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2010年01月22日 江戸文化

落ちこぼれ

寺子屋での教科書の中心が四書五経だとすると、私たちは今その書物を読んでもとても難解の気がします。しかし、当時の子どもたちはそれを教科書として学習していたとなると、当然、今でいう落ちこばれが出るのではないかと思われます。しかし、沖田行司さんの「日本人を作った教育」(大巧社)によると、寺子屋は「落ちこぼれない教育」といって紹介されています。
 まず、最近よく論議されている「ゆとり」ですが、寺子屋での時間割はどうであったかというと、全体で「五ツ時」(現在の午前7時半頃)から「八ツ時」(現在の午後2時半頃)までの7時間ほどでした。これを「七ツ習ひ」と言っていました。そして、寺子屋から帰宅するいわゆる下校時間を「御八ツ」といい、子どもたちは空腹のまま帰宅して、夕食までの間の間食をとることを「おやつ」と呼ぶ習わしになったのです。ただし、「八ツ時」まで授業をしたわけではなく、午後からは、女子は琴や三絃、裁縫などの師匠について習うことも多く、男子の場合も、午後から算盤(そろばん)の教授を行った寺子屋もあったそうで、どうも、授業は午前中で、午後は課外授業のようです。現在のドイツの小・中学校に似ています。休日は、日曜日という考え方はなかったので、毎月朔日(1日)と「五の日」(5日、15日、25日)に休む所があったり、6日に1日の割合で休んだりしたようです。また、五節句などの伝統的祝日なども休んでいたようで、年間授業数は、260日から300日くらいだったようです。今は、大体196日から205日が多いようです。今のほうが大分少ないのは、土曜日休みと夏休みなどの長期休みがあるためでしょう。江戸時代では、逆に農繁期などは「朝習い」といって早朝や夜に手習いの時間をあてた延長授業があったようです。
 教科書のひとつは、出版社が刊行している「往来もの」を使います。往来とは手紙のことで、手紙の様式を覚え、手紙文を通して読み書き能力を獲得するほか、この中では、手紙文の形式をかりて単語の習得、生活風習、動植物などが書かれ、生活中心の実用性を重んじたものでした。それに対して、四書は、教養の習得だったのです。では、なぜ、落ちこぼれという問題が起きにくかったかというとこのように分析しています。
 寺子屋での教育における形は、今日多くの教室で見られるような教師が前に位置し、それに子どもたちが列をなして対面しているものは寺子屋が描かれている図では皆無です。基本的には、子どもたち同士がそれぞれの天神机を対面に配置して座り、師匠は全員の寺子が見通せる場に位置する。それは、一斉授業を行っていないということです。そこで、子ども一人ひとりの発達の度合いに応じた指導が可能になるのです。また、天神机の配置の仕方によっては、先に進んだ子どもが遅れた子どもを指導するということも可能になります。均一な個性に仕上げるために一定の基準と目的を設定して一斉に授業をするといった近代に導入された一斉授業とは異なり、一人ひとり異なる個性と能力を持った人間を教育した寺子屋とは基本的に異なるのです。
 一定の基準を、一定の期間において習得させる、また、社会や経済に還元しうる知識や情報の獲得を目的にするために落ちこぼれるという考え方が出てくるのです。
 何も、世界の教育を参考にしなくても日本でも参考になる取り組みは多いですね。

投稿者 fujimori : 2010年01月22日 23:42

コメント

落ちこぼれるという言葉は、あらためて考えてみるとすごい言葉ですね。落ちこぼれない教育も大事ですが、その前に落ちこぼれるという概念のない社会が必要なんだろうと思います。ある1つの方向だけが正しくて、それ以外はダメなのではなく、多様であることが大前提としてあり、どう進んでいくかを一人ひとりが決め、それが尊重される社会や教育が大切なんだと思います。寺子屋のあった時代から本当に大きく変化してきたんですね。

投稿者 あいやま : 2010年01月24日 06:27

かつて「教育再生会議」という諮問会議がありました。さまざまな議論がなされた末私達国民の前に明らかになったことは授業時間数の増加や校舎の耐震強化などなどでした。果たして小中高の教育現場は未来向けた明るい希望をもって現在の課題に生徒も先生も活き活きと取り組むようになったのでしょうか。保護者は学校や先生を常にポジティブに取らえ温かく応援するようになったのでしょうか。今回の「寺子屋」の話は以前のブログにも折々触れられていたので是まで以上に興味深く読ませて頂いたと同時に「落ちこぼれない教育」を展開していたわが国の教育事例としての寺子屋の存在を遠い昔のお話にすべきではない、と強く思ったところです。生徒主体の学校教育を一保護者として心から希求して止みません。

投稿者 toshi1208 : 2010年01月24日 08:24

リヒテルズ直子先生の『オランダの個別教育はなぜ成功したか』を読み始めました。個別教育は落ちこぼれを出さないことを目指す教育です。そこで行われている手法は、自立学習と共同学習を組み合わせたもので、日本の寺子屋教育にとても似ています。『個別教育の最終目的は、自立性と共同性の育成にある。その子どもの特性やテンポを見極め、適切な学習方法を見つけ出すためのもの、自分自身に自信を持って、将来の進路や人生について、自力で考えることができるように援助してやるためのものです。』かつての寺子屋の個別教育の良さを再認識して、現在の教育の行き詰まりの打破につなげていくことができないものでしょうか。

投稿者 yamaya49 : 2010年01月24日 10:21

 確かに当時の寺子屋の子ども達の一日の時間割を読んだ瞬間にドイツに似ていると思いました。ブログを通して寺子屋の事を知れば知るほど、授業形態や考え方が海外に似ている部分が多くあります。ただ当時は海外の教育方法なんて、おそらく知らないと思います。それでも、寺子屋のような海外と似た教育方法が存在していたのだから、これが日本の本当の教育の姿と感じました。
 今まで私の周りには落ちこぼれというか、授業についていく事が難しい人は確かにいました。私自身、勉強が出来たわけではありませんが、その時は「なぜ?分からないのだろう?」という印象でしたが、ブログを読んで納得しました。一斉授業の恐ろしさを、今実感しました…。

投稿者 Sasuke : 2010年01月26日 23:25

落ちこぼれて職に就けず食べていくことも困難な人はいつの時代でもいる筈です。戦上手で登用される人もいれば、学問に秀で士官する人も計算が得意で勘定役になる人もいた筈です。寺子屋でも秀でたものとそうでないものは陰に陽に選別されていたと思います。親心でもわが子が隣の子より出来るとか、出来ないとかの軋轢はあったのではないでしょうか。論語でも四書五経でも皆に教えた後、理解度テストを実施すれば得点に差は出ます。その平均点以下が落ちこぼれとすれば何時の時代でも同じです。

投稿者 ashosm : 2010年03月02日 14:12

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