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2010年01月31日 [地域を知る]
桶町
NHK大河ドラマ「龍馬伝」では、坂本竜馬が千葉道場に入門し、そこから去るところが描かれています。私が、千葉道場というと、「チョコザイな小僧め、名を、名のれ!」「赤胴鈴之助だあ!」という元気のいい声と同時に、竹刀の音がして歌が始まります。「剣をとっては 日本一に 夢は大きな 少年剣士 親はいないが 元気な笑顔 弱い人には 味方する おう! がんばれ 頼むぞ ぼくらの仲間 赤胴鈴之助」この歌は、同世代では、みんな一緒に歌い出すでしょう。最近、テレビ視聴者が高年齢化していると書きましたが、ラジオも、聴いている人の率、時間量ともにあまり変化はありませんが、10年の変化を年層別にみると、聴取層の高齢化が進んでいるという結果があります。しかし、私の子どもの頃は、ラジオにかじりついていました。その代表的な番組が、この「赤胴鈴之助」です。
ラジオ放送は、1957年01月07日にラジオ東京(現TBS)で開始されました。そして、翌1958年10月にはテレビでも放映を開始されます。「少年画報」連載漫画(作・福井英一・2回から武内つなよし)が原作です。金野鈴之助は、江戸に出て父の友人である千葉周作に弟子入りし、修行を積んで心と技を磨きます。この千葉周作が、北辰一刀流の創始者で、千葉道場の総師範なのです。当然、鈴之助も北辰一刀流です。2番の歌詞の「父の形見の 赤胴つけて かける気合も 真空斬りよ」とあるように、赤胴をつけていたので、「赤胴鈴之助」と呼ばれます。そして、殺技は、千葉周作の紹介で飛鳥流に弟子入りして伝授された「真空斬り」です。子どもの頃は、「ウー ヤー タァーッ!」と言いながら、その形をよく真似をしたものでした。
赤胴鈴之助のラジオドラマでデビューしたのが吉永小百合で、千葉周作の娘の千葉さゆり役でした。その後のテレビ化の時にも吉永小百合が初出演をしています。渋谷区立代々木中学生でした。また、歌詞にある「なんの負けるか 稲妻斬りに 散らす火花の 一騎打ち」の稲妻斬り切りの使い手である竜巻雷之進は宝田明でした。
神道無念流の錬兵館、鏡新明智流の士学館とともに、江戸三大道場といわれた千葉道場である北辰一刀流の道場玄武館は、お玉が池の辺りで、千桜小学校の跡地に石碑が立っています。坂本竜馬も千葉道場門下でしたから、北辰一刀流でしたが、通っていたのはこの千葉周作の道場ではなく、周作の弟である千葉貞吉の桶町小千葉道場でした。この桶町は、桶屋が多かったからのようですが、その場所はよくわかっていないようです。たまたま妻が持っている江戸の古地図に桶町の地名があり、それに相当する現在の地図がありました。

その地図の3番のところに「剣聖千葉周作の弟定吉の道場があったところ。周作の「玄武館」が「大千葉」と呼ばれたのに対し定吉の道場は「小千葉」と呼ばれた。坂本竜馬が修行・寄宿した所として有名。」と書かれてあるので、その場所に行ってみました。しかし、何にも碑も印もなく、どこか確証は持てませんでしたが、その地図にある場所から写真を撮ってみました。向こうの方に見えるのが、東京駅に止まっている新幹線です。

こんな、東京駅前に道場があったのですね。ことしの大河ドラマつながりの場所探しは、坂本竜馬の評価が今までそれほどされていなかったということもあり、マイナーなところも見つける楽しさがありそうです。
投稿者 fujimori : 22:28 | コメント (5)
2010年01月30日 [近頃思うこと]
脳研究
昨日紹介した今月号のニュートンは、“「脳」の研究の今”ということで、研究者たちが脳解明の最先端について解説しています。脳科学がいろいろな場面で言われはじめて久しくなります。育児、保育、教育分野でも盛んに脳科学が論議されています。確かに、子どもたちはいろいろな経験を脳で感じ、脳で覚え、次の行動を脳で考えます。私たちは今では、誰も「心で感じる」ということが「心臓」で感じるとは思っている人はいません。しかし、「胸が裂ける」「胸がすく」「胸が潰れる」「胸が塞がる」「胸に一物」「胸に迫る」「胸に畳む」「胸を躍らせる」「胸を撫で下ろす」など、いろいろなことを胸で感じます。そのかわり「頭で考える」「頭を使う」というように、考えるのは頭だと思っているようです。しかし、感じたり、覚えたり、考えたりはすべて脳であり、その違いは脳の部分の違いであって、心臓は、血液を全身に送り出す臓器であることは子どもでも知っているようになりました。
しかし、子どもでも知っている脳の働きではあるのですが、実は、先端の研究者たちでも本当の脳の働きは解明されていないのです。ですから、単純に脳がどうだからどうしなければならないというようなことは言えないのです。たとえば、脳が早く完成するので、小さいうちにいろいろなことを教えなければならないだとか、乳児のころに英語をやらないとバイリンガルの脳にならないであとで苦労するとか、早期教育に結び付けてしまう人がいますが、そんな簡単な話ではありませんし、「坂の上の雲」の秋山真之が非常に英語が堪能であったからといって、彼は早くから英語をやっていたわけではなく、子どもの頃は、野山を友達と駆けずり回っていただけです。人間は、もっともっと複雑なものです。
そうはいっても、先端の脳についての知識は知っておくべきだと思います。今月号のニュートンには、「成長する子供の脳では何がおきているのか?」という章があります。この研究は、成長期の脳の中で起きる神経細胞のネットワークの変化についての研究ですが、その仕組みの解明が、脳の発達障害の原因解明につながると言われています。
脳の神経細胞のネットワークとは、神経回路と呼ばれるもので、このつなぎ目である「シナプス」の数は、どんどん増えていくのではなく、1~3さお前後までは急激に増えていくのですが、その後は徐々に減っていくということが1970年代にはわかっています。それは、神経細胞は、とりあえず最初は広く手をつないでおき、あとで不要な手を離すという戦略をとっているのだと言われています。「多めにつくってあとで減らす」方式のほうが、「必要に応じてふやす」方式よりも、周囲の状況の変化に敏感に対応することができるからです。
たとえば、乳幼児が細やかな指の動きが出来ないのは、指を動かすための神経細胞のネットワークが必要以上に広くつながり合っているためです。成長と共に不要な回線がなくなって必要な回線だけが残り、細かい指の動きができるようになるのです。
しかし、最近の研究では、手のつなぎ方の変化だけでなく、神経細胞自体の性質にも巧みな変化が起きていることがわかってきたそうです。人間の不思議さは図りしれません。
投稿者 fujimori : 21:56 | コメント (4)
2010年01月29日 [近頃思うこと]
消しゴム
ブログで、文具を取り上げることがありますが、様々なステーショナリーには心惹かれるものです。少し前には「画びょう」を話題にしましたが、今日は進化する「消しゴム」について書いてみます。というのも、先日ある問屋さんで、いろいろな形100種の消しゴムを見たからです。寿司から様々な菓子、果物、野菜、ハサミやセロテープなどの消しゴムは、あまりによくできていて、とても心をくすぐります。そういえば、一時期、筋肉マン消しゴムなどのアニメの主人公とか、スーパーカー消しゴムなどが、とてもはやり、どの子の筆箱の中には、必ずいくつかが入っていました。私が少しの間教員をしていたころ、1年生の間ではちょうどスーパーカー消しゴムが流行っていて、机の角の置いて、ノック式ボールペンのノックでそれを押してどこまで走るかを競っていました。
私が子どもの頃の消しゴムというと、その名のとおり原料は天然ゴムでした。1770年に、イギリスの化学者が天然ゴムで鉛筆の字が消せることを発見し、2年後に発売されました。その後、画期的なことが起こります。日本では、国産品の消しゴムはなく、すべて外国製品に頼っていたこともあってか、昭和29年に軟質塩化ビニル樹脂により消す効果を高めることに成功し、その製法特許を取得、昭和30年代、世界に先駆け「プラスチック字消し」を発売したのです。今までゴムの消しゴムを使っていたので、その消え方にびっくりしました。今は、すっかり「プラスチック字消し」の時代です。
しかし、まだゴム字消しが使われているところがあります。それは、シャープペンシルのキャップ内部や鉛筆の頭部などに付けられる消しゴムです。この場合は、減りが少なく強くて折れにくいことが求められるからです。また、最近は修正テープの普及で使われなくなりましたが、インクの字や印刷の字を消す「砂消し」も天然ゴムで作られています。そのほか、美術のデッサンやパステル画で使う「練り消し」も天然ゴム使用です。しかし、木炭デッサンには、消しゴムが発明される前に使われていたパンを使うこともあります。
そんな消しゴム業界ですが、最近、新しい消しゴムが開発されています。それが、科学雑誌ニュートンの今月号に紹介されています。これは、消しゴムではありませんが、書いた文字を消すことができるボールペンが話題を集めているそうです。それは、こすることによる摩擦熱によって温度が上がると変色温度調整剤が発色剤と顕色剤の結合を着ることによって色をなくすというもののようです。しかし、封筒の宛名のように仕分けのときにこすられる可能性があるときには文字が消えてしまうので使えないそうです。
また、雑誌に印刷された文字やイラストを手早く、きれいに消すことのできる消しゴムがあります。カラーでも、マンガ雑誌のような単色でも消すことができます。この消しゴムには、インクを溶かす薬剤をゲル状に閉じ込めたマイクロカプセルが練りこんであって、こするとこのカプセルが敗れ、流れ出した薬剤がインクを溶かす仕組みです。そして、解けたインクを本来の消しゴムの働きによって、消しくずにまきとらせきれいにするものです。このような極小カプセル入りは、日本が誇る高技術だそうで、他にもいろいろと使われています。このカプセルをシャープペンの芯に埋め込んで、文字を書くと香るものがあります。
文房具は、多くの人が日々使うものであり、その中でも特にボールペンやシャープペン、消しゴムは使う頻度が高いために進化をつづけています。
投稿者 fujimori : 23:32 | コメント (4)
2010年01月28日 [近頃思うこと]
いっしょ
NHKの看板番組の時間変更のもう一つは、教育テレビの「おかあさんといっしょ」の放送時間のくり上げです。教育テレビでは、子ども番組全体を見直すようです。その中で2~4歳児向けの番組「おかあさんといっしょ」は、午前8時35分から午前8時にするそうです。他にも、午前9時15分から放送されている4~5歳児対象の「みいつけた!」は幼稚園に行く時間を意識して午前7時40分からにくり上げ、0~2歳児対象の「いないいないばあっ!」は逆に午前8時15分から10分遅らせるようです。
お子様番組の王道「おかあさんといっしょ」に、 わが子は二人とも出演しました。この番組への出演は、子どもが3歳のお誕生日の月から4歳のお誕生日の月までの13ヶ月間しかチャンスはありません。しかも抽選なので、なかなか難しいのかもしれませんが、幸運にも二人とも出演できました。ですから、より思い出が深い番組です。
その番組への出演の場面は大きく分けて3か所あります。ひとつは、歌のお兄さん、お姉さんが歌を歌っている時に、その周りに座って聞いているという「歌のコーナー」です。このコーナーからは、様々な名曲が生まれていますし、お兄さん、お姉さんが誰であるかで、その時代がわかります。この番組が始まった1959年は、歌のお兄さんは一人ではなく数名いましたが、そのひとりに、その後歌手として活躍する旗照夫さんがいました。私が知っているのは、そのあと、お姉さんをやっていた真理ヨシコさんです。そして、1971年から5年間、様々なヒット曲を出した田中星児さんがいます。その途中でお姉さんとして小鳩くるみさんもなっています。そのあと、1976年から、田中星児さんに、今アニメ主題歌手の大御所である水木一郎さんが加わり、その1年あとからひとりになります。その後、宮内良さん、かしわ哲さん、林アキラさん、そして、息子が出演した時はちょうど坂田おさむに変わった時でした。彼はそのあと6~7年間も続きます。
次の出演場面は、「体操コーナー」です。体操のお兄さんも歴史を感じます。1961年、NHK「うたのえほん」で始まり、1967年におかあさんといっしょへ併合され、その時の初代体操のお兄さんとして大ブレイクしたのは、のちに番組共演が縁でドラえもんの声として知られる大山のぶ代さんと結婚した砂川啓介さんです。その後で顔が思い出せるのは、田中星児さんと一緒の時にやっていた輪島直幸です。そして、息子が出演した時には、現在、保育の歌や踊りを提案している瀬戸口清文さんで、娘の時は天野勝弘さんでした。最近よく講演先などでお会いするのは、弘道兄さんの佐藤弘道さんで、12年ほど勤めていました。
そして、最後の出演は、エンディングテーマ曲が流れる中、人形劇のキャラクターを含めたすべてのメンバーが登場し、天井からカラフルな風船がたくさん降ってくる中、2人が手をつないだアーチの下を、子どもたちがくぐり抜ける場面です。この時の人形劇のキャラクターにも歴史があります。最初は、「ブーフーウー」で、1960年から67年まで続きました。その後、「ダットくん」「とんちんこぼうず」「とんでけブッチー」「うごけぼくのえ」と続き、乱暴だけど実は寂しがりやなトラのゴロンタが登場する「ゴロンタ劇場」は、懐かしいですね。そして、「ミューミューニャーニャー」「ブンブンたいむ」の後、わが子のころは、「にこにこぷん」です。その時の主題歌は、今でも歌うことができます。
