「中庸」という考え方は、どんなときにも常に重要です。四書の中の「中庸」には、そのことがいろいろと語られます。「中和」という言葉があります。この言葉の多くは、化学に使われます。「毒などを中和する」とか「酸を塩基で中和する」というように使います。学校で、酸性のものとアルカリ性のものを混ぜて、中性のものにすることを中和と言い、リトマス試験紙などを使って調べた思い出があります。 「中庸」では、このようにとらえています。
「喜怒哀樂之未發,謂之中;發而皆中節,謂之和;中也者,天下之大本也;和也者,天下之達道也。致中和,天地位焉,萬物育焉。」(喜怒哀楽の未だ発せざる、これを中と謂う。発して皆節に中(あた)る。これを和と謂う。中は天下の大本なり。和は天下の達道なり。中和を致して、天地位し、万物育す。)
喜怒哀楽という感情は、外からの刺激によっておこるものです。しかし、まだ、そのような感情が起こらない精神状態のことを「中」というと言っています。「未発」のときです。「未発」を辞書で引くと、「まだ起こらないこと。まだ外に現れないこと。」ですが、喜怒哀楽という感情は、成長のあかしでもあるのに、どうしてまだその感情が現れない状態を「中」というのでしょうか。まあ、喜怒とは喜んだり怒ったりで、哀楽も哀しんだり楽しんだりと感情がどちらかに偏っています。ですから、偏らないことが「中」なのでしょう。または、平常心であるので中なのでしょう。そのことは、次の文章でわかります。
「發而皆中節,謂之和」ということを、中庸を全訳している宇野さんはこう解説しています。「外物に感じて喜怒哀楽の情が起っても、過ぎたり及ばないようなことがない、みな当然あるべき節度に適うのを和という。」度を越さないことを「節度」ということがあります。そして、何について度を越さないかで節度の意味合いが違ってきます。節制をするというような「欲求・要求」などにおける節度、礼節を持ってというような「上下関係・規律」などにおける節度、節操があるというような「道徳的・精神的」な節度などがあります。節度には、ずいぶんといろいろな使い方があります。このようなお互いが節度をもって関わることを「和」というのです。即ち、「和」とは、共生であり、調和です。
こういった「中」が天下の万事万物の根本であり(未発の中)、こういった「和」がどんな世界にも通じる道(中節の和)なのです。そして、「致中和,天地位焉,萬物育焉。」とあるように、中と和とを実行し、極めていくことが「中和」ということで、そこに達するために修養を積んでいかなければならないのです。そうすると、天地すべてのものの在り方がそれなりの位置に落ち着き、万事万物すべてが健全な生育をとげていくことができるようになるのです。
これらのことが、「中庸」の第1章に書かれていて、それは孔子が子思に伝えたかった趣旨なのです。そして、そのあとの章で、子思が「礼記」から「中庸」に関して孔子が言った言葉を引用して、その意義を書いたものがこの「中庸」です。
私は、江戸時代での寺子屋、藩校での教育をもう一度見直すと言って、その中で行われている内容についてはそれほど造詣が深くありません。そこで、その時の主な教科書であった四書のなかの「大学」と「中庸」を考えてみたのですが、やはり難解です。というのも、その言葉の理解よりも、その言っている意味を考えないといけないからです。しかし、二宮金次郎が、子どものころに背中に薪を背負って、さもテレビゲームをやりながら歩いている人と同様に「大学」や「中庸」を読んで歩いている姿を見ると、昔の人は学歴やいろいろな知識がなかったであろうと思われますが、どうして理解ができ、感動し、影響を受けたかが不思議に思われます。
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四書2
中庸とは偏りが無いということから永久不変のものという意味があり、四書の「中庸」は、不変の道理を説く書という意味があります。それを、本文宋朱熹章句でこう言っています。「子程子曰、不偏之謂中。不易之謂庸。中者、天下之正道、庸者天下之定理。」
二程子はこう言っています。偏っていないことを「中」と言い、変わらない事を「庸」と言います。さらにまた「中」は天下の正しき道理を「庸」は一定して変わらない天下の定理とも言います。ですから、正道とは偏って(かたよって)はいけない「不偏の大綱」であり、すべての基礎となり、定理は変わってはいけない「不易の条理」で、細目を表しているのです。
