桶町

 NHK大河ドラマ「龍馬伝」では、坂本竜馬が千葉道場に入門し、そこから去るところが描かれています。私が、千葉道場というと、「チョコザイな小僧め、名を、名のれ!」「赤胴鈴之助だあ!」という元気のいい声と同時に、竹刀の音がして歌が始まります。「剣をとっては 日本一に 夢は大きな 少年剣士 親はいないが 元気な笑顔 弱い人には 味方する おう! がんばれ 頼むぞ ぼくらの仲間 赤胴鈴之助」この歌は、同世代では、みんな一緒に歌い出すでしょう。最近、テレビ視聴者が高年齢化していると書きましたが、ラジオも、聴いている人の率、時間量ともにあまり変化はありませんが、10年の変化を年層別にみると、聴取層の高齢化が進んでいるという結果があります。しかし、私の子どもの頃は、ラジオにかじりついていました。その代表的な番組が、この「赤胴鈴之助」です。
 ラジオ放送は、1957年01月07日にラジオ東京(現TBS)で開始されました。そして、翌1958年10月にはテレビでも放映を開始されます。「少年画報」連載漫画(作・福井英一・2回から武内つなよし)が原作です。金野鈴之助は、江戸に出て父の友人である千葉周作に弟子入りし、修行を積んで心と技を磨きます。この千葉周作が、北辰一刀流の創始者で、千葉道場の総師範なのです。当然、鈴之助も北辰一刀流です。2番の歌詞の「父の形見の 赤胴つけて かける気合も 真空斬りよ」とあるように、赤胴をつけていたので、「赤胴鈴之助」と呼ばれます。そして、殺技は、千葉周作の紹介で飛鳥流に弟子入りして伝授された「真空斬り」です。子どもの頃は、「ウー ヤー タァーッ!」と言いながら、その形をよく真似をしたものでした。
赤胴鈴之助のラジオドラマでデビューしたのが吉永小百合で、千葉周作の娘の千葉さゆり役でした。その後のテレビ化の時にも吉永小百合が初出演をしています。渋谷区立代々木中学生でした。また、歌詞にある「なんの負けるか 稲妻斬りに 散らす火花の 一騎打ち」の稲妻斬り切りの使い手である竜巻雷之進は宝田明でした。
神道無念流の錬兵館、鏡新明智流の士学館とともに、江戸三大道場といわれた千葉道場である北辰一刀流の道場玄武館は、お玉が池の辺りで、千桜小学校の跡地に石碑が立っています。坂本竜馬も千葉道場門下でしたから、北辰一刀流でしたが、通っていたのはこの千葉周作の道場ではなく、周作の弟である千葉貞吉の桶町小千葉道場でした。この桶町は、桶屋が多かったからのようですが、その場所はよくわかっていないようです。たまたま妻が持っている江戸の古地図に桶町の地名があり、それに相当する現在の地図がありました。
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その地図の3番のところに「剣聖千葉周作の弟定吉の道場があったところ。周作の「玄武館」が「大千葉」と呼ばれたのに対し定吉の道場は「小千葉」と呼ばれた。坂本竜馬が修行・寄宿した所として有名。」と書かれてあるので、その場所に行ってみました。しかし、何にも碑も印もなく、どこか確証は持てませんでしたが、その地図にある場所から写真を撮ってみました。向こうの方に見えるのが、東京駅に止まっている新幹線です。
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こんな、東京駅前に道場があったのですね。ことしの大河ドラマつながりの場所探しは、坂本竜馬の評価が今までそれほどされていなかったということもあり、マイナーなところも見つける楽しさがありそうです。