「おかあさんといっしょ」に出演しているわが子を見ている保護者の、「立ちん坊だったらどうしよう」「もっと目立つ所に行けばいいのに」「ポロリのそばに行けばいいのに」という思いをよそに、自由に振舞っているのはこどもたちでした。
投稿者 fujimori : 22:19 | コメント (5)
2010年01月27日 [新聞記事より]
時間帯
NHK放送文化研究所では、2005年に人々の1日の生活行動を調査しています。特に、テレビやラジオをどのように視聴しているかという内容が多いのですが、それによると、1日の中でテレビは国民全体の9割が見ており、国民1人あたりの視聴時間は3時間39分(1週間をならした値)だったそうです。ずいぶん長く見ていますが、この時間数は、2000年と比べて、土曜日は休みの人が増えた分若干増えているのですが、平日や日曜日ではさほど増えていません。最近は、若い人はあまりテレビを見なくなったからです。この結果でも、テレビは高齢になるほどよく見られ、20代以下の男性や10代女性では2時間30分に満たないのですが、70歳以上の男女では5時間を超えています。また男20代では、テレビを見る人の率が初めてどの曜日も8割を切ったようです。
テレビは、当然働いている間は見ることができません。この調査でも、平日は、どの職業でも8割を超える人が働いています。しかも、平日は朝8時から仕事をする人が増えはじめ、昼を除いて朝9時から夕方5時まではおよそ70%の人が仕事をしています。一方、夕方5時からは仕事をする人が減り始め、夜9時~9時30分で10%となります。この傾向は、その5年前に比べて、仕事をする時間帯が早朝、夜間両方に広がる傾向にあり、逆に昼を除いた午前11時30分から午後3時までの時間帯では減っています。出勤のピーク時間は午前7時45分~午前8時にあるのは、変わっていませんが、午前7時半~午前8時半に出勤する人は減少し、午前6時半~午前7時15分は増えています。
また、家事をしている成人女性の率は、平日、土曜、日曜いずれも90%以上と高率であり、成人男性でも、平日と日曜で家事をする人の率が増加し、日曜では半数を超えた人が家事をしていまあす。家事をしている成人女性の率を時刻別にみると、朝6時30分から9時30分までと夕方4時30分から7時までで、30%を超えています。ピークは、午前7時~午前7時半で、午前8時台はひと息つける時間です。
そんな中、何時ころにテレビを見ているかというと、朝・昼・夜の3つのピークがあり、平日朝の視聴のピークは午前7時~8時30分で、特に7時台前半は男女年層を問わずピークで、8時を過ぎると、男40代以下や女10代でのテレビ視聴は1割を下回り、成人女性や男60代以上では引き続きよく見ています。
ということで、昨日、NHKは今春から、平日朝のテレビ番組の編成を大幅に見直すニュースが流れました。そのひとつが総合テレビの「朝の連続テレビ小説」(朝ドラ)です。時間帯が変わるのは、次の朝ドラからで、放送開始を現在の午前8時15分から午前8時にするようです。これに伴い、報道番組「おはよう日本」は午前8時で切り上げ、朝ドラの後の生活情報番組「生活ほっとモーニング」は、「あさイチ」にあらためるようです。この見直しの背景には、午前8時以降は在宅女性を中心とした視聴者層を狙いたいとの考えがあり、記者会見で、「(一般的な家庭の用事は)午前8時くらいには一段落している。その後の時間にテレビを見る余裕はある」と理由を説明しています。
その生活リズムと、(1)視聴者を放送開始時に奪われない(2)朝ドラの時間帯はNHKを見ない層に見てもらう(3)朝ドラ終了時にはNHKから流れてくる視聴者を取り込む、という3点を意識して決定したようです。 担当者は、「朝ドラを見る層は中高年の女性が多く、若い層を狙った自局の番組とは違っている。朝ドラは15分で終わるので、終了時の取り込みに力を入れることが現実的対応かもしれない」と話しています。
どの時間帯に何を放送するかは、いろいろな分析をした結果決定するようです。
投稿者 fujimori : 21:06 | コメント (4)
2010年01月26日 [近頃思うこと]
龍
視聴率20%超えをキープし、順風満帆のスタートを切っているNHK大河ドラマ「龍馬伝」が始まりました。また、今年は竜馬つながりを歩くことになりますが、昨年暮れには、妻と予告編ということで、京都伏見の「寺田屋」をはじめとして「池田屋」跡や殺害された場所、墓などに行ってきました。そのことはまたあとで書くことにします。とりあえず、今年のNHK大河ドラマ「龍馬伝」は、主演の福山雅治の人気もあって、若い人を初めてして女性からも、また、今日のニュースでは中国でもじわじわと注目を集めているそうです。
このドラマは、「名もなき若者は、その時「龍」になった」という言葉から始まり、「幕末史の奇跡」と呼ばれた風雲児・坂本龍馬33年の生涯を、幕末屈指の経済人・岩崎弥太郎の視線から描くオリジナル作品です。このプロローグの言葉は、私のこのブログのタイトル「臥竜塾」につながります。「臥竜」とは、龍になる「その時」を待っているのです。坂本竜馬を一般に人に対して、身近な人物にしたのが、同じくNHK大河ドラマにもなった司馬遼太郎さんの「竜馬はゆく」でした。この小説には、竜馬の言葉を借りて司馬さんの人間への問いかけがさまざまな場面で行われています。たとえば、彼に人生は短かったのですが、龍になる「その時」の心構えがこの言葉の中に示されています。
「人の一生というのは、たかが50年そこそこである。いったん志を抱けば、この志に向かってことが進捗するような手段のみをとり、いやしくも弱気を発してはいけない。たとえその目的が成就できなくても、その目的への道中で死ぬべきだ。生死は自然現象だからこれを計算に入れてはいけない」
このドラマの最初にかなりショッキングだったのが、身分差別です。司馬遼太郎が、「風塵抄」の中で、こんなことを書いています。「薩摩藩士族には、城下士と郷士の差別慣習があった。維新後、西郷隆盛は、城下士を近衛陸軍に入れ、郷士を東京警視庁に入れた。郷士出身の川路利良は明治6年、フランスの警視庁制度を見学し、帰国後、大警視として日本の警察制度をつくるのだが、明治10年、かれにとって最大の難事が出来した。故郷が反乱(西南戦争)をおこしたのである。川路は鎮圧側に立つにあたって、「人ト生レテ、自助独立ノ権ナク、己レ生涯ノ利害ヲ人二任シテ、羈縻(きび)(つなぎとめる)セラルルハ牛馬二均シカラズヤ」という名文でもって同郷出身の部下をはげました。警視庁の創設者もまた、自助・独立の礼讃者だった。」
少し前のブログで何回か取り上げた福沢諭吉が「学問のすすめ」のなかで「独立とは」を書いています。彼の言う「独立」は安易な個人主義ではありません。少し前から、集団教育の反省から、一人ひとりとか、個々にという概念が中心になりました。しかし、それは「個人個人」が好き勝手にやるとか、「自分さえよければいい」という意味ではなく、彼は「人間」ということを提案しています。この言葉もブログで書きましたが、「じんかん」と読ませて、「人間関係」という意味を持たせました。福澤は、独立した個人同士の人間交際の重要性を唱え、人が社会の中でどういう規範を持って生きていくかということが「独立」につながるということを言っています。
人のつながりの中で、古い考え方からの独立が、龍にさせるのでしょう。
投稿者 fujimori : 21:31 | コメント (4)
2010年01月25日 [近頃思うこと]
年賀
昨日は、お年玉年賀はがきの抽選がありました。私は、今まで4等のお年玉切手シートしか当たったことはありません。4等は、2種の下2けたが同じであればいいので、確率的に100本に1本当たるのですが、ほぼ、その確立に近い当選です。そのほかの商品は、時代を反映します。今年の1等は、「32型デジタルハイビジョン液晶テレビ」「選べる海外旅行・国内旅行」「ノートパソコン+デジタルカメラ+インクジェットプリンタセット」「デジタルビデオカメラ」の5点の中から1点が選べます。確率は、100万本に1本です。2等は、「家庭用ゲーム機」「デジタルカメラ」「ポータブルDVDプレイヤー」「加湿空気清浄機」「有名産地にこだわった特別栽培米」の5点の中から1点で、100万本に3本当たります。3等は、「選べる有名ブランド食材、地域の特産品」で、1万本に1本の確率で当たります。
ところで、第1回のお年玉付き年賀はがきの賞品はなんだったのでしょう。特等は「ミシン」、1等「純毛洋服地」、2等「学童用グローブ」、3等「学童用こうもり傘」と続きますが、ずいぶんと子ども用が多いですね。というのも、年賀状にお年玉がついたのは、戦後、ベビーブーム真っ盛りの1949(昭和24)年からだからです。それまでは、年賀状には通常の官製はがきを使っていたのですが、京都在住の郵政に関係していない人が、「年賀状が戦前のように復活すればお互いの消息もわかり、うちひしがれた気分から立ち直るきっかけともなる」と考え、年賀状に賞品の当たるくじをつけたらどうかということを郵政省に持ち込みます。最初は、「国民が困窮している時代に、送った相手に賞品が当たるなどと、のんびりしたことを言っていられる状態ではない」との反論もありましたが、結局は採用することになりました。
この世界にも類を見ない制度は、発売と同時に、大きな話題を呼び、大ヒットします。この年、年賀状の取扱量は大きく伸びることになります。そして、商品は時代を反映することになるのです。昭和31年は「電気洗濯機」、昭和35年は「フォームラバーマットレス」、昭和40年以降は「ポータブルテレビ」や「8ミリ撮影機・映写機セット」、昭和59年は「電子レンジ」、昭和61年は「ビデオテープレコーダー」と見ていくと、家電の歴史ですね。
江戸時代には、年賀状を出していたのでしょうか。日本で「年賀の書状」が取り交わされるのは、7世紀後半以降のことだと考えられています。江戸時代の寺子屋の教科書である往来物にも年始の挨拶を含む文例が数編収められています。そして、「駅伝」「飛脚」などの制度が徐々に確立してくると、一般の書状はもちろん、年賀のための書状も多くなっていったようです。実際に、戦国大名が賀詞を述べた書状なども多く現存しているようです。そして、寺子屋での教育は、武士階級だけでなく、庶民が手紙を出すことを普及させます。そんな庶民教育の急速な普及が、江戸後期には、日本は世界一、就学率、識字率が高い国になるのです。しかし、江戸時代では、「年賀の書状」は、必ずしも1月1日に出されたわけではないようです。1702(元禄15)年に編まれた雑俳撰集「当世俳諧楊梅」には、「六月に 年始の礼は かへり花」という句が載っていますが、年賀状の返事を6月に届けば、狂い咲きだと思われても仕方ありませんね。しかし、このあたりまでに返事を書けばいいとなると、ずいぶんと楽になり、正月がのんびり過ごせそうですが、今の私にとっては、年賀状の返事の締め切りは、昨日の当選番号発表日です。
投稿者 fujimori : 23:14 | コメント (4)
2010年01月24日 [江戸文化]
大根
今日の夕食に「おでん」をいただきました。おでんについてはブログで書きましたが、その中に入れる具で好きなものは年齢によって変わってきました。今は、大根がおいしいと思います。もともと大根は地中海地方や中東が原産で、古代エジプトから食用としていた記録があるそうですが、日本には中国を経て、弥生時代に伝わり、現在の消費量は世界1位です。また、大根は1年中食べられますが、じっくり煮ておいしいのは冬の大根で、おろしたりして、生でおいしいのはどの季節でも新鮮な大根がいいそうです。
大根の辛味成分であるアリル化合物には炎症を鎮め、せきを止めるほか、殺菌の働きもあるといわれており、風邪をひいた時は、大根とショウガのすりおろしたものをお湯に溶かして飲んだり、大根の角切りをハチミツや水飴に漬けておいて、溶け出したエキスを飲むと咳が止まったり、風邪にいいといわれています。また干した大根の葉には、温泉成分にみられる塩化物や硫化イオンなどの無機成分が多く、皮膚のたんぱく質と結合して膜をつくり、保温効果を高める働きがあることから、大根を使った風呂も、昔から農村地帯で冷え性や婦人病治療のための民間療法として使われてきました。
明日から調理セミナーが行われますが、江戸時代の食生活はどんなんだったでしょう。江戸時代の江戸の人口比率は、街づくりのために男性が圧倒的に多い町でした。しかも、独身者も多かったようです。ですから、食生活の中心は、今でいう外食だったようです。落語などにもよく出てきますが、屋台で、そば、おでん、寿司、てんぷらなどをつまんでいたようです。また、長屋などの家では、朝に1日分のご飯を炊きました。朝食には、そのご飯と「しじみ」「わかめ」「豆腐」「野菜」などを具にした味噌汁に漬け物程度です。子どもたちは朝に寺小屋へ行き、昼になると家に戻って昼食を食べました。昼食は、朝に炊いたご飯と味噌汁、そして野菜の煮付けがありました。その後は再び寺小屋へ行き、午後2時頃に帰ってきて3時のおやつに焼き芋や餅などを食べました。夕食は、一汁一菜が基本で、ご飯に漬け物や魚、野菜の煮付けなどです。