そうはいっても、なかなかわかりにくい「中」と「庸」です。特に「中」は当時からわかりにくかったようです。偏らないとは、偏見を持たないということでしょうが、朱子の解説によると「偏らず倚らず(不偏不倚)過不及無きの名」と言っていますが、この不倚とは、倚(よ)りかからないことですので、どこにも「依存しない」という意味です。ということは、「不偏不倚」とは、「特定の考えに偏らず何物にも依存しない」ことを言います。それが「中」です。真ん中です。
そして「庸」とは、「不易」というかわらぬことで、易ゆと書いて「かゆ」と読みますが、その意味は、「換ゆ」とか「替ゆ」とか「代ゆ」と同じ意味です。また、朱子は、「庸」のことを「平常なり」と言っています。一見、関係ないようですが、平常というのは、常に行うということなので、不易と同じことになるのでしょう。
まず、何にも偏らないということは言うほど簡単なことではなりません。どうしても人は刷り込みがあり、ある偏見の心があります。それをなくしてものの本質を見ることは、よほど心を澄ませなければなりません。以前ブログに書いたバリアフリーに通じます。心のバリアを取り払うことで、真実に近づけるのです。それを考えていたら、面白い事に気がつきました。というのは、不易は平常と同じだとすると、不易の心は平常心ということになります。医学的にいえば、平常心とは交感神経と副交感神経のバランスがとられている状態です。それは、物事に柔軟に対応できる心であり、図太くしたたかな心でもあります。その平常心について松下幸之助が「素直な心になるために」という中で、こんなことを言っています。「素直な心というものは、どのような物事に対しても、平静に、冷静に対処していくことのできる心である。素直な心がない場合には、感情にとらわれ、われを忘れて、思わぬ失敗を招くことにもなりかねない。」
物事に対して平静に、冷静に対処するというこことは平常心です。そうすることで、物事の本質、道理が見えてくるものであると言っています。「素直な心を養うためには、素直な心になることを忘れないための工夫をこらすことも必要である。」素直な心を保つには、工夫がいるようです。それが平常心を持つこと、偏らない目、動じない心、そんなものが必要になってくるのです。ということは、どうも、考えていくと、「中庸」の「中」と「庸」は、同じことにたどりつくようです。
ですから、この「中庸」は「孔子門下に伝わりし聖者伝授の心の法なり 後世の誤伝の事を子思恐れ「中庸」作し孟子に授く」とあるように、「中庸」一篇の書は、「孔門伝授の心法」というように、孔子の門人に伝授された心に関する根本の教えなのです。中庸には人生の極意が随所に述べられており、生きていく上でとても大切な内容がちりばめられています。
四書
また、中国の四書五経の話に戻ります。四書とは、「大学」「中庸」「論語」「孟子」のことをさしますが、その中の「大学」は儒教の政治思想で、「中庸」は倫理を説くものだと言われています。この「中庸」も、「大学」同様、もともとは「礼記」中の1篇で、孔子の孫である子思の作とされています。
この「中庸」という言葉は、かなり哲学的な話になるので厄介です。何となく普段使う場面は、仏教用語の「中道」に近い意味に使われることが多いのですが、真ん中の道というように、黒白どちらかではなく、その真ん中という考え方もあるということしょう。しかし、たとえば仕事と育児の真ん中ということはありませんし、両立といって両方ともする事でもありません。その時には、その二つのバランスをよりよく取っていくという意味になります。最近、どうしてもどちらかとか、両方ともといって自分を苦しめる人が多くなった気がします。そんな時には、中庸という考え方をしたらどうでしょうか。
初めて「中庸」という言葉が出てきた「論語・擁也」で、孔子は、「中庸の徳たる、其れ到れるかな。民鮮きこと久し」と言っています。中庸という考え方は「不足でもなく、余分のところもなく、丁度適当にバランスよく行動できる」ということで、人徳としては最高のものとても素晴らしいものと位置づけています。しかし、「民に少なくなって久しい」と言うように、このころも、そのように考える人が少なかったのでしょう。また、なかなか習得できない高度な概念でもあるのでしょう。
