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2010年02月28日 近頃思うこと

入試科目

 明日は、都立高校の合格発表日です。最近は、身の回りで高校入試をする人がいないので、私は特に実感がないのですが、その年齢の子がいる家庭では緊張しているでしょうね。ところで、今の都立高校入試の問題の解答が次の日の新聞に掲載されますが、英数国理社の5科目で入試を行う高校と、英数国の3科目で入試を行う高校があるようです。その科目数によって、調査書の配分が違うようですが、当日の学力検査(入試)と調査書の合計で合否を決めているようです。また、学校によっては、これに面接や実技を点数化して総合成績として合否を決定したり、作文の結果を点数化する学校もあるようです。
新聞によると、都教育委員会は25日、2012年度から全都立高校で日本史を必修科目とすることを正式に決めたようです。東京の近世以降の歴史を学ぶ独自の科目「江戸から東京へ(仮称)」も新設します。文部科学省の学習指導要領で日本史は選択科目ですが、都立高校の生徒は、指導要領で定めた「日本史A」「日本史B」に加え、今度から「江戸から東京へ」の中から少なくても1科目を履修することになります。この新設される「江戸から東京へ」の導入は各校の判断に委ねられ、学校の裁量で使える授業時間を利用した科目になるようです。その理由を、都教委は「日本人のアイデンティティーを育むには自国の歴史学習が不可欠」と説明し、近現代史の基本的な知識の習得に加え、「身近な歴史に接することで郷土愛を育んでもらう」ことも狙いのようです。東京都以外でも、公立高校での日本史必修化は横浜市教委が4月から、神奈川県教委が13年度から実施し、同県教委も郷土史など独自科目を、都教委と同じ手法で設ける方針のようです。
現在、文部科学省の学習指導要領では高校社会科の「地理歴史」で必修なのは世界史のみで、都教委の調査では、09年度に全日制都立校175校で日本史を独自に必修化していたのは83校(47%)だったそうです。25年度から始まる新学習指導要領でも必修は、世界史のみとなっています。世界史が必修で、日本史が選択とは不思議ですね。
 試験科目が増えるのは、生徒には大変かもしれません。必ずしも好きなことではないことまで試験のために覚えたり、勉強しなければならないからです。私は、都立高校出身ですが、受験科目は国、数、社、理、英、美、音、技、体の9科目でした。しかも、もちろん社会は、「地理」「日本史」「世界史」「公民」すべてでしたから、今から考えるとずいぶんと幅が広かったです。しかも、調査書による判定や、推薦制度などもなく、試験1発勝負でしたから、シビアでした。しかし、当時はそれが当たり前だと思っていましたから、特に大変だとか思ったことはありませんでした。しかも、私はあらゆることに興味を持ち、それを知りたくなるタイプなので、逆に大学入試もすべての範囲をテストしてくれたらいいのにと思ったほどでした。また、この9教科の試験勉強でいろいろな分野を幅広く知ったことが、今のブログの根底にある気がします。しかも、特別教科といわれる科目は、紙面でも勉強でしたから、逆に今に役に立っています。音楽の問題では、「階名を書きなさい」「音名を書きなさい」「移調しなさい」「転調しなさい」とか、必修鑑賞曲や必修歌唱曲の出だしの楽譜から「何の曲で誰の作曲家を書きなさい」とか、木管楽器と金管楽器を分けなさいなどでしたから、基本的には楽譜が読めないということはありませんでしたし、オーケストラを聴いても楽器名とか、曲が口ずさめたりします。音楽の目標が「生活を明るく潤いあるものとする」とありますが、私がかつてこのような受験勉強をしなかったら、音楽は身近なものになっていなかったかもしれません。
 新しく日本史を入れるとしたら、ただ覚えさせるとか、暗記させるのではなく、生活が豊かになるような学びをしてほしいと思います。

投稿者 fujimori : 21:46 | コメント (4)

2010年02月27日 近頃思うこと

漢方

 NHK大河つながりで各地を妻と歩いていますが、多分「山本勘助」の時だと思いますが、山梨県甲州市塩山を訪れた時です。その駅前に立派な屋敷がありました。そこは、重要文化財 旧高野家住宅で、通称「甘草屋敷」と呼ばれています。
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高野家は、江戸時代に薬用植物である甘草の栽培をして幕府に納めていた家で、古くから「甘草屋敷」と呼ばれてきれてきました。それは、高野家では、八代将軍徳川吉宗のころ、この屋敷内にあった甘草を見分した結果、幕府御用としてその栽培と管理が申し渡され、ここで栽培される甘草は、幕府官営の薬園で栽培するための補給源として、また薬種として幕府への上納を負うこととなりました。そのために、甘草園は年貢諸役を免除されたそうです。
ここの説明によると、「現在世界各地で用いられている甘草には、ウラルカンゾウ(東北甘草)、グラブラカンゾウ(西北甘草)などがあり、日本では年間約1万トンが中国などから輸入されている。このうち食品の甘味料などに3分の2が使われ、残り3分の1が薬用にされるが、甘味・生薬の成分とも根及びストロン(根茎)にふくまれるグリチルリチンである。薬用では主に漢方薬の原料として、厚生省指定漢方処方210品目中150処方(71%)に配合され、もっとも多用されている。」
この甘草の歴史は古く、世界では、紀元前のTheophrastの著書に紹介され、中国では神農草本経に記す最古の薬物の一つだそうです。日本には、奈良時代に生薬が入り、正倉院には、良質の皮去りカンゾウの現物が多量に保存されています。また平安時代には日本でも栽培しており、「延喜式」によれば 陸奥・出羽・常陸等から進献しています。であり、ヨーロッパから中国、日本まで広く使用されている薬物です。
甘草はいろいろな漢方に使われていますが、甘草1種類だけで作られている生薬が「甘草湯」です。これは、痛みを緩和する働きがあるので、のどの痛み、激しい咳き込み、胃痛などに適応します。先日、のどが非常に痛く、唾液を呑み込むだけでも大変だったのでこの「甘草湯」を飲んだところ、しばらくして痛みが全くなくなりました。喉が痛いので、その喉に直接何かつけたほうがいいと思ったのですが、それは対処療法で、甘草湯のほうが、もとから炎症を和らげ、痛みが治まるからといわれたのですが、なんでその薬を飲むと、体の一部分の喉に効くのか不思議でした。
先日、富山に行ったときに、ある飲食店に入った時、店の隅の机で薬箱の中身をチェックしている人を見ました。「富山の薬売り」です。箱の中で使った薬を補充しているのです。その薬を見ると、「葛根湯」という漢方薬がありました。富山空港にも特別に漢方の売り場があります。
漢方の特徴は、体全体をみるということで、体全体の調子を整え、病気を治していくために病気の症状だけでなく、一人ひとりの体質にも気をつけて使わなければなりません。このときの体の状態や体質をあらわすのが「証(しょう)」という概念だそうです。このような考え方は、西洋医学が臓器や組織に原因を求めていくのとは対照的だといわれています。漢方のよさは、薬そのものよりも、証にもとづき「人をみる」という、その考え方にあるとも言われています。最近は、「人をみる」のを、機械に頼っているところがありますね。

投稿者 fujimori : 23:05 | コメント (4)

2010年02月26日 講演先にて

手作り郷土

 いろいろな街に行くと、その町の顔があります。それは、様々な特徴を持っています。以前のブログで紹介した青森県の八戸港の蕪島は、ウミネコの一大繁殖地で、シーズンには3万羽を超え、「ミャー、ミャー」とまさに子猫そのものの鳴き声が波間に聞こえることから「日本の音風景百選」に選ばれています。また、平等院表参道の商店会約160mには多くのお茶屋が軒を連ね、茶を焙じる香ばしい香りが街角に漂っていることから「かおり風景百選」に選ばれています。また、昨年連れて行ってもらった奥能登の白米の千枚田は、「人と自然が織りなす日本の風景百選」に選ばれています。ここでは、高低差約50mの急斜地に小区画の水田が耕作されていて、平地が極めて少ない自然環境に立ち向かって生きてきた、奥能登の水田開発の歴史的遺産といえます。
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これもブログで紹介しましたが、私が以前「NPOフュージョン長池」の副理事長だった時に、この地域での活動が平成13年度都市景観大賞「美しいまちなみ賞」の大賞を受賞し、その受賞式に列席したことがあります。この賞は、空間の美しさに加えて、景観形成のための地元(公、民)の活動や、地域活性化・観光交流面への波及効果など、ハード・ソフト両面から様々な工夫や努力が行われている地区を総合的に評価されたものです。それは、当時、地域の景観の美しさではなく、地域の活動の美しさが評価されたとしてうれしかった思い出があります。
このように、美しさには、音であったり、かおりであったり、活動であったりすることがあります。今週初めに訪れた富山市八尾町は「手づくり郷土賞」を受賞しています。yatuomati.JPG
この賞は、地域の個性、魅力、活力を創出している良質な社会資本や活動を広く募集、発掘し、これらを全国に広く紹介することにより、社会資本整備にあたっての創意・工夫を促し、個性あふれ活力のある地域づくりに資することを目的として、昭和61年度に創設された国土交通大臣表彰制度です。
この八尾町は「越中八尾 おわら風の盆」として毎年たくさんの観光客が訪れるところです。その町並みは、「江戸時代につくられた当時のたたずまいを色濃く残し、どこか城下町の商人町を思わせる」といわれています。そこで行われる「おわら風の盆」は、毎年9月1日から3日にかけて行なわれている祭りで、越中おわら節の哀切感に満ちた旋律にのって、坂が多い町の道筋で無言の踊り手たちが洗練された踊りを披露します。地元の人の話では、艶やかで優雅な女踊り手は、編みがさに顔を隠し、声を出さず、未婚の25歳以下の女性に限ると言っていました。また、その調べが観光客を魅了する哀調のある音色を奏でる胡弓を、以前この地を訪れた時に、目の前で弾いてもらい、私も少し弾かせてもらう体験をしました。
この「おわら風の盆」には、たくさんの観光客が訪れるのに、普段の町には高山に見るような、また、金沢にあるようなしゃれたグッズの店や民芸品の店などがほとんどありません。地元に人に聞くと、それにはあるポリシーがあると言います。「八尾に暮らす人々が大切に守り育んできた民謡行事であり、町民の生命ともいうべき特別な存在です。ですから、全国に名の通った民謡行事としては観光イベント的な要素は少なく、したがってお越しいただいた皆様をもてなすことはあまり上手ではありません。」こんな思いが「手作り郷土賞」なのかもしれません。
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投稿者 fujimori : 23:02 | コメント (4)