このメニューを見ると分かりますが、野菜をよく食べました。その中でナンバー1は、「大根」でした。また、江戸時代の「享保・元文諸国産物帳」によると、大根が品種数のもっとも多い野菜と記述されています。また、料理の種類も多く、江戸時代の大根料理専門書にはおよそ百種類も掲載されています。「大根一式料理秘密箱」(1785)刊の序には「物の名も所によりてかはれども大根の生ぬさともあらじ。はにふのすまゐにも香物つけぬ事もあるまじ。<中略>貴賤老若 雅人鈍ぶつにすゝむともよもふさいだ口あかぬもあるまじ」ここには、大根は、地域の差もなく、住まいの差もなく、貧富の差もなく、老若男女の差もなく、風雅人であろうが愚鈍な人でも、誰にでもすすめても喜んで食べるであろうと書かれてあります。
科学的に成分が分析されなくても、経験から体にいいものがわかっていたのですね。
投稿者 fujimori : 22:33 | コメント (4)
2010年01月23日 [江戸文化]
漢字の教科書
学校では、いろいろなことを、教科書を使って学びます。私は、学校の学びは勉強なので、当然やらなくてはいけないものけど、つまらないものだという考えがあります。その勉強に使う教科書の内容もつまらないものだという印象があります。しかし、目的はいろいろな情報を子どもに伝えることとしたら、面白くしてもいいはずです。
最近、小学校で英語教育が始まっている学校が増えてきました。子どもたちは初めて英語に触れるために、歌を歌ったり、踊ったり、ゲームをしたり楽しみながら、まず英語に触れ合いさせます。子どもたちは、小学校に入学するとそのほかの強化に初めて触れます。国語や算数などですが、これらの教科では歌ったり、踊ったり、ゲームをしたりしないで、最初からきちんと椅子に座って机に向かっていわゆる勉強をさせられます。国語で文字を覚えるのにも、書き方ノートに「あ」から順に50音の練習をします。昔は、すべての文字を入れ込んでそれを一つの文章にしたのが少し前にブログで書いた「いろは」です。「いろは」47文字を声に出して読み上げ、その次にお手本を見ながら筆を使って書きながら一字ずつ覚えていったのです。
では、漢字はどのように覚えたのでしょう。やはり、ただ新出漢字を順に覚えていったのではなく、1,000の異なった文字が使った漢文の長詩である「千字文」というテキストを使って子どもたちは漢字を覚えていったのです。この「千字文」という漢字の初級テキストは、中国で6世紀に作られ、日本にもほぼ同時期に伝わりました。ひらがなを覚えたあとは、次にコレで漢字を覚えたわけです。これによって漢字を学ぶことは、平安時代では貴族の必須科目でした。が、室町期になると、特に庶民はすっとばして、「庭訓往来」を使用するパターンもあったようです。
この「千字文」の構成は、四字一句にまとめて、250句の詩にしてすべて違う1000字が表わされています。しかも、そのそれぞれの一句ごとにちゃんと意味があります。歴代の皇帝のエピソードとか、当時の都や宮廷の様子とか、道徳や教訓についてとか各分野にわたって書かれてあります。見事としか言いようがありません。
これを使ったのは、6世紀初頭に南朝の梁の武帝が、文官の周興嗣に作らせたもので、一夜で千字文を考えたそうです。それを考えるのにかなり頭を使ったために、一晩で白髪になってしまったという伝説があります。そんな傑作ですから、日本だけでなく、多くの国の漢字の初級読本として使用されました。また、この注釈本も多数出版されています。また、書道の手本用の文章にも使われています。
千字文の最初の句は「天地玄黄」です。「天地玄黄」という言葉は、古代中国の占筮の書であり、儒教の基本テキストである四書五経の五経の筆頭に挙げられる経典である「易経」が出典のようです。天は黒色ということで、玄人の「玄」に通じ、赤が含まれた色で、奥が深いとか、雄大さも表わしています。また、地は黄色であるということですが、中原とか華北とか呼ばれる地域には、黄土が広がり、中国では、大地は黄いろいというイメージなのでしょう。ですから、後に続く句は、「天地玄黄。宇宙洪荒。」で、宇宙は洪荒なりということで、なんと雄大な始まりなのでしょう。
文字を覚えながら教養も身につき、面白い世界を覗ける学習の始まりです。
投稿者 fujimori : 21:32 | コメント (4)
2010年01月22日 [江戸文化]
落ちこぼれ
寺子屋での教科書の中心が四書五経だとすると、私たちは今その書物を読んでもとても難解の気がします。しかし、当時の子どもたちはそれを教科書として学習していたとなると、当然、今でいう落ちこばれが出るのではないかと思われます。しかし、沖田行司さんの「日本人を作った教育」(大巧社)によると、寺子屋は「落ちこぼれない教育」といって紹介されています。
まず、最近よく論議されている「ゆとり」ですが、寺子屋での時間割はどうであったかというと、全体で「五ツ時」(現在の午前7時半頃)から「八ツ時」(現在の午後2時半頃)までの7時間ほどでした。これを「七ツ習ひ」と言っていました。そして、寺子屋から帰宅するいわゆる下校時間を「御八ツ」といい、子どもたちは空腹のまま帰宅して、夕食までの間の間食をとることを「おやつ」と呼ぶ習わしになったのです。ただし、「八ツ時」まで授業をしたわけではなく、午後からは、女子は琴や三絃、裁縫などの師匠について習うことも多く、男子の場合も、午後から算盤(そろばん)の教授を行った寺子屋もあったそうで、どうも、授業は午前中で、午後は課外授業のようです。現在のドイツの小・中学校に似ています。休日は、日曜日という考え方はなかったので、毎月朔日(1日)と「五の日」(5日、15日、25日)に休む所があったり、6日に1日の割合で休んだりしたようです。また、五節句などの伝統的祝日なども休んでいたようで、年間授業数は、260日から300日くらいだったようです。今は、大体196日から205日が多いようです。今のほうが大分少ないのは、土曜日休みと夏休みなどの長期休みがあるためでしょう。江戸時代では、逆に農繁期などは「朝習い」といって早朝や夜に手習いの時間をあてた延長授業があったようです。
教科書のひとつは、出版社が刊行している「往来もの」を使います。往来とは手紙のことで、手紙の様式を覚え、手紙文を通して読み書き能力を獲得するほか、この中では、手紙文の形式をかりて単語の習得、生活風習、動植物などが書かれ、生活中心の実用性を重んじたものでした。それに対して、四書は、教養の習得だったのです。では、なぜ、落ちこぼれという問題が起きにくかったかというとこのように分析しています。
寺子屋での教育における形は、今日多くの教室で見られるような教師が前に位置し、それに子どもたちが列をなして対面しているものは寺子屋が描かれている図では皆無です。基本的には、子どもたち同士がそれぞれの天神机を対面に配置して座り、師匠は全員の寺子が見通せる場に位置する。それは、一斉授業を行っていないということです。そこで、子ども一人ひとりの発達の度合いに応じた指導が可能になるのです。また、天神机の配置の仕方によっては、先に進んだ子どもが遅れた子どもを指導するということも可能になります。均一な個性に仕上げるために一定の基準と目的を設定して一斉に授業をするといった近代に導入された一斉授業とは異なり、一人ひとり異なる個性と能力を持った人間を教育した寺子屋とは基本的に異なるのです。
一定の基準を、一定の期間において習得させる、また、社会や経済に還元しうる知識や情報の獲得を目的にするために落ちこぼれるという考え方が出てくるのです。
何も、世界の教育を参考にしなくても日本でも参考になる取り組みは多いですね。
投稿者 fujimori : 23:42 | コメント (5)
2010年01月21日 [近頃思うこと]
四書3
「中庸」という考え方は、どんなときにも常に重要です。四書の中の「中庸」には、そのことがいろいろと語られます。「中和」という言葉があります。この言葉の多くは、化学に使われます。「毒などを中和する」とか「酸を塩基で中和する」というように使います。学校で、酸性のものとアルカリ性のものを混ぜて、中性のものにすることを中和と言い、リトマス試験紙などを使って調べた思い出があります。 「中庸」では、このようにとらえています。
「喜怒哀樂之未發,謂之中;發而皆中節,謂之和;中也者,天下之大本也;和也者,天下之達道也。致中和,天地位焉,萬物育焉。」(喜怒哀楽の未だ発せざる、これを中と謂う。発して皆節に中(あた)る。これを和と謂う。中は天下の大本なり。和は天下の達道なり。中和を致して、天地位し、万物育す。)
喜怒哀楽という感情は、外からの刺激によっておこるものです。しかし、まだ、そのような感情が起こらない精神状態のことを「中」というと言っています。「未発」のときです。「未発」を辞書で引くと、「まだ起こらないこと。まだ外に現れないこと。」ですが、喜怒哀楽という感情は、成長のあかしでもあるのに、どうしてまだその感情が現れない状態を「中」というのでしょうか。まあ、喜怒とは喜んだり怒ったりで、哀楽も哀しんだり楽しんだりと感情がどちらかに偏っています。ですから、偏らないことが「中」なのでしょう。または、平常心であるので中なのでしょう。そのことは、次の文章でわかります。
「發而皆中節,謂之和」ということを、中庸を全訳している宇野さんはこう解説しています。「外物に感じて喜怒哀楽の情が起っても、過ぎたり及ばないようなことがない、みな当然あるべき節度に適うのを和という。」度を越さないことを「節度」ということがあります。そして、何について度を越さないかで節度の意味合いが違ってきます。節制をするというような「欲求・要求」などにおける節度、礼節を持ってというような「上下関係・規律」などにおける節度、節操があるというような「道徳的・精神的」な節度などがあります。節度には、ずいぶんといろいろな使い方があります。このようなお互いが節度をもって関わることを「和」というのです。即ち、「和」とは、共生であり、調和です。
こういった「中」が天下の万事万物の根本であり(未発の中)、こういった「和」がどんな世界にも通じる道(中節の和)なのです。そして、「致中和,天地位焉,萬物育焉。」とあるように、中と和とを実行し、極めていくことが「中和」ということで、そこに達するために修養を積んでいかなければならないのです。そうすると、天地すべてのものの在り方がそれなりの位置に落ち着き、万事万物すべてが健全な生育をとげていくことができるようになるのです。
これらのことが、「中庸」の第1章に書かれていて、それは孔子が子思に伝えたかった趣旨なのです。そして、そのあとの章で、子思が「礼記」から「中庸」に関して孔子が言った言葉を引用して、その意義を書いたものがこの「中庸」です。
私は、江戸時代での寺子屋、藩校での教育をもう一度見直すと言って、その中で行われている内容についてはそれほど造詣が深くありません。そこで、その時の主な教科書であった四書のなかの「大学」と「中庸」を考えてみたのですが、やはり難解です。というのも、その言葉の理解よりも、その言っている意味を考えないといけないからです。しかし、二宮金次郎が、子どものころに背中に薪を背負って、さもテレビゲームをやりながら歩いている人と同様に「大学」や「中庸」を読んで歩いている姿を見ると、昔の人は学歴やいろいろな知識がなかったであろうと思われますが、どうして理解ができ、感動し、影響を受けたかが不思議に思われます。
投稿者 fujimori : 22:49 | コメント (4)
2010年01月20日 [近頃思うこと]
四書2
中庸とは偏りが無いということから永久不変のものという意味があり、四書の「中庸」は、不変の道理を説く書という意味があります。それを、本文宋朱熹章句でこう言っています。「子程子曰、不偏之謂中。不易之謂庸。中者、天下之正道、庸者天下之定理。」
二程子はこう言っています。偏っていないことを「中」と言い、変わらない事を「庸」と言います。さらにまた「中」は天下の正しき道理を「庸」は一定して変わらない天下の定理とも言います。ですから、正道とは偏って(かたよって)はいけない「不偏の大綱」であり、すべての基礎となり、定理は変わってはいけない「不易の条理」で、細目を表しているのです。
そうはいっても、なかなかわかりにくい「中」と「庸」です。特に「中」は当時からわかりにくかったようです。偏らないとは、偏見を持たないということでしょうが、朱子の解説によると「偏らず倚らず(不偏不倚)過不及無きの名」と言っていますが、この不倚とは、倚(よ)りかからないことですので、どこにも「依存しない」という意味です。ということは、「不偏不倚」とは、「特定の考えに偏らず何物にも依存しない」ことを言います。それが「中」です。真ん中です。
そして「庸」とは、「不易」というかわらぬことで、易ゆと書いて「かゆ」と読みますが、その意味は、「換ゆ」とか「替ゆ」とか「代ゆ」と同じ意味です。また、朱子は、「庸」のことを「平常なり」と言っています。一見、関係ないようですが、平常というのは、常に行うということなので、不易と同じことになるのでしょう。
まず、何にも偏らないということは言うほど簡単なことではなりません。どうしても人は刷り込みがあり、ある偏見の心があります。それをなくしてものの本質を見ることは、よほど心を澄ませなければなりません。以前ブログに書いたバリアフリーに通じます。心のバリアを取り払うことで、真実に近づけるのです。それを考えていたら、面白い事に気がつきました。というのは、不易は平常と同じだとすると、不易の心は平常心ということになります。医学的にいえば、平常心とは交感神経と副交感神経のバランスがとられている状態です。それは、物事に柔軟に対応できる心であり、図太くしたたかな心でもあります。その平常心について松下幸之助が「素直な心になるために」という中で、こんなことを言っています。「素直な心というものは、どのような物事に対しても、平静に、冷静に対処していくことのできる心である。素直な心がない場合には、感情にとらわれ、われを忘れて、思わぬ失敗を招くことにもなりかねない。」
