また中庸

最近の園の保護者を見ていると、必死に育児をしようとしている人か、逆に優先順位として子どもよりも自分を上にしているのかと思う人がいます。仕事と子どものどちらを優先するか迷うのでしょう。また、この時期は、都会では保育園や学童クラブへの入園がなかなか難しく、困っている人が多いようです。入所できないとなると、確かに困るでしょうが、その状況ですぐに役所に苦情を言うとか、腹を立てる人がいます。しかし、私は、そんなことを権利として言うよりも、お互いに事情を話し合いながら、どんな方法があるえるのか、何を我慢して、何をかなえるのか、その話し合いの中から妥協点を見つけることが必要だと感じることがあります。何でもかんでもかなえるとか、100か0かではなく、50の道を見つけることも必要な気がすることが多いのです。
 最近、日本人は話し合いが下手だと言われます。それは、話し合いで自分の考えを相手に押しつけようとするとか、相手を屈服させようとすることが多く、お互いの話し合いの中から、自らの考えを深めるとか、話し合いの結果、新たなものを創造するとかということが苦手だということだと思います。今、政策上、提案されている「幼保一元化」の議論にしても、幼稚園にするのか、保育園にするのかというので「文化が違うので無理」ということになってしまい、それぞれの文化があるからこそ、それを活かした新たな文化を創造するのだという議論にならないのです。
 このような最近の状況をみると、あらためて少し前にテーマにしていた四書五経の中の「中庸」という概念が必要な気がします。まさに孔子が「最近、そのように考える人が少なくなった」と嘆いたことばが、今こそ当てはまる気がします。再度「中庸」を考えたくなりました。文庫で宇野哲人さんの「中庸」という本が出版されています。その本の序文を宇野哲人さんの息子さんで、儒教研究者で東京大学の名誉教授である宇野精一さんが書いています。
「中庸を得ている、とか、中庸が大切だ、とか言われる。その場合の中庸とは、足して二で割ったような、一種の平均的なことを意味することが多いようだ。(四書五経の)中庸とは、一般に考えられているのとは少し違って、その場、その時に、最も適切妥当なことである。だから本当の意味での中庸は、生易しいことではなく、常に中庸を得ることができるのは聖人だ、と言われる。けれども一面、中庸の庸は、普通のこと、当たり前のこと、という意味もあって、平凡な、当たり前のことの中にこそ、中庸はあると考えられているから、どんな人でも中庸を得ることができると言っている。」
「君子中庸,小人反中庸。君子之中庸也,君子而時中;小人之中庸也,小人而無忌憚也。」
君子といわれる人は、常に自らを省みることをして私に偏らないで、中庸を求めようとするものですが、小人といわれる人は、常に私心に惑わされ、少しも己の心に問うことをしないために、中庸に反するようなことをすると言っています。そして、君子が中庸の徳に順ずるのは、常に君子としてふるまい、どんな時でもその場に応じて偏らずにいられるからで、小人が中庸にそむくのは、小人らしいつまらない行動をして、慎みもなく、何でもあたりかまわずやってのけるからだと言っています。
 中庸の道は、平凡で当たり前の中にあるのに、どうして人としての道をなかなか行えないのでしょう。平常の難しさを感じます。

また中庸” への5件のコメント

  1. また中庸ということなので、あらためて中庸について考えさせてもらいました。中庸について、平均的なことを意味することとは違って、その場、その時に、最も適切妥当なことであるという説明は、イメージしやすくわかりやすかったです。でもこれが平常だとすると、自分の平常は本当の平常ではないかもしれません。また、話し合いとは自らの考えを深めるため、新たなものを創造するためだとすると、自分が行っている話し合いはまだまだそんなものではありません。様々な背景をもった人たちが共に生活するということは、こうした考えが根底になければどこかでおかしくなってしまうんでしょう。実践するとなると難しく、でも当たり前のことをこうして突きつけられると、様々なことを振り返るきっかけになります。以前は孔子の言葉が教育の中心だった理由がわかるような気がします。

  2. 今年もミュンヘンでの調査課題をいろいろと考えていますが、ミュンヘンのまちづくりの市民組織「ミュンヘンフォーラム」についても少し勉強しています。市民の代表の意見を都市計画の中に取り込んでゆくような制度ですが、地域の中での施設の建設から運営まで、市民の意見が反映されてゆく制度です。日本にも定着すると良いのですが・・・・。さまざまな場面において、公共利益を中心に、自分の意見が言えるような子供たちが多く育ってほしいと思います。

  3. 本日の「また中庸」もとても示唆に富んだお話です。そもそも日本人は、歴史的に見ても明治以降、中庸の精神を忘れて極端から極端へ走ってしまったのではないかと考えます。西欧列強の外圧に恐れをなして文明開化・富国強兵に走り、江戸時代の文化を捨てた。日清・日露の戦争の勝利に浮かれて自らの力を過信して、愚かな太平洋戦争を起こし、国がひとたび滅んでしまった。戦後は、国の復興のために高度経済成長をひた走った挙句、バブルがはじけたあとの長期的な景気低迷から脱却できないでいる。やっと実現した政権交代も、未熟でお粗末なマニフェストに縛られて予算が肥大化して、国民の不評を買っている。藤森先生が、論語を通して「中庸の精神」を訴えられている意味が少しばかりわかってきました。

  4. それぞれ互いの事情、というものがあるわけですから、「何を我慢して、何をかなえるのか」という落としどころを話し合いによって見つける、ことを訓練しないとどうやら「中庸」には到達できない感じがします。私たちがあるテーマで話し合いを行ったとして、ある主張に対する半主張を提示すると大抵の場合感情的対立に発展し「話し合い」にならなくなります。そして互いの価値観問題領域に踏み込みもはやデッドロック。「話し合いの結果、新たなものを創造するとかということが苦手」ですね。これは日本人に限ったことなのかそうではないのか。いずれにせよ、私たち日本人には「コミュニケーション力」が欠けています。すなわち相手をそのものとして認める、ということができないのでしょう。「中庸」はやはり「悟り」ですね。めざす道が中道。教育も道であるべきです。

  5.  藤森先生がブログを通して「中庸」について書かれていますが、何度も読むことで少しずつ中庸の事が自分なりに理解できるいようになってきました。相手と話し合うことは色々な場面であると思います。自分の考えが正しいからと言って、相手を押さえつけても、それは自己満足で終わってしまい、中庸の考えではないです。ただよく考えると、相手の意見をよく聞いて、お互いが納得する一番良い解決方法を出すのは、ブログの最後に書いてありますが、当たり前のことだと思います。

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