庭と川

 庭園の演出で欠かせないひとつが「水」です。手水鉢のような小さなものから、池や川なども庭園に意味を持たせます。なぜ、庭園に水が欠かせなかったかということを「庭と日本人」のなかで上田篤さんは「日本人のメンタリティの底に水を恋う意識があったから」ではないかと推測しています。その気持ちは、同じ上田さんの著書「日本の都市は海からつくられた」の中で、「日本人は縄文時代の1万年以上をほとんど海辺で生活してきた。弥生時代になって稲作をはじめても、おおくは海岸の低湿地に稲を植えて、近くの洲島に生活の本拠をおいた。つまりながらくのあいだ、海辺が人々の生活空間だった。そういう海辺の生活空間への回帰願望が、人々の心のなかにいつまでも生きつづけてきたのではなかったか?」と分析しています。それもあるでしょうが、もうひとつ精神的に水の流れや、その音に癒しを感じるということもあるでしょう。それは、人間は胎児の時、母親の胎内で羊水という小さな海で過ごしているからといわれていますし、私たちの身体の半分以上が水で出来ていると言う事もあると言われています。また、そのゆらぎには、「1/fゆらぎ」という人間の心をリラックスさせる効果のある波形があるのです。
 「庭と日本人」のなかで「人々の願望を示す水景が、庭の遺構から発掘されている。それは川だ。では、その川で何をしたかというと、陰暦3月3日に天皇や貴族が庭園のなかの曲がりくねった川のそばにすわって、上流から流れてくる盃がまえをとおりすぎないうちに歌をよみ、盃の酒をのんでつぎの人にながす。という遊びだった。「曲水の宴」といわれる。」
一昨年、鹿児島の「仙巌園」を訪れた時に、曲水の庭を見ました。kyokusui.JPG
これは、1959年に発掘されたもので、現存する国内の曲水の庭の遺構の中でも最大のもので、建造当時の様子が良好に保存されている貴重な文化財として高く評価されているものです。その流れは、そこで曲水の宴が行われたであろうという映像が浮かぶだけでなく、曲水と言われるように曲がりくねった川の流れは、庭を切り取り、そこに変化を持たせ、その変化がある動きを作り、その動きがかえって安定をもたらします。
 私の園で、湧水を利用して「ししおどし」を作りました。それは、水の流れを音として強調して五感に訴えようとした試みです。今年は、また新たな試みを計画しています。
 東京では、ここ数年、ゲリラ豪雨といわれる少しの間にたくさんの雨量が記録されるほどの雨が降りました。園でも、昨年、園の裏から、園内に水が浸入し、床上浸水がありました。そこで、建築業者から裏道の端に「ドレーン」という下水溝を作る計画を持ちかけられました。裏道のところには、普段から湧水が出ています。それを、ドレーンを通して下に流そうという計画です。そこで、私がこんな提案をしました。その溝は、ただの下水溝とするのではなく、水路にしてもらえないか。その水路は、途中でその幅を広くして、その縁はただのコンクリートではなく、なにか丸太とかにできないかと持ちかけたのです。そして、そこに鯉を飼いたいと言ったのです。そうです。あの津和野などにある鯉のいる水路です。そして、その鯉が糞をし、その糞が流れによって以前作った稲が植えてある水田に行き、その水がメダカのいる水路に流れていくことの計画です。そして、鯉の糞をカワニナが食べて、そのカワニナを蛍の幼虫が食べるのです。
 これは、川の営みであり、その営みが子どもの心に何かを訴えると思っています。蛍が飛ぶというのは夢ですが、水を使った計画は面白いですね。

庭と川” への5件のコメント

  1. 言われるように、水の流れが人に与える影響は大きいんでしょうね。例えば自然の川と人口的な川、自然の川でも上流と下流、受ける印象はずいぶん違います。しっくりくるものは人それぞれ違うでしょうが、あるのとないのとでは全然違ってきます。園庭も庭というくらいなので、水をどう利用するかをもっと考えなければいけません。
    それにしても鯉の計画、いろんなことを考えられるんですね。先日園で話していたんですが、いろんな課題に対してアイデアを出すとき、1つのアイデアが出た時点で安心してしまい(したくて)、そこで考えるのをやめてしまうことがよくあります。1つのアイデアでうまくいくことは実はあまりなく、いくつものアイデアが組み合わされて問題が上手く解決していくことが多いというのが自分の経験から学んだことです。1つアイデアが出た時点で考えるのをやめるのではなく、そこが考えるスタートと捉えるクセをつけようと思っています。そんな意味でも、鯉を飼って…というところまで広がっていく発想は勉強になります。津和野のような鯉のいる風景が新宿にできるのを楽しみにしておきます。

  2. 昨日の宇治平等院も鹿児島の仙巌園も訪れたことがあるのに、建物の動線に注目するでなく、曲水の庭に水の安らぎを感じるでもなく、ただ物見遊山の観光客であった自分が恥ずかしい。先生のような貪欲な好奇心と物事の本質に迫ろうとする探究心を持たないと天にかけのぼる龍にはなれない。八王子のせいがの森保育園にも天水を利用したビオトープがあって、自然の営みが体験できるようになっていましたが、いよいよ新宿せいがでもホタルが飛び交うような環境をつくるプロジェクトが始まるんでしょうか。夏の夕涼み会でホタルが飛び交う…そんな夢が実現すればいいですね。

  3. 私は水の中が好きみたいです。息子と行くプールでそのことを感じ、夏の帰省の折、家族と一緒に海に泳ぎに行き、そのことをまた確認します。その確認の度に自分がかつて水の中にいた、という感覚が甦るから不思議です。赤ちゃんの1日は進化過程の50万年に相当すると食育の講演で聴きました。だとするなら、私の原体験感覚も強ち間違いではないことが分かります。さて、「曲水の宴」です。私が中学時代から訪れている寝殿造庭園の跡地にも「曲水」の遺構が復元されています。そして最近では本当に「曲水の宴」を催しているとか。最近は同地を訪れておりませんから、いつかの機会に是非再訪してみたいと思いました。園の緑化計画に「蛍」計画?・・・「所属感」の深化ですね。

  4.  風景がとても美しい庭には、必ず池や川のような水が存在しています。川の流れを見ていると、とても癒されますし時間がたつのを忘れてしまうくらいです。あれが「f/1のゆらぎ」という物なのですね。実際に言葉知っていても、自分で体験してみないと分からないです。
     昔からビオトープなどがある公園は、決まって子ども達が楽しく遊んでいる姿を見かけます。私も小さい頃はそのうちの一人です。それだけ水という物は、子どもにとって興味が湧く遊び道具の一つであり、それは大人にも言えます。遊びだけでなく、庭園にも存在する事で、大きな役割もあります。もちろん昔から生活には必要不可欠な物です。藤森先生の保育園のように、子ども達には遊び以外に水を使った物を見せたりすることも、とても大切なことです。

  5. 「津和野のような」という字を見ただけで、地元のわたくしは感涙に咽んでおります。
    商工会や役場の方に、パワーポインターでこのブログを見せてあげたいくらいです。
    藤森先生が「津和野のような」と書いてくださると、きっと、急に検索エンジンで津和野→水路とアクセスが激増するのでしょう。
    その、津和野の水路のある殿町に歴史のあるカトリック教会がありますが、その裏に保育所が併設されており、築山と砂場を作らせていただき、この春に緑化と水路を作るご用命をいただきました。
    今回の「曲水の庭」がたいへんたいへん参考になりました。

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