物事に対して平静に、冷静に対処するというこことは平常心です。そうすることで、物事の本質、道理が見えてくるものであると言っています。「素直な心を養うためには、素直な心になることを忘れないための工夫をこらすことも必要である。」素直な心を保つには、工夫がいるようです。それが平常心を持つこと、偏らない目、動じない心、そんなものが必要になってくるのです。ということは、どうも、考えていくと、「中庸」の「中」と「庸」は、同じことにたどりつくようです。
ですから、この「中庸」は「孔子門下に伝わりし聖者伝授の心の法なり 後世の誤伝の事を子思恐れ「中庸」作し孟子に授く」とあるように、「中庸」一篇の書は、「孔門伝授の心法」というように、孔子の門人に伝授された心に関する根本の教えなのです。中庸には人生の極意が随所に述べられており、生きていく上でとても大切な内容がちりばめられています。
投稿者 fujimori : 23:33 | コメント (4)
2010年01月19日 [近頃思うこと]
四書
また、中国の四書五経の話に戻ります。四書とは、「大学」「中庸」「論語」「孟子」のことをさしますが、その中の「大学」は儒教の政治思想で、「中庸」は倫理を説くものだと言われています。この「中庸」も、「大学」同様、もともとは「礼記」中の1篇で、孔子の孫である子思の作とされています。
この「中庸」という言葉は、かなり哲学的な話になるので厄介です。何となく普段使う場面は、仏教用語の「中道」に近い意味に使われることが多いのですが、真ん中の道というように、黒白どちらかではなく、その真ん中という考え方もあるということしょう。しかし、たとえば仕事と育児の真ん中ということはありませんし、両立といって両方ともする事でもありません。その時には、その二つのバランスをよりよく取っていくという意味になります。最近、どうしてもどちらかとか、両方ともといって自分を苦しめる人が多くなった気がします。そんな時には、中庸という考え方をしたらどうでしょうか。
初めて「中庸」という言葉が出てきた「論語・擁也」で、孔子は、「中庸の徳たる、其れ到れるかな。民鮮きこと久し」と言っています。中庸という考え方は「不足でもなく、余分のところもなく、丁度適当にバランスよく行動できる」ということで、人徳としては最高のものとても素晴らしいものと位置づけています。しかし、「民に少なくなって久しい」と言うように、このころも、そのように考える人が少なかったのでしょう。また、なかなか習得できない高度な概念でもあるのでしょう。
私は、「中庸」ということを「バランスが取れた」ととらえると同時に、もうひとつの考え方を持っています。それは、「庸」という漢字です。「字統」には、「庸」という漢字は、庚と用に分かれ、「庚」は、「杵(午)を二本の手で持つ形」であり、「用」は木や竹を筒状の籠の形に編んだもの」とあります。ですから、「庸」とは、籠に土を入れて二人で杵を使って固めたものということで、「ひとりの考えだけで行動するのではなく、多くの人の考えを取り入れながら行動する」ということで、「共生」の概念をも言っている気がします。「あなたと私で一本の棒を持ち、力を合わせて両者を包摂する新たな道を築きましょう」ということです。古代ギリシャにおいても、「中庸」という概念は尊重されていたようで、アリストテレスが「メソテース」と言って倫理学上の一つの徳目として尊重しています。
とりあえず、四書の中の「中庸」では、どんなことを言っているのでしょうか。
冒頭には、「天命之謂性,率性之謂道,修道之謂教。」と書かれてあります。これは、人が天から授かったものは、本性であり、その本性に従って生きていくのが、人の道である。その道を修めることが教育であるというのです。人は、誰でも善である本性を持っているもので、その本性に生きていこうとする「道」を極めるために、それを自覚し、磨き、修養していくことが必要なのです。
その「人の道」とはどんな道なのでしょうか。中庸を訳した名著に宇野哲人の全訳本があります。そこには、「道路といわんがごとし。宇宙の森羅万象は道によって完全に存在するよりいってこれを天道といい、人倫相互の関係は道によって円満に履行せらるるよりいってこれを人道という。天道と人道との名は異なれども、見方の相違であって、その実は唯一不二である。しかしてこの道は他なし、各々その天性に卒有するに在るのみ。故に「性に率うをこれ道と謂う」という。」と書かれてあります。人と人との関係は、人として守るべきことをわきまえることによって円満になるのです。その人としての生き方、人との関係を学ぶことが教育なのです。
投稿者 fujimori : 20:48 | コメント (4)
2010年01月18日 [講演先にて]
霧島市
昨日、鹿屋市から鹿児島空港まで送ってもらう途中でいくつかの市を通ります。その中で、「霧島市」があるのですが、ここは、平成17年11月7日、国分市、溝辺町、横川町、牧園町、霧島町、隼人町、福山町が合併して、新たに誕生した市です。その前のそれぞれの市や町はいろいろと有名です。「花は霧島、煙草は国分・・・」と鹿児島おはら節でも歌われるように、国分の煙草は江戸時代後期頃から「国府たばこ」の名で全国に広く知られていました。
また、霧島は焼酎でも有名です。2005年に雑誌社が企画した焼酎ランキングで鹿児島からベスト10に6銘柄が入っていますが、そのうちの3銘柄は霧島市に蔵元のある焼酎でした。一つの市に9つの蔵元があるのは鹿児島でも珍しいことのようです。(かめ壺焼酎で有名な森伊蔵はとなりの垂水市です)
また、鹿児島で製造されている焼酎のほとんどは、本格焼酎と呼ばれているもので、酒税法上乙類に属し、単式蒸留機で蒸留したアルコール分45度以下のものです。「旧式焼酎」とも呼ばれ、古くから作られている伝統的な焼酎です。主原料となる、芋、米、麦など素材の味を生かした焼酎です。ただ、最近よく出回っている黒霧島など霧島酒造は、宮崎県の都城市にあり、そこの商標です。
もうひとつ、最近、テレビ番組や雑誌でとり上げられ、人気の高いものに、霧島市福山産の「黒酢」があります。ここで作られているのは、壷づくり黒酢(壷で作られるので壷酢ともいう)です。1800年代、江戸時代後期に薩摩藩の福山地方で壺酢づくりが始まり、今日まで同じ製法を守って造られています。重要な商業地であったここ福山町は、良質な米ときれいな湧き水、そして温暖な気候に恵まれており、また、適度な湿度も維持されているので、酢を造る微生物が活動しやすい環境です。また、薩摩藩主島津義弘は、茶道を千利休について学んだ茶人で、焼き物には深い関心を持っていました。そして、豊臣秀吉と共に朝鮮に出陣した際、朝鮮の陶工達を引き連れて帰ってきて、彼らはその後、士族としての待遇を受けながら薩摩焼を焼き始め、その技術を代々受け継いできました。ですから、壺酢づくりにかかせない薩摩焼の壺も手に入りやすい状況にありました。
そんな環境の中で始まった壺酢づくりでしたが、大正から昭和になって、石油から合成してできる合成酢が製造されるようになり、安価な合成酢に押されはじめ、壺酢は衰退を見せ始めました。しかし、昭和40年代になって、有害食品が問題となり、自然食希求のブームが巻き起こりました。それに伴い、石油から造られる合成酢も人々から敬遠されるようになり、壺酢が再び注目され始めました。
薩摩焼きの壷の中で、蒸し米と麹、天然のわき水だけを原料に、一年から三年じっくり発酵・熟成してできあがる酢は、次第にその色は深みのある琥珀色に変わり、さらにまろやかさとコクが加わります。その色から「黒酢」と呼ばれているのですが、この成分には、アミノ酸、有機酸、ビタミン類、ミネラル類が含まれています。その中でも特に豊富に含まれるアミノ酸は健康維持のために大切な成分であることで知られています。
壷に杜氏が米、麹菌、水を仕込んでからは、壷は屋外に置かれ、放置されます。そして、昼間は南国鹿児島の強い太陽光に照らされ、夜は鹿児島錦江湾からの冷たい海風にさらされ、その中で1年以上かけて自然にじっくりと糖化、アルコール発酵、酢酸発酵までが行われるのです。ですから、福山町を通過する道の脇には、いたるところに壺が並べられており、また、広い畑の代わりにたくさんの壺が並んでいる広場もあちこちに見うけられ、ちょっと珍しい光景でした。
投稿者 fujimori : 23:08 | コメント (4)
2010年01月17日 [講演先にて]
鹿屋
日本の大地が見渡せるような「わが大地の歌」の歌詞を書いた、中津川ジャンボリー世代のフォークシンガー笠木透さんが、こんな歌詞を書いて、自ら歌っている曲があります。歌詞の内容は、知覧を飛び立った特攻機が給油のために南の島に降りたちます。そして給油を終え、飛び立っていった特攻機はそのまま帰らない旅に飛び立ったのですが、その飛行機の車輪についていた植物の種がその場に落ち、後に芽をふき、あちこちに可憐な紅い花を咲かせました。その花のことを南の島の人々は誰ともなく「特攻花」と呼んだという歌詞です。2番の歌詞は、「本当の名前は 知らないけれど 小さな時から そう呼んでいた 戦争のことも 知らないけれど 誰言うこともなく 特攻花 風吹けば 風にゆれ 雨降れば 雨にぬれ 小さ愛さ 赤い花だよ 小さ愛さ 赤い花だよ」
太平洋戦争末期、九州の鹿児島県知覧から出撃する特攻機の中継地点がありました。その場所は、九州と沖縄の中間に位置する喜界島です。ですから、この喜界島が、沖縄戦に向かう若い特攻隊員が、最期に飛び立った場所でした。今でも、毎年飛行場跡に島の人たちが「特攻花」と呼んでいる天人菊を平和を願う花として大切にしているそうです。
また、こんな話もあります。太平洋戦争中、特攻基地の置かれた鹿屋市周辺で咲きはじめた花がありました。最初に特攻隊が出撃した昭和20年3月に発芽し、最後の出撃となった同年6月に実を結んだことから、地元では、この花を「特攻花」と呼ばれるようになったということが鹿児島県鹿屋市役所の広報「かのや」に書かれてあります。
この二つの言い伝えにあるように、昨日から訪れている鹿屋市も特攻基地がありました。しかも、ここから特別攻撃のため沖縄へと飛び立ち、再び帰ることはなかった若きパイロットは908名で、特攻基地の規模としては人員・機体数ともに全国的に有名な知覧を上回っています。ここは、戦前から使われている歴史ある航空基地であり、いまでも、その滑走路は海上自衛隊の鹿屋基地として使われており、滑走路脇には零式艦上戦闘機の掩体壕が残されており、司令部庁舎も戦前に建造されたものだそうです。
ここは、また、アメリカ海軍やアメリカ海兵隊にとっては、今話題の普天間飛行場に移動するヘリコプター部隊が、途中給油に立ち寄る重要な航空基地のようです。
この海上自衛隊鹿屋航空基地の敷地内に、海軍航空の歴史資料館があります。今日の講演前に、そこを見学しました。館内には旧日本海軍創設期から第2次大戦までの資料展示があり、「坂の上の雲」の登場人物である秋山真之や東郷平八郎、広瀬中佐などの資料もありました。また、「零式艦上戦闘機52型」が復元展示してあり、「特攻」という人類史上類のない悲惨な作戦で命を落とした多くの若い特攻隊員の写真や遺書・遺品などが展示されています。
また、近くには、その若者の御霊を祀るために建立された慰霊碑があります。
この塔の銘板には特別攻撃隊戦没者908名の階級氏名、出撃年月日、特別攻撃隊名、出撃者数が刻まれてありました。そして、その碑文には、「今日もまた黒潮おどる海洋に飛び立ちゆきし友はかえらず」
阪神・淡路大震災の発生から15年を迎えた今日、犠牲者を追悼するろうそくの炎とダブって、命の大切さを痛感した1日でした。
投稿者 fujimori : 23:44 | コメント (4)
2010年01月16日 [講演先にて]
鹿屋市と儒教
四書五経は、江戸時代における寺子屋や藩校での主な教科書でしたので、当然その影響をいろいろな所に受けています。たとえば、以前、会津に行ったときにブログで書いた「日新館」の名前の由来も、昨日のブログの「大学」における「茍日新,日日新,又日新」からとっています。
今日から鹿児島に来ていますが、鹿児島の藩校であった「造士館」で使われていた教科書は、主なものが「孝経」「四書五経」などで、その他和漢の史書が基本として使用されていました。これらの書物の素読、講義、温習の方法で学習していました。今回、訪れているのは、鹿児島市と錦江湾をはさんだ反対側の大隅半島の中心部に位置する鹿屋市です。この地には、儒教に関係したこんな話があります。
近世日本朱子学の祖といわれる藤原惺窩という人がいます。彼の弟子には、徳川三百年の官学の祖といわれる林羅山がいます。また、彼を師と仰いで交わりを結んだ人に、保津川の土木工事で知られる角倉了意もいます。しかし、彼はもともとは仏教を学びますが、儒教への変わり、江戸儒学(中でも朱子学)の始祖となりますが、そのきっかけがこの鹿屋市に関係があるのです。
藤原惺窩は、藤原定家の一二代の孫であり、冷泉為純の第三子 として生まれました。小さいころから神童と呼ばれ、幼少のころ播州竜野で剃髪して宗舜となります。18歳の時、父為純が三木城主別所長治に滅ぼされたために、姫路の書写山に陣を敷いていた羽柴秀吉に会い、仇討と家名再興を願い出ます。ところが、秀吉に「もう少し時期が来るのを待つように」とさとされ、京都に上り叔父泉和尚のいる相国寺を訪れ、ここで仏教と儒学を学びます。その後、三木城は秀吉の手に落ち、秀吉は天下を平定します。秀吉は、朝鮮から三人の使者がやってきた時に、宗舜に命じて大徳寺で使者との筆話をやらせます。この時から彼は仏道を捨て儒学に道を求めていきます。