私は、「中庸」ということを「バランスが取れた」ととらえると同時に、もうひとつの考え方を持っています。それは、「庸」という漢字です。「字統」には、「庸」という漢字は、庚と用に分かれ、「庚」は、「杵(午)を二本の手で持つ形」であり、「用」は木や竹を筒状の籠の形に編んだもの」とあります。ですから、「庸」とは、籠に土を入れて二人で杵を使って固めたものということで、「ひとりの考えだけで行動するのではなく、多くの人の考えを取り入れながら行動する」ということで、「共生」の概念をも言っている気がします。「あなたと私で一本の棒を持ち、力を合わせて両者を包摂する新たな道を築きましょう」ということです。古代ギリシャにおいても、「中庸」という概念は尊重されていたようで、アリストテレスが「メソテース」と言って倫理学上の一つの徳目として尊重しています。
とりあえず、四書の中の「中庸」では、どんなことを言っているのでしょうか。
冒頭には、「天命之謂性,率性之謂道,修道之謂教。」と書かれてあります。これは、人が天から授かったものは、本性であり、その本性に従って生きていくのが、人の道である。その道を修めることが教育であるというのです。人は、誰でも善である本性を持っているもので、その本性に生きていこうとする「道」を極めるために、それを自覚し、磨き、修養していくことが必要なのです。
その「人の道」とはどんな道なのでしょうか。中庸を訳した名著に宇野哲人の全訳本があります。そこには、「道路といわんがごとし。宇宙の森羅万象は道によって完全に存在するよりいってこれを天道といい、人倫相互の関係は道によって円満に履行せらるるよりいってこれを人道という。天道と人道との名は異なれども、見方の相違であって、その実は唯一不二である。しかしてこの道は他なし、各々その天性に卒有するに在るのみ。故に「性に率うをこれ道と謂う」という。」と書かれてあります。人と人との関係は、人として守るべきことをわきまえることによって円満になるのです。その人としての生き方、人との関係を学ぶことが教育なのです。
霧島市
昨日、鹿屋市から鹿児島空港まで送ってもらう途中でいくつかの市を通ります。その中で、「霧島市」があるのですが、ここは、平成17年11月7日、国分市、溝辺町、横川町、牧園町、霧島町、隼人町、福山町が合併して、新たに誕生した市です。その前のそれぞれの市や町はいろいろと有名です。「花は霧島、煙草は国分・・・」と鹿児島おはら節でも歌われるように、国分の煙草は江戸時代後期頃から「国府たばこ」の名で全国に広く知られていました。
また、霧島は焼酎でも有名です。2005年に雑誌社が企画した焼酎ランキングで鹿児島からベスト10に6銘柄が入っていますが、そのうちの3銘柄は霧島市に蔵元のある焼酎でした。一つの市に9つの蔵元があるのは鹿児島でも珍しいことのようです。(かめ壺焼酎で有名な森伊蔵はとなりの垂水市です)
また、鹿児島で製造されている焼酎のほとんどは、本格焼酎と呼ばれているもので、酒税法上乙類に属し、単式蒸留機で蒸留したアルコール分45度以下のものです。「旧式焼酎」とも呼ばれ、古くから作られている伝統的な焼酎です。主原料となる、芋、米、麦など素材の味を生かした焼酎です。ただ、最近よく出回っている黒霧島など霧島酒造は、宮崎県の都城市にあり、そこの商標です。
もうひとつ、最近、テレビ番組や雑誌でとり上げられ、人気の高いものに、霧島市福山産の「黒酢」があります。ここで作られているのは、壷づくり黒酢(壷で作られるので壷酢ともいう)です。1800年代、江戸時代後期に薩摩藩の福山地方で壺酢づくりが始まり、今日まで同じ製法を守って造られています。重要な商業地であったここ福山町は、良質な米ときれいな湧き水、そして温暖な気候に恵まれており、また、適度な湿度も維持されているので、酢を造る微生物が活動しやすい環境です。また、薩摩藩主島津義弘は、茶道を千利休について学んだ茶人で、焼き物には深い関心を持っていました。そして、豊臣秀吉と共に朝鮮に出陣した際、朝鮮の陶工達を引き連れて帰ってきて、彼らはその後、士族としての待遇を受けながら薩摩焼を焼き始め、その技術を代々受け継いできました。ですから、壺酢づくりにかかせない薩摩焼の壺も手に入りやすい状況にありました。