2010年02月25日 講演先にて

融雪

 今年は東京ではよく雪が降りました。しかし、ここ2,3日は暖かい日が続いていて、もう春という感じです。しかし、東京では、毎年4月に入っても雪が降ることがありますので、油断はできません。といっても春の雪はすぐに溶けてしまい、あわいことから奈良時代から歌に詠まれました。この「あわい」というのは、最初は「淡い」ということではなく、うたかた(泡沫)のように消える雪ということで、「あわ(泡)ゆき」という表記で用いられました。また、万葉集には、あわゆきを「「沫雪」と書いて、16種も詠まれています。そして、平安時代になると、厳寒期の厚く白く降り積もる雪に較べてうっすらと淡い雪であるということで、「あは(淡)ゆき」と表記されるようになりました。古今集には、17首詠まれています。
 そんな春の雪ですが、今週初めに訪れた富山ではつい先週まで大雪が降っていたそうです。今年は雪が多かったそんな富山では、昨年末こんな記事が新聞に掲載されていました。「散水消雪一斉稼働で地下水位急激低下 富山県内市街地」というものです。「県内の住宅団地や商業施設などで消雪設備が普及する中、降雪時に設備が一斉に稼働することによって、市街地では地下水位が急激に低下している。大雪の峠を越えた20日も、富山市の一部で降雪前よりも10メートル以上低下し「安全水位」を下回った。現在のところ、地盤沈下などの被害は報告されていないが、県は設備の作動状況をこまめにチェックし、過剰に散水しないよう呼び掛けている。」
私は、東京生まれで東京育ちですので、このニュースを読んでもピンときません。それは、地面に埋められたパイプから水を出すことで、雪を溶かしている「散水消雪」という設備を知らないからです。雪がない中、水が噴き出ているその実物を見た時には少し興奮しました。急いで写真を撮りましたが、足に水がかかりそうで、気を使いました。sannsui.JPG
この噴き出ている水は地下水のため、地熱で温められ、県内では年間を通して約11~16度を保っているそうです。富山県では、道路などの消雪用ポンプは平成20年度までに住宅団地など1522カ所に設置されているようです。ずいぶんと狭い道にまで、その設備はされていました。それを見た時は、もう道には雪がなかったためか、そのあとすぐに止まってしまいました。大半の消雪装置は雪を感知すると、自動で作動するそうですが、よくセンサーが誤感知し、雪から雨に変わったり、気温が高く雪が積もる恐れがないのに、散水し続ける場合があるといいます。
このように散水式の融雪道路は, 道路の中央部分に水のパイプを通して, 数メートル間隔で取り付けたノズルから水を噴出させて 雪を溶かす方式で, 雪国では広くこの方式が使われていますが、もうひとつ、「無散水」式もあるようです。それは、舗装の下にパイプを通して 水を循環して熱交換する方式です。この方式は、水を循環利用できるメリットがありますが, 建設コストが高くつく欠点があるそうです。
そのほかにも、雪をカーボンブラックなどで黒く着色することで、太陽熱を吸収させて融雪する方法や、塩化カルシウムを主成分とした融雪剤を散布することによって凝固点降下が起こって融点が低下するため、雪を水へと変化させる方法などがあります。
雪国では、いろいろな工夫をして雪対策をしているのですね。

投稿者 fujimori : 21:38 | コメント (4)

2010年02月24日 講演先にて

機内

 私は、飛行機に乗る機会が多いのですが、最近の機内持ち込み手荷物の制限は困りました。というのは、今まで持っていたいくつかのスーツケースは、持ち込み可能の大きさよりほんの少し基準より厚さが大きいために、新しくスーツケースを買わなければならなくなったからです。また、私には関係ないのですが、昔は機内でたばこが吸えたのが、今は、トイレの中で吸っただけで飛行機は引き帰ってしまうほど絶対にダメになりました。吸わない私は、それはとてもありがたい話ですが、喫煙者にとっては、長距離の国際線などでは長い間吸わないのはつらいでしょうね。
 もうひとつ、乗る前にこんなアナウンスが流れます。「携帯電話は、航空機内では常にお使いいただけません。必ず電源をお切りください!」。また、機内に乗り込むと、「電波を発する機器は、離着陸時には電源を切ってください。」というアナウンスも流れます。2004年1月の改正航空法で機内迷惑行為の制限規定が新設されました。それは、携帯電話など通信機器の出す電波や、電子機器から漏れ出す電磁波が運航計器を誤作動させる恐れがあるためで、実際に「無線にノイズが入り交信不能になった」「機体が急に30度傾いた」「自動操縦の設定高度から400フィート逸脱した」「衝突防止装置が誤警告を発した」など、事故に直結するようなトラブルも起きたことがあるようです。違反すると最大50万円の罰金が科せられるほか、悪質な場合には、航空会社からそれ以降の搭乗を拒否されることもあるそうです。
 このような機内での使用制限が、改定されています。常時使用禁止品として、携帯電話(PHS含む)、トランシーバー、電子ゲーム(無線機能使用)、無線式マウス、ICタグ(電池式のみ)、無線機能付き歩数計、心拍測定計、腕時計、無線式自動車キー(作動のみ禁止)があり、離着陸時に使用禁止(安定飛行になったら使用できるもの)のものに、テレビ、ラジオ、ポケットベル、GPS受信機、ビデオカメラ、ビデオプレーヤー、DVDプレーヤー、デジタルカメラ、デジタルオーディオ機器、電池式ヘッドホン、電池式イヤホン、電子ゲーム(無線オフ)、パソコン(同)、電子手帳、電子辞書、プリンター、充電器、音声に反応する電子おもちゃです。しかし、ニンテンドーDSとPSPについては、無線機能を使ったゲーム機の接続が禁止ですが、パソコン同様に無線機能を切れば、離着陸時のみ電源を切り、安定飛行になれば使用できます。そして、電卓、シェーバー、カセットプレーヤーは、リスト外になりました。
 というわけで、私は、機内で安定飛行になるのを待って、急いでパソコンを使ってブログを書くことが多く、そのときには、また着陸体勢に入ると急いで電源を切ります。それは、デジタルカメラで写真を撮るときにもそうですが、いつもきわどいのが、安定飛行になるかならないころに真下に富士山が見えるので、便によって撮れる時と撮れない時があります。今週初めに富山に行ったのですが、行きに富士山がよく見えました。toyamafuji.JPG
今年は雪が降ることが多かったのですが、富士の高嶺にはもう雪が少なくなっていて、春の訪れを感じました。
 また、富山までの道のりは、長野県の上を通っていきますので、山頂に雪が積もっている山々の上を飛んでいきます。今回、諏訪湖はよくわかったのですが、そのほかの山々は何の山かがよくわからず、機内誌の地図で確かめたのですが、やはりわかりませんでした。
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また、富山に近づくと、新潟平野の田んぼにはまだだいぶ雪が残っています。そして、いよいよ立山連峰が見えてきました。とてもきれいでしたが、ちょうど着陸態勢に入りましたというアナウンスが流れ、カメラの電源を切らなくてはならず、その姿を目に焼き付けるしかありませんでした。

投稿者 fujimori : 22:01 | コメント (4)

2010年02月23日 講演先にて

長崎研修

今日の朝日新聞の天声人語にこんなことが書かれてありました。「〈江戸の敵(かたき)を長崎で討つ〉の例えは、本来は「長崎が討つ」だという説がある。江戸での見せ物興行で大阪の竹細工が大評判を呼び、地元勢は面目をつぶされる。ところが長崎からのガラス細工がさらなる人気を博し、江戸の職人たちも留飲を下げた、との由来である▼外国に開かれた長崎は先取の地でもあった。「長崎で討つ」となるとその意味は消え、意外な場所や筋違いのことで恨みを晴らす例えとなる。」
このたとえは、先日の日曜日に行われた長崎知事選の結果について、使われています。その日曜日に長崎にいました。よく長崎には行くのですが、毎回とても面白い体験をしますし、発見があります。今回、研修会場は日本で初めて国公立大学としては初めてのカタカナを含んだ名称を持った大学でした。今までも私立の大学にはカタカナ名のものがありました。その多くは、キリスト系の大学で、特にイメージもあるのか女子大に多いようです。たとえば、フェリス女学院大学、京都ノートルダム女子大学、ノートルダム清心女子大学、聖マリナンナ医科大学、聖マリア大学などです。今回会場として使用した大学は、長崎県により1999年に設置された「長崎シーボルト大学」です。もちろん、この名称は、鳴滝塾を設立したフィリップ・フランツ・フォン・シーボルトに因んでおり、長崎県民に募集して決定されたそうです。
しかし、この長崎シーボルト大学は閉学され、2008年、県立長崎シーボルト大学と長崎県立大学が統合され、新設大学として「長崎県立大学」が設置されました。この大学のキャンパスは、旧長崎県立大学のキャンパスを佐世保校、県立長崎シーボルト大学のキャンパスをシーボルト校としました。今回の会場が、そのシーボルト校でした。
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その校舎は「世界に向けて文化と情報を発信するバリアフリーの学舎」として、この地に誘致されたものです。そして、その学舎と通りをはさんだ小さな公園には、「古跡 町錬場」と書かれた碑があります。その裏には、「明治維新のころ大村藩が徴兵訓練をしたところといわれる。その後、青年団の運動場となったり、第二次大戦では、畑になったりした。」と書かれてあります。
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この大村藩は、今は、長崎県に編入されていますが、明治4年の廃藩置県の時には、大村県となっています。そんな調錬場の前に大学が立てられたのは、因縁があるのかもしれませんね。
そんな場所での研修会のために長崎空港に降りた時に、ちょうどランタン祭りの最中ということもあって航空会社からお菓子をもらいました。そこには、飴と「おたくさ」というパイが入っていました。
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このお菓子は、長崎からよくお土産にもらいます。この名前の由来は、文政6年(1823年)長崎に渡来したシーボルトに関係します。シーボルトは、来日早々長崎奉行の計らいで、出島を出て日本人患者を治療することを許されました。その患者の中に美しい女性がいました。シーボルトはこの若い女性に心を奪われたのですが、彼女の名前が「お滝さん」でした。そして、シーボルトと彼女との間に生まれたのが有名なイネで、彼女は日本人初の女医として知られています。そして、シーボルトは、初めて見た美しい花アジサイに、そのお滝さんから「おたくさ」という名前を付けて、ヨーロッパに紹介しました。これにちなんでアジサイの花のように焼きあげられてパイにこの名前を付けたのでしょう。
昼休みに研修会場から出て付近を歩きまわると、いろいろなつながりに出会います。

投稿者 fujimori : 23:30 | コメント (4)

2010年02月22日 近頃思うこと

少子

今年になって、NHKスペシャル“無縁社会”がシリーズで放映されています。この内容は、かなりショックです。この番組の趣旨として、こう書かれてあります。「自殺率が先進国の中でワースト2位の日本。NHKが全国の自治体に調査したところ、ここ数年「身元不明の自殺と見られる死者」や「行き倒れ死」など国の統計上ではカテゴライズされない「新たな死」が急増していることがわかってきた。なぜ誰にも知られず、引き取り手もないまま亡くなっていく人が増えているのか。「新たな死」の軌跡を丹念にたどっていくと、日本が急速に「無縁社会」ともいえる絆を失ってしまった社会に変わっている実態が浮き彫りになってきた。」この無縁社会は、「新たな死」を描いているだけでなく、今の日本における課題を浮き彫りにしています。そのような社会になってきたことの理由を、こう説明しています。「かつて日本社会を紡いできた「地縁」「血縁」といった地域や家族・親類との絆を失っていったのに加え、終身雇用が壊れ、会社との絆であった「社縁」までが失われたことによって生み出されていた。」そして、この無縁社会は、日本人がある意味選択し、そして構造改革の結果生み出されてしまったものとしています。
同じような問題が、最近経済が猛烈な勢いで成長している中国でも起きているようです。それは、一人っ子政策が導入されてから、30年が過ぎた現在のひずみのようです。この一人っ子政策は、一定の成果を収めたものの、中国社会に問題も生み出しています。例えば介護です。1人っ子同士が結婚して夫婦になると、夫婦2人だけで両方の両親4人の介護をしなければならず、実質的には妻1人で4人の両親を介護することになり、大変な負担になっているようです。
それ以上の問題は、両親2人、それぞれの祖父母4人でたった1人の子どもを大変可愛がるあまりに、子供が過保護に扱われ、甘やかされます。その結果、対人スキルが育たず、近年増えてきている1人っ子同士の結婚では、離婚率が増加しているという報告もあります。それは、中国人の結束の原動力である「家族の絆」までもが失われつつあるからのようです。家族のきずなが失われると、家庭も簡単に崩壊します。それが最近の離婚の多さの原因のようです。「中国離婚網」というメディアでは、08年8月8日に開幕した北京五輪にあやかって結婚したカップルが、1年経って続々と離婚届を提出する様子を伝えています。その原因は、「一人っ子なので自己中心的、些細な問題に耐えられない」と指摘する人もいます。
 しかし、この問題は、決して子ども自身の問題だけではないようです。そのように育ててしまった両親、教育、社会の問題があるようです。「育てたように育つ」という言葉ではありませんが、そのように育てられてしまった結果なのです。そして、それは、経済成長一辺倒で来た中国という社会であり、それに踊らされた大人たちだといいます。
 どうも、日本でも同じようなことが起きています。日本では一人っ子政策は行われていませんが、少子社会は、同じような問題を生み、バブルがはじけた後の問題が子どもに影響しているようです。
 日本も、中国も、国の将来のためにもう一度教育というものを見直し、社会の立て直しを図るでしょう。どちらが先に、改革をするでしょうか。