藤原惺窩は、儒教を学ぶためにぜひ大陸に渡りたいと思います。そこで、鹿児島の山川港から大陸渡航をしようとします。そこで、まず鹿児島には、大隅半島の鹿屋に来るのです。今は合併で鹿屋市になっている肝付町の波見港に行きます。ここは、大隅半島でも錦江湾に面しているのではなく、志布志湾に面しています。そして、ここは肝属川流域にあり、南九州で最も開けた地域の一つでした。そして、その昔、色々な物産を積んだ、大きな船が行き交う“川の道”になっていきました。明や琉球、フィリピンなどから陶器、織物、銅銭などが輸入されました。それらの多くの品物が波見や柏原の港にいったん集められた後、大阪や京都へと持ち込まれて行ったのです。江戸時代になり、外国との貿易は禁止されますが、多くの借金に苦しむ薩摩藩は、幕府に黙って中国大陸や琉球との貿易を地元の商人達に奨励し、莫大な利益を手に入れようとします。
この波見湾で、惺窩は、明船に出会い、蘇州や泉州人の商人と筆談をしています。その後、吾平(相良)を経て高須(高洲)港から指宿の山川港に渡ります。そして、山川港で大陸渡航のための船待ちをしているとき、正竜寺で新訓の「論語」が学ばれているのを知り、これなら大陸に渡らずとも、四書五経を学び教えることができると悟り、京都に帰って広めることにしたのです。これが江戸儒学(中でも朱子学)の始まりです。
学ぶときに、その地に行くことだけに意味があるのではなく、どこにいても学ぶことはできるのです。
投稿者 fujimori : 22:39 | コメント (4)
2010年01月15日 [近頃思うこと]
大学3
明日は大学入試センター試験ですが、1979年から1989年の間、国公立大学及び産業医科大学の入学志願者を対象として共同して実施した基礎学力をみるために「大学共通第1次学力試験」という試験を行っていたことがありました。中国の隋から清の時代までである598年~1905年の間、官僚登用試験である「科挙」という試験が行われていたことがありました。科挙という語は「(試験)科目による選挙」という意味です。どんな試験も嫌ですが、この科挙は、特に大変だったようです。競争率も約3000倍だったとも言われ、最終合格者の平均年齢も、約36歳と言われています。この科挙は、最初のうちは文芸中心の進士科が重んじられ、宋の時代になると、朱子によって四書五経を対象とすることが確立します。その中で、五経については、そのうちの一経だけを選択受験すればよかったので、四書のほうの勉強が中心でした。その四書は「大学」「中庸」「論語」「孟子」ですが、この順番は中国でこれらの書物が成立した順ではなくて、中国で習う順番です。ですから、一番最初に挙げられている「大学」が、いわば共通一次試験の入門テキストのようなものだったために、誰もが読んだのです。
この「大学」の意味は、「学の大なるもの」ということで、朱子は、この思想を三綱領八条目に整理したのです。三綱領というのは「明徳」「新民」「止至善」で、八条目が、「格物・致知・誠意・正心・修身・斉家・治国・平天下」です。そこまでの説明は、ブログで書きましたが、まだまだ参考になることがあります。
「湯之盤銘曰“茍日新,日日新,又日新”」(湯王が、毎朝使う洗面器にはこんな言葉が刻まれています。「本当に毎日毎日新たな気持ちでいなければならない」ということで、日々が発見であり、学習であり、自らの歩みを進める必要があるのです。それを、毎朝確認をしていたという逸話を紹介して、マンネリを防ぐだけでなく、実践の大切さも言っているのです。そして、そんな努力を続けていけば悟りのように、ものの理がわかってくるものなのです。大学・伝5章に書かれてある「至於用力之久、而一旦豁然貫通焉、則衆物之表裏精粗、無不到、而吾心之全體大用、無不明矣。」(力を用うるの久しき、一旦豁然として貫通するに至りては、則ち衆物の表裏精粗、到らざるなく、而して吾が心の全体大用も明らかならざるなし。)と書かれていることです。あるときにパット悟りが開けることを「豁然貫通」と言っています。よく、長い間、心に抱いていた迷いや疑いなどが何かの拍子に急に解けて、真理を悟ることを「豁然大悟」と言いますが、この言葉は、禅宗などの熟語を採録した中国の字典「祖庭事苑」に載っている言葉です。
伝5章に書かれてある大学で言う悟りとは、事物の表裏細部に至るまでそこに貫かれている理を極めつくすことであり、それによって、自分の心の英知を十分に発揮できるようになることなのです。そのために、自分自身を欺かないこと「誠意」がまず必要です。そのためには、独りよがりを避けなければなりません。つまらない人は、一人で暇になると妄想だけが広がり、主体性がなくなるのです。これが、有名な言葉、「故君子必慎其獨也。小人閒居爲不善、無所不至」(小人間居して不善をなす、至らざる所なし)
「大学」は、「己を修めて人を治める」ための書物なのです。
投稿者 fujimori : 22:56 | コメント (3)
2010年01月14日 [近頃思うこと]
大学入試
ここ数日、四書五経の「大学」について書いていますが、同じ大学でも、今週末には大学入試センター試験が行われます。この日程は、文部科学省の通知として1月13日以降の最初の土曜日親日翌日の日曜日と決められているのです。受験生や、その家族は、体調管理などで大変でしょうね。少子化で少しは大学入試が楽になったのかもしれませんが、人気のある大学では相変わらず大変のようです。
昨日、オランダのイエナプランの紹介者でもあるリヒテルズ直子さんから、最近出版した本をいただきました。その本は、「私なら、こう変える!」20年後からの教育改革(ほんの木)というもので、14人の識者がこれからの教育に対して具体案を提案しているものです。これら14人の主なメッセージとして紹介されているもののひとつに、「大学入試制度撤廃」というものがあります。それに対してリヒテルズさんは、8つの提案をしています。そのひとつが、「入試をやめて明確な卒業資格基準で進学を可能に」というものです。
ここに書かれている内容を読むと、欧米では、入試制度は例外だそうです。普通は、進学の要件は、それまでの教育課程の卒業資格を取得していることで、その資格の基準は、国が定めているそうです。こうすることにより、次の利点が生まれると言っています。「1、一生いつでも進学できる 2、一旦ある学科に入った後からでも自分の適性や動機に合わせて進路を変更できる 3、生徒の力を1回限りのペーパーテストでではなく長期にわたる観察で多面的に評価できる 4、生徒間に競争による相対評価ではなく、進学先の教育機関にふさわしい必須能力という観点から絶対評価をするので、生徒間に競争ではなく協働・協力の関係が育つ 5、生徒たちは試験のために終わりのない競争に駆り立てられることなく、社会性や情緒の発達など、人間としての幅広い発達の機会を得られる」
このような大学は、確かに大学で学ぶためにはとてもいい気がします。しかし、今、日本では大学で学ぶというよりも就職のため大学に行くという動機が大きい気がします。ですから、入学することに価値があり、また、どの大学を選ぶかも、その大学で何を学びたいかではなく、どの大学が就職に有利か、名の知れた大学であるかということで有名大学に人気があるのでしょう。そのあたりは、少しずつ変わり始めてはいますが、どうでしょうか。
60年代の終わりから70年代にかけて、それまでの権威的で保守的な画一教育を廃し、子どもたち一人ひとりの健全な発達を保障する個別教育への転換を図り、子どもの幸福度が高く、学力も他の欧米諸国の中でも高い位置に引き上げたオランダの教育を紹介しているリヒテルズさんが執筆している章の最後にこう書いています。「自立と共生を養う時間は、決して学力を伸ばすことを犠牲にするものではありません。自分の能力や適性を知り、自分にふさわしい社会的な役割を見出すことに努力する子どもたちは、おのずと、学びの意義を自覚し、知識欲を持つようになるからです。」
最近、私は子どもたちを見ていると、「自立と共生」ではなく、「共生を知ることが自立することである」と思います。そして、他に貢献しようとする心が意欲を生むと思っています。しかし、リヒテルズさんが言っていることと基本的には同じ考え方です。
投稿者 fujimori : 20:56 | コメント (4)
2010年01月13日 [近頃思うこと]
大学2
中国の四書五経のうちの「大学」は、中江藤樹や二宮尊徳だけではなく、いろいろな人に影響を及ぼしたような気がします。たとえば、少し前のブログで話題にした福沢諭吉の「一身独立」という考え方も、展示会ではそうは書かれていませんでしたが、ずいぶんと影響を受けていると思うのですが。
「大学」では、こう書かれてあります。「古之欲明明德於天下者,先治其國;欲治其國者,先齊其家;欲齊其家者,先修其身」昔から、天下に明徳を明らかにしようとする者(自らの徳で人民に影響し、天下に太平の世をもたらそうとするもの)は、まず、その国を治めようとした。その国を治めようとする者は、まず、自分の家庭を和合させようとした。家庭を和合しようとする者は、自分自身の徳を深め、修養しようとしたのです。
そして、二宮金次郎が薪を背負って読んでいる書物である「大学」の開いているページには、こう書かれてあります。「一家仁,一國興仁;一家讓,一國興讓;一人貪戾,一國作亂。其機如此。」(一家仁なれば一国仁に興り、一家譲なれば一国譲に興り、一人貪戻なれば一国乱を作す。その機かくのごとし。)」どちらにしても、国を憂えるのであれば、自分自身がきちんと徳を積まなければならないことを言っています。
「大学」の昨日書いた最初の文章の続きにはこうあります。「知止而後有定,定而後能靜,靜而後能安,安而後能慮,慮而後能得。」至善に止まることが出来たら、そののち志は決まってくるものです。そして、その志が決まってきたら、心の動揺はなくなります。そのような静かな心境ののち、どんな状況下でも安定してきます。それは、安定してこそ思慮をめぐらすことが出来るのです。そして、思慮をめぐらすことが出来て初めて様々な能力がついてくるのです。幼稚園教育要領の中で「幼児は安定した情緒の下で自己を十分に発揮することにより発達に必要な体験を得ていくものであること」と書かれてあることと同じことを言っています。
では、どうしたら自らの徳性を高めることが出来るのでしょうか。「大学」には、こう書かれてあります。「欲修其身者,先正其心;欲正其心者,先誠其意;欲誠其意者,先致其知,致知在格物。」自らの徳を高めるためには、まず、心を正しくしようとしなければならない。心正しくあろうとする者は、心の働きに少しの邪心も入り込まないようにし、誠を持っていなければならない。そのためには、判断力を磨くことをし、更に物事の道理を極めようとしなければならないのです。ここで言う「身を修める」ということが「終身」であり、今で言う「道徳」なのです。この道徳は、教科として教わることでもなく、命令されてそのようにやることではなく、自ら自分自身を磨くことなのです。それが、幼稚園教育要領に書かれてあるように、「幼児の主体的な活動を促し」であり、「 幼児の自発的な活動としての遊び」が行われなければならないことなのです。
そして、ここでいう心を正しくしようとするものが、「意を誠にする」ことが「誠意」なのです。そして、「正心誠意」であることが「格物致知」につながっていきます。そういえば、以前、食育についての記事を紹介したことがあったのですが、それが掲載されていたのが「致知」という雑誌でした。
これに対して、陽明 は、天理である心の良知を致すのが「致知」であり、「格物」とは良知によって事象を正して理を得させる事だと「致知格物」を主張しました。儒教の特徴として「大学の8条目」である「格物」「致知」「誠意」「正心」「修身」「斉家」「治国」「平天下」は、その逆も成り立つとしているのです。
投稿者 fujimori : 22:53 | コメント (5)
2010年01月12日 [近頃思うこと]
大学
私のブログによく登場する書物といえば「論語」です。この論語は、孔子とその弟子たちの語録で、もっとも古いものとされ、この孔子を始祖とする思考・信仰の体系が儒教と呼ばれ、その一門を儒家と呼びました。孔子の死後、儒家は八派に分かれます。そのなかで孟子は性善説を唱え, 孔子が最高の徳目とした仁に加え、実践が可能とされる徳目義の思想を主張します。また、周から漢にかけて儒学者がまとめた礼に関する書物を、戴聖が編纂したものが「礼記」という全49篇からなる書物があります。そして、この49篇は、各篇独立した書物ですので、各篇を単独で読む傾向がありました。特に、その中の「大学」と「中庸」の2篇は独立して扱われ、「論語」「孟子」とともに四書の一つに数えられるようになりました。
この大学は、伝説上、孔子の弟子の曾参の作とされ、元来は、五経の一つである「礼記」という大部の1篇であって、原文は僅か1753字、字種は394という四百字詰め原稿用紙四枚半にも満たないものですが、「大学は孔氏の遺書にして初学入徳の門」と称されるようになり、四書の最初に置いて儒学入門の書としたほど重視されました。儒教を勉強するとなると、すぐに論語を思い浮かべますし、せいぜい孟子を読みます。しかし、まずは、「大学」ですが、なかなか「大学」に触れることは少ないです。昨日のブログで紹介した「翁問答」を書いた中江藤樹は、この四書の中の「大学」に非常に感銘を受けます。また、戦前の小学校の校庭には、焚き木を背負い歩きながら本を読んでいる「二宮金次郎」像が必ず置いてありましたが、この金次郎少年が読んでいる本は、実は「大学」なのです。