脳研究

 昨日紹介した今月号のニュートンは、“「脳」の研究の今”ということで、研究者たちが脳解明の最先端について解説しています。脳科学がいろいろな場面で言われはじめて久しくなります。育児、保育、教育分野でも盛んに脳科学が論議されています。確かに、子どもたちはいろいろな経験を脳で感じ、脳で覚え、次の行動を脳で考えます。私たちは今では、誰も「心で感じる」ということが「心臓」で感じるとは思っている人はいません。しかし、「胸が裂ける」「胸がすく」「胸が潰れる」「胸が塞がる」「胸に一物」「胸に迫る」「胸に畳む」「胸を躍らせる」「胸を撫で下ろす」など、いろいろなことを胸で感じます。そのかわり「頭で考える」「頭を使う」というように、考えるのは頭だと思っているようです。しかし、感じたり、覚えたり、考えたりはすべて脳であり、その違いは脳の部分の違いであって、心臓は、血液を全身に送り出す臓器であることは子どもでも知っているようになりました。
 しかし、子どもでも知っている脳の働きではあるのですが、実は、先端の研究者たちでも本当の脳の働きは解明されていないのです。ですから、単純に脳がどうだからどうしなければならないというようなことは言えないのです。たとえば、脳が早く完成するので、小さいうちにいろいろなことを教えなければならないだとか、乳児のころに英語をやらないとバイリンガルの脳にならないであとで苦労するとか、早期教育に結び付けてしまう人がいますが、そんな簡単な話ではありませんし、「坂の上の雲」の秋山真之が非常に英語が堪能であったからといって、彼は早くから英語をやっていたわけではなく、子どもの頃は、野山を友達と駆けずり回っていただけです。人間は、もっともっと複雑なものです。
 そうはいっても、先端の脳についての知識は知っておくべきだと思います。今月号のニュートンには、「成長する子供の脳では何がおきているのか?」という章があります。この研究は、成長期の脳の中で起きる神経細胞のネットワークの変化についての研究ですが、その仕組みの解明が、脳の発達障害の原因解明につながると言われています。
 脳の神経細胞のネットワークとは、神経回路と呼ばれるもので、このつなぎ目である「シナプス」の数は、どんどん増えていくのではなく、1?3さお前後までは急激に増えていくのですが、その後は徐々に減っていくということが1970年代にはわかっています。それは、神経細胞は、とりあえず最初は広く手をつないでおき、あとで不要な手を離すという戦略をとっているのだと言われています。「多めにつくってあとで減らす」方式のほうが、「必要に応じてふやす」方式よりも、周囲の状況の変化に敏感に対応することができるからです。
 たとえば、乳幼児が細やかな指の動きが出来ないのは、指を動かすための神経細胞のネットワークが必要以上に広くつながり合っているためです。成長と共に不要な回線がなくなって必要な回線だけが残り、細かい指の動きができるようになるのです。
しかし、最近の研究では、手のつなぎ方の変化だけでなく、神経細胞自体の性質にも巧みな変化が起きていることがわかってきたそうです。人間の不思議さは図りしれません。

消しゴム

 ブログで、文具を取り上げることがありますが、様々なステーショナリーには心惹かれるものです。少し前には「画びょう」を話題にしましたが、今日は進化する「消しゴム」について書いてみます。というのも、先日ある問屋さんで、いろいろな形100種の消しゴムを見たからです。寿司から様々な菓子、果物、野菜、ハサミやセロテープなどの消しゴムは、あまりによくできていて、とても心をくすぐります。そういえば、一時期、筋肉マン消しゴムなどのアニメの主人公とか、スーパーカー消しゴムなどが、とてもはやり、どの子の筆箱の中には、必ずいくつかが入っていました。私が少しの間教員をしていたころ、1年生の間ではちょうどスーパーカー消しゴムが流行っていて、机の角の置いて、ノック式ボールペンのノックでそれを押してどこまで走るかを競っていました。
 私が子どもの頃の消しゴムというと、その名のとおり原料は天然ゴムでした。1770年に、イギリスの化学者が天然ゴムで鉛筆の字が消せることを発見し、2年後に発売されました。その後、画期的なことが起こります。日本では、国産品の消しゴムはなく、すべて外国製品に頼っていたこともあってか、昭和29年に軟質塩化ビニル樹脂により消す効果を高めることに成功し、その製法特許を取得、昭和30年代、世界に先駆け「プラスチック字消し」を発売したのです。今までゴムの消しゴムを使っていたので、その消え方にびっくりしました。今は、すっかり「プラスチック字消し」の時代です。
 しかし、まだゴム字消しが使われているところがあります。それは、シャープペンシルのキャップ内部や鉛筆の頭部などに付けられる消しゴムです。この場合は、減りが少なく強くて折れにくいことが求められるからです。また、最近は修正テープの普及で使われなくなりましたが、インクの字や印刷の字を消す「砂消し」も天然ゴムで作られています。そのほか、美術のデッサンやパステル画で使う「練り消し」も天然ゴム使用です。しかし、木炭デッサンには、消しゴムが発明される前に使われていたパンを使うこともあります。
 そんな消しゴム業界ですが、最近、新しい消しゴムが開発されています。それが、科学雑誌ニュートンの今月号に紹介されています。これは、消しゴムではありませんが、書いた文字を消すことができるボールペンが話題を集めているそうです。それは、こすることによる摩擦熱によって温度が上がると変色温度調整剤が発色剤と顕色剤の結合を着ることによって色をなくすというもののようです。しかし、封筒の宛名のように仕分けのときにこすられる可能性があるときには文字が消えてしまうので使えないそうです。
 また、雑誌に印刷された文字やイラストを手早く、きれいに消すことのできる消しゴムがあります。カラーでも、マンガ雑誌のような単色でも消すことができます。この消しゴムには、インクを溶かす薬剤をゲル状に閉じ込めたマイクロカプセルが練りこんであって、こするとこのカプセルが敗れ、流れ出した薬剤がインクを溶かす仕組みです。そして、解けたインクを本来の消しゴムの働きによって、消しくずにまきとらせきれいにするものです。このような極小カプセル入りは、日本が誇る高技術だそうで、他にもいろいろと使われています。このカプセルをシャープペンの芯に埋め込んで、文字を書くと香るものがあります。
 文房具は、多くの人が日々使うものであり、その中でも特にボールペンやシャープペン、消しゴムは使う頻度が高いために進化をつづけています。