投稿者 fujimori : 22:45 | コメント (4)

2010年02月21日 近頃思うこと

偉大なる王

 「オーシャンズ」のような野生動物を描いた映画が話題になっていますが、野生動物を描いた小説にも傑作が数々あります。私が子どもの頃、図書室で借りて夢中になった物語のひとつに「シートン動物記」があります。この物語は、アメリカの博物学者アーネスト・トンプソン・シートンによって書かれたものですが、彼は主に動物作品を書いており、全部で55編もあるそうです。また、彼は、美術大学にも入学していますので、その物語の挿絵も彼自身で描いています。彼はどうしてそんなに野生動物に魅せられたのでしょうか。
彼は、全集の各巻の前書きで、野生動物について語っています。「物語の結末がすべて悲劇で終わっているということは、物語が真実を語ったものだという、何よりの証拠である。なぜなら野生動物の最後は常に悲劇的な終局を迎えるものだからである。」「威厳、優雅さ、知力、逆境の巧みな利用、反抗に基づく両極の悲哀などが、以前の本と同じ形で示されるであろう。」などは、彼の作品を読んでも感じることです。
私が覚えている有名な作品に「ロボ-コランポーの王様」という作品があります。この作品は、彼の出世作で「動物記」の代名詞的な作品ですが、その名前を聞いてわからない人が多いと思いますが、日本では一般的に知られた標題は「狼王ロボ」といいます。アメリカ合衆国西南部、ニューメキシコ州北部に、コランポーと呼ばれていた地があり、その地の王は、一匹の灰色オオカミでした。土地の人びとは、力と知恵を併せ持ち、並み外れて強い集団を軍隊のように統率する彼に畏敬の念を込めて「王様ロボ」と呼んだのです。この話も悲劇で終わるのですが、決してロボを悪者としては読まず、その威厳の素晴らしさに感動し、結末に何とも言えぬせつなさを感じたものでした。
日本でも、野生動物を描いたら世界にも引けを足らない人がいます。その人は、「椋鳩十」です。彼は、長野県に生まれ、自然に囲まれた環境と、山好きの父の影響で、幼い頃から自然や動物と親しむ生活を送ってきました。大学卒業後、鹿児島県に教員として赴任してから作家活動を始め、戦後、鹿児島県立図書館長となりましたので、彼の作品のはずいぶん鹿児島弁が出てくるようです。
数々の作品の中で私が印象に残っているのは、「片耳の大鹿」です。鹿児島県の屋久島で、少年たちはシカ狩りの名人吉助おじさんたちと、冬の山へ片耳をもがれたシカの大将を撃ちに行きます。ところが急にあらしになり、ずぶぬれになった一行8人はほら穴にもぐりこみますが、そこには仲間をつれてあらしをのがれた大シカがいました。少年たちは、思わず、シカの群れの中へもぐって、冷えきった体をあたため、命が助かるのです。この作品で、命の尊さと、シカと人間との心のかよいあいが描かれます。他にも教科書に取り上げられている「大造じいさんとガン」という作品もありますが、おじいさんとガンの関係が描かれています。
あと、特に印象に残っているのは、ニコライ・A. バイコフの作品「偉大なる王(わん)」です。この作品は、私が子どもの頃、誕生日プレゼントとして両親からもらった紙芝居で知りました。 誇り高い一頭のシベリア虎の物語で、威厳と力と英知を備えた王者になるまでの一生を、克明に描く長篇です。季節ごとに変化する森林の美しい描写とともに、野生動物の生態を活写する、動物文学の最高傑作といわれています。
どの作品も、どんな動物でも誇りと威厳を持ち、一生懸命仲間を守りながら生きているリーダーのあるべき姿を描いていて、学ぶことが多かった気がします。

投稿者 fujimori : 22:00 | コメント (4)

2010年02月20日 映画

自然の神秘

 私の園では、毎年テーマがあり、そのテーマにそって保育を展開します。昨年、一昨年は「自然」がテーマで、 夕涼み会では、「アース」という映画を上映しました。この映画は、製作5年、撮影日数のべ2000日、撮影地全世界200か所以上というスケールで、さまざまな生命が息づく地球の姿に、改めて地球をとりまく環境について考えさせられるものでした。
 今年話題になっている映画に「オーシャンズ」という映画があります。総制作費70億円かけてつくられた海洋ドキュメンタリーで、総撮影時間は469時間36分で、撮影期間に4年の歳月を費やし、撮影箇所は世界50ヶ所だそうです。ちょっと、「アース」には及びませんが、予告を見た限りでは、海を舞台として、様々な命の物語が描かれているようです。   すべての生き物の進化の源である海は、今でも地表面積の70%をしめています。その生みの中の世界で起きる現象を、海底、海中、そして空中からの奇跡的な映像で見せています。  少し前に、「WATARIDORI」という2001年にセザール賞編集賞を受賞した作品がありました。この映画は、1時間半ほどですが、世界20ヵ国以上で3年に及ぶ撮影、100種類以上の“渡り鳥”が北極を目ざし、また元の場所へ戻っていく旅の模様を克明に映し出しています。ひたすら鳥と一緒に渡っていくというイメージなので、評価は分かれたようでしたが、ほとんどCGを使わずに撮影されたため、訪ねた国は40カ国以上、スタッフとしては撮影のために特別に造られた超軽量航空機のパイロット17人、14人の写真監督、5人のアニメ映画監督、9人のフィクション映画監督、そして鳥類の専門家がいたそうです。
 この「WATARIDORI」も「オーシャンズ」のジャック・ペランという人が監督をしています。彼は、もともと映画俳優で、私が見た映画では、カトリーヌ・ドヌーヴとドヌーヴの実の姉であるフランソワーズ・ドルレアックが双子の姉妹を演じた「ロシュフォールの恋人たち」という1967年のフランスミュージカル映画があります。この映画は、昨年、やはりカトリーヌ・ドヌーヴ主演の映画「シェルブールの雨傘」製作45周年を記念し、日本で世界初となる「デジタルリマスター版」が特別上映されました。
 また、彼が監督の道に行くきっかけが、27歳の時に映画スタジオを立ち上げ、初プロデュース作品となるコスタ=ガヴラス監督の「Z」があります。この映画は、地中海沿岸の架空の国での話ですが、左派を率いる国会議員Z氏が暴漢によって暗殺され、その調査に乗り出した予審判事の話で、1969年度アカデミー外国語映画賞や編集賞を受賞しています。また、この映画では、Z氏は、イヴ・モンタンが演じていましたが、ジャック自身も新聞記者の役で出演していました。
 話は、もどして、最近は、このように自然を描いた映画が流行っています。テレビでもNHKでは「ダーウィンが来た!生きもの新伝説」という番組を2006年4月から今年で4年目に突入した自然番組があります。私が子どもの頃必ず見ていたテレビ番組が毎週金曜日20時から放送されていた「ディズニーランド」という番組がありましたが、そこでは、「未来の国」「おとぎの国」「冒険の国」を交替で放映していました。この「冒険の国」が自然を扱ったものでした。
 いつの時代でも、自然の神秘には、心が奪われるものです。

投稿者 fujimori : 23:40 | コメント (4)

2010年02月19日 講演先にて

温泉

 よく「国土地理院」という言葉を聞きますが、実際はどんな組織で、何をしているところか一般の人にはよくわからないところがあります。その一番大切な仕事は、「様々な観測に基づき、地球上における我が国の位置(経度・緯度・高さ)の基準を定めています」簡単に言うと、正確な日本の位置を決めているようです。それは、社会経済活動を円滑に行うためだと書かれてあります。
 実際は、どのようにして位置を決めているのかというと、星を利用した天文測量によってですが、それは明治25年(1892年)に日本独自の測地系に基づいて設置されているのですが、なんと、この日本独自の日本測地系から決めていたのを、世界共通の世界測地系によって決めるようになったのは、つい最近の平成14年(2002年)4月からだというのです。
 では、高さの基準はどのようにして定めているのかというと、東京湾での潮位観測結果をもとに、明治24年(1891年)に決められているそうです。そして、日本水準原点の標高は、当初24.5000mと定めていましたが、関東大震災により地殻変動が生じたため大正12年(1923年)に24.4140mに変更したようです。
 このように国土地理院では国土を測り、それを地図で表すことが仕事の中心ですが、今は、その地図もインターネットにより提供するようになっています。地図といえば、何の施設かを表す地図記号というものがあります。今、国土地理院で決められている地図記号は、全部で161種類です。この地図記号は外国にもあるのですが、そのものの形を記号にしたものが多いようですが、時代の変化とともに見直しが行われ、少しずつ形を変えてきているようです。また、時代によって新しく地図記号を追加したり、使われなくなった地図記号は削除されたりしています。また、記号の形は変わらなくても、呼び方が変わっているものも多くあります。風車や老人施設などの記号は、平成18年に生まれていますし、牧場は昭和40年に、塩田は昭和61年になくなっています。
 地図記号の中で、皆がよく知っている記号に温泉マークがあります。その由来には、「温泉の記号は、温泉法という法律で決められている温泉や鉱泉をあらわします。記号は、主な温泉のでているところの場所をあらわしますが、温泉のでている場所と浴場が離れている場合には、浴場の場所にも表示することがあります。この記号は、泉源の湯壺と湯けむりを組み合わせて記号にしています。」と書かれてありますが、意外と厳密な決まりがあるのですね。
ところで、先日の日曜日に訪れた群馬県磯部温泉は、1783年の浅間山の大噴火で湯量が増したといわれていますが、時代を経るに従って次第に少なくなっていっているそうです。また、温度も24℃しかないために、沸かして使っていましたが、最近、新しく掘られた新源泉はこれよりも温度が高く、52℃あるそうです。この町の通りの看板に「温泉記号発祥の地」と書かれてありました。
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それは、1661年に江戸幕府からだされた地図に2箇所温泉マークらしき記号が存在しているからです。このマークの発祥の説は何種かあるようですが、その記号が地図上に表れた年号を見ると、やはり磯部温泉が早いかもしれません。磯部駅ロータリーには、温泉マーク発祥の地の石碑が建っていました。
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2010年02月18日 講演先にて