二宮金次郎は、神奈川県の小田原で生まれ育った二宮家は村でも有数の富農でしたが、金次郎の父の時代に、ほとんどの財産を失ってしまいました。さらに、金次郎は14歳のときに父を亡くし、一家4人の生活を一人で支えていかなければなりませんでしたので、朝は暗いうちから山で薪を集めて町に売りに出掛けて行きながら、本を読んだ姿が像になっているのです。そして、金次郎は、この貧乏から脱却し二宮家を復興させるために、父からもらった「大学」やその他の書物を熱心に読んだのです。
大学の最初には、こう書かれてあります。「大學之道,在明明德,在親民,在止於至善。」ここには、学問をする目的が書かれてあります。それが、「大学の道」です。「在明明德」とは、自分が生まれつき持っているすばらしい徳を発現することとしています。その徳とは、能力と人格が備わっていなければならないのです。その二つの面を自ら高めていくために磨いていく必要があります。しかし、自分だけ高まればいいわけではありません。その次の「在親民」というのは、自分だけの修養ではなく、その徳をまわりの人々にも及ぼし、その人たちの徳も発現していけるように導いていかなければならないのです。そして、最後のそのように到達したら、「在止於至善」と言っているように、その状況を維持していく努力も必要なのです。「至善に止まる」とは、明徳を明らかにし、民を新たにすることが出来た最高の状態を、維持していくということなのです。この三つが「大学の三綱領」と言われているものです。そこで、「至善」とはどこに置くべきかを考えることが必要になってくるのです。
中江藤樹や二宮金次郎は、大学を読みながら、そんなことを考えたのでしょうが、この大学の三綱領が今の私の目指すところでもあるのです。
投稿者 fujimori : 21:02 | コメント (4)
2010年01月11日 [江戸文化]
育児書
私がここのところ紹介している室町時代に書かれた「世鏡抄」は、その第7である「若身持之事」という章であり、乳母や子育てを担当している人の心構えを書いてあるもので、ある意味では「保育書」です。途中では、その書き方や、対象者の混乱が少し見られますが、今でも参考になることが多く見られます。このように、子育てについてのアドバイスはいつの時代でも必要であったようで、いわゆる子育て書の歴史は古いようです。この世鏡抄は、誰が書いたかわからないようですが、どこかの武家の家訓として書かれたものだったのでしょう。それが、庶民に対しての子育て書が、江戸時代に現れてきます。
たとえば、中江藤樹の「翁問答」などもその一つです。この1巻にはこう書かれてあります。「子孫の教育は幼少の時が肝心である。昔は「胎教」と言って、母の胎内にあるうちから胎児への「母徳の教化」を行った。しかし、それは幼少の時分には教育がないものと勘違いするのであり、「教化」の本質を知らずに、ただ口だけで教えるばかりが教育と思い込んでいるために、このような誤りを犯すのである。本当の教化とは「徳教」である。口で教えるのではなく、時分の身を正して道を行い、それによって周囲の人間が感化されていくことを「徳教」というのである。これは、あたかも水が物を潤し、火が物を乾かすようなものである。」これは、最近、ECECで提案されている就学前教育の考え方と全く同じような気がします。このECECでは、就学前教育を学校準備としてとらえるのではなく、陶冶という人格形成期ととらえるべきであると言っているのです。もしかしたら、陶冶が徳教なのかもしれません。
そのために翁問答では、「幼い者の心立てや身持ちは、その父母や乳母の心立てや身持ちに見あやかったり聞きあやかるために、父母や乳母の徳教が子孫の教育の根本となるのである。従って、乳母の人柄を吟味し、父母の身を修め、心正しくして、親孝行の道を語り聞かせ、また、身に行って、教育の根本を培養すべきである。」ということが大切になります。私が提案している「見守る保育の三省」の2番目は、「子どもに真心を持って、接しただろうか。(子どもを見守るということは、人格が伝わっていくということを理解し、
偽りのない心で、子どもに主体として接することである)」としています。
その後、小児の誕生から養育までの万端にわたって詳述した、日本最初の本格的な育児書と言われている「小児必用記(小児必用養育草)」が香月牛山によって書かれます。香月牛山(啓益)は、筑前の医師であり、育児学的立場から小児の健康と病気の病状、療養、看護の面からの諸注意を書きしるしたものです。このころの育児論は、親の溺愛に対して警告を出しています。そして、過干渉の結果、あとでその子を放り出してしまうことを心配しています。「玉と育ててのちに勘当」ということです。たとえば、保嬰論に、「小児の安からん事をおもわば、三分の飢と寒とを帯ぶべしと見えたり。」とあります。徐春甫の説には、「世間の父母、その子の愛着に惹かれて、わが子は何事もよきとばかり思えて、誉めそやし、姑息を持て育つる類の者多し。隠姑息を持て育ちたる児は、極めて悪しき風俗となるなり。」と言っています。
どの時代でも子どもを愛することと、過干渉とを取り違えてしまうことに危機感を感じているのですね。
投稿者 fujimori : 22:24 | コメント (4)
2010年01月10日 [近頃思うこと]
授乳
室町時代の「世鏡抄」には、「是則ち不老不死の薬也」と母乳の大切さが書かれてあります。この母乳について、授乳の考え方が少し前までは日本と西洋との違いが言われていました。アメリカ政府刊行物の育児案内書「インファント・ケア」の1914年に出された創刊号にはこう書かれてあったようです。
「赤ん坊は、生まれた時から、時計どおりに規則的に授乳すべきであり、授乳と授乳の間には、飲み水以外には何も与えられるべきではない。」
「育児の国際比較」(恒吉僚子・S.ブーコック編集)NHKブックスに、このことについてかつて話題になったベネディクトの「菊と刀」(1946年出版)に書かれてある文章を紹介しています。赤ん坊が空腹であろうと、単に甘えているのであろうとも、欲しがる時にはいつでも乳を与えられる日本のしつけと、一定の授乳や睡眠のスケジュールを生まれてすぐに、決め、赤ん坊がいかに授乳時間の前や就寝時間に騒ごうとも、その要求は満たされないとするアメリカのしつけを対置させています。しかし、戦後、アメリカの文化が入ってきて、その育児が理想かのように思われていた時代の日本では、時間を決めて授乳をしていました。私が、少し前に聞いた話では、午前中の離乳食は、何時にあげましょうという育児書に合わせて、一生懸命に手作りで離乳食を作り、出来上がった離乳食をすべて赤ちゃんの前に並べ、スプーンに乗せ、育児書に書いてあるその時刻になると構えていて、時報と同時に口に入れる人がいるということでした。あまりに出来すぎた話ではありますが、実際にある母親からの相談を受けたはなしです。
しかし、最近の育児書では各国による差はたいしてないようです。どの国も厳密に時間を決めて乳を与えるよりも、赤ん坊の空腹に合わせた自己要求型の授乳を目指しているのです。では、なぜ日本では早くからそのような考え方であったのでしょう。「育児の国際比較」の本に書かれてあります。それは、日本庶民の子育ての伝統は、元来、欧米と比べた場合、授乳などに関して、子どもの欲求に応じようとする寛容なものであると言われてきました。赤ん坊が大人の背中におんぶされ、添い寝をされ、泣いてはあやされ、乳を含ませられる日本の育児のイメージは、子どもに早くから一人部屋を与え、「抱き癖をつけない」、「甘やかさない」というような欧米的な育児のイメージと対照的だとされてきたからです。そのような中で、「規則的に授乳」の発想も、子どもとは別個の親自身の生活を確保し、早くから規則的な身体の統制を教えようとする「欧米的」な子育て観に沿うものであると考えられてきました。
ですから、規則正しく授乳をするのは、子どものためだけではなく、母親の仕事を最小限に抑え、母親に休養と気晴らしの時間を確実に保障する意図もあったようです。しかし、こんな風潮の中でも一時期日本でも育児書のバイブルになったスポックの育児書では、赤ん坊が空腹を訴えたtロ機に食べさせるべきであることを訴えています。しかし、今は、そのスポックでさえ、赤ん坊の個性に配慮しつつも、親が特定のスケジュールに誘導すべきであるという考えは保守的であると言われるほど、寛容化しているようです。
育児方法は、どれが正しいというだけでなく、大人の都合や、また、科学の解明、外国の影響、粉ミルクや哺乳瓶など技術や道具などの発明によっても左右されるようです。
投稿者 fujimori : 21:48 | コメント (4)
2010年01月09日 [近頃思うこと]
初恋の味
私が若いころ、地域の園長たちと「乳幼児の世界展」というイベントを毎年駅ビルで開催していました。その中で、子育てへのヒントとしてCMコピーをもじって訴えたことがありました。そのときに食育をテーマにつくったコピーは、「離乳食は初恋の味」というものですが、もとのCMのコピーは、「カルピスは初恋の味」です。もうひとつは、「100円でポテトチップスは買えますが、ポテトチップスでは健康は買えません」というものでした。もとのCMコピーは、「100円でカルビーポテトチップスは買えますが、カルビーポテトチップスでは100円は買えません。あしからず。」というものですが、ずいぶん懐かしいコピーですね。
赤ちゃんは、離乳食で初めていろいろな味と出会うわけですので、とても大切であることを訴えようとしたのですが、実は、その前に赤ちゃんが飲む母乳にもいろいろな味があり、おいしい母乳とまずい母乳があるそうです。母乳の原料は血液です。ですから、母乳の味を左右するのは、血液の素となる「食べ物」なのです。では、どんな食べ物が母乳をおいしくするのでしょうか。それは、「昔ながらの和食」にあるようです。和食の主食は、ご飯ですが、これには水分が多く含まれているうえ、他の炭水化物に比べて消化もよく皮下脂肪になりにくい食品です。また、日本食の家庭料理の定番である豆腐や納豆やみそなどは大豆製品ですが、これにはたんぱく質のほか、ビタミンをはじめとするさまざまな栄養素が含まれています。
また、栄養素の中で母乳の量や質にもっとも影響するのは脂肪です。それもなるべく植物性のものか、動物性脂肪であれば魚を中心に、特に白身魚は授乳中のトラブルが少ないので母乳をおいしくします。他にも和食につきものの煮物などに多く使われる根菜類(大根やにんじん、ごぼう、れんこんなど)は母乳の出を良くするとされ、おひたしなどで出される葉物類や海藻類には母乳をサラサラにする効果もあります。和食は素晴らしいですね。
ここ数日注目している「世鏡抄」にも、母乳についての注意事項が書かれてあります。「朝には速く起き出でて乳房を朝日の光に当て、其れを君子に奉るべき也。是則ち不老不死の薬也。早晩も早晩も味好き美物を食すべし。悪しき物をくはば乳あしくて生長難し。」 朝は早く起きて、乳房を朝日に当てなさい。そして、若君に与えなさい。これを読むと、どうも母乳を与えるのは母親ではなく、乳母だったのかもしれません。そして、母乳は不老不死の薬となると言っています。母乳のよさがわかっていたのですね。そして、よい母乳を作るために、毎晩欠かさず美食なさい。食事が貧相だったり、悪いものを食べると乳質が劣化し、子どもの発育に支障があると言っています。そのあとに、食事について注意事項が書かれてあります。これは、よい母乳を出すための美食の説明でもあるのです。「魚鳥の中にも名鳥名魚を食はば、骨となり筋となり皮肉となり、鳥は骨となる。味噌は血と成り、米は筋となる。酒は皮肉の間の血となる。去れば過ぐるは皮と肉と各々になりて心も狂ほしく短命也。如何にも如何にも十三迄は多くのますべからず。」
今の説と若干違うところもありますが、なんといっても室町時代に書かれたものですから。
投稿者 fujimori : 20:31 | コメント (4)
2010年01月08日 [近頃思うこと]
室町時代
江戸時代の寺子屋とか藩校における教育はよく論じられることが多いのですが、それ以前の教育機関についてはなかなか目に触れることはありません。室町時代に教科書として使われていた書物については、ほとんど江戸時代でも使われているので資料が多いようです。しかし、逆に言えば、江戸時代の教科書にある道徳観とかは、室町時代の影響をずいぶんと受けていることになります。
教育を受けることが出来るのは、世界中でもある一部の階級でした。それは、教育内容が読み・書き・計算であれば、その必要である人は限られているからです。しかし、日本では早い時期から同時代のヨーロッパに比べても格段と識字率が高かったと言われているのは、教育が一部の特権階級だけのものではなく、室町末期になると、下級武士や農民、商人など、あらゆる身分の少年達も学んでいたからです。室町末期に来日した宣教師フロイスは、「日本では、全ての子供が寺で学習する」と言っています。これは、室町時代の書物「世鏡抄」の中で「貧卑・孤独の人の子であってもしっかりと教えよ」とあるように、寺入りした少年を、貧富や身分で差別してはならない、むしろ庶民の子を、武士の子よりも親切に教育してあげましょうと言っております。それは、孝も書かれてあるからです。「侍の子の悪事は三度まで許し、それ以上は父母の許に返し、凡下の子どもならば十度まで教えよ」とあるように、侍の子には厳しくあったようです。それでも、3度までは許していたのですね。