いっしょ

 NHKの看板番組の時間変更のもう一つは、教育テレビの「おかあさんといっしょ」の放送時間のくり上げです。教育テレビでは、子ども番組全体を見直すようです。その中で2?4歳児向けの番組「おかあさんといっしょ」は、午前8時35分から午前8時にするそうです。他にも、午前9時15分から放送されている4?5歳児対象の「みいつけた!」は幼稚園に行く時間を意識して午前7時40分からにくり上げ、0?2歳児対象の「いないいないばあっ!」は逆に午前8時15分から10分遅らせるようです。
お子様番組の王道「おかあさんといっしょ」に、 わが子は二人とも出演しました。この番組への出演は、子どもが3歳のお誕生日の月から4歳のお誕生日の月までの13ヶ月間しかチャンスはありません。しかも抽選なので、なかなか難しいのかもしれませんが、幸運にも二人とも出演できました。ですから、より思い出が深い番組です。
その番組への出演の場面は大きく分けて3か所あります。ひとつは、歌のお兄さん、お姉さんが歌を歌っている時に、その周りに座って聞いているという「歌のコーナー」です。このコーナーからは、様々な名曲が生まれていますし、お兄さん、お姉さんが誰であるかで、その時代がわかります。この番組が始まった1959年は、歌のお兄さんは一人ではなく数名いましたが、そのひとりに、その後歌手として活躍する旗照夫さんがいました。私が知っているのは、そのあと、お姉さんをやっていた真理ヨシコさんです。そして、1971年から5年間、様々なヒット曲を出した田中星児さんがいます。その途中でお姉さんとして小鳩くるみさんもなっています。そのあと、1976年から、田中星児さんに、今アニメ主題歌手の大御所である水木一郎さんが加わり、その1年あとからひとりになります。その後、宮内良さん、かしわ哲さん、林アキラさん、そして、息子が出演した時はちょうど坂田おさむに変わった時でした。彼はそのあと6?7年間も続きます。
次の出演場面は、「体操コーナー」です。体操のお兄さんも歴史を感じます。1961年、NHK「うたのえほん」で始まり、1967年におかあさんといっしょへ併合され、その時の初代体操のお兄さんとして大ブレイクしたのは、のちに番組共演が縁でドラえもんの声として知られる大山のぶ代さんと結婚した砂川啓介さんです。その後で顔が思い出せるのは、田中星児さんと一緒の時にやっていた輪島直幸です。そして、息子が出演した時には、現在、保育の歌や踊りを提案している瀬戸口清文さんで、娘の時は天野勝弘さんでした。最近よく講演先などでお会いするのは、弘道兄さんの佐藤弘道さんで、12年ほど勤めていました。
そして、最後の出演は、エンディングテーマ曲が流れる中、人形劇のキャラクターを含めたすべてのメンバーが登場し、天井からカラフルな風船がたくさん降ってくる中、2人が手をつないだアーチの下を、子どもたちがくぐり抜ける場面です。この時の人形劇のキャラクターにも歴史があります。最初は、「ブーフーウー」で、1960年から67年まで続きました。その後、「ダットくん」「とんちんこぼうず」「とんでけブッチー」「うごけぼくのえ」と続き、乱暴だけど実は寂しがりやなトラのゴロンタが登場する「ゴロンタ劇場」は、懐かしいですね。そして、「ミューミューニャーニャー」「ブンブンたいむ」の後、わが子のころは、「にこにこぷん」です。その時の主題歌は、今でも歌うことができます。
「おかあさんといっしょ」に出演しているわが子を見ている保護者の、「立ちん坊だったらどうしよう」「もっと目立つ所に行けばいいのに」「ポロリのそばに行けばいいのに」という思いをよそに、自由に振舞っているのはこどもたちでした。