 論語の第1章の中に書かれてありますが、楽しみなのは、「朋」と語りあうことだと言っていますが、この友とは、同じ門下生という同じ思いを持った人ということです。確かに、同じ思いを持った人と議論したり、意見を交わすことはとても楽しいことですし、学びも大きい気がします。しかし、それが長続きするのはとても難しいことでもあります。
 以前、九段を歩いていて、「硯友社跡」という看板を見つけました。
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この硯友社というのは、「文筆にかかわる友」という意味で、同じように硯を使う友ということです。この硯友社は、東京大学予備門の学生だった尾崎紅葉、山田美妙、石橋思案や、高等商業に学ぶ丸山九華らがつくった文学結社です。
尾崎紅葉が「硯友社」という名前を付けたのは、私はこんな理由があると思います。尾崎紅葉が「硯友社の沿革」を書いていますが、その中に、山田美妙の書いた小説「竪琴草子」に驚いた場面があります。「其の小説はアルフレッド大王の事蹟を仕組んだもので、文章は馬琴を学んで、実に好く出来て居て、私は舌を巻きました。」
山田が学んだ滝沢馬琴は、27才の時から、58才まで築土神社氏子内の元飯田町中坂下に居住していました。この築土神社は、ブログでも書きましたが、当時牛込にありましたが、今は、硯友社跡地のすぐ近くにあります。現在、中坂下(千代田区九段北1丁目5番地)の滝沢馬琴邸跡には、馬琴ゆかりの井戸が残り、この井戸で馬琴が硯に水を汲み筆を洗っていたことから、「硯の井戸」と呼ばれています。そんなことから、馬琴を学んでいた山田が硯友ということを思いついたのかもしれません。
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しかし、永遠に友でいるという意味で硯友社と称した尾崎と山田ですが、山田が社に無断で、他社で主に筆をとるようになったため、硯友社から離脱し、打撃を受けることになるのです。そんな硯友社ですが、離脱する前は、日本初の純文芸雑誌である「我楽多文庫」を創刊し、大きな反響を呼んで、川上眉山、巖谷小波、江見水蔭、挿絵の武内桂舟らが参加しています。その中で、山田や巌谷は言文一致体の小説を載せ、近代文体の確立にも貢献します。
この巌谷小波は、医者への道を歩ませられることを嫌い、周囲の反対の中で文学を志して進学を放棄し、この硯友社に入るのですが、のちに、近代日本児童文学史をひらく画期的作品を書き、その後も児童文学に専心し、種々の児童向けの雑誌や叢書を刊行しています。しかし、最近は、あまり評価されていません。彼の作品の多くは、博文館発行の雑誌「少年世界」に掲載されています。彼は、様々な作品を書きますが、有名な「桃太郎」や「花咲爺」や「舌切雀」などの民話や英雄譚の多くは彼の手によって、おとぎ話としてやさしい文章に再生され、小さな子どもたちにもなじみ深いお話としてと読まれるようになったために、児童文学の開拓者とも言われています。
巌谷小波は地域に伝わる民話を参集するために各地を訪れるのですが、「舌切り雀」の伝説が伝わるという磯部を訪れています。そこで、舌切雀伝説発祥の地とされ、巌谷小波がその時詠んだ句、「竹の春 雀千代ふる お宿かな」の句碑がある磯部温泉を、先週の日曜日に訪れました。
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2010年02月17日 近頃思うこと

楽しむ2

論語の中では「楽しむ」という言葉がしばしば使われています。それは、いろいろな場面に使われていますが、もう少し考えてみたいと思います。
論語の最初の章は、學而に「學而時習之,不亦說乎 有朋自遠方來,不亦樂乎」とあります。最初の文から「楽しむ」が出てきます。孔子は、学ぶことによって、そして、それを繰り返して学びを深めることによっていろいろなことがわかってくるのは何とうれしいことか。また、同じように考える仲間が訪ねてきて、共に学び合うことは何と楽しいことであろうかと言っています。それを冒頭に論語では持ってくることに、全体の思想があります。学ぶこと、学び合うことこそ人生においての喜びであり、楽しさなのです。
最後の章は、堯曰に「不知命,無以為君子也。不知禮,無以立也。不知言,無以知人也。」とあります。学んでいても、天命を理解しなければ君子になれないのです。また、礼を知らなければ社会では通用しません。言葉を理解しなければ、人を知ることはできないのです。学ぶことは、天命を知り、礼を知り、言葉を知ることなのです。この最後と最後の文を読むことで、1章が、最後の章に結びついて完結することを表現しているのでしょう。そこで、楽しみを表しています。
雍也には、「知之者不如好之者,好之者不如樂之者」とまた「楽」が出てきます。物事を知っているということはとても重要なことですが、それはこれを好む者には及びません。しているというより、そのことが好きであるということのほうが重要です。しかし、これを好むことよりもそのことを楽しんでいることの方がもっと重要なことです。それは、その物事を理解するためには、それを知ることよりも好きになること、それよりもそれを楽しむことと言っています。「楽しむ」というのは、最終的な境地なのです。このことを、しばしば「知好楽」と呼ぶことがありますが、仕事やその他のことへの取り組み方を述べている、といわれています。このように、孔子は、「楽しむ」ということに価値を置いています。
 また、楽しむことに関して、こうも言っています。「子貢曰、貧而無諂、富而無驕、何如、子曰、可也、未若貧而楽道、富而好礼者也」子貢が孔子に聞いてみます。「貧乏であってもへつらわず、金持ちであっても威張らないというのは、どうでしょうか?」それに対して孔子はこう答えます。「その通りです。しかし、貧乏であっても道を楽しみ、金持ちであっても礼儀を好むというのには及ばない。」ただ、貧乏をへつらわないだけでなく、道義を楽しむことによって、貧富が関係なくなるのです。同様に、金持ちだから奢らないというだけでなく、礼を好むものでなければならないのです。ここに書かれているのは、「道を楽しむ」ということです。そして、「礼は好む」ものであり、強制されて行うものではないということを言っています。
 そんな道だから、もし「朝(あした)に道を聞き、夕べに死すとも可なり。」というほどになるのでしょう。
述而第七の十五には、こんな章があります。「子曰、飯疏食飮水、曲肱而枕之、樂亦在其中矣、不義而富且貴、於我如浮雲。」孔子は、「粗末な食事を食べて肘を枕に眠る、そんな生活の中にも楽しみはあるのです。逆に、不正に金を儲けて高い地位に登ったところで、そんな生き方は私にとっては浮雲のようにはかなく感じられるのです。」
 楽しみは、ずいぶんと高尚なところにあるのです。というより、私からすると、精神的なものですので、物質的なものとは比較できないものであり、その心がいろいろなことを学ぶ力になるのだということのような気がします。

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2010年02月16日 

楽しむ1

 今、オリンピックでは毎日選手の健闘が報告されてきます。特に、今日はスピードスケートでいい成績を出しました。スピードスケートというと、今回はオリンピック選考で漏れ、引退を表明した清水宏保選手がいます。彼は、4度のオリンピック出場があり、長野で金、銅、ソルトレークで銀メダルを取っています。最近の日本人選手が、なかなかメダルを取れないニュースを聞くたびに、彼のすごさを痛感します。そんな彼が、私が普段から思っていたことを14日の読売新聞で語っていました。
 最近、オリンピックに参加する選手のコメントで「楽しんできます」という言葉を聞くことがあります。そんな時に、私は、一人の個人の楽しみに、多額な税金を使うことって、どういうことだろうと思ってしまうのです。今回の国母選手の服装騒ぎでも、ある新聞に「服装で、自分を主張したいのなら、プロになって、自分のお金で試合をするときにすればいいのではないか」と書いてありました。あの制服も、税金を使っているはずです。そして、かなりの選手団だけでなく、役員などのスタッフも大勢派遣されているはずです。多くの税金を使っていることに自覚を持ってほしいと思います。
 新聞で、清水さんはこう語っています。「“オリンピックを楽しもう”この言葉には色々な意味がある。でも、選手も、見る人も、“楽しむ”をはき違えてはいけない。五輪は決してお祭りではない。だから、場の空気を楽しんでは駄目だ。個々の選手に押し寄せるプレッシャーを楽しむべきだ。僕はよく言う。重圧とは、選手にとってサプリメントなんだよ、とね。五輪本番の試合モードに体を仕上げていくためには、欠かせない材料といえる。筋肉も関節も最終仕上げの段階に入った時、重圧という強烈な刺激が入ってこそ、本物の張りが出てくる。体がそうなれば、気持にも、緊張感がみなぎってくるのだ。選手には、その過程を楽しめと言いたい。」
「昨年、政府の事業仕分けを見ていて思った。企業やスポンサーの支援だけでなく、多額な税金が五輪選手にも投入されているのだなと。“国の代表”という使命感があれば、お祭りに浮かれることはない。若い選手には、俺には関係ないよ、という人がいるかもしれない。“無知”も成長への過程だろうが、“目立ちたいだけの五輪”は間違っていると指摘したい。」
彼の意思を継いだ選手が、今回のオリンピックで活躍したことはうれしいことです。それは、何も「お国のために頑張れ!」というつもりはありませんし、メダルを取ることだけが目標だと思っているわけではありません。その道を楽しむ姿が国民を感動させ、個々の人生に影響を与えるのです。

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2010年02月15日 近頃思うこと

実践

 昨日のブログで「知識を学ぶこと」ではなく、「人間としていかに生きるか」を学ぶことが本来の学問であると書きました。それは、実践が大切であるということです。こんな人がいました。庭の竹の理を窮めようと思って、庭前の竹を切って、七日七晩、竹の前に座り続け、その切り口をじっと見つめてみたところ、結局は事物内の「理」に至ることができませんでした。それどころか、ついに倒れてしまったのです。そこで彼は、心に「理」を求めるためには、じっと座って眺めているだけの学問ではだめで、仕事や日常生活の中での実践を通してこそわかってくるものではないかと思うのです。実践の重視です。
彼の名前は、実践儒学陽明学を起こした「王陽明」です。以前のブログでも取り上げた彼の命題である「知行合一」という言葉があります。この言葉は、吉田松陰が松下村塾の掛け軸に掲げてあった言葉です。知識を得た後で実践に移そうという考え(先知後行説)に対して、真に知るということは、知って終わりということではなく、その知識を持って必ず実践をするものです。ですから、「知」(知識)と「行」(実践)とは表裏一体で合一(合致)していなければならないと言う考えです。知って、行なってこそ、本当の知恵、真知であるのです。
しかし、ここで言う知識とは、端的に言えば認識ということであり、紙の上のものを暗記するということではないようです。私は、こう考えます。それは、心の中から生まれる探究心ではないかと思います。よく、学校における「教科」や、保育における「領域」とよばれるものは、学ぶ目的ではなく、物事を探求した結果、身に着くことがらを、それぞれ違う分野から部分的に切り取って整理をしたものにすぎないということです。ですから、探究心が生まれて時点から、「どうしてだろう?」「なんてきれいなのだろう!」という心が生まれてくるのです。ですから、心とは主となり、客とならざるものだから、心の理は心の中に見出される筈だと考えて「心即理」を唱えたのです。そして王陽明は、人間の心に「良知」の存在を認め、それを十分に発揮していくことの大切さを説いたのです。
そして、「良知を致す」ということで、私たちは日々の実践のなかで、自らの中に存在する「良知」が光り輝く様に日々心を磨く努力を積み重ねていかなければならないのです。具体的に王陽明は四箇教条という「立志」「勤学」「改過」「責善」を強調しています。
「志立たざれば、舵なき舟のごとく、銜なき馬のごとし。漂蕩奔逸して、ついにまた何の底るところかあらん」という「立志」、日々「立派に生きた先人」の姿を学んだり、先人の言葉を学び、魂に刻み付けていく事を行っていく事という「勤学」。そして、過ちを改め、それによって善をおこなうことを実践していくというものです。
実際は、何が過ちであるのか、何が善なのかは難しいことです。今回の保育所保育指針の改定の中で保育の目標として「子どもが現在を最も良く生き」という言葉は、本来は「子どもが現在を最も善く生き」ではないかといわれています。子どもに「善」を勧めていくために実践を積んでいくことが保育であるということなのでしょうか。
私は、深く学問したわけでもありませんので、中庸にしても、陽明学にしても、自分なりの独自の解釈をしてしまっているので、専門的に学んでいる人から見ると違っていることがあるかもしれませんが、実践から、実感していることです。

投稿者 fujimori : 22:46 | コメント (4)