そんな環境の中で始まった壺酢づくりでしたが、大正から昭和になって、石油から合成してできる合成酢が製造されるようになり、安価な合成酢に押されはじめ、壺酢は衰退を見せ始めました。しかし、昭和40年代になって、有害食品が問題となり、自然食希求のブームが巻き起こりました。それに伴い、石油から造られる合成酢も人々から敬遠されるようになり、壺酢が再び注目され始めました。
薩摩焼きの壷の中で、蒸し米と麹、天然のわき水だけを原料に、一年から三年じっくり発酵・熟成してできあがる酢は、次第にその色は深みのある琥珀色に変わり、さらにまろやかさとコクが加わります。その色から「黒酢」と呼ばれているのですが、この成分には、アミノ酸、有機酸、ビタミン類、ミネラル類が含まれています。その中でも特に豊富に含まれるアミノ酸は健康維持のために大切な成分であることで知られています。
壷に杜氏が米、麹菌、水を仕込んでからは、壷は屋外に置かれ、放置されます。そして、昼間は南国鹿児島の強い太陽光に照らされ、夜は鹿児島錦江湾からの冷たい海風にさらされ、その中で1年以上かけて自然にじっくりと糖化、アルコール発酵、酢酸発酵までが行われるのです。ですから、福山町を通過する道の脇には、いたるところに壺が並べられており、また、広い畑の代わりにたくさんの壺が並んでいる広場もあちこちに見うけられ、ちょっと珍しい光景でした。
鹿屋
日本の大地が見渡せるような「わが大地の歌」の歌詞を書いた、中津川ジャンボリー世代のフォークシンガー笠木透さんが、こんな歌詞を書いて、自ら歌っている曲があります。歌詞の内容は、知覧を飛び立った特攻機が給油のために南の島に降りたちます。そして給油を終え、飛び立っていった特攻機はそのまま帰らない旅に飛び立ったのですが、その飛行機の車輪についていた植物の種がその場に落ち、後に芽をふき、あちこちに可憐な紅い花を咲かせました。その花のことを南の島の人々は誰ともなく「特攻花」と呼んだという歌詞です。2番の歌詞は、「本当の名前は 知らないけれど 小さな時から そう呼んでいた 戦争のことも 知らないけれど 誰言うこともなく 特攻花 風吹けば 風にゆれ 雨降れば 雨にぬれ 小さ愛さ 赤い花だよ 小さ愛さ 赤い花だよ」
太平洋戦争末期、九州の鹿児島県知覧から出撃する特攻機の中継地点がありました。その場所は、九州と沖縄の中間に位置する喜界島です。ですから、この喜界島が、沖縄戦に向かう若い特攻隊員が、最期に飛び立った場所でした。今でも、毎年飛行場跡に島の人たちが「特攻花」と呼んでいる天人菊を平和を願う花として大切にしているそうです。
また、こんな話もあります。太平洋戦争中、特攻基地の置かれた鹿屋市周辺で咲きはじめた花がありました。最初に特攻隊が出撃した昭和20年3月に発芽し、最後の出撃となった同年6月に実を結んだことから、地元では、この花を「特攻花」と呼ばれるようになったということが鹿児島県鹿屋市役所の広報「かのや」に書かれてあります。
この二つの言い伝えにあるように、昨日から訪れている鹿屋市も特攻基地がありました。しかも、ここから特別攻撃のため沖縄へと飛び立ち、再び帰ることはなかった若きパイロットは908名で、特攻基地の規模としては人員・機体数ともに全国的に有名な知覧を上回っています。ここは、戦前から使われている歴史ある航空基地であり、いまでも、その滑走路は海上自衛隊の鹿屋基地として使われており、滑走路脇には零式艦上戦闘機の掩体壕が残されており、司令部庁舎も戦前に建造されたものだそうです。
ここは、また、アメリカ海軍やアメリカ海兵隊にとっては、今話題の普天間飛行場に移動するヘリコプター部隊が、途中給油に立ち寄る重要な航空基地のようです。
この海上自衛隊鹿屋航空基地の敷地内に、海軍航空の歴史資料館があります。今日の講演前に、そこを見学しました。館内には旧日本海軍創設期から第2次大戦までの資料展示があり、「坂の上の雲」の登場人物である秋山真之や東郷平八郎、広瀬中佐などの資料もありました。また、「零式艦上戦闘機52型」が復元展示してあり、「特攻」という人類史上類のない悲惨な作戦で命を落とした多くの若い特攻隊員の写真や遺書・遺品などが展示されています。
