また、中国の四書五経の話に戻ります。四書とは、「大学」「中庸」「論語」「孟子」のことをさしますが、その中の「大学」は儒教の政治思想で、「中庸」は倫理を説くものだと言われています。この「中庸」も、「大学」同様、もともとは「礼記」中の1篇で、孔子の孫である子思の作とされています。
この「中庸」という言葉は、かなり哲学的な話になるので厄介です。何となく普段使う場面は、仏教用語の「中道」に近い意味に使われることが多いのですが、真ん中の道というように、黒白どちらかではなく、その真ん中という考え方もあるということしょう。しかし、たとえば仕事と育児の真ん中ということはありませんし、両立といって両方ともする事でもありません。その時には、その二つのバランスをよりよく取っていくという意味になります。最近、どうしてもどちらかとか、両方ともといって自分を苦しめる人が多くなった気がします。そんな時には、中庸という考え方をしたらどうでしょうか。
初めて「中庸」という言葉が出てきた「論語・擁也」で、孔子は、「中庸の徳たる、其れ到れるかな。民鮮きこと久し」と言っています。中庸という考え方は「不足でもなく、余分のところもなく、丁度適当にバランスよく行動できる」ということで、人徳としては最高のものとても素晴らしいものと位置づけています。しかし、「民に少なくなって久しい」と言うように、このころも、そのように考える人が少なかったのでしょう。また、なかなか習得できない高度な概念でもあるのでしょう。
私は、「中庸」ということを「バランスが取れた」ととらえると同時に、もうひとつの考え方を持っています。それは、「庸」という漢字です。「字統」には、「庸」という漢字は、庚と用に分かれ、「庚」は、「杵(午)を二本の手で持つ形」であり、「用」は木や竹を筒状の籠の形に編んだもの」とあります。ですから、「庸」とは、籠に土を入れて二人で杵を使って固めたものということで、「ひとりの考えだけで行動するのではなく、多くの人の考えを取り入れながら行動する」ということで、「共生」の概念をも言っている気がします。「あなたと私で一本の棒を持ち、力を合わせて両者を包摂する新たな道を築きましょう」ということです。古代ギリシャにおいても、「中庸」という概念は尊重されていたようで、アリストテレスが「メソテース」と言って倫理学上の一つの徳目として尊重しています。
とりあえず、四書の中の「中庸」では、どんなことを言っているのでしょうか。
冒頭には、「天命之謂性,率性之謂道,修道之謂教。」と書かれてあります。これは、人が天から授かったものは、本性であり、その本性に従って生きていくのが、人の道である。その道を修めることが教育であるというのです。人は、誰でも善である本性を持っているもので、その本性に生きていこうとする「道」を極めるために、それを自覚し、磨き、修養していくことが必要なのです。
その「人の道」とはどんな道なのでしょうか。中庸を訳した名著に宇野哲人の全訳本があります。そこには、「道路といわんがごとし。宇宙の森羅万象は道によって完全に存在するよりいってこれを天道といい、人倫相互の関係は道によって円満に履行せらるるよりいってこれを人道という。天道と人道との名は異なれども、見方の相違であって、その実は唯一不二である。しかしてこの道は他なし、各々その天性に卒有するに在るのみ。故に「性に率うをこれ道と謂う」という。」と書かれてあります。人と人との関係は、人として守るべきことをわきまえることによって円満になるのです。その人としての生き方、人との関係を学ぶことが教育なのです。
もうこの歳になると、体力も落ちてきて若い頃のように気力満々で仕事の高い目標に猪突猛進するなんてことはできなくなりました。50代にはそれにふさわしい生き方があると思っています。いろんな本を読みながら考えたのですが、鎌田實先生の本のタイトルを拝借して、「がんばらないけど、あきらめない」と自分に言い聞かせながら生きていこうと思っています。仕事も家庭も100点満点取ろうとするから苦しむんであって、最初からそれはめざさない。せいぜい70点くらいがちょうどいい。「いい加減がいい加減」だと思う。自然体でいこう。決して他人と比べたりしない。昨日の自分より少しでも前に進めたらいい。中庸とはこんなことかなと思っています。
バランスのとれた状態は、私の目指していることでもあります。ずいぶんバランスを欠いた生き方をしてきたことを反省し始めたあたりから、バランスという言葉が1つのテーマになっています。でも難しいんですよね。バランスのとれた状態とはどんな状態なのか、未だにつかめないでいます。
「庸」の解釈を読んでいて思い出したのですが、グーグルのCEOエリック・シュミット氏が「一人の天才よりも、30人の平凡な人間の意見を集約したほうが、結果としてはいいものができる」という話をしておられたと聞きました。面白いことをいう人だという印象を持ちましたが、これもある意味では共生の概念につながる考え方なんでしょうか。このような考え方を大事にする企業は少しずつ増えて来るような気もします。
中道、中庸、メソテース。洋の東西を問わず、極端に偏らないことによるバランスの道が説かれます。仏教における「中道」はまさに悟りへの道、あるいは中道そのものが「悟り」ということになるのでしょう。翻って中国思想における「中庸」の意味が今回のブログに示されていますが、「字統」による「庸」の字義解釈から産み出された、共生としての「中庸」の捉え方には脱帽!参った!との感を強くしています。そういった解釈ができるのだ、と驚嘆しきりです。『中庸』の冒頭を紹介しています。「五十にして天命を知る」の「天命」で始まっています。天命を行じることが道であり、その道を修めることこそが教育、ということですね。道には天道と人道があり、これらを究めることがまた教育。天道・人道これ何ぞや、を学ぶことが「教育」ということでしょう。
また、初めて聞く言葉が出てきました。藤森先生の講演の中で、育児と仕事の両立は出来ないと聞きました。育児と仕事のバランスが大切だと言われていましたが、まさしく「中庸」とは、こういう意味なのですね。そして、四書の冒頭に書かれた、人が生まれ持った本性を磨く事が人の道である。とても大切な言葉だと感じました。
藤森先生のおかげで四書が、とても分かりやすく書いてあります。もっとじっくりブログを読んで、深めていこうと思います。