昨日のブログで「知識を学ぶこと」ではなく、「人間としていかに生きるか」を学ぶことが本来の学問であると書きました。それは、実践が大切であるということです。こんな人がいました。庭の竹の理を窮めようと思って、庭前の竹を切って、七日七晩、竹の前に座り続け、その切り口をじっと見つめてみたところ、結局は事物内の「理」に至ることができませんでした。それどころか、ついに倒れてしまったのです。そこで彼は、心に「理」を求めるためには、じっと座って眺めているだけの学問ではだめで、仕事や日常生活の中での実践を通してこそわかってくるものではないかと思うのです。実践の重視です。
彼の名前は、実践儒学陽明学を起こした「王陽明」です。以前のブログでも取り上げた彼の命題である「知行合一」という言葉があります。この言葉は、吉田松陰が松下村塾の掛け軸に掲げてあった言葉です。知識を得た後で実践に移そうという考え(先知後行説)に対して、真に知るということは、知って終わりということではなく、その知識を持って必ず実践をするものです。ですから、「知」(知識)と「行」(実践)とは表裏一体で合一(合致)していなければならないと言う考えです。知って、行なってこそ、本当の知恵、真知であるのです。
しかし、ここで言う知識とは、端的に言えば認識ということであり、紙の上のものを暗記するということではないようです。私は、こう考えます。それは、心の中から生まれる探究心ではないかと思います。よく、学校における「教科」や、保育における「領域」とよばれるものは、学ぶ目的ではなく、物事を探求した結果、身に着くことがらを、それぞれ違う分野から部分的に切り取って整理をしたものにすぎないということです。ですから、探究心が生まれて時点から、「どうしてだろう?」「なんてきれいなのだろう!」という心が生まれてくるのです。ですから、心とは主となり、客とならざるものだから、心の理は心の中に見出される筈だと考えて「心即理」を唱えたのです。そして王陽明は、人間の心に「良知」の存在を認め、それを十分に発揮していくことの大切さを説いたのです。
そして、「良知を致す」ということで、私たちは日々の実践のなかで、自らの中に存在する「良知」が光り輝く様に日々心を磨く努力を積み重ねていかなければならないのです。具体的に王陽明は四箇教条という「立志」「勤学」「改過」「責善」を強調しています。
「志立たざれば、舵なき舟のごとく、銜なき馬のごとし。漂蕩奔逸して、ついにまた何の底るところかあらん」という「立志」、日々「立派に生きた先人」の姿を学んだり、先人の言葉を学び、魂に刻み付けていく事を行っていく事という「勤学」。そして、過ちを改め、それによって善をおこなうことを実践していくというものです。
実際は、何が過ちであるのか、何が善なのかは難しいことです。今回の保育所保育指針の改定の中で保育の目標として「子どもが現在を最も良く生き」という言葉は、本来は「子どもが現在を最も善く生き」ではないかといわれています。子どもに「善」を勧めていくために実践を積んでいくことが保育であるということなのでしょうか。
私は、深く学問したわけでもありませんので、中庸にしても、陽明学にしても、自分なりの独自の解釈をしてしまっているので、専門的に学んでいる人から見ると違っていることがあるかもしれませんが、実践から、実感していることです。
藤森先生の御講演をいつお聞きしても心の中にストンと落ちてくるのは、その保育論が身近な実践事例と共に哲学に裏付けられた人間学が展開されるからだと思っています。だから、私のような保育の門外漢でも納得できる。本当は『知って行ってこそ、本当の知恵』ですが、保育の実践はできなくても、せめて藤森先生の保育学をできるだけ多くの人に伝えていくことならできるかもしれません。今、この臥竜塾で学んだことを自分なりにまとめた通信をお得意先の園様に毎月送っています。拙い内容ですが、意外に反響があります。
実践から実感しているという言葉ですが、これが言えなければいけないんですよね。目指しているものに対して自分の実感として「これだ!」というものがまだつかめていないので、とにかくひたすら実践をしていかなければいけないんでしょう。ただ、保育に関してもっと学びたいという思いは、「なぜだろう?」「もっと知りたい」と自分でも不思議なくらい強く湧き出てきたものからスタートしていることなので、うまくいかなくても諦めることなくやってくることが出来ています。知行合一は当然大事ですが、その始まりもやはり大事なんだというのが、自分の実践からの唯一の実感です。
「知識」を得るには、机の上でひたすら暗記すれば身につくかもしれませんが、それは上辺だけの知識であって、真の知識ではないのですね。その為には「なぜだろう?」と不思議に思う気持ちから、探究心が生まれ、そして「実践」に移ることで真の知識が身につく。個人的な考えなので、これがブログの内容と重なっているか分かりませんが、机に向かってひたすら勉強して覚えた事は、時間がたつとすぐに忘れてしまいますが、実践から学ぶことは、不思議と忘れる事ができず、いつまでたっても身についています。これが真の知識であり、実践の大切さだと思いました。
実践からの解釈には説得力があります。「専門的に学んでいる人」ではありませんが、いわゆる「専門」で中庸を語ると恐らく訓詁学的な説明、すなわち誰がこう言ったとか、どの文献のここにこう書いてある、といった事を展開することが多いような気がします。そして自分の実践に即して述べ始めると実に薄っぺらな表現になります。なぜなら結果として実践より机上を大切にしているからです。そもそも孔子にしても王陽明にしても机上の人ではなかった。自らの経験を相対化し古今東西の人による経験を照らし合わせその上で文献口承を渉猟し思想体系を構築していったと思われるからです。王陽明の「知行合一」は吉田松陰のおかげで有名にはなったもののその真意は容易に体得できないはずです。なぜなら本当の実践を行った人のみに開かれている思想だからです。