また、近くには、その若者の御霊を祀るために建立された慰霊碑があります。
この塔の銘板には特別攻撃隊戦没者908名の階級氏名、出撃年月日、特別攻撃隊名、出撃者数が刻まれてありました。そして、その碑文には、「今日もまた黒潮おどる海洋に飛び立ちゆきし友はかえらず」
阪神・淡路大震災の発生から15年を迎えた今日、犠牲者を追悼するろうそくの炎とダブって、命の大切さを痛感した1日でした。
鹿屋市と儒教
四書五経は、江戸時代における寺子屋や藩校での主な教科書でしたので、当然その影響をいろいろな所に受けています。たとえば、以前、会津に行ったときにブログで書いた「日新館」の名前の由来も、昨日のブログの「大学」における「茍日新,日日新,又日新」からとっています。
今日から鹿児島に来ていますが、鹿児島の藩校であった「造士館」で使われていた教科書は、主なものが「孝経」「四書五経」などで、その他和漢の史書が基本として使用されていました。これらの書物の素読、講義、温習の方法で学習していました。今回、訪れているのは、鹿児島市と錦江湾をはさんだ反対側の大隅半島の中心部に位置する鹿屋市です。この地には、儒教に関係したこんな話があります。
近世日本朱子学の祖といわれる藤原惺窩という人がいます。彼の弟子には、徳川三百年の官学の祖といわれる林羅山がいます。また、彼を師と仰いで交わりを結んだ人に、保津川の土木工事で知られる角倉了意もいます。しかし、彼はもともとは仏教を学びますが、儒教への変わり、江戸儒学(中でも朱子学)の始祖となりますが、そのきっかけがこの鹿屋市に関係があるのです。
藤原惺窩は、藤原定家の一二代の孫であり、冷泉為純の第三子 として生まれました。小さいころから神童と呼ばれ、幼少のころ播州竜野で剃髪して宗舜となります。18歳の時、父為純が三木城主別所長治に滅ぼされたために、姫路の書写山に陣を敷いていた羽柴秀吉に会い、仇討と家名再興を願い出ます。ところが、秀吉に「もう少し時期が来るのを待つように」とさとされ、京都に上り叔父泉和尚のいる相国寺を訪れ、ここで仏教と儒学を学びます。その後、三木城は秀吉の手に落ち、秀吉は天下を平定します。秀吉は、朝鮮から三人の使者がやってきた時に、宗舜に命じて大徳寺で使者との筆話をやらせます。この時から彼は仏道を捨て儒学に道を求めていきます。
藤原惺窩は、儒教を学ぶためにぜひ大陸に渡りたいと思います。そこで、鹿児島の山川港から大陸渡航をしようとします。そこで、まず鹿児島には、大隅半島の鹿屋に来るのです。今は合併で鹿屋市になっている肝付町の波見港に行きます。ここは、大隅半島でも錦江湾に面しているのではなく、志布志湾に面しています。そして、ここは肝属川流域にあり、南九州で最も開けた地域の一つでした。そして、その昔、色々な物産を積んだ、大きな船が行き交う“川の道”になっていきました。明や琉球、フィリピンなどから陶器、織物、銅銭などが輸入されました。それらの多くの品物が波見や柏原の港にいったん集められた後、大阪や京都へと持ち込まれて行ったのです。江戸時代になり、外国との貿易は禁止されますが、多くの借金に苦しむ薩摩藩は、幕府に黙って中国大陸や琉球との貿易を地元の商人達に奨励し、莫大な利益を手に入れようとします。
この波見湾で、惺窩は、明船に出会い、蘇州や泉州人の商人と筆談をしています。その後、吾平(相良)を経て高須(高洲)港から指宿の山川港に渡ります。そして、山川港で大陸渡航のための船待ちをしているとき、正竜寺で新訓の「論語」が学ばれているのを知り、これなら大陸に渡らずとも、四書五経を学び教えることができると悟り、京都に帰って広めることにしたのです。これが江戸儒学(中でも朱子学)の始まりです。
学ぶときに、その地に行くことだけに意味があるのではなく、どこにいても学ぶことはできるのです。
大学3
