楽しむ2

論語の中では「楽しむ」という言葉がしばしば使われています。それは、いろいろな場面に使われていますが、もう少し考えてみたいと思います。
論語の最初の章は、學而に「學而時習之,不亦說乎 有朋自遠方來,不亦樂乎」とあります。最初の文から「楽しむ」が出てきます。孔子は、学ぶことによって、そして、それを繰り返して学びを深めることによっていろいろなことがわかってくるのは何とうれしいことか。また、同じように考える仲間が訪ねてきて、共に学び合うことは何と楽しいことであろうかと言っています。それを冒頭に論語では持ってくることに、全体の思想があります。学ぶこと、学び合うことこそ人生においての喜びであり、楽しさなのです。
最後の章は、堯曰に「不知命,無以為君子也。不知禮,無以立也。不知言,無以知人也。」とあります。学んでいても、天命を理解しなければ君子になれないのです。また、礼を知らなければ社会では通用しません。言葉を理解しなければ、人を知ることはできないのです。学ぶことは、天命を知り、礼を知り、言葉を知ることなのです。この最後と最後の文を読むことで、1章が、最後の章に結びついて完結することを表現しているのでしょう。そこで、楽しみを表しています。
雍也には、「知之者不如好之者,好之者不如樂之者」とまた「楽」が出てきます。物事を知っているということはとても重要なことですが、それはこれを好む者には及びません。しているというより、そのことが好きであるということのほうが重要です。しかし、これを好むことよりもそのことを楽しんでいることの方がもっと重要なことです。それは、その物事を理解するためには、それを知ることよりも好きになること、それよりもそれを楽しむことと言っています。「楽しむ」というのは、最終的な境地なのです。このことを、しばしば「知好楽」と呼ぶことがありますが、仕事やその他のことへの取り組み方を述べている、といわれています。このように、孔子は、「楽しむ」ということに価値を置いています。
 また、楽しむことに関して、こうも言っています。「子貢曰、貧而無諂、富而無驕、何如、子曰、可也、未若貧而楽道、富而好礼者也」子貢が孔子に聞いてみます。「貧乏であってもへつらわず、金持ちであっても威張らないというのは、どうでしょうか?」それに対して孔子はこう答えます。「その通りです。しかし、貧乏であっても道を楽しみ、金持ちであっても礼儀を好むというのには及ばない。」ただ、貧乏をへつらわないだけでなく、道義を楽しむことによって、貧富が関係なくなるのです。同様に、金持ちだから奢らないというだけでなく、礼を好むものでなければならないのです。ここに書かれているのは、「道を楽しむ」ということです。そして、「礼は好む」ものであり、強制されて行うものではないということを言っています。
 そんな道だから、もし「朝(あした)に道を聞き、夕べに死すとも可なり。」というほどになるのでしょう。
述而第七の十五には、こんな章があります。「子曰、飯疏食飮水、曲肱而枕之、樂亦在其中矣、不義而富且貴、於我如浮雲。」孔子は、「粗末な食事を食べて肘を枕に眠る、そんな生活の中にも楽しみはあるのです。逆に、不正に金を儲けて高い地位に登ったところで、そんな生き方は私にとっては浮雲のようにはかなく感じられるのです。」
 楽しみは、ずいぶんと高尚なところにあるのです。というより、私からすると、精神的なものですので、物質的なものとは比較できないものであり、その心がいろいろなことを学ぶ力になるのだということのような気がします。

楽しむ2” への4件のコメント

  1. 春の訪れを告げるまんさくの花も咲いて、季節は少しづつ冬から春に近づいてきています。いよいよ山登りの季節です。時々、友人から「しんどいのによく山に登りますね」と言われますが、「そこに大好きな山があるからだ」と答えるしかありません(笑)。たしかに山歩きは、息も上がって苦しいし、時には道に迷ったりもするし、決して楽ではありません。でも実はそんな時が一番楽しいんです。生きてる実感を味わえるからです。もちろん、頂上についた時はまた格別です。達成感で一杯になります。徳川家康は、「人生は重い荷物を背負って坂を登るようなものだ」と言ったそうですが、どんな大きな苦労も楽しみに変えていける人生でありたいと思います。

  2. 学ぶことに終りはないとよく言われますが、それが最高の喜びであるから学び続けることができるとも言えるのではないかと思っています。学び続けようという意欲が持てている現状は、ほんとうにありがたいことだと思います。意欲の低下が問題とされていますが、湧き出てくる意欲は本人の「好き」が根底にあるべきで、それはみんなが同じものであるわけはありません。その人の「好き」を認める、個性を認めることが、その先の「楽しむ」につながっていき意欲につながっていくことを、自分の言葉で人に伝えられるようになりたいと思っています。

  3. 「楽しみは、・・・私からすると、精神的なものですので・・・」と今回のブログにはあります。これは一つの解釈かもしれませんが、「楽」は、願いであり、その願いの成就、そして更に願い、成就、という未来志向の精神表現です。もう少し正確に申し上げると、現在を起点として未来へと向う、しかも明るく希望に満ち、より良い状況が志向されています。仏教思想によれば「楽」は「悟りへの道」そのものです。孔子の「楽」も同様だろうと思います。さらに「楽」は決して私的なことではなくきわめて「公的」と思われます。すなわち「楽」は「共生と貢献」を実現する「精神的基盤」を指すのだと思います。人と共に生きられ、そして人の役に立ったと実感する時、そこに「楽しむ」という気持ちがあるような気がします。

  4.  「楽しむ」という言葉を聞くと、とにかく自分が好きな事を集中していることを連想します。それを論語の中の「楽しむ」とは案外、自分の身近にあったと気付きました。「学びあうことの楽しさ」これは子ども達を見ても思いますし、現在の私の状況も同期達と保育について学びあって楽しんでいます。もちろん、保育を学ぶといっても机に向かってひたすら勉強するわけでもなく、子どもの姿を見て、子どもにとって良い環境や関わり方などを現場で学び、それを楽しんでいます。論語で「楽しむ」ことが最終的な境地と言われると一瞬は驚きますが、ブログをよく読むと孔子の言う「楽しむ」はもっと奥が深いものがありそうです。

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