時間帯

NHK放送文化研究所では、2005年に人々の1日の生活行動を調査しています。特に、テレビやラジオをどのように視聴しているかという内容が多いのですが、それによると、1日の中でテレビは国民全体の9割が見ており、国民1人あたりの視聴時間は3時間39分(1週間をならした値)だったそうです。ずいぶん長く見ていますが、この時間数は、2000年と比べて、土曜日は休みの人が増えた分若干増えているのですが、平日や日曜日ではさほど増えていません。最近は、若い人はあまりテレビを見なくなったからです。この結果でも、テレビは高齢になるほどよく見られ、20代以下の男性や10代女性では2時間30分に満たないのですが、70歳以上の男女では5時間を超えています。また男20代では、テレビを見る人の率が初めてどの曜日も8割を切ったようです。
テレビは、当然働いている間は見ることができません。この調査でも、平日は、どの職業でも8割を超える人が働いています。しかも、平日は朝8時から仕事をする人が増えはじめ、昼を除いて朝9時から夕方5時まではおよそ70%の人が仕事をしています。一方、夕方5時からは仕事をする人が減り始め、夜9時?9時30分で10%となります。この傾向は、その5年前に比べて、仕事をする時間帯が早朝、夜間両方に広がる傾向にあり、逆に昼を除いた午前11時30分から午後3時までの時間帯では減っています。出勤のピーク時間は午前7時45分?午前8時にあるのは、変わっていませんが、午前7時半?午前8時半に出勤する人は減少し、午前6時半?午前7時15分は増えています。
また、家事をしている成人女性の率は、平日、土曜、日曜いずれも90%以上と高率であり、成人男性でも、平日と日曜で家事をする人の率が増加し、日曜では半数を超えた人が家事をしていまあす。家事をしている成人女性の率を時刻別にみると、朝6時30分から9時30分までと夕方4時30分から7時までで、30%を超えています。ピークは、午前7時?午前7時半で、午前8時台はひと息つける時間です。
そんな中、何時ころにテレビを見ているかというと、朝・昼・夜の3つのピークがあり、平日朝の視聴のピークは午前7時?8時30分で、特に7時台前半は男女年層を問わずピークで、8時を過ぎると、男40代以下や女10代でのテレビ視聴は1割を下回り、成人女性や男60代以上では引き続きよく見ています。
 ということで、昨日、NHKは今春から、平日朝のテレビ番組の編成を大幅に見直すニュースが流れました。そのひとつが総合テレビの「朝の連続テレビ小説」(朝ドラ)です。時間帯が変わるのは、次の朝ドラからで、放送開始を現在の午前8時15分から午前8時にするようです。これに伴い、報道番組「おはよう日本」は午前8時で切り上げ、朝ドラの後の生活情報番組「生活ほっとモーニング」は、「あさイチ」にあらためるようです。この見直しの背景には、午前8時以降は在宅女性を中心とした視聴者層を狙いたいとの考えがあり、記者会見で、「(一般的な家庭の用事は)午前8時くらいには一段落している。その後の時間にテレビを見る余裕はある」と理由を説明しています。
 その生活リズムと、(1)視聴者を放送開始時に奪われない(2)朝ドラの時間帯はNHKを見ない層に見てもらう(3)朝ドラ終了時にはNHKから流れてくる視聴者を取り込む、という3点を意識して決定したようです。 担当者は、「朝ドラを見る層は中高年の女性が多く、若い層を狙った自局の番組とは違っている。朝ドラは15分で終わるので、終了時の取り込みに力を入れることが現実的対応かもしれない」と話しています。
 どの時間帯に何を放送するかは、いろいろな分析をした結果決定するようです。

