私のブログによく登場する書物といえば「論語」です。この論語は、孔子とその弟子たちの語録で、もっとも古いものとされ、この孔子を始祖とする思考・信仰の体系が儒教と呼ばれ、その一門を儒家と呼びました。孔子の死後、儒家は八派に分かれます。そのなかで孟子は性善説を唱え, 孔子が最高の徳目とした仁に加え、実践が可能とされる徳目義の思想を主張します。また、周から漢にかけて儒学者がまとめた礼に関する書物を、戴聖が編纂したものが「礼記」という全49篇からなる書物があります。そして、この49篇は、各篇独立した書物ですので、各篇を単独で読む傾向がありました。特に、その中の「大学」と「中庸」の2篇は独立して扱われ、「論語」「孟子」とともに四書の一つに数えられるようになりました。
この大学は、伝説上、孔子の弟子の曾参の作とされ、元来は、五経の一つである「礼記」という大部の1篇であって、原文は僅か1753字、字種は394という四百字詰め原稿用紙四枚半にも満たないものですが、「大学は孔氏の遺書にして初学入徳の門」と称されるようになり、四書の最初に置いて儒学入門の書としたほど重視されました。儒教を勉強するとなると、すぐに論語を思い浮かべますし、せいぜい孟子を読みます。しかし、まずは、「大学」ですが、なかなか「大学」に触れることは少ないです。昨日のブログで紹介した「翁問答」を書いた中江藤樹は、この四書の中の「大学」に非常に感銘を受けます。また、戦前の小学校の校庭には、焚き木を背負い歩きながら本を読んでいる「二宮金次郎」像が必ず置いてありましたが、この金次郎少年が読んでいる本は、実は「大学」なのです。
二宮金次郎は、神奈川県の小田原で生まれ育った二宮家は村でも有数の富農でしたが、金次郎の父の時代に、ほとんどの財産を失ってしまいました。さらに、金次郎は14歳のときに父を亡くし、一家4人の生活を一人で支えていかなければなりませんでしたので、朝は暗いうちから山で薪を集めて町に売りに出掛けて行きながら、本を読んだ姿が像になっているのです。そして、金次郎は、この貧乏から脱却し二宮家を復興させるために、父からもらった「大学」やその他の書物を熱心に読んだのです。
大学の最初には、こう書かれてあります。「大學之道,在明明德,在親民,在止於至善。」ここには、学問をする目的が書かれてあります。それが、「大学の道」です。「在明明德」とは、自分が生まれつき持っているすばらしい徳を発現することとしています。その徳とは、能力と人格が備わっていなければならないのです。その二つの面を自ら高めていくために磨いていく必要があります。しかし、自分だけ高まればいいわけではありません。その次の「在親民」というのは、自分だけの修養ではなく、その徳をまわりの人々にも及ぼし、その人たちの徳も発現していけるように導いていかなければならないのです。そして、最後のそのように到達したら、「在止於至善」と言っているように、その状況を維持していく努力も必要なのです。「至善に止まる」とは、明徳を明らかにし、民を新たにすることが出来た最高の状態を、維持していくということなのです。この三つが「大学の三綱領」と言われているものです。そこで、「至善」とはどこに置くべきかを考えることが必要になってくるのです。
中江藤樹や二宮金次郎は、大学を読みながら、そんなことを考えたのでしょうが、この大学の三綱領が今の私の目指すところでもあるのです。
仏教(法華経)の教えによると、人間は性善でも性悪でもなく、善の心も悪の心も外の様々な縁に触れて現れてくると説かれています。以前このブログでも取り上げられた三毒は悪の心のカテゴリーに入ります。また善の心のなかで、学問や芸道の世界で師の教えを求める心を「声聞」と言います。道を極めた人は「縁覚」と呼ばれます。儒教の語るところと仏教とは次元が異なりますが、大学で言うところの「在明明徳」や「在親民」は「声聞・縁覚」で、「至善」とは、その上の位の「菩薩道」に近いものではないでしょうか。
「大学」が「四書の最初に置いて儒学入門の書」とあります。学問とは何故するのか。この「大学」には明らかです。「すばらしい徳を発現すること」そして「その徳をまわりの人々にも及ぼし、その人たちの徳も発現していけるように導いて」いく。さらに「明徳を明らかにし、民を新たにすることが出来た最高の状態を、維持」とあります。私たちは物心ついた頃から「勉強」ということを意識してきました。そして当然の如く「何故勉強をするのか」ということを問い続けて大人になってきました。「テストでいい点数をとるため」「入学試験に合格するため」「資格をとって就職するため」・・・。本来「勉強」の目的は「大学」の目的と同じでしょう。小学校の高学年になったら必ず勉強の目的を子どもたちはしっかりと把握し以後の学習を楽しく有意義なものにすべきでしょう。学習は本当は楽しいことなのです。そして結果として世の中のためになるものなのです。
大学の道を頭の中でくり返し考えてみました。勉強することはいかに生きるかということにつながるということが表されている内容だと感じました。藤森先生の目指しておられるものは、やはり大きいんですね。生物は、本気のエネルギーに対しては本能的に受け止めようとする力があると聞いたことがあります。だからこそ一言一言に重みがあり、思いが十分に伝わってくるだろうとも思います。しっかり受け止め、自分の行動へと変えていかなければいけません。先はまだまだ長いです。
二宮金次郎は、家に漫画本があったので、よく読んでいました。銅像はさすがに小学校にはありませんでしたが、本を読みながら歩いている姿の像はよく知っています。あの読んでいる本は何か気になっていましたが、「大学」という本なんですね。まず「大学」と聞いて本とは思ってもいませんでした。
自分がもともと持っている素晴らしい徳を発現し、徳は能力と人格を備わっていなければならない。そして自分だけ高まるのでなく周りの人も導いていかなければならない。一緒なのか分かりませんが、藤森先生の理念の一つである「共生と貢献」と同じ内容のように感じました。