中庸とは偏りが無いということから永久不変のものという意味があり、四書の「中庸」は、不変の道理を説く書という意味があります。それを、本文宋朱熹章句でこう言っています。「子程子曰、不偏之謂中。不易之謂庸。中者、天下之正道、庸者天下之定理。」
二程子はこう言っています。偏っていないことを「中」と言い、変わらない事を「庸」と言います。さらにまた「中」は天下の正しき道理を「庸」は一定して変わらない天下の定理とも言います。ですから、正道とは偏って(かたよって)はいけない「不偏の大綱」であり、すべての基礎となり、定理は変わってはいけない「不易の条理」で、細目を表しているのです。
そうはいっても、なかなかわかりにくい「中」と「庸」です。特に「中」は当時からわかりにくかったようです。偏らないとは、偏見を持たないということでしょうが、朱子の解説によると「偏らず倚らず(不偏不倚)過不及無きの名」と言っていますが、この不倚とは、倚(よ)りかからないことですので、どこにも「依存しない」という意味です。ということは、「不偏不倚」とは、「特定の考えに偏らず何物にも依存しない」ことを言います。それが「中」です。真ん中です。
そして「庸」とは、「不易」というかわらぬことで、易ゆと書いて「かゆ」と読みますが、その意味は、「換ゆ」とか「替ゆ」とか「代ゆ」と同じ意味です。また、朱子は、「庸」のことを「平常なり」と言っています。一見、関係ないようですが、平常というのは、常に行うということなので、不易と同じことになるのでしょう。
まず、何にも偏らないということは言うほど簡単なことではなりません。どうしても人は刷り込みがあり、ある偏見の心があります。それをなくしてものの本質を見ることは、よほど心を澄ませなければなりません。以前ブログに書いたバリアフリーに通じます。心のバリアを取り払うことで、真実に近づけるのです。それを考えていたら、面白い事に気がつきました。というのは、不易は平常と同じだとすると、不易の心は平常心ということになります。医学的にいえば、平常心とは交感神経と副交感神経のバランスがとられている状態です。それは、物事に柔軟に対応できる心であり、図太くしたたかな心でもあります。その平常心について松下幸之助が「素直な心になるために」という中で、こんなことを言っています。「素直な心というものは、どのような物事に対しても、平静に、冷静に対処していくことのできる心である。素直な心がない場合には、感情にとらわれ、われを忘れて、思わぬ失敗を招くことにもなりかねない。」
物事に対して平静に、冷静に対処するというこことは平常心です。そうすることで、物事の本質、道理が見えてくるものであると言っています。「素直な心を養うためには、素直な心になることを忘れないための工夫をこらすことも必要である。」素直な心を保つには、工夫がいるようです。それが平常心を持つこと、偏らない目、動じない心、そんなものが必要になってくるのです。ということは、どうも、考えていくと、「中庸」の「中」と「庸」は、同じことにたどりつくようです。
ですから、この「中庸」は「孔子門下に伝わりし聖者伝授の心の法なり 後世の誤伝の事を子思恐れ「中庸」作し孟子に授く」とあるように、「中庸」一篇の書は、「孔門伝授の心法」というように、孔子の門人に伝授された心に関する根本の教えなのです。中庸には人生の極意が随所に述べられており、生きていく上でとても大切な内容がちりばめられています。
中庸の精神は、国の命運を決める政治家にこそ必要不可欠だと思う。首相たるもの特定の人物の意向に左右されず、国益と大衆の幸福のみを考えて方針を決断することだ。『平常心、偏らない目、動じない心』はリーダーの必須条件だ。たとえ実質的な権力者であっても、素直な心で見れば、限りなく黒に近い疑惑の人物だ。それを「戦って下さい」とは何事だ。(正直といえば正直だが…。)この政党の中で、検察に圧力をかけるような動きがあるという。『感情にとらわれて、我を忘れて、思わぬ失敗を招かないように』気をつけたほうがいい。ますます民意は離れていくばかりだ。
今回のブログも本当に勉強になります(・・・難しいのですが)。中庸の「偏りが無いということから永久不変」という意味を明らかにしています。そして「平常心」。この心は実に難しい。私は結構ものごとに敏感に反応してしまいますからすぐにこの「平常心」を失います。いけないなぁ、と思いつつ、なかなか上手くいきません。毎日が反省の日々。殊に運気低迷期は動揺しっぱなし。聖人君子から程遠い凡夫の身とはなるほど辛く切ないところがあります。仕事をしながら修行しているつもりですが、一朝一夕には事は成就しません。3年修行してもなお結果は現れない。中庸の道は遠いですね。「素直な心」、これも大切です。自らが「素直な心」を持たなければ回りが「素直な心」を持つようにはならない。明日も修行です。
平常心は物事に柔軟に対応できる心であり、図太くしたたかな心であるというのが、おもしろく感じました。「柔軟に対応」と「図太くしたたかな」では受ける印象がずいぶん違うのですが、どちらも平常心につながるとのことです。「図太くしたたかな」はどちらかというと平常心から遠い感じがしていたのですが、そんな面も必要なのかもしれないと、新しい感覚が湧いてきました。自分にしか分からない話ですが、平常心を持てるよう、図太さの面から向きあうこともやる必要がありそうです。
保育にしても社会にしても偏見は持っていないで、変な刷り込みも無いと、自分ではそう思っていますが、様々な場面で刷り込みはまだまだあるようです。バリアフリーのブログはもちろん読ませていただきましたが、心のバリアを取り払うという考えは思いつきませんでした。どれも目の前に実際に起きている事だけしか見ていないようです。そして、物事の本質を見るには「素直な心」が必要と書いてあります。簡単そうに聞こえますが、逆にとても難しいと思います。心がけてみます・・・。