 視聴率20%超えをキープし、順風満帆のスタートを切っているNHK大河ドラマ「龍馬伝」が始まりました。また、今年は竜馬つながりを歩くことになりますが、昨年暮れには、妻と予告編ということで、京都伏見の「寺田屋」をはじめとして「池田屋」跡や殺害された場所、墓などに行ってきました。そのことはまたあとで書くことにします。とりあえず、今年のNHK大河ドラマ「龍馬伝」は、主演の福山雅治の人気もあって、若い人を初めてして女性からも、また、今日のニュースでは中国でもじわじわと注目を集めているそうです。
このドラマは、「名もなき若者は、その時「龍」になった」という言葉から始まり、「幕末史の奇跡」と呼ばれた風雲児・坂本龍馬33年の生涯を、幕末屈指の経済人・岩崎弥太郎の視線から描くオリジナル作品です。このプロローグの言葉は、私のこのブログのタイトル「臥竜塾」につながります。「臥竜」とは、龍になる「その時」を待っているのです。坂本竜馬を一般に人に対して、身近な人物にしたのが、同じくNHK大河ドラマにもなった司馬遼太郎さんの「竜馬はゆく」でした。この小説には、竜馬の言葉を借りて司馬さんの人間への問いかけがさまざまな場面で行われています。たとえば、彼に人生は短かったのですが、龍になる「その時」の心構えがこの言葉の中に示されています。
「人の一生というのは、たかが50年そこそこである。いったん志を抱けば、この志に向かってことが進捗するような手段のみをとり、いやしくも弱気を発してはいけない。たとえその目的が成就できなくても、その目的への道中で死ぬべきだ。生死は自然現象だからこれを計算に入れてはいけない」
このドラマの最初にかなりショッキングだったのが、身分差別です。司馬遼太郎が、「風塵抄」の中で、こんなことを書いています。「薩摩藩士族には、城下士と郷士の差別慣習があった。維新後、西郷隆盛は、城下士を近衛陸軍に入れ、郷士を東京警視庁に入れた。郷士出身の川路利良は明治6年、フランスの警視庁制度を見学し、帰国後、大警視として日本の警察制度をつくるのだが、明治10年、かれにとって最大の難事が出来した。故郷が反乱(西南戦争)をおこしたのである。川路は鎮圧側に立つにあたって、「人ト生レテ、自助独立ノ権ナク、己レ生涯ノ利害ヲ人二任シテ、羈縻(きび)(つなぎとめる)セラルルハ牛馬二均シカラズヤ」という名文でもって同郷出身の部下をはげました。警視庁の創設者もまた、自助・独立の礼讃者だった。」
少し前のブログで何回か取り上げた福沢諭吉が「学問のすすめ」のなかで「独立とは」を書いています。彼の言う「独立」は安易な個人主義ではありません。少し前から、集団教育の反省から、一人ひとりとか、個々にという概念が中心になりました。しかし、それは「個人個人」が好き勝手にやるとか、「自分さえよければいい」という意味ではなく、彼は「人間」ということを提案しています。この言葉もブログで書きましたが、「じんかん」と読ませて、「人間関係」という意味を持たせました。福澤は、独立した個人同士の人間交際の重要性を唱え、人が社会の中でどういう規範を持って生きていくかということが「独立」につながるということを言っています。
 人のつながりの中で、古い考え方からの独立が、龍にさせるのでしょう。