2010年02月14日 近頃思うこと

またまた中庸

今の時代だからこそ、中庸の意味と、必要性と、求道の心を今一度考えないといけないのかもしれません。「子曰。道之不行也。我知之矣。知者過之。愚者不及也。道之不明也。我知之矣。賢者過之。不肖者不及也。人莫不飲食也。鮮能知味也。」
「なかなか人の道を実行するのは難しいものです。知者は、たくさんの知識を持っていますが、それにまかせて実践を軽視し、道などは行うに足りないものだと頭だけで考えてしまいがちです。一方、愚かな人は、理解が足りなくて、何をどう行えばいいのかの判断がつかず、実行が及ばないからである。これが、中庸の道が行われない理由です。また、賢いといわれる人は人情に通じすぎて道を行う必要がないと思ってしまい、愚かな人は理解が及ばないからです。人は誰でも飲んだり食べたりしますが、本当に味のわかる人は少ないものです。飲食は、毎日行われるものであり、生きる上で大切なことです。ですから、どんな人でも日常行っています。しかし、それを味わい、そこに意味を見出す人は少ないものです。食事は栄養の摂取ではなく、食の営みです。生きるということは栄養素を体に入れ、体を維持することではなく、道を歩むことです。
 よく、「知識を学ぶこと」ではなく、「人間としていかに生きるか」を学ぶことが本来の学問であるといわれます。文部科学省のHPで、OECD教育局・指標分析(PISA)課長のアンドレアスさんが国際的他学力調査についてのインタビューに答えています。「PISAは生徒が現代社会の課題にどれだけ準備できているかを測ります。学校の勉強をどれだけ習得しているかではなく、学んだ知識を道の新しい状況に応用できるのかを測るのです。生徒が基礎的な技能を持っているかを見ます。例えば、リテラシーです。情報にアクセスして活用し、様々な情報源から集約し、熟考する能力です。」そして、日本の子どもたちの学力の高さを評価しつつも、こんな課題を挙げています。「学習意欲の問題。学習は将来の人生に活かす必要があります。その明確な活用姿勢があまりない。知識や技能を、将来に機会につながるものとしてあまり見ていない。」知識、技能はそれを実践に使うから必要なのであり、その必要性を感じるからこそ意欲が生まれてくるのです。
「舜其大知也與!舜好問而好察邇言,隱惡而揚善,執其兩端,用其中於民,其斯以為舜乎!」孔子は、舜を偉大なる知者であるとたたえています。それは、知らないことは人に聞き、学ぼうと常にしており、つまらないと思われる意見に対してもそれを真摯に受け止め、それを戒めにするのです。そして、他人の悪を暴きたてるようなことはせず、逆に善に対してはそんな小さなことでもそれを認め、ほめたたえるのです。また、もし、部下が、極端に意見が分かれ、対立しているのを見ると、その両者の言い分をよく聞き、それを比較検討し、そのそれぞれの意見の妥当なものを取り入れ、それを採用したのです。白か黒かではなく、誰の意見かでもなく、その中庸の道を見つけようとしたのです。単に妥協点を見つけることでもなく、中道を見つけることです。もちろん、それは難しいことかもしれません。
いろいろなことを学ぶことによって、ただ人生を送るだけでなく、味わい深い人生を送りたいものです

投稿者 fujimori : 22:15 | コメント (4)

2010年02月13日 近頃思うこと

また中庸

最近の園の保護者を見ていると、必死に育児をしようとしている人か、逆に優先順位として子どもよりも自分を上にしているのかと思う人がいます。仕事と子どものどちらを優先するか迷うのでしょう。また、この時期は、都会では保育園や学童クラブへの入園がなかなか難しく、困っている人が多いようです。入所できないとなると、確かに困るでしょうが、その状況ですぐに役所に苦情を言うとか、腹を立てる人がいます。しかし、私は、そんなことを権利として言うよりも、お互いに事情を話し合いながら、どんな方法があるえるのか、何を我慢して、何をかなえるのか、その話し合いの中から妥協点を見つけることが必要だと感じることがあります。何でもかんでもかなえるとか、100か0かではなく、50の道を見つけることも必要な気がすることが多いのです。
 最近、日本人は話し合いが下手だと言われます。それは、話し合いで自分の考えを相手に押しつけようとするとか、相手を屈服させようとすることが多く、お互いの話し合いの中から、自らの考えを深めるとか、話し合いの結果、新たなものを創造するとかということが苦手だということだと思います。今、政策上、提案されている「幼保一元化」の議論にしても、幼稚園にするのか、保育園にするのかというので「文化が違うので無理」ということになってしまい、それぞれの文化があるからこそ、それを活かした新たな文化を創造するのだという議論にならないのです。
 このような最近の状況をみると、あらためて少し前にテーマにしていた四書五経の中の「中庸」という概念が必要な気がします。まさに孔子が「最近、そのように考える人が少なくなった」と嘆いたことばが、今こそ当てはまる気がします。再度「中庸」を考えたくなりました。文庫で宇野哲人さんの「中庸」という本が出版されています。その本の序文を宇野哲人さんの息子さんで、儒教研究者で東京大学の名誉教授である宇野精一さんが書いています。
「中庸を得ている、とか、中庸が大切だ、とか言われる。その場合の中庸とは、足して二で割ったような、一種の平均的なことを意味することが多いようだ。(四書五経の)中庸とは、一般に考えられているのとは少し違って、その場、その時に、最も適切妥当なことである。だから本当の意味での中庸は、生易しいことではなく、常に中庸を得ることができるのは聖人だ、と言われる。けれども一面、中庸の庸は、普通のこと、当たり前のこと、という意味もあって、平凡な、当たり前のことの中にこそ、中庸はあると考えられているから、どんな人でも中庸を得ることができると言っている。」
「君子中庸,小人反中庸。君子之中庸也,君子而時中;小人之中庸也,小人而無忌憚也。」
君子といわれる人は、常に自らを省みることをして私に偏らないで、中庸を求めようとするものですが、小人といわれる人は、常に私心に惑わされ、少しも己の心に問うことをしないために、中庸に反するようなことをすると言っています。そして、君子が中庸の徳に順ずるのは、常に君子としてふるまい、どんな時でもその場に応じて偏らずにいられるからで、小人が中庸にそむくのは、小人らしいつまらない行動をして、慎みもなく、何でもあたりかまわずやってのけるからだと言っています。
 中庸の道は、平凡で当たり前の中にあるのに、どうして人としての道をなかなか行えないのでしょう。平常の難しさを感じます。

投稿者 fujimori : 18:21 | コメント (5)

2010年02月12日 近頃思うこと

いよいよオリンピックですね。今年の開会式はどんな趣向でしょうか。第29回オリンピック競技会北京大会の開会式はすごかったですね。逆にあまりにすごかったために、オリンピックという祭典の意味など考えさせられました。もうひとつ、世界中をびっくりさせたというか、中国の変化に驚いたことがありました。それは、開会式が、中国の歴史や改革開放後の姿を絵巻物の形で演出した中で、沢山の孔子の弟子たちが、おのおの竹簡をもって登場し、「論語」の名文句の一つ「四海之内、皆兄弟也」(顔淵第十二)を唱えたことでした。そのあとも、中国古代の4大発明の一つである活字印刷をモチーフにした演出でしたが、画面に大きく映し出されたのは印刷に用いる字体の異なる「和」の活字だったのです。それがなぜ驚くのかというと、これもまた「論語」の理念「和為貴」(学而第一)を表現していたからです。
この開会式の中心であった「論語」は、もちろん孔子の言葉ですが、35年くらい前には、中国の思想のうち、「法家を善とし儒家を悪とし、孔子は極悪非道の人間とされ、その教えは封建的である」とした時期があったのです。それから何十年たって、世界中が注目する世界の祭典オリンピックの開会式の中で、「論語」を、中国文化の誇りとして紹介したのです。
 この「和為貴」ということは「(有子曰く、礼の用は、和を貴しと為す。」ということで、これは「礼を行うには和が根本になければならない」と説いた有子のことばです。その言葉は、まさにオリンピック精神にのっとるものです。その言葉は、私がブログで取り上げた中庸の中の「喜怒哀楽がまだ発していないところを、中という。現したものがことごとく、中そして節であるならば、それは和という。この世において、中は、大いなる本である。和は、求めるものに達することのできる道である。中和に至りて、この世は、落ち着き、あらゆる物が育つ。」の「和」にも通じるものです。この「和」は、「庸」に通じ「共生」に通じるのです。
「和」の字の偏であるノギヘンは「禾・か」と読み、よい穀物、特に稲の粒粒が充ち満ち一杯についた稲という意味を持っています。それに「口」がついているわけですから、「和」の原義は、味しい食べ物が口に入ると、人はみなにこやかになり、心が安らいで、和やかな気分になってくるということです。中国最古の文字解説書「説文解字」に拠れば、「和」は「相応也」とあるように、お互いにつりあって、ふさわしい心のあり方を指しています。「和気あいあい」という言葉がありますが、「和気」はお米を大事にする心がけと、人としてお互いが調和しあい、和み合っていくことが必要であることを説いているのです。
一方、中庸には「故君子和而不流」とあるように、「君子というのは、他に対し反発せず受け入れ、和するが、これに流されてしまう事はない」とも言っています。何でもかんでも自分の理論で相手をねじ伏せよう、自分の考えを押し通そうということではなく、お互いの調和の道を探るべきです。しかし、それは人の言いなりになるということではありません。ただ人の言いなりでは自分を見失い、かえって正しい道は見つかりにくくなってしまいます。孔子の言う「和而不同」と同様なことです。その時に「中庸」という道が必要になるのでしょう。

投稿者 fujimori : 22:26 | コメント (4)

2010年02月11日 講演先にて

足利

 伝統的工芸品で桐生織を紹介しましたが、この織物は桐生だけでなく、足利市にも伝わっています。今日は、足利市にある足利学校に行ってみました。最近、寺子屋についてのブログが多いのですが、寺子屋は江戸時代に庶民の子どもたちに対しての教育にずいぶんと貢献しました。しかし、もともとは、教育を受けることが出来るのは、ある一部の階級でしたが、日本では世界と比べて随分早いうちから下級武士や農民、商人など、あらゆる身分の少年達も教育を受けることができました。それは、室町時代からですが、それ以前は、僧侶に対して教育が行われていました。
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 その中で、足利学校は、日本で最も古い学校として知られています。足利学校の創建については、奈良時代の国学の遺制説、平安時代の小野篁説、鎌倉時代の足利義兼説などがありますが、室町以前であることは確かです。現在、はっきりしているのは、室町時代の1439年に、関東管領上杉憲実が、足利学校の再興のために書籍を寄進し、鎌倉円覚寺から僧快元を招いて初代の庠主とし、経営にあたらせたことが資料に残っているのです。「庠主」は「しょうしゅ」と読みますが、「庠」とは学校をさしますので、「庠主」とは校長を意味します。以後、この学校は学徒三千といわれるほどに隆盛していったそうです。その様子が、宣教師フランシスコ・ザビエルによって「日本国中最も大にして、最も有名な坂東の大学」と世界に紹介されました。そして、藩校になり、江戸時代の末期には「坂東の大学」と呼ばれるようになりました。しかし、明治5年に廃校になりました。その後眼自36年に遺跡図書館が開設され、書物が継承されています。ここには、今は国宝に指定された上杉憲実が寄進した書物も保存されています。また、現在の建物も大正4年に建てられ、市の重要文化財に指定されています。
 代々庠主が受け継がれ、今でもいて、いろいろな活動をしています。その主な活動は、当時から教育の中心であった「論語」を中心にしたものです。そこで、学校内には、孔子廟が造営されています。この廟は、4代目徳川家綱の時に造営され、中国明時代の聖廟を模したものと伝えられています。また、手前の方に孔子像も建てられています。
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 そのほかにも、いかにも論語を学んだ場所であることをうかがわせるものがあります。私はそれほど詳しくないのでよくわかりませんが、この学校の周りの町名は、「昌平」と書かれてありました。これはお茶の水にある湯島の聖堂に昌平坂学問所があると同じです。これは、孔子が生まれたのは、魯の国昌平郷掫邑(山東省曲阜)だからのような気がします。また、この学校に入るときに最初にくぐる門が「入徳門」と言います。これは、「儒教いう「仁・義・礼・知・信」の五徳を学びに入るという意味でしょうか。
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その次の門は、「学校門」というそのままです。面白いのは、この門をはいってすぐ右手にある松の木です。その名前は「字降松」(かなふりまつ)と言います。読めない字や意味のわからない言葉などを紙に書いて、この松の枝に結んでおくと翌日にはふりがなや注釈がついていたことからこのような名前が付けられたといわれています。これは伝説ですが、もし先生があとでそっとふりがなや注釈を付けて結んでおいてあげたとしたら素晴らしい先生ですね。今でも学校にそのような松の木があったらいいのにと思います。
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その次にある「杏壇門」と言いますが、この杏壇とは、孔子が弟子たちに教えた所に杏の木が植えられていたことに由来しています。
 この足利学校のチラシには、「自学自習の心を今に伝える教育の原点」と書かれてありますが、この心は伝わっているのでしょうか。