このころの教育は、全寮制でした。それは、7~10歳ごろから寺に住み込んで、ときどき里帰りをしながら、元服(13~16歳ごろ)まで教育を受けていて、通学していたのは稀だったようです。「世鏡抄」によると、基本的な1日の時間割はだいたい次のようだったようです。まず、6時から9時までは経の勉強をします。そして10時から午後1時までは、習字です。そのあと1時から3時まで読書。そして、その後7時くらいまで「諸芸の遊び」です。この遊びについて世鏡抄では、「遊戯あまりすれば、心乱れて學文跡を忘れ、時々遊戯せざれば、心気起こりて、病出来するなり」と書かれてあり、初めて「遊戯」という言葉が使われたとも言われています。それにしても、あまり遊びすぎるとまずいけれど、ときどき遊ぶことは「心気起こりて 病出来するなり」というように、遊びの効用を認めていたようです。
その後、夜になると、7時から9時までは音楽教育です。詩、歌、物語、笛、尺八、琵琶、管弦などを習ったようです。そして、やっと、9時から11時まで自由時間です。全寮制なので、この時間割をびしっとやらされるとなるときつい気がしますが、そんなことはなかったようです。かなり自由に遊びまわったり、その子が興味を持ちそうな本を選んで、読み書きをさせるとか、基本的にその子の発達にあった個人指導だったようです。
そして、その生活において「去れば千日智者の敵とは成るとも愚者の友と片時もならざれと云へり。」とあるように、智者と千日間にわたって敵対するとしてもいいが、愚かな友とは、一瞬たりともつきあうべきでないと言っています。
世鏡抄は、面白いですね。
投稿者 fujimori : 22:34 | コメント (4)
2010年01月07日 [近頃思うこと]
登山
よくブログで、江戸時代の寺子屋のことを書きますが、この寺子屋は自然発生的に生まれてきた「読み」「書き」を中心とした庶民の教育機関です。しかし、その前には教育がされていなかったわけでもありませんし、教育機関がなかったわけではありません。その教育機関として中心となったのは、鎌倉時代までは、貴族階級を対象にしたものであり、知識の伝達の担い手は貴族でした。それが、鎌倉時代になって武士が台頭してくるに従って、貴族に変わって僧侶が新しい教育の担い手になってきます。その場所も、奥深い山中の寺院となり、そこで弟子たちを養成していきました。最初は、僧侶の養成を目指した寺院教育でしたが、次第に、そこで教育を受けたものが、世俗に戻っていったのです。昨年のNHK大河ドラマでも、上杉謙信が幼少のころ春日林泉寺で学んでいたことが描かれていました。
しかし、この寺院教育では庶民の子どもではなく、武士の子ども対象でした。子どもたちは、7歳ころになると、「登山(入山)」といって寺院に入り、4~5年くらいそこで教育を受けます。その後、13歳位になると、その寺院教育が終了します。それを「下山」と言います。この機関の授業は、読み、書きのほか、和歌や連歌、管弦などの音楽教育もありました。その時の教科書は、寺子屋でも使っていた「童子教」「實語教」「庭訓往来」などでした。
このころのことが「世鏡抄」という書物に書かれてありますが、この本は、作者や成立年代が不明ですが、だいたい室町時代に、国人領主層の子弟を七歳から十三歳まで教育していた真言宗系の寺院でまとめられたものではないかと言われています。その「第七 若身持之事」の章には、守役・乳母に対する若君の幼少期の育て方についてまとめられています。「誕生の蟇目より七歳までの学文始め迄肝要也。如何にも如何にも賢人の御父、智人の乳母をつくべき也。君は又おちめのとの膝に三歳まで居て、四歳より少しづつ云ふ事を覚るべき也。賢人のおちは大義を教へ、智者の乳母は生長してより以来四恩の道を教へはたして、一命を重んじて君に軽く仕へよと云ふべし。」ここには、教育上、最も重要である期間は、赤ちゃんから七歳までの期間であると言っています。今、OECDが提案していることに、最も重要な機関が0歳児から8歳までであるというものがありますが、この世鏡抄でも、ほとんど同じことを言っています。そして、それぞれの年齢におけるポイントを言っています。「三歳までは守り役・乳母の膝で甘えていてもよい」「四歳ごろから少しづつ大人の言いつけを理解するようになる。是非とも賢明な守り役・乳母を付けるべきだ」と言っています。数え年ですが、3歳くらいまでは、保育者は子どもを十分に受容することが大切であり、4歳くらいからはきちんと専門性を持っている保育者が育てるべきであるというのは、今と全く同じ考え方で、室町時代と変わらないですね。そして、子どもの成長過程において四恩の道(一切衆生の恩、父母の恩、国主の恩、そして仏・法・僧三宝の恩)をしっかり教え、命の大切さ、他人への貢献を教えるのが専門性であると言っています。
このあとがまたまた面白いです。それは、「如何にも如何にも愚者に片時須ユも添ふ事なかれ。愚は先生之畜生、今仮に人となれり。賢は菩薩の身、智は諸天の化現なれば、今生のみか後生までの事なり。」というように、愚かな人につくとロクなことにならないと警告しています。
もう少し、世鏡抄を読んでみましょう。今に通じるものがあって、面白いですね。
投稿者 fujimori : 21:45 | コメント (4)
2010年01月06日 [近頃思うこと]
高齢者
電車の中吊り広告で、いいコピーを見つけました。「年齢よりも意欲だろっ。」というものです。写真には、三浦雄一郎氏が大きなリュックを背負って雪山の前に立っています。

確かに、三浦雄一郎氏は、エベレスト大滑降、七大陸最高峰スキー滑降など、数々の冒険で日本中を沸かせました。2004年と今年、70歳、75歳で2度も世界最高峰のエベレスト登頂に成功したことは、私たち団塊の世代を初めてして、中高年の人たちを、十二分に元気づけました。普通の人であれば、この年齢になると歩くこともおっくうになったり、足だけでなく、呼吸も苦しくなり、体力もなくなるのに、どうしてそれほどまでに元気なのか?と思います。また、なぜいつまでも挑戦し続けるのだろうか?そして、生き生きと輝いているのだろうか?不屈の冒険家として、いつまでも夢を失わず、確かな目標を立てて進む姿は感動します。そんな意味で、彼の生き方は、中高年世代の生きる師として、生きるモデルとなると思います。
しかし、この中吊り広告を読んで「?」と思ってしまいました。なぜかというと、この広告にある文章を読んでみると、「いくつになっても働くことのできる社会を」と書かれてあります。「働きたい、という気持ちに年齢制限はありません。身に付けてきた技術や能力を活かしたい。これは高齢者の強い想いであり、社会の願いです。」と書かれてあります。
この広告は、厚労省を初めてして、独立法人高齢・障害者雇用支援機構などが、高齢者の雇用促進のキャンペーンです。その趣旨には、こんなことが書かれていました。昨年、団塊の世代680万人の全員が60歳代になり、3年後の2012年には65歳に到達し、高齢化はさらに急速に進んでいます。しかし、わが国は厳しい経済環境がなお続いていますが、人口・労働力の減少と高齢化は確実に進行しています。このように多くの困難に直面しているときこそ、将来を的確に展望し、活力ある社会の構築に向けてわが国の高齢者の高い就業意欲と経験・技能を活かし、いくつになっても社会の支え手として活躍するとが出来る仕組みづくりに取り組むことが必要です。高齢・障害者雇用支援機構が昨年行った調査によると企業の3社に2社が「70歳雇用への取り組みが必要」と考えており、多くの企業では70歳まで働ける企業の実現を目指した具体的な検討を進める段階にきているようです。
しかし、このポスターを眺めていると、三浦雄一郎は、どう見ても働いているのではなく、仕事をリタイアした後、自分への挑戦、冒険をしている姿にしか見えません。昨年、ドイツに行ったときに、保育者たちが1週間のストライキをしていました。その要求のひとつが、定年が延長される中、「57歳定年」でした。「いつまで、私たちを働かせつもりか!」というものです。その背景には、退職後に充分な生活保障があるからでしょうが、一生懸命に働き、社会に貢献してきたのだから、老後は、自分の好きなことをして日々を過ごしたいというのでしょう。このポスターの三浦さんを眺めていると、好きなことには年齢が関係ないし、意欲は、好きなものだからこそ持てるのだと言っているかのようです。
だからと言って、私は早くリタイアしたいと思いません。それは、好きなことを仕事にしているからです。私が提案したいのは、今の子どもたちに、自分は何が好きなのか、何によって自分を発揮できるのかを見つけてほしい気がしています。そして、それを仕事にすることができれば、意欲的に生きていくことが出来ますし、世の中に貢献することができるのではないかと思うのです。
投稿者 fujimori : 22:44 | コメント (5)
2010年01月05日 [江戸文化]
江戸情緒
今日は、新宿の賀詞交歓会に行ってきました。朝、職員に「賀詞交歓会」に行くと言ったら、ほとんどの人がその言葉を初めて聞いたようでした。「賀詞」というのは、お祝いの言葉のことで、「交歓」は、歓びを交ぜるということで、新年のお祝いをお互いに交わし合い、新年の喜びを分かち合うことです。会社なら、よく行いますので、知っている人が多いかもしれませんが、普通はあまり馴染みないかもしれません。私も、あまりそのような会に出ることは少ないのですが、今日は、たまたま来客の予定もなく、園としての予定もなかったので、どんなものか出席して見たわけです。
出席してみてとてもよかったことがあります。まあ、挨拶(それも思ったよりも短く助かりました)はあるとして、そのあとの出し物がとてもよかったです。ひとつは、新宿の名誉区民である「鶴賀若狭掾」氏の新内節浄瑠璃による新内舞踊でした。この新内節は江戸浄瑠璃の一つで、彼が流祖で、流し・座敷での演奏を中心に独自の発展をとげました。彼の歌は、切々たる哀調を帯び、その伴奏の三味線も泣くように弾きます。また、その舞は、松の扇子を持って3人で踊り、充分と正月気分と、江戸情緒を堪能しました。
もうひとつの出し物は、江戸消防記念会の「木遣り」でした。

もともとは、「木遣り」とは木を遣り渡す(運ぶ)という意味で、重い木や石を大勢で運ぶ際、息をあわせるために一人の号令にあわせながら運びました。この号令の役目となったのが、木遣り唄といわれています。そして、のどのよい者たちが酒宴などで披露するようになり、次第に祝唄としての性格を持つようになっていきました。
江戸では、町火消しの鳶たちのたしなみとして発展し、棟上や祝儀、また祭礼などの練り唄に転用されていきました。寛政年間、町火消しの神田よ組にいた喜六、弥六という木遣り名人の兄弟がいました。兄は声でほかに並ぶものがなく、弟は節上手であったそうです。木遣りは、音頭を出す木遣り師と受声をする側とで構成されていますが、木遣り師をアニ・オトと称するのは、この名人たちに由来するとされています。そして、江戸独特の木遣り唄が生まれたのです。そして、この江戸木遣りを、江戸消防記念会が、纏や梯子乗りとともに今日も毎年1月6日に行われる消防出初式を始め、神田明神や日枝神社の祭礼などや、各地の建前、地鎮祭、劇場のこけら落としなど、お目出度い行事の席上で、祝儀の歌として歌われ、その行事に華を添えています。また、江戸文化を外国に紹介する催事に関しても、纏振りや梯子乗りと共に木遣り歌を披露して国際親善に貢献しているそうです。今回の出し物でも、兄木遣り(アニ)と弟木遣り(オト)は交互に声を出し、かけあいをするように、朗々と唄い上げていきました。
普段ですと、「賀詞交換会」のような儀式的なものは苦手ですが、あまり毛嫌いをせず、なんでも出てみるものですね。寺子屋などの江戸時代の教育を調べるだけでなく、その時代の文化や、江戸情緒を味わうことが、その時代を理解するうえでは大切なことだということを学ぶことが出来ました。
投稿者 fujimori : 21:22 | コメント (4)
2010年01月04日 [新聞記事より]
子どものため
論語の中の「吾十有五而志于學」ではありませんが、15歳という年齢は志を持つ頃なのでしょうが、昨年暮れにこんなニュースがありました。
「12月18日から行方不明になっていたオランダのヨット少女、ラウラ・デッカーさん(14)が20日、カリブ海のオランダ領アンティル、サンマルタン島で見つかり、無事保護された。」という記事です。
ラウラさんは、昨年夏にヨットでの単独世界一周をしたいと父親に打ち明けます。彼女は、両親がヨットで航海中に生まれ、生後4年間も海上で暮らした筋金入りのヨット少女で、6歳でヨットの操縦をマスターしたそうです。この彼女からの申し出に、航海経験豊富な父親は同意をして、学校に長期欠席の申し出を入れます。そして、全長8メートルのヨットで2年間の世界一周に9月1日から出航しようとします。ところが、オランダの児童保護当局が、13歳の単独航海は危険すぎることや、2年間も学校を休学するのは好ましくないなどとして中止を要求します。