年賀

昨日は、お年玉年賀はがきの抽選がありました。私は、今まで4等のお年玉切手シートしか当たったことはありません。4等は、2種の下2けたが同じであればいいので、確率的に100本に1本当たるのですが、ほぼ、その確立に近い当選です。そのほかの商品は、時代を反映します。今年の1等は、「32型デジタルハイビジョン液晶テレビ」「選べる海外旅行・国内旅行」「ノートパソコン+デジタルカメラ+インクジェットプリンタセット」「デジタルビデオカメラ」の5点の中から1点が選べます。確率は、100万本に1本です。2等は、「家庭用ゲーム機」「デジタルカメラ」「ポータブルDVDプレイヤー」「加湿空気清浄機」「有名産地にこだわった特別栽培米」の5点の中から1点で、100万本に3本当たります。3等は、「選べる有名ブランド食材、地域の特産品」で、1万本に1本の確率で当たります。
ところで、第1回のお年玉付き年賀はがきの賞品はなんだったのでしょう。特等は「ミシン」、1等「純毛洋服地」、2等「学童用グローブ」、3等「学童用こうもり傘」と続きますが、ずいぶんと子ども用が多いですね。というのも、年賀状にお年玉がついたのは、戦後、ベビーブーム真っ盛りの1949(昭和24)年からだからです。それまでは、年賀状には通常の官製はがきを使っていたのですが、京都在住の郵政に関係していない人が、「年賀状が戦前のように復活すればお互いの消息もわかり、うちひしがれた気分から立ち直るきっかけともなる」と考え、年賀状に賞品の当たるくじをつけたらどうかということを郵政省に持ち込みます。最初は、「国民が困窮している時代に、送った相手に賞品が当たるなどと、のんびりしたことを言っていられる状態ではない」との反論もありましたが、結局は採用することになりました。
この世界にも類を見ない制度は、発売と同時に、大きな話題を呼び、大ヒットします。この年、年賀状の取扱量は大きく伸びることになります。そして、商品は時代を反映することになるのです。昭和31年は「電気洗濯機」、昭和35年は「フォームラバーマットレス」、昭和40年以降は「ポータブルテレビ」や「8ミリ撮影機・映写機セット」、昭和59年は「電子レンジ」、昭和61年は「ビデオテープレコーダー」と見ていくと、家電の歴史ですね。
江戸時代には、年賀状を出していたのでしょうか。日本で「年賀の書状」が取り交わされるのは、7世紀後半以降のことだと考えられています。江戸時代の寺子屋の教科書である往来物にも年始の挨拶を含む文例が数編収められています。そして、「駅伝」「飛脚」などの制度が徐々に確立してくると、一般の書状はもちろん、年賀のための書状も多くなっていったようです。実際に、戦国大名が賀詞を述べた書状なども多く現存しているようです。そして、寺子屋での教育は、武士階級だけでなく、庶民が手紙を出すことを普及させます。そんな庶民教育の急速な普及が、江戸後期には、日本は世界一、就学率、識字率が高い国になるのです。しかし、江戸時代では、「年賀の書状」は、必ずしも1月1日に出されたわけではないようです。1702(元禄15)年に編まれた雑俳撰集「当世俳諧楊梅」には、「六月に 年始の礼は かへり花」という句が載っていますが、年賀状の返事を6月に届けば、狂い咲きだと思われても仕方ありませんね。しかし、このあたりまでに返事を書けばいいとなると、ずいぶんと楽になり、正月がのんびり過ごせそうですが、今の私にとっては、年賀状の返事の締め切りは、昨日の当選番号発表日です。