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2010年02月10日 近頃思うこと

冷蔵庫

 何かを保存しようとする時にすぐに冷蔵庫に入れようとします。園でも、何かをいただいたときに、すぐには食べないこともあり、冷蔵庫に保存します。そんな時、最近は、冷蔵庫に入れるか、冷凍庫に入れるかだいたいわかりますが、冷蔵庫がいいのか、そのままのほうがいいのかはよく分からないことがあります。個人の好みもありますが、たとえば、ビールは冷えたほうがおいしいと思いますが、海外の多くの国では、低温では香味が損なわれるといって常温で飲むようです。同じように、私は桃なども冷えたほうがおいしいので、冷蔵庫にしまいます。しかし、保存するうえでは、どちらの方がいいのでしょうか。
 いろいろな食べ物は、保存するときには原則冷蔵庫のほうがいいのですが、野菜や果物では、冷蔵庫に入れておいた方がいいのか、入れない方が長持ちするのか、あるいは冷蔵庫に入れるとして、どういうようにすればより長持ちするのかはその種類によって違うようです。また、一緒にした方がいいものと、別々にした方がいい場合もあります。その理由は、野菜や果物が呼吸するときに発生する「エチレンガス」にあります。これは植物の成熟促進ホルモンですので、傷みの原因になる半面、成熟させるにはいいのです。また、野菜を横置きするのと、縦置きするのでは、このエチレンガスの量にかなりの違いがあるそうです。
よくこのガスをだすので有名なのがりんご、メロン、青梅、桃、トマトなどです。ですから、野菜、特に葉ものなどのそばにはぜったいおかない方がいいそうです。逆に、バナナの側で保管すると、バナナの成熟が早く進みますし、キウイはあまくなるのをたすけます。また、じゃがいもの芽の生育をおさえる働きがあります。また、桃や西洋ナシ、プラム、アボガドなどエチレンが発生するものは、外に出して熟成させてから冷蔵庫の中に入れる方がいいようです。
冷蔵庫の中へ入れたほうがいいものの主なものは、アスパラガス、キャベツ、セロリ、さくらんぼ、ブドウ、ほうれん草などで、洗わずにそのまま冷蔵庫の中へ入れたほうがいいものは、ブルーベリー、ラズベリー、いちごなどで、洗わずにビニール袋の中に入れてから冷蔵庫の中へ入れたほうがいいものは、ブロッコリー、ニンジン、カリフラワー、トウモロコシ、レタスなどえ、紙袋に入れてから冷蔵庫の中へ入れたほうがいいものは、マッシュルームやオクラだそうです。
それに対して、冷蔵庫の中へ入れない方がいいものは、キュウリ、にんにく、ショウガ、グレープフルーツ、レモン、マンゴ、オレンジ、パパイヤ、コショウ、カキ、パイナップル、メロンなどだそうです。そして、夏場以外はいれないほうがいいものは、じゃがいも、サトイモ、タマネギなどの根菜類とか、ナス、トマトなどです。
他には、立てて保存したほうがいい野菜では、ほうれんそう、しゅんぎく、アスパラ、ねぎ、スイートコーンなどで、水分を与えないで保存したほうがいいものは、きゅうり、ナス、ブロッコリー、カリフラワー キャベツ、ピーマン等で、逆に水分を与えたほうがいいものは、ほうれんそう、小松菜、春菊などの葉野菜です。根菜類は、泥つきのままのほうが、長持ちするようです。
野菜や果物は生きています。どのように生かすかも知恵ですね。

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2010年02月09日 近頃思うこと

新しいデザイン

 先日、千葉に行くときに錦糸町という駅で快速に乗り換えるためにホームで待っていると、ビルの谷間にいま建設中の「東京スカイツリー」が見えました。
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私は、あまり千葉の方には行かないので、意外にもこのタワーを見たのは初めてです。ずいぶんできてきているのにびっくりしました。この東京スカイツリーのホームページは、新しいWEBデザインを感じます。というのは、基本的にどのページも映像なのです。
 まず、現在の高さが大きく表示されます。2月6日現在で289mだそうです。最終的には634mになる予定ですので、大体45%ほど出来上がった勘定になります。無料でダウンロードをすれば、自分のパソコンで、東京スカイツリーが建設される様子や現在の高さ、最新情報などが見られるデスクトップツールがあります。興味のある方は、パソコンを開くたびに、刻々と出来上がっていく姿を毎日眺めることができます。そして、WebTVでは、「東京スカイツリー特報」として東京スカイツリーの概要、デザイン、新しいまちづくりをはじめ、展望台からの壮大な眺望、隅田川を望む豊かな周辺環境、2005年のプロジェクト発足から現在に至るまでのハイライトや最新情報などを鮮明な動画で見ることができます。そして、「東京スカイツリーのまち」として、古くから人々に愛されてきた江戸の下町風情や四季折々の行事をはじめ、隅田川に架かる吾妻橋や駒形橋などの美しい橋の数々など、東京スカイツリーが建設されるまちの風景を見ることができます。そして、「Web Cam」では、建設の様子を、ウェブカメラの映像で見ることができます。
このタワーの最高高さについては、いろいろと面白いいきさつがあります。プロジェクト当初では、約610mでした。しかし、この高さですと、世界各地で高層建築物が計画、建設されているなかで、自立式電波塔として世界一にはなりそうにないということで、634mに変更しました。なんで世界一にならなければならないかというと、この東京スカイツリーは五重塔の心柱制振など古来の技を日本の最新技術で再現しているため、世界一となることで注目度が高まり、日本の文化や技術を世界に知ってもらおうという考えです。
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また、なんで中途半端な634という数字かというと、このように説明しています。「武蔵とは旧国名の一つで、東京、埼玉、神奈川の一部を含む大規模な地域を指します。このタワーが立つエリアは、歴史をひも解くとかつては武蔵の国でした。タワーからは武蔵の国を望むことができ、展望台に登ると目の前には、いにしえの風景がよみがえり、江戸の東、東京の東という歴史性や地域性に思いを馳せることができます。そこで、「634=むさし」という響きから、地域性や日本文化を想起させよう」という狙いのようです。
このタワーの基本コンセプトは、「下町~東京~日本へ広がる地域性」「江戸~現代~未来へつながる歴史性」「地球にやさしく環境時代にふさわしい象徴性」です。そして、カラーコンセプトとして、富士山の頂き・下町の心意気を示す纏(まとい)・お祭の幟(のぼり)などに使われ、日本的な潔さ・神聖さを想起させ、日本人の伝統的な美意識に通じる色としての白を基調に、藍染職人の技法に倣い、白に青みを加えています。また、白の語源は「シル(知)」・「シルシ(印)」であり、古くから他からの差異をはっきり認識させる色、シンボル性を想起させる色としています。
また、1日毎に交互に現れる新しいスタイルのライティングは、江戸で育まれてきた心意気の「粋」と、美意識の「雅」という2つのオペレーションで、「粋」の姿では、隅田川の水をモチーフとした淡いブルーの光で照らし、「雅」の姿では、構造体を衣に見立て、江戸紫をテーマカラーとし、金箔のようなきらめきのある光をバランスよくちりばめるようです。
江戸は、今や新しいデザインです。

投稿者 fujimori : 21:05 | コメント (4)

2010年02月08日 近頃思うこと

バンクーバー

 来週は、テレビも新聞も「バンクーバー」一色になるでしょうね。私は、30年ほど前にバンクーバーに行ったことがあります。それは、そのあと、そこから飛行機に1時間あまり乗ると着くカルガリーに行くためでした。カルガリーでは1988年に冬季オリンピックが開催されていますが、ロッキー山脈の麓とカナダ平原の間に位置し、氷河期の後に形成された湖に溜まった土砂が川に削られ、いくつもの丘が出来ているような場所です。ですから、そこからロッキー山脈とか、氷河に行ったのです。
また、バンクーバーへはまず、アメリカのシアトルで乗り換えていきました。ですから、バンクーバーは、シアトルとカルガリーの途中で立ち寄った街です。しかし、そこで宿泊をしたので、少し町を歩きました。その時の思い出がいくつかあります。
まず、町を歩いていると、アメリカ人の観光客に道を聞かれて焦った思い出です。どうも、現地の人だと思われたようでした。それは、たぶん私の顔がカナダの先住民族のカナダインディアンの顔をしていたからだったようです。カナダは、ずいぶんと昔から先住民族が住んでいたようです。今回のオリンピックのマスコットである3人の名前はSumi(スミ)、Quatchi(クワッチ)、Miga(ミガ)というのですが、スミは、 北米先住民の神話などにでてくるサンダーバードの羽を持つと言われている伝説の鳥です。また、バンクーバー冬季オリンピックのエンブレムのモチーフに選ばれたのは、INUKSHUK(イヌクシュク)という、カナダ先住民のイヌイット族が、石を人の形に積み重ねて作ったオブジェです。これを5色でカラフルに彩ったものを、この大会のマスコットとし、ILANAAQ(イラナーク)と名付けられましたが、これは、イヌイット語で「友愛・友だち」を意味するそうです。このように、先住民族を大切にしています。
もうひとつの思い出は、バンクーバーに行って食べるといいと言われてきたものが「ロブスター」でした。日本では、1990年ころにロブスターを食べさせるファミリーレストランができたのでなじみの食べ物になりましたが、私がカナダに行ったころは、まだ日本ではザリガニの大きいものというイメージでした。夜のレストランで、恐る恐る大きなアメリカンロブスターをいただいた覚えがあります。
もうひとつ、お土産に買うといいと言われてのが「ジンジャーチョコレート」でした。生姜入りチョコです。どうしてこれがバンクーバー土産なのかわかりませんが、もしかしたら、カナダドライジンジャーエールというように、カナダとジンジャーは相性がいいのかもいしれません。しかし、皆さんは、「ジンジャーエール」と「ジンジャエール」の二つの商標があるのをご存じでしょうか。「ジンジャーエール」の方は、コカ・コーラ社のカナダドライで、「ジンジャエール」の方は、アサヒ飲料のウィルキンソンです。
なぜ、カナダかというと1890年、カナダ人ジョン・J・マックローリンがトロントで生姜汁にフルーツジュースやフレーバーエキスを混ぜた飲料を製造し、ドラッグストアで売り出したのが始まりだからです。最近は、他にもジンジャー入りの飲み物が多くなりました。日本の生姜糖は今の季節にはうってつけですし、ジンジャーティー、ジンジャークッキーなどがありますが、最近、キャラメルジンジャーコーヒーというものを飲みました。これは、家庭でも簡単に作れますので試してみてください。カップにミルクキャラメル、せん切りにしたクリスタルジンジャー、牛乳を入れて、電子レンジで加熱し、湯で溶いたインスタントコーヒーを加えてよく混ぜ、好みでシナモンをふれば出来上がりです。体が温まり、冬の飲み物に最適です。

投稿者 fujimori : 23:12 | コメント (4)

