「中庸」という考え方は、どんなときにも常に重要です。四書の中の「中庸」には、そのことがいろいろと語られます。「中和」という言葉があります。この言葉の多くは、化学に使われます。「毒などを中和する」とか「酸を塩基で中和する」というように使います。学校で、酸性のものとアルカリ性のものを混ぜて、中性のものにすることを中和と言い、リトマス試験紙などを使って調べた思い出があります。 「中庸」では、このようにとらえています。
「喜怒哀樂之未發,謂之中;發而皆中節,謂之和;中也者,天下之大本也;和也者,天下之達道也。致中和,天地位焉,萬物育焉。」(喜怒哀楽の未だ発せざる、これを中と謂う。発して皆節に中(あた)る。これを和と謂う。中は天下の大本なり。和は天下の達道なり。中和を致して、天地位し、万物育す。)
喜怒哀楽という感情は、外からの刺激によっておこるものです。しかし、まだ、そのような感情が起こらない精神状態のことを「中」というと言っています。「未発」のときです。「未発」を辞書で引くと、「まだ起こらないこと。まだ外に現れないこと。」ですが、喜怒哀楽という感情は、成長のあかしでもあるのに、どうしてまだその感情が現れない状態を「中」というのでしょうか。まあ、喜怒とは喜んだり怒ったりで、哀楽も哀しんだり楽しんだりと感情がどちらかに偏っています。ですから、偏らないことが「中」なのでしょう。または、平常心であるので中なのでしょう。そのことは、次の文章でわかります。
「發而皆中節,謂之和」ということを、中庸を全訳している宇野さんはこう解説しています。「外物に感じて喜怒哀楽の情が起っても、過ぎたり及ばないようなことがない、みな当然あるべき節度に適うのを和という。」度を越さないことを「節度」ということがあります。そして、何について度を越さないかで節度の意味合いが違ってきます。節制をするというような「欲求・要求」などにおける節度、礼節を持ってというような「上下関係・規律」などにおける節度、節操があるというような「道徳的・精神的」な節度などがあります。節度には、ずいぶんといろいろな使い方があります。このようなお互いが節度をもって関わることを「和」というのです。即ち、「和」とは、共生であり、調和です。
こういった「中」が天下の万事万物の根本であり(未発の中)、こういった「和」がどんな世界にも通じる道(中節の和)なのです。そして、「致中和,天地位焉,萬物育焉。」とあるように、中と和とを実行し、極めていくことが「中和」ということで、そこに達するために修養を積んでいかなければならないのです。そうすると、天地すべてのものの在り方がそれなりの位置に落ち着き、万事万物すべてが健全な生育をとげていくことができるようになるのです。
これらのことが、「中庸」の第1章に書かれていて、それは孔子が子思に伝えたかった趣旨なのです。そして、そのあとの章で、子思が「礼記」から「中庸」に関して孔子が言った言葉を引用して、その意義を書いたものがこの「中庸」です。
私は、江戸時代での寺子屋、藩校での教育をもう一度見直すと言って、その中で行われている内容についてはそれほど造詣が深くありません。そこで、その時の主な教科書であった四書のなかの「大学」と「中庸」を考えてみたのですが、やはり難解です。というのも、その言葉の理解よりも、その言っている意味を考えないといけないからです。しかし、二宮金次郎が、子どものころに背中に薪を背負って、さもテレビゲームをやりながら歩いている人と同様に「大学」や「中庸」を読んで歩いている姿を見ると、昔の人は学歴やいろいろな知識がなかったであろうと思われますが、どうして理解ができ、感動し、影響を受けたかが不思議に思われます。
中庸の精神を体現したリーダーといえば、西郷隆盛や東郷平八郎、乃木希典あたりを思い浮かべます。いずれも幼年期に漢籍に親しんでいた人物です。意味がわからなくても素読の繰り返しでその意図するところを会得したんだと思います。読書百遍自ずからその意を得るといいますから。かたや、芸術家は感情の高ぶりがなければ、傑作は創れない。故郷をナチスドイツに破壊された怒りがなければ、ピカソの「ゲルニカ」は生まれなかっただろうし、失明の苦悩がベートーベンの「運命」の誕生を導いたとも言えます。感情の湧きあがるところを善の方向に生かすことが大事ですね。
これだけ丁寧に解説してもらっても、それを理解するのには時間がかかります。二宮金次郎はそんなことをずっとやっていたんですね。学問は自ら働きかけて取り組み、考え方や思いを磨き、だからこそ喜びが大きいものなんだとあらためて思えてきます。例えば、感情が偏らずバランスがとれた状態でいるためには様々な感情を持っていなければいけないんだろうと思います。自分の持っている感情を冷静に見つめてみることも、中庸を考える事の第一歩にもなるかもしれません。そんなことを考えながら少しでも自分の思いを深め、そしてそれを保育にも生かていくことを考えていくことが私たちの役目といってもよさそうですね。
科学用語として私の中に定着していた「中和」。『中庸』に説かれていた熟語であったとはこれまた大きな発見、気づきです。しかも「中和」の意味が解説されます。喜怒哀楽による偏りのない状態、すなわち「平常心」。あるいは「度を越さない」という「節度」「節操」。「節度をもって関わることを「和」というのです。即ち、「和」とは、共生であり、調和」の部分は、和=共生、そして大和=大共生、に繋がると勝手に解釈しました。どうやら私たちの国はこの「大共生」を目指すことが本務のようです。「中と和の実行」が「中和する」ことで「万事万物すべてが健全な生育をとげていくことができるようになる」と「中和」についてまとめられています。酸性やアルカリ性の中和の「中和」が全く別な様相を帯びて私の中に再定着した感がします。『大学』『中庸』へのご縁を頂いたこれまでのブログに心から感謝申し上げます。
喜んだり怒ったり、哀しんだり楽しんだりと、もちろん表情に出ます。「偏らないことが中である」「平常心であるので中」と書いてありますが、読んだ瞬間に喜怒哀楽はあって当然なのでは?と思いましたが、その後を読んで納得しました。喜怒哀楽の情が起きても度を過ぎない事、つまり「節度」が大切であり、お互いが節度を持って関わる事が共生につながるのですね。ただ、私には難しい課題です…性格上つい感情の度が過ぎてしまい、周りが見えなくなってしまう場合がよくあります。
今回のブログを読んで、「中庸」の考え方という物が少し見えてきました。