江戸時代の集団

『未来のための江戸学』(小学館)という本を出版した法政大学教授である田中優子さんが産経新聞に連載している「ちょっと江戸まで」というコラムが、昨日で終了になりました。その最終回のテーマが、「寺子屋の教育取り戻せ」でした。この記事は、私が常々ブログで書いている内容と同じことが書かれてありますが、ひとつ、私と大きく認識として違うところがあります。その部分が、今年、新めて見つけた私の保育についてのテーマであり、来年から取り組もうとしている課題です。それは、集団とはどんなことなのかです。
少子時代になり、家庭、地域には子どもを取り巻く社会が希薄になりはじめています。また、子どもたちは、地域で、家庭で子ども集団で遊ぶことをこのまなくなっています。その中で、子どもたちにとって学校は、友達がたくさんいるところです。それは、昔の寺子屋でもそうだったでしょう。田中さんが、コラムの中で、寺子屋の様子を書いています。「渡辺崋山その他によって描かれた寺子屋(手習い)の絵がたくさん残っている。絵を見て驚くのは、寺子屋は、そもそも学級崩壊しているという事実だ。いや「学級のまとまり」という概念がないのだから、崩壊もない。なにしろ子供たちは先生を見ていない。今の学校のように机を整然と並べて全員が黒板と教師に顔を向けている、などという事例は皆無。子供たちは入学時に持ってきた自分の机を自分の好きなところに置き、めちゃくちゃふざけながら勉強している。とても楽しそうだ。」
寺子屋へは、家から机も持ち込んで好きな所に置いていたこともあったようです。残っている絵では、机を丸く輪にして並べている姿も描かれているものがあります。子どもたちはあちらこちらを向いていますし、顔に墨をつけあっている子もいます。全員が前を向いて、先生の話を聞いている図はありませんし、ましてや、先生が姿勢がどうの、聴く態度がどうのと注意している姿は見られず、確かに楽しそうです。その教授の姿を田中さんはこう書いています。
 「教科書は往来ものや算術など何種類かあり、それらを個々の生徒ごとに組み合わせる。つまり寺子屋教育とは個人教育なのだ。個人教育が集団教育に変わってゆくのは、近代の学校制度になってからである。教壇に教師が立ち生徒が教師の方に顔を向ける教室の配置、行進の練習、集団生活を身につける修学旅行などは、日本人の「近代化」のために作られた。江戸の日本人は他人と歩調を合わせて歩いたり、同じ態度を統一的にとることなどできなかったのである。「日本人の集団性」は国家戦略として作られた性質なのだ。」
 これを読んだときに、私は果たして寺子屋が個人教育で、一斉に生徒が先生の方に顔を向けて授業をするのが集団教育なのだろうかと思いました。一斉に先生の方を向いて話を聞くというのは、先生と生徒との関係しかなく、一斉の個人授業の気がします。先生の考えが一人一人の個人に伝えられる教育です。集団教育とは、集団を活用することなので、子ども同士が話し合い、意見を交換しながら授業を進めていくことを言うのではないかと思います。いわゆるグループ学習です。学び合いです。江戸時代の寺子屋や塾は、少数で議論を重ね自分の言葉を磨いてゆく授業だったのです。
 間違っていた教育は、集団教育ではなく、みんな同じことをするという間違った集団性である一斉個人教育だったような気がするのですが。

江戸時代の集団” への4件のコメント

  1. 自分は何が得意なのか、自分の特徴は何かといったことは、他とかかわることで、しかも同質であったり異質であったりする様々な人とかかわることで見えてくるものだろうと思います。それを見つけることが教育の大きな目標でもあると思うので、学びあいの考え方はとても大切だと思っています。「みんな同じことをする一斉個人教育」では難しいことでしょうね。田中優子さんのような受け止め方と藤森先生のような受け止め方があり、それを受けて自分はどう考えるか。そんな「自分は…」を鍛えることが来年の課題になりそうです。

  2. おそらく藤森先生がお考えの「集団を活用した子ども同士の学びあい」を実践して成功を収めているのがフィンランドだと思います。福田誠治先生の「驚きのフィンランド教育」によると、『フィンランドの授業は、同一クラスの中で教育内容を2学年くらいの幅で見て復習をしたり発展をさせたりできるようにカリキュラムと教材を組んでいる。子どもは自覚して学び、グループを組んで子ども同士が教えあい、教師は個別指導を心がけて学習を支援し、大きな開きは授業形式で補習をして手立てを講じている。』とあります。この国では教師の役割は教科を教えるのではなく、教科を主体的に学ぶ生徒を援助することだと言います。日本も古い教育観を転換しない限り、世界の趨勢に追いつくことはできないと実感しました。

  3.  寺子屋については藤森先生のブログから多くの事を教えていただきました。小学校の頃かと思いますが、寺子屋の事は初めて知りました。当時は自分達が受けている授業と同じような授業形態と思っていましたので、そこまで関心はありませんでしたが、友達同士が学び合い、教えあう事がここまでレベルの高い勉強方法だとは想像以上でした。それも集団があるからこそ、可能な事なんですね。そんな集団の使い方を間違った使い方をしてしまっては、全く意味がありません。もう一度、新年に向けて、集団のあり方を考え直す必要があると感じました。

  4. 私自身が受けた学校の授業はまさに「一斉の個人授業」でした。今、我が子も私と同様に「一斉の個人授業」を受けています、「姿勢がどうの、聴く態度がどうのと注意」されながら。「集団とはどんなことなのか」をテーマにして藤森先生の考え方を披瀝される、その内容にとても興味関心があります。当ブログでもその一端が開陳されることでしょう。とても楽しみです。明治維新以降の教育現場における「集団」は先生と個々の生徒が繋がる集団。「富国強兵」をスローガンにした国家の教育現場のありようとしては極めて妥当な気がします。軍隊などのタテ社会を機能させるには必須です。翻って今日という時代はどんな時代なのでしょうか。当ブログでは時代認識を明確にしています。現今の教育現場は「生きる力」を強調します。如何なる時代認識がその根底にあるのでしょうか。あらためて問い直さなくてはならない、そんな思いに駆られます。

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