大根

 今日の夕食に「おでん」をいただきました。おでんについてはブログで書きましたが、その中に入れる具で好きなものは年齢によって変わってきました。今は、大根がおいしいと思います。もともと大根は地中海地方や中東が原産で、古代エジプトから食用としていた記録があるそうですが、日本には中国を経て、弥生時代に伝わり、現在の消費量は世界1位です。また、大根は1年中食べられますが、じっくり煮ておいしいのは冬の大根で、おろしたりして、生でおいしいのはどの季節でも新鮮な大根がいいそうです。
 大根の辛味成分であるアリル化合物には炎症を鎮め、せきを止めるほか、殺菌の働きもあるといわれており、風邪をひいた時は、大根とショウガのすりおろしたものをお湯に溶かして飲んだり、大根の角切りをハチミツや水飴に漬けておいて、溶け出したエキスを飲むと咳が止まったり、風邪にいいといわれています。また干した大根の葉には、温泉成分にみられる塩化物や硫化イオンなどの無機成分が多く、皮膚のたんぱく質と結合して膜をつくり、保温効果を高める働きがあることから、大根を使った風呂も、昔から農村地帯で冷え性や婦人病治療のための民間療法として使われてきました。
明日から調理セミナーが行われますが、江戸時代の食生活はどんなんだったでしょう。江戸時代の江戸の人口比率は、街づくりのために男性が圧倒的に多い町でした。しかも、独身者も多かったようです。ですから、食生活の中心は、今でいう外食だったようです。落語などにもよく出てきますが、屋台で、そば、おでん、寿司、てんぷらなどをつまんでいたようです。また、長屋などの家では、朝に1日分のご飯を炊きました。朝食には、そのご飯と「しじみ」「わかめ」「豆腐」「野菜」などを具にした味噌汁に漬け物程度です。子どもたちは朝に寺小屋へ行き、昼になると家に戻って昼食を食べました。昼食は、朝に炊いたご飯と味噌汁、そして野菜の煮付けがありました。その後は再び寺小屋へ行き、午後2時頃に帰ってきて3時のおやつに焼き芋や餅などを食べました。夕食は、一汁一菜が基本で、ご飯に漬け物や魚、野菜の煮付けなどです。
このメニューを見ると分かりますが、野菜をよく食べました。その中でナンバー1は、「大根」でした。また、江戸時代の「享保・元文諸国産物帳」によると、大根が品種数のもっとも多い野菜と記述されています。また、料理の種類も多く、江戸時代の大根料理専門書にはおよそ百種類も掲載されています。「大根一式料理秘密箱」(1785)刊の序には「物の名も所によりてかはれども大根の生ぬさともあらじ。はにふのすまゐにも香物つけぬ事もあるまじ。<中略>貴賤老若 雅人鈍ぶつにすゝむともよもふさいだ口あかぬもあるまじ」ここには、大根は、地域の差もなく、住まいの差もなく、貧富の差もなく、老若男女の差もなく、風雅人であろうが愚鈍な人でも、誰にでもすすめても喜んで食べるであろうと書かれてあります。
科学的に成分が分析されなくても、経験から体にいいものがわかっていたのですね。

漢字の教科書

 学校では、いろいろなことを、教科書を使って学びます。私は、学校の学びは勉強なので、当然やらなくてはいけないものけど、つまらないものだという考えがあります。その勉強に使う教科書の内容もつまらないものだという印象があります。しかし、目的はいろいろな情報を子どもに伝えることとしたら、面白くしてもいいはずです。
 最近、小学校で英語教育が始まっている学校が増えてきました。子どもたちは初めて英語に触れるために、歌を歌ったり、踊ったり、ゲームをしたり楽しみながら、まず英語に触れ合いさせます。子どもたちは、小学校に入学するとそのほかの強化に初めて触れます。国語や算数などですが、これらの教科では歌ったり、踊ったり、ゲームをしたりしないで、最初からきちんと椅子に座って机に向かっていわゆる勉強をさせられます。国語で文字を覚えるのにも、書き方ノートに「あ」から順に50音の練習をします。昔は、すべての文字を入れ込んでそれを一つの文章にしたのが少し前にブログで書いた「いろは」です。「いろは」47文字を声に出して読み上げ、その次にお手本を見ながら筆を使って書きながら一字ずつ覚えていったのです。
 では、漢字はどのように覚えたのでしょう。やはり、ただ新出漢字を順に覚えていったのではなく、1,000の異なった文字が使った漢文の長詩である「千字文」というテキストを使って子どもたちは漢字を覚えていったのです。この「千字文」という漢字の初級テキストは、中国で6世紀に作られ、日本にもほぼ同時期に伝わりました。ひらがなを覚えたあとは、次にコレで漢字を覚えたわけです。これによって漢字を学ぶことは、平安時代では貴族の必須科目でした。が、室町期になると、特に庶民はすっとばして、「庭訓往来」を使用するパターンもあったようです。
 この「千字文」の構成は、四字一句にまとめて、250句の詩にしてすべて違う1000字が表わされています。しかも、そのそれぞれの一句ごとにちゃんと意味があります。歴代の皇帝のエピソードとか、当時の都や宮廷の様子とか、道徳や教訓についてとか各分野にわたって書かれてあります。見事としか言いようがありません。
 これを使ったのは、6世紀初頭に南朝の梁の武帝が、文官の周興嗣に作らせたもので、一夜で千字文を考えたそうです。それを考えるのにかなり頭を使ったために、一晩で白髪になってしまったという伝説があります。そんな傑作ですから、日本だけでなく、多くの国の漢字の初級読本として使用されました。また、この注釈本も多数出版されています。また、書道の手本用の文章にも使われています。
千字文の最初の句は「天地玄黄」です。「天地玄黄」という言葉は、古代中国の占筮の書であり、儒教の基本テキストである四書五経の五経の筆頭に挙げられる経典である「易経」が出典のようです。天は黒色ということで、玄人の「玄」に通じ、赤が含まれた色で、奥が深いとか、雄大さも表わしています。また、地は黄色であるということですが、中原とか華北とか呼ばれる地域には、黄土が広がり、中国では、大地は黄いろいというイメージなのでしょう。ですから、後に続く句は、「天地玄黄。宇宙洪荒。」で、宇宙は洪荒なりということで、なんと雄大な始まりなのでしょう。
文字を覚えながら教養も身につき、面白い世界を覗ける学習の始まりです。