明日は大学入試センター試験ですが、1979年から1989年の間、国公立大学及び産業医科大学の入学志願者を対象として共同して実施した基礎学力をみるために「大学共通第1次学力試験」という試験を行っていたことがありました。中国の隋から清の時代までである598年~1905年の間、官僚登用試験である「科挙」という試験が行われていたことがありました。科挙という語は「(試験)科目による選挙」という意味です。どんな試験も嫌ですが、この科挙は、特に大変だったようです。競争率も約3000倍だったとも言われ、最終合格者の平均年齢も、約36歳と言われています。この科挙は、最初のうちは文芸中心の進士科が重んじられ、宋の時代になると、朱子によって四書五経を対象とすることが確立します。その中で、五経については、そのうちの一経だけを選択受験すればよかったので、四書のほうの勉強が中心でした。その四書は「大学」「中庸」「論語」「孟子」ですが、この順番は中国でこれらの書物が成立した順ではなくて、中国で習う順番です。ですから、一番最初に挙げられている「大学」が、いわば共通一次試験の入門テキストのようなものだったために、誰もが読んだのです。
この「大学」の意味は、「学の大なるもの」ということで、朱子は、この思想を三綱領八条目に整理したのです。三綱領というのは「明徳」「新民」「止至善」で、八条目が、「格物・致知・誠意・正心・修身・斉家・治国・平天下」です。そこまでの説明は、ブログで書きましたが、まだまだ参考になることがあります。
「湯之盤銘曰“茍日新,日日新,又日新”」(湯王が、毎朝使う洗面器にはこんな言葉が刻まれています。「本当に毎日毎日新たな気持ちでいなければならない」ということで、日々が発見であり、学習であり、自らの歩みを進める必要があるのです。それを、毎朝確認をしていたという逸話を紹介して、マンネリを防ぐだけでなく、実践の大切さも言っているのです。そして、そんな努力を続けていけば悟りのように、ものの理がわかってくるものなのです。大学・伝5章に書かれてある「至於用力之久、而一旦豁然貫通焉、則衆物之表裏精粗、無不到、而吾心之全體大用、無不明矣。」(力を用うるの久しき、一旦豁然として貫通するに至りては、則ち衆物の表裏精粗、到らざるなく、而して吾が心の全体大用も明らかならざるなし。)と書かれていることです。あるときにパット悟りが開けることを「豁然貫通」と言っています。よく、長い間、心に抱いていた迷いや疑いなどが何かの拍子に急に解けて、真理を悟ることを「豁然大悟」と言いますが、この言葉は、禅宗などの熟語を採録した中国の字典「祖庭事苑」に載っている言葉です。
伝5章に書かれてある大学で言う悟りとは、事物の表裏細部に至るまでそこに貫かれている理を極めつくすことであり、それによって、自分の心の英知を十分に発揮できるようになることなのです。そのために、自分自身を欺かないこと「誠意」がまず必要です。そのためには、独りよがりを避けなければなりません。つまらない人は、一人で暇になると妄想だけが広がり、主体性がなくなるのです。これが、有名な言葉、「故君子必慎其獨也。小人閒居爲不善、無所不至」(小人間居して不善をなす、至らざる所なし)
「大学」は、「己を修めて人を治める」ための書物なのです。
大学入試
ここ数日、四書五経の「大学」について書いていますが、同じ大学でも、今週末には大学入試センター試験が行われます。この日程は、文部科学省の通知として1月13日以降の最初の土曜日親日翌日の日曜日と決められているのです。受験生や、その家族は、体調管理などで大変でしょうね。少子化で少しは大学入試が楽になったのかもしれませんが、人気のある大学では相変わらず大変のようです。
昨日、オランダのイエナプランの紹介者でもあるリヒテルズ直子さんから、最近出版した本をいただきました。その本は、「私なら、こう変える!」20年後からの教育改革(ほんの木)というもので、14人の識者がこれからの教育に対して具体案を提案しているものです。これら14人の主なメッセージとして紹介されているもののひとつに、「大学入試制度撤廃」というものがあります。それに対してリヒテルズさんは、8つの提案をしています。そのひとつが、「入試をやめて明確な卒業資格基準で進学を可能に」というものです。
ここに書かれている内容を読むと、欧米では、入試制度は例外だそうです。普通は、進学の要件は、それまでの教育課程の卒業資格を取得していることで、その資格の基準は、国が定めているそうです。こうすることにより、次の利点が生まれると言っています。「1、一生いつでも進学できる 2、一旦ある学科に入った後からでも自分の適性や動機に合わせて進路を変更できる 3、生徒の力を1回限りのペーパーテストでではなく長期にわたる観察で多面的に評価できる 4、生徒間に競争による相対評価ではなく、進学先の教育機関にふさわしい必須能力という観点から絶対評価をするので、生徒間に競争ではなく協働・協力の関係が育つ 5、生徒たちは試験のために終わりのない競争に駆り立てられることなく、社会性や情緒の発達など、人間としての幅広い発達の機会を得られる」