ラウラさんの両親も娘の単独航海を支持しますが、裁判所は、航海実現には児童保護当局の同意が必要と決定しました。この判決後、ラウラさんは「航海はうまくできる。恐れていない」と述べ、世界一周の準備を進める決意を表明。各地に寄港することから、実際に海上で3週間以上一人きりになることはなく、学校の勉強も続けることを今後、当局に説明したいと話しますが、この依頼を拒否します。そして、オランダの裁判所は、未成年のラウラが単独で航海することに対して、計画の一時中止を命じ、10月末の航海の禁止という結論を出しました。理由は、「成長期にあるラウラにとって、精神的にも肉体的にも極限の状況に一人で立ち向かわなくてはならない可能性のある単独航海は、将来、取り返しのつかない危害をもたらす可能性がある」というものでした。その結果、ラウラの行動は、ユトレヒトの青少年保護組織の管理下に置かれ、今後2カ月間にわたり少女の精神面に与える影響を調査するよう決定しました。
現在、児童保護当局が、ラウラさんが航海に精神的に耐えられるかなど調べていますが、母親は、ラウラさんから反対しないよう頼まれていたのですが、娘の身を案じて反対に踏み切ります。その結果、両親は離婚、ラウラさんは世界一周を後押しする父親と暮らしているそうです。そんな状況の中で、最初のニュースにあるように、夢を打ち砕かれ、ショックになったラウラさんが家出をしたというのです。この家出によって、担当機関であるユトレヒトの青少年保護ビューローは、来年の7月まで、ラウラさんを、現在同居している父親から引き離し、しかるべき保護機関のもとで監督する、という結論をだしました。
このニュースが、オランダで議論になっているようです。それは、子どもの教育(成長)の第1義的責任は親権者にあるが、その親権者が、子どもの健全な発育を保護しない、あるいはできない状況にある場合には、公的機関が子どもの発達の権利を守らなくてはならないという原則と、親の判断をどこまで認めるか、それに対して、公的機関が、いつ踏み込むべきかという議論です。今回の場合、父親は、ラウラさんの航海技術を育て、見守り、そして、本人の夢を果たしてやろうと支援したことが、子どもの成長の障害になるという判断をつけたことにどう考えるかということです。そして、果たして、学校が子どもの成長に最善の場であるのか、と考える親もいることに対してどう思うかです。
親、学校、行政、それぞれの立場からの「子どものため」の考えかたが分かれるところです。
投稿者 fujimori : 22:17 | コメント (4)
2010年01月03日 [近頃思うこと]
後半年齢
数え年61歳を「還暦」と呼ぶように、いろいろな呼び方をすることがありますが、その根拠として大きく二通りあります。ひとつは、漢字を分解すると、その年齢の数字になるというものです。60歳以上だけでもいくつもあります。これは、ずいぶんとしゃれています。
61歳を「華寿」というのは、「華」の字を分解すると,十が6つと一、合わせて61となることからです。77歳の「喜寿」は、「喜」の字の草書体が七十七に見えるとことからで、80歳の「傘寿」は、「傘」の略字が八十と読めるとことからです。81歳の「半寿」は、「半」という字を分解すると,八十一になることからで、88歳の「米寿」は、「米」の字を分解すると八十八となるところからです。90歳の「卒寿」は、「卒」の通用異体字「卆」が「九十」と読まれるところからで、95歳の「珍寿」は、「珍」を分解すると,偏が十二,造り八十三、合わせて95であることからです。ずいぶんと複雑な数学になります。簡単に引き算として、99歳の「白寿」は、「白」の字は、百から一をとったものであるところからです。
まだまだあります。108歳の「茶寿」は、「茶」の字を分解して、(十+十)+(八十八)=108ということからで、111歳の「皇寿」は、「皇」の字を白、十、一に分解。九十九を表す白に一、十、一を足すと百十一になることからというのは、ずいぶんややこしいですね。また、「川寿」ともいいますが、これは「川」の字を分解すると111であることからです。119歳の「頑寿」は、「頑」の字を分解すると,元が二と八,頁が百と一と八、合わせて119であることからですし、120歳の「昔寿」は、「昔」という字を分解すると,廿(にじゅう)と百になり、合わせて120であることからです。こうなると、実際にはその年になることは少ないというよりないでしょうから、なんだか、文字遊びをしているように見えます。このようなことから漢字をこじつけて覚えたのかもしれません。
もうひとつ、その年齢の呼び方が論語を根拠にしていることはよく知られていますが、人選とか礼記からとられていることも多いようです。それも、中国の古典を学ぶひとつだったのかもしれません。
70歳の「古稀」は、唐の詩人杜甫の詠んだ詩「朝回日日典春衣 毎日江頭尽酔帰 酒債尋常行処有 人生七十古来稀 穿花蛺蝶深深見 点水蜻蜓款款飛 伝語風光共流転 暫時相賞莫相違」に出てきます。この詩は少し情けない内容です。杜甫は、仕官を志しますが、科挙の試験にも恵まれず、46歳で皇帝に仕えた時も真面目な性格から皇帝を諌めて次第に疎まれていきました。そこで、酒に浸って憂さを晴らす毎日の中で詠んだ詩で、「どうせ人生七十まで生きるのは稀なのだから、今のうちに楽しんでおきたい」という屈折した心境を詠っています。今では、70歳でふてくされるほど人生は短くなくなってきました。
「礼記」には、「人生十年曰幼,學。二十曰弱,冠。三十曰壯,有室。四十曰強,而仕。五十曰艾,服官政。六十曰耆,指使。七十曰老,而傳。八十、九十曰耄,七年曰悼,悼與耄雖有罪,不加刑焉。百年曰期,頤。」これで見ると、60歳ともなると分別もついてくる時期なので、指示を出す立場となりましょうと言っています。70歳になったら、もう年なんだから、今までの自分の知識等を伝えるのを役目とする年齢ですそして、職務は返上するのがいいようです。80から90歳は少しぼけてくることを知っている必要があります。そして、100歳になって、一巡りしたのだから、養われてもかまわないのです。
もう少し生きて、やることがありそうです。
投稿者 fujimori : 19:13 | コメント (4)
2010年01月02日 [近頃思うこと]
年齢
今年の大みそか恒例テレビ番組「NHK紅白歌合戦」が今年で第60回を迎えました。その中でサプライズ出演をしたのが、今年60歳の還暦を迎えた矢沢永吉さんでした。還暦というのは、「暦が還る」ということで、生まれた年と同じ年の干支となることから、ちょうど一回りをして、暦が戻って赤ん坊に生まれかわると言う意味から赤い頭巾やちゃんちゃんこを贈ります。それは、赤ちゃんということで赤というわけではなく、赤色は、かつては魔除けの意味で産着などに使われていたため、再び生まれた時に帰るという意味でこの習慣があるのです。私も昨年還暦だったために、赤いちゃんちゃんこをいただき、それを着て記念撮影をしました。また、記念に頂いたお祝金で、赤い軸の万年筆を買いました。それを持ち歩くことで、魔よけにしています。
この還暦は、数え年で61歳のときですが、現在では、数え年に代わって満年齢を用いることが多くなったため、満60歳を還暦とする考え方が一般的になっています。しかし、干支が一巡するのは、1月1日ですので、数え年での年齢に呼び方の方がしっくりいきます。この還暦のように、数え年に様々な呼び方があります。そのほとんどは、ブログで書いた論語からとったものが多いのですが、そのほかにも文選(もんぜん)という中国南北朝時代に、南朝梁の昭明太子によって編纂された詩文集や礼記などがあります。文選からは、様々な日本語が生まれています。これらからとった年齢の呼び方で、どのような時期なのかが分かります。
文選に2~3歳のころを「孩提」と言いますが、「孩」は子どもの笑いを言い、「提」は、抱かれることを意味します。ですから、抱かれて笑う子どもの様子を表しています。また、7、8歳のころは、子どもの身の丈が三尺(≒90㎝)ほどですので、「三尺の童子」と言います。同じように、14~15歳のころを、倍の六尺くらいになることから、「六尺」といいます。幼児とか、幼稚園に使う「幼」は、生まれて10年をいいます。礼記に、「人生十年曰幼学」とあることから、この年齢が、学ぶ始める時期のようです。そして、15歳のことは、論語の「吾十有五而志学」から、「志学」と言います。孔子が学問に志を立てた年齢です。一方、女子は、15~20歳のことを「笄年」というのは、初めて笄(かんざし)を刺す年齢のことで、成人の意味があります。ほかにも女子は、16歳の時を「破瓜(はか)」と言いますが、「瓜」という字を縦に割ると、「八」が二つになり、合わせて16になることからきています。男子の場合は、八掛ける八で「64歳」のことを指します。
「弱」は中国周の時代では、20歳を表す言葉で、そのときに元服して冠をかぶることから「弱冠(じゃっかん)」といいます。礼記に、「二十曰弱冠」とあります。そして、30歳になると、論語に「三十而立」とあるように孔子が学問で自立出来たと考えた年齢の「而立(じりつ)」といいます。このころから40歳までは、礼記に「三十曰壮有室」とあるように血気盛んな時期であり、古代中国では貴族の男性が妻をめとる頃の年齢ということで、「壮」といい、40歳になると、礼記に「四十曰強而仕」とあるように「気力が強く、分別のある」ということで「強」といいます。ですから、「強壮」とか、40にして仕官するということで「強仕」とかいいます。また、論語より、まどわない年頃であることから「不惑」ともいいます。
48歳は、桑年(そうねん)といいますが、桑という字の異字体「桒」が、四つの十と八に分けられ合わせて48であることからです。50歳は、世間に名が知られる年頃であることから「知名」(ちめい)と言ったり、論語の「五十而知天命」から「知命」とも言います。そして、礼記に「五十曰艾」とあるように、艾(ヨモギ)に見られる細かな毛のように、髪が白くなることかから、「艾年(がいねん)」と言います。 そして、60歳は、論語から「耳順」と言い、律令制で21歳から60歳の丁が終わる年齢であることから「丁年(ていねん)」とも言います。
これらの呼び方は、めでたいということもあって、この後の年齢に多く使われます。これらを見ても、日本の文化は、ずいぶんと中国の文化に影響されていますね。
投稿者 fujimori : 22:27 | コメント (4)
2010年01月01日 [近頃思うこと]
年始の猿
明けましておめでとうございます。このブログで新年のあいさつを言うのは今年で5回目です。私の人生の節目の目安と目指すスタンスは、論語の「吾十有五而志于学、三十而立。四十而不惑、五十而知天命。六十而耳順、七十而従心所欲不踰矩。」です。私は、かなり昨年から「耳順」を心がけたつもりです。その本当の境地に達するには、10年はかかると思いますが、とりあえず、昨年は「北風よりも太陽として人と接しよう」をテーマにしてきました。そして、それを人に語ることによって、自分にも戒めてきました。この論語の言うところは、50歳までは自分への課題であるのに対して、60歳代からは他人との関係になります。若いころの自立は、自分が「立つ」ことだったのが、次第に「他人」のなかでの自分の立場を見つけることであり、その立場から他人が「立つ」ことを援助することのような気がしています。それが、「耳順」の結果のような気がしています。
また、私が携わっている「保育」という仕事は、人の生き方に沿うことであり、人の遺伝子が繰り返されていく過程に出会うことのような気がしています。そんな人生を猿に見立てて表わした日光東照宮の神厩舎の欄干に彫られた作者不詳の8つのシーンで描かれた彫刻に見ることが出来ます。
昨日のブログでその中の3つまで書きましたが、年の初めに当たって、残りのシーンで見てみたいと思います。
4番目の猿は、2匹の猿が上をみあげています。
説明書きには、「青雲の志を抱いて天を仰ぐ。(若いうちは可能性が多い。望みを大きく持って上を見る。)He is ambitiously looking up.」と書かれてあります。そして、右側の方角の雲が青く塗られていることから、青雲の志を抱く青年期の象徴とされています。最近、「青雲の志」を持った若者が少なくなりました。元旦は、「1年の計」だけでなく、「一生の計」をぜひ立ててもらいたいと思います。
5番目のシーンは、落ち込んでいる猿の背中に、別の猿がそっと手を置いている絵が描かれていました。
説明書きには、「人生の崖っぷちにおいても、励ましてくれる仲間がいる。(崖っぷちに立たされた猿。しっかりと足元をみつめる)」と書かれてあります。自立は決して一人で生きることでなく、仲間を感じることだと思っています。その見守りの中だからこそ、自分の足元をしっかりと見つめることが出来るのです。
そのあとの猿は、側面に書かれてあります。

6番目が、右の猿は物思いにふけっている様子で、その左には、そんなことには関係ないように木に登っている猿が描かれています。それは、右の猿は恋をしているのが、次のシーンで分かります。7番目の猿は、新婚の猿がに引き描かれています。二人が手を取り合って、荒波を乗り越えていこうという決心が見えます。そして、8番目の猿は、おなかが大きく、妊娠していることがわかります。それは、次の世代につないでいく姿です。しかし、この8番目の猿で終わりでなく、この猿はこの物語の始まりでもあるのです。それは、やがて生まれてくる子どもの猿によって、次世代が始まるからです。それが1番目の猿につながっていきます。この猿たちによって、遺伝子の繰り返されていくことが表現されます。その繰り返しの中で、いま、自分がどんな役目を担っているのか、何を次の世代に渡していけばよいのかを考えていかなければならないのです。