落ちこぼれ

寺子屋での教科書の中心が四書五経だとすると、私たちは今その書物を読んでもとても難解の気がします。しかし、当時の子どもたちはそれを教科書として学習していたとなると、当然、今でいう落ちこばれが出るのではないかと思われます。しかし、沖田行司さんの「日本人を作った教育」(大巧社)によると、寺子屋は「落ちこぼれない教育」といって紹介されています。
 まず、最近よく論議されている「ゆとり」ですが、寺子屋での時間割はどうであったかというと、全体で「五ツ時」(現在の午前7時半頃)から「八ツ時」(現在の午後2時半頃)までの7時間ほどでした。これを「七ツ習ひ」と言っていました。そして、寺子屋から帰宅するいわゆる下校時間を「御八ツ」といい、子どもたちは空腹のまま帰宅して、夕食までの間の間食をとることを「おやつ」と呼ぶ習わしになったのです。ただし、「八ツ時」まで授業をしたわけではなく、午後からは、女子は琴や三絃、裁縫などの師匠について習うことも多く、男子の場合も、午後から算盤(そろばん)の教授を行った寺子屋もあったそうで、どうも、授業は午前中で、午後は課外授業のようです。現在のドイツの小・中学校に似ています。休日は、日曜日という考え方はなかったので、毎月朔日(1日)と「五の日」(5日、15日、25日)に休む所があったり、6日に1日の割合で休んだりしたようです。また、五節句などの伝統的祝日なども休んでいたようで、年間授業数は、260日から300日くらいだったようです。今は、大体196日から205日が多いようです。今のほうが大分少ないのは、土曜日休みと夏休みなどの長期休みがあるためでしょう。江戸時代では、逆に農繁期などは「朝習い」といって早朝や夜に手習いの時間をあてた延長授業があったようです。
 教科書のひとつは、出版社が刊行している「往来もの」を使います。往来とは手紙のことで、手紙の様式を覚え、手紙文を通して読み書き能力を獲得するほか、この中では、手紙文の形式をかりて単語の習得、生活風習、動植物などが書かれ、生活中心の実用性を重んじたものでした。それに対して、四書は、教養の習得だったのです。では、なぜ、落ちこぼれという問題が起きにくかったかというとこのように分析しています。
 寺子屋での教育における形は、今日多くの教室で見られるような教師が前に位置し、それに子どもたちが列をなして対面しているものは寺子屋が描かれている図では皆無です。基本的には、子どもたち同士がそれぞれの天神机を対面に配置して座り、師匠は全員の寺子が見通せる場に位置する。それは、一斉授業を行っていないということです。そこで、子ども一人ひとりの発達の度合いに応じた指導が可能になるのです。また、天神机の配置の仕方によっては、先に進んだ子どもが遅れた子どもを指導するということも可能になります。均一な個性に仕上げるために一定の基準と目的を設定して一斉に授業をするといった近代に導入された一斉授業とは異なり、一人ひとり異なる個性と能力を持った人間を教育した寺子屋とは基本的に異なるのです。
 一定の基準を、一定の期間において習得させる、また、社会や経済に還元しうる知識や情報の獲得を目的にするために落ちこぼれるという考え方が出てくるのです。
 何も、世界の教育を参考にしなくても日本でも参考になる取り組みは多いですね。