このような大学は、確かに大学で学ぶためにはとてもいい気がします。しかし、今、日本では大学で学ぶというよりも就職のため大学に行くという動機が大きい気がします。ですから、入学することに価値があり、また、どの大学を選ぶかも、その大学で何を学びたいかではなく、どの大学が就職に有利か、名の知れた大学であるかということで有名大学に人気があるのでしょう。そのあたりは、少しずつ変わり始めてはいますが、どうでしょうか。
60年代の終わりから70年代にかけて、それまでの権威的で保守的な画一教育を廃し、子どもたち一人ひとりの健全な発達を保障する個別教育への転換を図り、子どもの幸福度が高く、学力も他の欧米諸国の中でも高い位置に引き上げたオランダの教育を紹介しているリヒテルズさんが執筆している章の最後にこう書いています。「自立と共生を養う時間は、決して学力を伸ばすことを犠牲にするものではありません。自分の能力や適性を知り、自分にふさわしい社会的な役割を見出すことに努力する子どもたちは、おのずと、学びの意義を自覚し、知識欲を持つようになるからです。」
最近、私は子どもたちを見ていると、「自立と共生」ではなく、「共生を知ることが自立することである」と思います。そして、他に貢献しようとする心が意欲を生むと思っています。しかし、リヒテルズさんが言っていることと基本的には同じ考え方です。
大学2
中国の四書五経のうちの「大学」は、中江藤樹や二宮尊徳だけではなく、いろいろな人に影響を及ぼしたような気がします。たとえば、少し前のブログで話題にした福沢諭吉の「一身独立」という考え方も、展示会ではそうは書かれていませんでしたが、ずいぶんと影響を受けていると思うのですが。
「大学」では、こう書かれてあります。「古之欲明明德於天下者,先治其國;欲治其國者,先齊其家;欲齊其家者,先修其身」昔から、天下に明徳を明らかにしようとする者(自らの徳で人民に影響し、天下に太平の世をもたらそうとするもの)は、まず、その国を治めようとした。その国を治めようとする者は、まず、自分の家庭を和合させようとした。家庭を和合しようとする者は、自分自身の徳を深め、修養しようとしたのです。
そして、二宮金次郎が薪を背負って読んでいる書物である「大学」の開いているページには、こう書かれてあります。「一家仁,一國興仁;一家讓,一國興讓;一人貪戾,一國作亂。其機如此。」(一家仁なれば一国仁に興り、一家譲なれば一国譲に興り、一人貪戻なれば一国乱を作す。その機かくのごとし。)」どちらにしても、国を憂えるのであれば、自分自身がきちんと徳を積まなければならないことを言っています。
「大学」の昨日書いた最初の文章の続きにはこうあります。「知止而後有定,定而後能靜,靜而後能安,安而後能慮,慮而後能得。」至善に止まることが出来たら、そののち志は決まってくるものです。そして、その志が決まってきたら、心の動揺はなくなります。そのような静かな心境ののち、どんな状況下でも安定してきます。それは、安定してこそ思慮をめぐらすことが出来るのです。そして、思慮をめぐらすことが出来て初めて様々な能力がついてくるのです。幼稚園教育要領の中で「幼児は安定した情緒の下で自己を十分に発揮することにより発達に必要な体験を得ていくものであること」と書かれてあることと同じことを言っています。
では、どうしたら自らの徳性を高めることが出来るのでしょうか。「大学」には、こう書かれてあります。「欲修其身者,先正其心;欲正其心者,先誠其意;欲誠其意者,先致其知,致知在格物。」自らの徳を高めるためには、まず、心を正しくしようとしなければならない。心正しくあろうとする者は、心の働きに少しの邪心も入り込まないようにし、誠を持っていなければならない。そのためには、判断力を磨くことをし、更に物事の道理を極めようとしなければならないのです。ここで言う「身を修める」ということが「終身」であり、今で言う「道徳」なのです。この道徳は、教科として教わることでもなく、命令されてそのようにやることではなく、自ら自分自身を磨くことなのです。それが、幼稚園教育要領に書かれてあるように、「幼児の主体的な活動を促し」であり、「 幼児の自発的な活動としての遊び」が行われなければならないことなのです。
