NHK大河ドラマ「坂の上の雲」を見ていると、主人公の秋山兄弟はかなり英語が話せたようです。その頃の授業は、英語で行っていたこともあり、ドラマの中で、正岡子規が英語に悩むシーンが出てきます。しかし、彼も勉強して、英語がわかるようになります。このころから、確かに英語は大切でした。もしかしたら、今よりも必要とされた人はいたようです。しかし、彼らは、決して幼児から英語を勉強していたわけではありません。それどころか、中学生のころまで野山をかけずり回っていただけです。だからこそ、勉強に対して貪欲であり、知識を得たいために英語を自ら学ぼうとしたのです。その意欲が、英語を話せるようにしたのでしょう。
多くの英語を日本語訳にした福沢諭吉にしても同じような経緯をたどります。
適塾でオランダ語を学んだ諭吉は、横浜に出てきますが、ショックを受けます。それは、横浜で出会う外国人とは、まったく言葉が通じないのです。また、店の看板の文字もなんて書いてあるのかわかりません。それは、国際情勢の変化のなかで、オランダ語より英語が主流となっていたからです。諭吉は、オランダ語を一生懸命学んだことが、全く無駄だったことを知り、「取り返しのつかない失敗をしてしまった」と悔みます。しかし、悔んでばかりはいません。諭吉は「まだ、若い。もう一度、始めからやり直そう。英語に挑戦してみよう」と発奮します。その翌日から英語を学び始めます。
英語を学ぼうと思っても、そのころは塾や学校はおろか、辞書でさえなかったのです。そのような環境は、挫折を生むのではなく、意欲を増すことになるのです。探究心が意欲を生み、意欲が挑戦を生みます。その結果、習得していくのです。これは、どの教科でも同じで、何かを学ぼうとするよりは、何かを知りたい、何かをやってみたいという探究心が、結果的に何かを学んでいくことになるのです。葉が紅葉しているのを見て、「どうしてこんな色になるのだろうか?」という探究心が「理科」になり、「ここは紅葉しているけど、北海道ではまだだけどどうしてだろうか?」という疑問が「社会」になるのです。そして、「紅葉は、アメリカにもあるのだろうか?では、アメリカでは、どう言うのだろうか?」ということが「英語」になるのです。ただ、机に向かって、紅葉という英語を先生のあとについて復唱することではないのです。
また、疑問を持っただけでは、学びになっていきません。行動することで、知恵が湧いてくるのです。そうして、諭吉は英語を学び始めますが、そうすると以前オランダ語も学んだことも無駄でなかったことを知ります。学問には、無駄はないのです。
その後、諭吉は、26歳のとき、咸臨丸に乗って、サンフランシスコに行きます。この船には、通訳方として中浜万次郎も同乗していました。そこで、諭吉は、ウエブスターの英語辞書を購入しました。帰国後、諭吉は、ウエブスターの英語辞書で猛勉強し、『増訂華英通語』(中国人子の編集した英語と中国語の対訳単語短文集『華英通語』に、英語の発音にカナをつけ、日本語訳した書物)を刊行しました。これが縁で、福沢諭吉は、幕府の翻訳方に採用されました。
彼は、アメリカに行ったとしても帰国子女ではありませんし、外国人のもとで英語を習ったわけではありませんので、ネイティブな英語だったかわかりませんが、20歳代後半から辞書で勉強しただけで翻訳方になり、今使われているほとんどの英語の日本語訳をあてはめた人として有名になるのです。英語教育とは、何なんでしょうか。
外国への憧れから中学に入って英語に興味を持った。NHKのラジオ講座で聴いたネイティブな英語が衝撃だった。中学校ではESSに所属して、郡市の英語弁論大会にも出た。大学は当然のように英文科に入学。19世紀イギリス文学が専攻だった。卒論も英文だった。今の後輩たちは、海外留学に行くメンバーも多いとか。もし自分も海外へ出ていれば、人生変わっていたかもしれない。でも、当時は当たり前のように会社に就職して、英語との縁も切れてしまった。先日の「坂の上の雲」の主人公たちが、貪欲に英語を学ぶ姿がとても眩しく見えた。探究心や意欲は若者だけの特権ではないと思う。年はとったけど、「学ばずは卑し」。この臥竜塾ブログで人生道の学びを深めていきたい。
学ぶことは決してテストでいい点をとったりいい学校に入るといったことの手段ではなく、大げさかもしれませんが、生きる意味を考えたり人格形成につながっていったりするものと捉えるべきだと思っています。そう考えたとき、各教科はバラバラのものではなくつながっているべきだと思いますし、紹介されている探究心からの教科の広がりはとても勉強になりました。学ぶことを楽しいと感じられる基礎が作られる教育のあり方も必要なんだと思います。
幕末維新の頃の人々の語学力をみると本当に驚かされます。現在のようにネイティブに気軽に教わる英語教室があったわけでもなく、ましてや「語学留学」などとシャレてはいられません。それでもあのように語学に堪能だったのはなぜか、と考えます。今回のブログには「中学生のころまで野山をかけずり回っていただけ」とあります。無論、1人で駆け回ったわけではなく誰かしらと一緒に駆け回り、しかもコミュニケーションをとりながら動いていたことでしょう。そして相手の話を聞きまた自らを主張する。そして寺子屋など塾では漢文の勉強してさらに言葉に敏感になっていったでしょう。更には、言語は手段である、だからこそ磨いている、ということもあったような気がします。道具を磨きそしていざコミュニケーション、になれば自らがどれだけ言いたいことを持っているか、が問われてくるでしょう。するとますます道具磨きに拍車がかかると思います。明治の人たちはおそらくそうしたことを分かって生きていたのだと思います。