2010年02月07日 近頃思うこと

冬の夜

 ここ数日は、東京では寒波が勢いづいて、寒い日が続いています。先日、立春は冬と春の分かれる節目の日である「節分」が終わり、その翌日が「寒さがあけて春に入る日」いわば春の初日である「立春」でした。このように、暦の上で春になった途端に寒波が勢いづき、新潟、富山を中心に日本海側の山沿いでは大雪となっているだけでなく、雪雲は太平洋側でも覆っているようです。仙台で5cmの積雪(昨日正午)、名古屋周辺や北関東の平野部などでも、一部で雪となりました。これは、強い寒気が通過している最中に、雪雲に発達したからのようです。ニュースを見ると、アメリカでもワシントンなど北東部が、寒波に見舞われているようです。しかし、なかなか思うようにいかないのが「自然」です。北アメリカ大陸の西部には、まともな寒波はあまり来ていないようで、五日後、冬季オリンピックが開幕するカナダのバンクーバー周辺では、モーグルやスノーボードなどが行われる標高の低い会場は雪不足だそうです。しかも、この先、開幕まで寒気らしい寒気はやってこないようですし、開幕後も、少なくとも1週間は、まともな寒気は来ないようなので、足りない雪は人工雪を降らせないとならないようです。
 そんな寒い冬ですが、最近、私は夜帰るときに1時間くらい歩いています。大体目安として1日1万歩としたら、そのくらい帰りに歩かないとその歩数にならないからです。そんな時に寒い半面、冬の星空はとてもきれいです。冬の大三角形をはじめとして明るい星がいくつも夜空を飾ります。それらの星は、このブログによく登場する星々です。星座も、オリオン座をはじめとして、すばるなど東西ともに有名な星座も並びます。
その中でひときわ明るい星が、おおいぬ座の1等星「シリウス」で、マイナス1.4等と,全天で最も明るい恒星で、東京でも容易に見つけることができます。シリウスの語源はギリシア語の「焼きこがすもの」という意味ですが、まさに天を焦がしているようです。この明るさは、太陽の数十倍も明るいのですが、それだけでなく、地球に近いということが明るく見える理由です。その距離はわずか8.6光年で、太陽系からの距離ランキングでは第6位,肉眼で見える恒星としては第2位です。
先日、千葉の九十九里町に行ってきました。この町は、房総半島の外房にあるのですが、南端にある布良(めら)の地名に由来した冬に見える「布良星」という星があります。それは、この布良町より南に行かなければ見ることができない星という意味でしょうか、関東地方では水平線ぎりぎりに出現するという特性があり、古くから沿岸漁業を生活の糧としてきた人びとにとっては、まれに見ることのできる怪しげな星として、あるいは遥か南方の沖合を意識させる星として捉えられてきたようです。
実は、この星は、カノープスと呼ばれ、-0.7等の白い恒星で、その明るさはシリウスについで恒星として全天で2番目に明るい星です。しかし、北半球ではあまり高く昇ることのないため、南の地平線すれすれに現れる奇妙な赤い星として知られるようになりました。カノープスは優秀な水先案内人であるギリシアの船乗りからとられた名前です。中国ではこの星を、「南極老人星」や「寿星」と呼んでいます。南極老人とは、日本の七福神の寿老人あるいは福禄寿の元になった神様で、長寿をつかさどるとされてきました。そのため、この星を見ることは縁起がよいとされ、特に、一目見ると寿命がのびるという話です。
東京ではほとんど見ることができないかもしれませんが、関東以南に行ったときに、ぜひ見つけたい星です。

投稿者 fujimori : 21:52 | コメント (4)

2010年02月06日 近頃思うこと

庭と川

 庭園の演出で欠かせないひとつが「水」です。手水鉢のような小さなものから、池や川なども庭園に意味を持たせます。なぜ、庭園に水が欠かせなかったかということを「庭と日本人」のなかで上田篤さんは「日本人のメンタリティの底に水を恋う意識があったから」ではないかと推測しています。その気持ちは、同じ上田さんの著書「日本の都市は海からつくられた」の中で、「日本人は縄文時代の1万年以上をほとんど海辺で生活してきた。弥生時代になって稲作をはじめても、おおくは海岸の低湿地に稲を植えて、近くの洲島に生活の本拠をおいた。つまりながらくのあいだ、海辺が人々の生活空間だった。そういう海辺の生活空間への回帰願望が、人々の心のなかにいつまでも生きつづけてきたのではなかったか?」と分析しています。それもあるでしょうが、もうひとつ精神的に水の流れや、その音に癒しを感じるということもあるでしょう。それは、人間は胎児の時、母親の胎内で羊水という小さな海で過ごしているからといわれていますし、私たちの身体の半分以上が水で出来ていると言う事もあると言われています。また、そのゆらぎには、「1/fゆらぎ」という人間の心をリラックスさせる効果のある波形があるのです。
 「庭と日本人」のなかで「人々の願望を示す水景が、庭の遺構から発掘されている。それは川だ。では、その川で何をしたかというと、陰暦3月3日に天皇や貴族が庭園のなかの曲がりくねった川のそばにすわって、上流から流れてくる盃がまえをとおりすぎないうちに歌をよみ、盃の酒をのんでつぎの人にながす。という遊びだった。「曲水の宴」といわれる。」
一昨年、鹿児島の「仙巌園」を訪れた時に、曲水の庭を見ました。kyokusui.JPG
これは、1959年に発掘されたもので、現存する国内の曲水の庭の遺構の中でも最大のもので、建造当時の様子が良好に保存されている貴重な文化財として高く評価されているものです。その流れは、そこで曲水の宴が行われたであろうという映像が浮かぶだけでなく、曲水と言われるように曲がりくねった川の流れは、庭を切り取り、そこに変化を持たせ、その変化がある動きを作り、その動きがかえって安定をもたらします。
 私の園で、湧水を利用して「ししおどし」を作りました。それは、水の流れを音として強調して五感に訴えようとした試みです。今年は、また新たな試みを計画しています。
 東京では、ここ数年、ゲリラ豪雨といわれる少しの間にたくさんの雨量が記録されるほどの雨が降りました。園でも、昨年、園の裏から、園内に水が浸入し、床上浸水がありました。そこで、建築業者から裏道の端に「ドレーン」という下水溝を作る計画を持ちかけられました。裏道のところには、普段から湧水が出ています。それを、ドレーンを通して下に流そうという計画です。そこで、私がこんな提案をしました。その溝は、ただの下水溝とするのではなく、水路にしてもらえないか。その水路は、途中でその幅を広くして、その縁はただのコンクリートではなく、なにか丸太とかにできないかと持ちかけたのです。そして、そこに鯉を飼いたいと言ったのです。そうです。あの津和野などにある鯉のいる水路です。そして、その鯉が糞をし、その糞が流れによって以前作った稲が植えてある水田に行き、その水がメダカのいる水路に流れていくことの計画です。そして、鯉の糞をカワニナが食べて、そのカワニナを蛍の幼虫が食べるのです。
 これは、川の営みであり、その営みが子どもの心に何かを訴えると思っています。蛍が飛ぶというのは夢ですが、水を使った計画は面白いですね。

投稿者 fujimori : 20:53 | コメント (5)

2010年02月05日 近頃思うこと

演出

 園に見学者がほぼ毎日見えます。その方々を園内に招き入れるルートがいくつかあります。それは、来客の目的によって園児と動線を分けるためです。当然、業者の動線もあります。それは、動線というように単に入口が違うというだけでなく、入口に至るまでの経路も重要になるのです。そして、その入り口から部屋に通すための動線もあります。昨年、私の園に大臣が見えた時には、事前に動線計画の打ち合わせをしました。また、その後、警察署の方々に依る動線チェックを行いました。その動線チェックは、それぞれの担当によってポイントが違うためです。私が決めるのは、どこをどのような順序で案内すればより効果的かを考えることであり、事前チェックは、歩く途中での付き添いや取材者や、大臣の位置の確認、警察では警護の在り方からのチェックです。
 寺や神社は、参道と呼ばれるそこにお参りするための動線から、ありがたさを増すように計画されていることが多いようです。それは、下に玉砂利が敷かれているということや、両脇を杉の木が植えてあるというのもそういう演出のひとつでしょう。手前の方に鳥居があり、まずそこをくぐらせるというのもある意味では演出かもしれません。一昨日の近くの神社への節分会参加でも、まず、鳥居をくぐります。
昨年末に、妻と宇治の「平等院鳳凰堂」に行ってきました。そこへの参道について、上田篤さんが「庭と日本人」の中で、こう紹介しています。
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「京都の川はいっぱんに北から南に流れるが、宇治川は地勢上、一時、南から北に向かう。ために京都から宇治にやってくる人は、宇治が京都の東南にあるにもかかわらず、宇治にいくのに宇治川を西北から東南にわたるのではなく、逆に東北から西南に向いてわたる、という体験をする。その宇治川を渡る手前の堤から川むこうをながめると、平等院鳳凰堂がみえる。それは西の方向である。極楽浄土で説法をしておられる阿弥陀さまの方角だ。そして夕暮どき鳳凰堂に灯がはいると、夕日をバックに西方の極楽浄土の阿弥陀さまが鳳凰堂の格子窓のなかに姿をあらわす。という仕組みになる。」
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なんともにくい演出です。太陽を背にして建つ鳳凰堂は、光を放っているかのように見えるのですが、逆に写真を撮ろうとすると、どうしても逆光になってしまって真黒になってしまい、なかなか美しい姿をとることができませんでした。また、その前にある池の演出があります。「さて平等院のなかにはいる。鳳凰堂のまえの阿字池の岸に立つ。すると水面に阿弥陀さまが大きくせまってくる。こういう阿弥陀さまとの対面は、庶民にとっては至福のときだったろう。仏を心のなかで念ずるのを「念仏」、心のなかで観るのを「観仏」というが、ほかに「見仏」ということがある。じぶんの目でじかに仏身を見ることだ。ふつうに寺の本堂で仏像をおがむのも見仏であるが、するとこれは「最高の見仏」ではないか。この「最高の見仏」を保証するものが鳳凰堂の庭の阿字池である。」
この池にハスの花を咲かせ、極楽浄土の効果をより上げていたであろうこともわかっているそうです。このもとの構図は、「浄土曼荼羅図」だそうで、そこには宝池があって、多数の菩薩がハスの花のうえにすわって、うしろに中島があって弥陀三尊がいるというものです。
空間演出の効果、動線の工夫、部屋の方角、目的は違いますが、保育室にもそんな配慮や工夫が必要です。

投稿者 fujimori : 21:31 | コメント (4)