そして、ここでいう心を正しくしようとするものが、「意を誠にする」ことが「誠意」なのです。そして、「正心誠意」であることが「格物致知」につながっていきます。そういえば、以前、食育についての記事を紹介したことがあったのですが、それが掲載されていたのが「致知」という雑誌でした。
これに対して、陽明 は、天理である心の良知を致すのが「致知」であり、「格物」とは良知によって事象を正して理を得させる事だと「致知格物」を主張しました。儒教の特徴として「大学の8条目」である「格物」「致知」「誠意」「正心」「修身」「斉家」「治国」「平天下」は、その逆も成り立つとしているのです。
大学
私のブログによく登場する書物といえば「論語」です。この論語は、孔子とその弟子たちの語録で、もっとも古いものとされ、この孔子を始祖とする思考・信仰の体系が儒教と呼ばれ、その一門を儒家と呼びました。孔子の死後、儒家は八派に分かれます。そのなかで孟子は性善説を唱え, 孔子が最高の徳目とした仁に加え、実践が可能とされる徳目義の思想を主張します。また、周から漢にかけて儒学者がまとめた礼に関する書物を、戴聖が編纂したものが「礼記」という全49篇からなる書物があります。そして、この49篇は、各篇独立した書物ですので、各篇を単独で読む傾向がありました。特に、その中の「大学」と「中庸」の2篇は独立して扱われ、「論語」「孟子」とともに四書の一つに数えられるようになりました。
この大学は、伝説上、孔子の弟子の曾参の作とされ、元来は、五経の一つである「礼記」という大部の1篇であって、原文は僅か1753字、字種は394という四百字詰め原稿用紙四枚半にも満たないものですが、「大学は孔氏の遺書にして初学入徳の門」と称されるようになり、四書の最初に置いて儒学入門の書としたほど重視されました。儒教を勉強するとなると、すぐに論語を思い浮かべますし、せいぜい孟子を読みます。しかし、まずは、「大学」ですが、なかなか「大学」に触れることは少ないです。昨日のブログで紹介した「翁問答」を書いた中江藤樹は、この四書の中の「大学」に非常に感銘を受けます。また、戦前の小学校の校庭には、焚き木を背負い歩きながら本を読んでいる「二宮金次郎」像が必ず置いてありましたが、この金次郎少年が読んでいる本は、実は「大学」なのです。
二宮金次郎は、神奈川県の小田原で生まれ育った二宮家は村でも有数の富農でしたが、金次郎の父の時代に、ほとんどの財産を失ってしまいました。さらに、金次郎は14歳のときに父を亡くし、一家4人の生活を一人で支えていかなければなりませんでしたので、朝は暗いうちから山で薪を集めて町に売りに出掛けて行きながら、本を読んだ姿が像になっているのです。そして、金次郎は、この貧乏から脱却し二宮家を復興させるために、父からもらった「大学」やその他の書物を熱心に読んだのです。
大学の最初には、こう書かれてあります。「大學之道,在明明德,在親民,在止於至善。」ここには、学問をする目的が書かれてあります。それが、「大学の道」です。「在明明德」とは、自分が生まれつき持っているすばらしい徳を発現することとしています。その徳とは、能力と人格が備わっていなければならないのです。その二つの面を自ら高めていくために磨いていく必要があります。しかし、自分だけ高まればいいわけではありません。その次の「在親民」というのは、自分だけの修養ではなく、その徳をまわりの人々にも及ぼし、その人たちの徳も発現していけるように導いていかなければならないのです。そして、最後のそのように到達したら、「在止於至善」と言っているように、その状況を維持していく努力も必要なのです。「至善に止まる」とは、明徳を明らかにし、民を新たにすることが出来た最高の状態を、維持していくということなのです。この三つが「大学の三綱領」と言われているものです。そこで、「至善」とはどこに置くべきかを考えることが必要になってくるのです。
中江藤樹や二宮金次郎は、大学を読みながら、そんなことを考えたのでしょうが、この大学の三綱領が今の私の目指すところでもあるのです。