味をもちました。このような取り組みは、地域の歴史を知る上でも大切なので、私の学校でも行ってほしいと思います。」とあります。しかし、ここで私は問題がいくつかあるように思います。このような問題は、正解、不正解は出しにくいということです。たとえば、「どの記事にも興味を持ちませんでした」と書いたら、×なのでしょうか。採点はどうするのでしょうか。感想を求めるような問題は、みんなで議論するなり、人に発表するなりしてより深まっていくもので、感想に正解はないような気がします。また、このような問題が解けるようになるために、どのような授業をするのでしょうか。問題が変わってきたことに対して、授業形態が変わってきているのでしょうか。このテストの結果は、どこの地域が高いか低いかではなく、また、子どもたちの学力の把握でもなく、今行われている教育の見直しの材料にし、これらを解く力をつけるためにどのような授業をすればよいのかの検討材料なのです。今回の学習指導要領の改定は、時代の変化に逆行しているような気がしてなりません。