2010年02月04日 江戸文化

氷川

横浜市指定有形文化財にも指定され、横浜市山下公園前の横浜港に係留されている「日本郵船氷川丸があります。この氷川丸という船名は、埼玉県さいたま市大宮区にある氷川神社に由来しています。それは、この船のブリッジの神棚に氷川神社の祭神が勧請されていたからです。この氷川神社は、スサノオを主祭神とする氷川信仰の神社で、大宮を総本社として、全国260以上もあるようです。そのひとつが、私の園の近くにある落合氷川神社です。ここは、八岐大蛇退治の物語で有名な「素盞鳴尊」と、その妻である「稲田姫命」と、別名を大国主命であり、大黒様と呼ばれている「大己貴命」を祭ってあります。その中で、高田の氷川神社が素戔嗚尊を主神とするため「男体の宮」と呼ばれているのに対して、こちらはその妻の奇稲田姫命を主神とするため「女体の宮」といわれています。
この氷川神社の創建は相当に古く、孝昭天皇の時代だといわれていますが、鳥居は第二次大戦で焼けてしまい、再建されたものだそうです。この神社の面白いのは、入口に対の狛犬があるのですが、左側の狛犬は一匹ではなく、下から子どもの狛犬が見上げている像なのです。自分の子どもに厳しい試練を与えて、立派な人間に育て上げることのたとえである「獅子の子落とし」を表しているのでしょうか。このような狛犬は、赤坂の氷川神社をはじめとして、何箇所かにあるようです
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昨日、この神社で行われた「節分祭」に年長の園児と行ってきました。それは、境内での豆まきへの参加だけではなく、室内で神楽を見るためです。神楽とは、神道の神事において神に奉納するために奏される歌舞で、宮中で行われていた神楽とは別に「里神楽」というものがあります。里神楽とは、神社の祭礼を中心に、神社の神楽殿などで行われている芸能です。この中で有名なのは、島根などで行われている「石見神楽」ですが、「江戸里神楽」というのもあります。この江戸里神楽にも大きく分けて江戸流と相模流の二つの流派があります。今回見せていただいたのは、相模流の代表的団体の一つである「はぎわら会」の里神楽です。里神楽の音楽は、笛、大拍子、大太鼓などを中心に演奏し、演者は、面、装束を付け、身振り、手振りによる表現で演じます。台詞のない、無言劇であることは里神楽の特徴の一つです。演目には、「古事記」「日本書紀」といった日本の古典神話を題材とした神代神楽、「お伽草紙」を題材としたお伽神楽、能や歌舞伎の演目を素材にした「現代神楽」がありますが、今回見たのは、おめでたいということもあり、相模流でしか演じていない「七福神」もので、打ち出の小槌を持った大黒様とひょっとこ面の従者が演じるものでした。
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 里神楽は、能、狂言、歌舞伎などの流行を取り入れたり、江戸で興業された壬生狂言にも影響を受けるなど、各時代に対応した発展をしつつ、現在に至っていると言われています。はぎわら会が伝承する相模流里神楽は、江戸時代中期に発展した里神楽が相模地方に伝わったものであるといわれています。
 また、今回、里神楽以外にも、寿獅子を見ることもできましたが、これも、はぎわら会で伝承し、各行事やイベントなど幅広い場で演じているようです。
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それらの活動により、はぎわら会は1991年に新宿区より無形民俗文化財の指定を受けています。
 今年は、賀詞交歓会から始まり、どうも日本伝統に縁があるようです。

投稿者 fujimori : 21:03 | コメント (4)

2010年02月03日 近頃思うこと

伝統

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日本の伝統的工芸品に指定されているものを見ると211品目の中で一番多いのは、「織物」で33品目です。やはり、衣食住は人間が生活するうえで欠かせないものだったからでしょうし、その原料は、その地域の植物や動物などから作られるために、伝統として伝わっていくのでしょう。
 その指定された織物のひとつに私の住んでいる八王子のものがあります。それは「多摩織」と呼ばれるもので、現在、多摩織は、八王子市そしてあきるの市の一部の地域で作られています。企業数としては85箇所あります。現在の八王子にあたる地域では、平安時代末頃から絹が織られており、滝山紬や横山紬といった織物がありました。多摩の丘陵には遥か昔から桑の木が生え、土地の人々はその葉を蚕に与えて繭を作らせました。平安時代初頭の文献には、この一帯は生糸や絹の産地として記されています。室町時代後期、多摩川のほとりにやってきた北条氏が、領民の産業として奨励したことで産地として形が整いました。以前のブログでも紹介しましたが、八王子は「桑の都」ということで桑都(そうと)とも呼ばれます。駅ロータリーの名前は「マルベリーブリッジ」、そこから北に延びる道路の街路樹は桑の木です。
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そして、その絹を横浜から海外に輸出するために運んだ道が「絹の道」として残っています。江戸時代には定期的に絹市が立ち、地元だけでなく周辺地域からも生糸や繭、絹織物などが集まりました。
八王子織物は、明治時代に入ると文明開化によって技術が急速に発展する中で、全国各地の産地から積極的に織物技術を取り入れたり、さらに独自に技術を開発したりすることによって近代化を図り、現代産業への転身していったのですが、数百年の歴史を伝える織物の技法も守り続けました。そして、伝統の技を駆使して作られる織物は「多摩織」と名付けられ、1980年(昭和55年)に、国の伝統的工芸品に指定されているのです。
 伝統工芸は、その地域の歴史と、その位置により、その独自性を深めていきます。「八王子織物」とは、もとは周辺の村で織られ、八王子の市に集められた織物のことでした。その織物は、桐生や足利などの織物技術の先進地や、江戸という大消費地に近く、織物業が発展するにために、地理的にも有利な条件がそろっていたのです。この桐生、足利で織られていた織物も、「桐生織」として伝統的工芸品に指定されています。
桐生織の歴史は、また違ったものがあります。資料によると、1200年ほど昔、宮中に仕える白滝姫が桐生の山田家に嫁に来て、村人に養蚕や機織りを伝えたのが始まりと言われています。この桐生織物を、鎌倉時代末の新田義貞の旗揚げや、1600年の関ヶ原の合戦では、徳川家康が桐生の白絹の旗を用いたこと等から、その名を全国的に高めました。さらに19世紀前半には幕府の保護もあって、金襴緞子や糸錦のような高級織物を生産するようになり、この技術・技法は今の桐生織に引き継がれています。
「金襴緞子の帯締めながら花嫁御陵は」と歌われている「金襴」は、唐織物の一種で、織金ともいい、綾・繻子・羅・紗などの緯糸に、金箔を貼って細く切った平金糸で模様を織り出したものをいいます。また、「緞子」は、朱子織で織られているものです。中国元・明代に盛んとなり、日本には足利時代に堺のに伝わり、堺で織られますが、やがて生糸があつまる京都西陣に伝わり、西陣を中心に、伝来の唐文様を中心としつつも新しい文様が創意工夫され独自の発展をとげます。この西陣織も当然、伝統的工芸品として指定されています。
 伝統は、その地域独特のものではありますが、その地域だけのものではないのです。

投稿者 fujimori : 22:55 | コメント (5)

2010年02月02日 近頃思うこと

伝統的

 先週の日曜日、「伝統的工芸品」を見てきました。経済産業大臣が指定した伝統的工芸品と呼ばれるものは、昨年4月現在で211品目あります。これらの工芸品が、「伝統工芸」ではなく、「伝統的工芸品」というのは、「伝統的工芸品産業の振興に関する法律(伝産法)」で定められたものだからです。「的」とは、「工芸品の特長となっている原材料や技術・技法の主要な部分が今日まで継承されていて、さらに、その持ち味を維持しながらも、産業環境に適するように改良を加えたり、時代の需要に即した製品作りがされている工芸品」というほどの意味だそうです。
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では、どんなものが「伝統的工芸品」なのかというと、法律上、次の要件が必要と規定されています。
「主として日常生活で使われるもの」ということですが、その理由として、工芸品は「用の美」ともいわれ、長い間多くの人の目や手に触れることで、使いやすさや完成度が向上するために、色・紋様・形は、日本の生活慣習や文化的な背景とも深く関わっているからです。今では、かなり高価なものが多いのですが、本来はぜいたく品であったり、ただの飾り物であるのではなく、使いやすさこそがすべらしいデザインを作っていくという考え方は今に通じます。
 次に「製造過程の主要部分が手作り」とありますが、主要部分とはどこかというと、製品の品質、形態、デザインなど、製品の特長や持ち味を継承する工程が「手作り」であるというのが条件のようです。それは、製品一つ一つが人の手に触れる工程を経ることによって、人間工学的にも妥当な寸法や形状となりますし、安全性も備えていくからです。やはり、人間が使うものは、人間の手によって作られることによって、使いやすいデザインになっていくのですね。
 次が「伝統的技術または技法によって製造」です。これは、工芸品の技術、技法は、100年間以上、多くの作り手の試行錯誤や改良を経て初めて確立すると考えられているために、伝統的とはおよそ100年間以上の継続を意味します。ここには、「技術」と「技法」は一体不可分なものであるといっていますが、この考え方はとても示唆に富んでいます。技術は、「技術を磨く」といわれるように「一人一人の作り手の技量」「精度」に関わりが強く、技法は「原材料の選択から製法に至るノウハウの歴史的な積み重ね」に関わるものと言っています。ですから、伝統的技術、技法は、昔からの方法そのままでなく、根本的な変化や製品の特長を変えることがなければ、改善や発展は必要であるといっています。伝統といって、ただ昔のものをそのまま守るのではなく、100年以上の継続というのは、100年の間の試行錯誤、改良の歴史を意味するのです。そして、その歴史は、技術、技法だけでなく、「伝統的に使用されてきた原材料」にもいえます。100年間以上の継続は、長い間吟味された、人と自然にやさしい材料の選定につながっているからです。
そして、「一定の地域で産地を形成」というのは、地域産業として成立していることが必要で、そこには、産地全体の自信と責任に裏付けられた信頼性があるからです。
 伝統は、工芸品だけで行われるものではありません。明日、園で行われる「豆まき」も伝統行事です。近くの神社の方が、年男、年女が着る「裃」を貸してくださいました。

投稿者 fujimori : 22:45 | コメント (4)

2010年02月01日 近頃思うこと

童子

 そろそろ園でも卒園が近くなりました。卒園式に歌う歌としていろいろな歌がありますが、この歌も卒園式に謳う園があるかもしれません。それは、他にもいろいろと幼稚園、保育園で使われることが多い「とらや帽子店」の「パレード」というCDに入っている曲で中川ひろたかさん作詞の「空より高く」です。中川さんとは、ほぼ毎年、地方の講演で一緒になることがあり、一度彼と一緒に写真を撮ったのですが、その時の写真を彼のブログで紹介してもらったことがありました。今回は、その写真で、私の顔の部分を切り取って紹介します。
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 「人は空より高い 心を持っている どんな空より高い 心を持っている だからもうだめだなんて あきらめないで 涙を拭いて 歌ってごらん 君の心よ 高くなれ 空より高く 高くなれ 人は海より深い 心を持っている どんな海より深い 心をもっている だからもう嫌だなんて 背を向けないで 見つめてごらん 信じてごらん 君の心よ  深くなれ 海より深く 深くなれ だからもうだめだなんて あきらめないで 涙を拭いて 歌ってごらん 君の心よ 広くなれ 空より広く 広くなれ 君の心よ 強くなれ 海より強く 強くなれ」この「君の心よ~高くなれ」の部分の曲は、「蛍の光」のメロディーになっています。
この歌詞をどうして突然思い出したかというと、この一説が思い出されたからです。「父恩者高山 須弥山猶下 母徳者深海 滄溟海還浅」(父の恩は山より高く、須弥山(しゅみせん)猶(なお)下(ひく)し。母の徳は海より深く、滄溟海(そうめいかい)還(かえ)って浅し)です。中川さんがこれを思い浮かべて歌詞を書いたかわかりませんが、これは、江戸期の寺子屋等で最もよく用いられた教科書の一つである「「童子教」にあります。私のブログで、今スキーでにぎわっている「妙高山」の由来を「名香山」から来たと書きましたが、もうひとつの説は、仏典にあるシュメール(須弥山(しゅみせん))に結びつけて,妙高山とよぶことになったという説です。古代インドでは、仏教の世界の中心にシュメール(須弥山)という高い山がそびえ立っており、太陽や月は、その中腹を回転しているという考えがあり、妙高は、そのシュメールの漢訳です。そんな山よりも父の恩は高いのです。また、母親の徳は、あおあおとした広い海よりも、もっと広いのです。
これが掲載されている「童子教」は、仏教思想や儒教思想による童子を対象とした教訓を五言の漢文320句に収めてあり、鎌倉末期より流行し、江戸時代には寺子屋の教科書として「実語教」とともに広く利用された教訓書です。
 こういう言葉が載っています。「一日学一字 三百六十字 一字当千金」一日に一文字だけ学んだとしても、毎日、一年間続ければ365文字覚えられます。一字一字が千金に当たるということです。小さな、毎日できる範囲の努力でも休まず長い間続ければ、その積み重ねは大きな成果となるということです。先日のセミナーでは、赤ちゃんの一日は、人類の進化に当てはめれば、50万年に相当すると教わりました。子どもと過ごす日々は、毎日50万年の進化に相当するのです。
一日一日を大切にしたいですね。

投稿者 fujimori : 22:30 | コメント (5)