インディペンデント

最近、何をきっかけか忘れましたが、このブログで福沢諭吉のことを書いていますが、どうもその話題から離れると、またその話題に戻ってしまうようなことに出会ってしまいます。
昨日、東京では1996年に公開されたアメリカ映画「インデペンデンス・デイ」がテレビで放映されていました。この映画は、アメリカ独立記念日を控えた7月2日、直径24キロにも及ぶ円盤型のUFOがニューヨーク・ロサンゼルス・ワシントンだけでなく、世界中の大都市上空にも出現し、それによる混乱に陥る中、アメリカ政府は交流を求めるためにUFOとの交信を試みますが、容赦ない攻撃を受けてしまうというSF映画です。この映画の題名である「インデペンデンス・デイ(Independence Day)」とは、アメリカ独立記念日のことを言い、1776年にアメリカ独立宣言が公布されたことを記念して、毎年7月4日に定められているアメリカ合衆国の祝日のひとつです。
この「Independence」というのは名詞ですが、「Independent」という形容詞があります。その意味を携帯電話にある辞書で調べてみると、1.独立の、自律的な:自主的な:自治の、2.他に影響されない:独自の、3.自活する:働かなくても暮らせるだけの(収入のある)とあります。この言葉を福沢諭吉はよく使いますし、この言葉に込められて思いが彼の思想の大きな部分です。その言葉をただの独立ではなく、「独立自尊」と訳しているのです。
福沢諭吉展に展示されていたものに様々な彼が使用していた印章があります。彼は、揮毫の際、落款印として用いた陽刻の印章ですが、それと対で用いた陰刻の印章には「三十一谷人」と書かれてあります。
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当時の有力者がこぞって雅号というものを虚飾的な風流として、また一種の権威主義として用いていましたが、諭吉はこれを嫌って雅号は持ちませんでした。代わりに最初のころは、「諭吉」をもじった「雪池」の語を雅号のように用いていました。その語を落款印にも刻み使っていました。その後、「三十一谷人」の語を用いるようになります。この言葉の意味は、「是れは谷にも山にも地名などに縁あるに非ず。三十一を一字にすれば世の字にして、谷人の人を偏にして左右に並ぶれば俗の字となるが故に、則ち世俗の意を寓したるもの」と「福沢諭吉全集緒言」にその意味を説明しています。なるほどなあと思いますね。そして、そのことは、遠縁に当たる漢学者であった高谷龍洲と文章談をしている中で思いついたと記されています。
つまり「三十一谷人」という語は、当時の知識人たちがこぞって官職を求めた中で、無位無官を通して世俗にて「独立」した存在でいようとする、まさに彼の生き様の精神を表し、まさにこれが「独立」なのです。独立した個人を大切にし、権威におもねず、日本をいかに近代化するかという精神ということなのでしょう。
 また、諭吉が2人の息子に書き与えた、徳義や知識を教えるために小話集「ひゞのをしへ(日々の教え)」も展示されていました。
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展示されていた資料10月16日の部分に「子供とて、いつまでもこどもたるべきにあらず。おいおいはせいちょうして、一人前の男となるものなれば、稚きときより、なるたけ人のせわにならぬよう、自分にてうがいをし、かおをあらい、きものもひとりにてき、たびもひとりにてはくよう、そのほかすべて、じぶんにてできることは、じぶんにてするがよし。これを西洋のことばにて、インヂペンデントという。インヂペンデントとは、独立ともうすことなり。どくりつとは、ひとりだちして、他人の世話にならぬことなり。」
 どうも、彼の言う「独立」とは、自立、自主的、自律的という意味合いが強いようです。

タクシーかバスか

 海上空港である長崎空港に行くと、イタリアのベニスを思い出すとブログで書きましたが、こんなことも思い出しました。ベニス本土では、車の乗り入れが禁止されています。というよりも運河が張り巡らされ、そこにかかる橋はほとんどがアーチになっているので、自転車はおろかすべての車は走れないのです。ですから、ベニスでは、すべての乗り物は船です。バスは、水上バス、タクシーは、水上タクシー、消防車も救急車もパトカーもゴミ収集車もすべて船です。水上タスシーでホテルまで行くと、ホテルの玄関が運河側にもあって、そこに横付けされ、そこからホテルマンが荷物を運んでくれます。また、もちろん、観光もゴンドラに乗ってか、歩いて回るだけです。私が以前行った時には、まず、水上バスで島の先端まで行き、駅まで見学しながら歩いて戻りました。
そんな海上タクシーですが、日本で昨日乗りました。それは、諫早市の時津港から長崎空港までです。以前、琴海から漁船に乗って行ったことをブログに書きましたが、長崎空港は多くの町から大村湾を挟んであるために、大村湾を渡る船で行くことができ、長崎空港にはそのような港があるのです。今回訪れていた時津町は長崎市の北部と西彼杵半島の接点に位置し、北側は波静かな大村湾の南端部に接しているために、長崎空港と時津港を結ぶ海の直行便である海上タクシーが運行されているのです。これに乗ると、空港まで所要時間25分で行くことが出来ますし、値段もタクシーの運転手さんによると地上タクシーでは8000円以上するところ、海上タクシーでは一人1800円で済みます。また、船で横断する大村湾には、世界で一番小さなイルカ「スナメリ」が生息しています。しかし、かつては、船内からもよく見つけられたそうですが、現在絶滅が危惧され、地元の人でも見たことがないそうです。
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最近、ジャンボタクシーというバスと区別がつかないものもありますが、基本的には、タクシー(taxi)とは、少人数の旅客を輸送する公共交通用途の乗り物です。昨日乗った海上タクシーは定員が90名くらいでしたので、なぜ海上バスと言わないのか不思議ですが。しかも、タクシーとは、通常、旅客が任意の目的地を指定できるのが原則なのですが、どうなのでしょう。
多くの人が知っていることでしょうが、タクシー(taxi)と 税金(tax)とは語源は同じです。「税」を意味する英語のtaxは、「触れる」という意味のラテン語 tangoに由来しています。このtango から「評価する」という意味の taxoというラテン語ができ、そこから tax という英語ができました、かつて、手で触ってものの評価をしたからでしょう。その評価の結果納めるものが税金なのです。一方、taxi はtaximeter cabの略語であり、taximeter とは「料金メーター」のことです。つまり、taxi とは料金を「評価する(taxo)」メーターを備えた車という意味なのです。
また、こういうこともあります。「助手席」という言葉の語源は、もともとはタクシー業界の業界用語でした。大正時代、タクシーが珍しかった時代にタクシーには運転手ともう一人、客の乗り降りを助けた人が乗っていました。それは、当時のタクシーは外車で車高が高く、客は着物姿が多かったために乗り降りには手助けが必要だったからです。そして、彼らは「助手さん」と呼ばれていて、その助手側わっていた席ということで「助手席」という呼称が定着していったと言われています。昨日の海上タクシーには、当然、助手席はありませんでした。
提案ですが、これからは海上バスと呼んだ方がいいかもしれませんね。

長崎と諭吉

 今朝の長崎は、雪が降っていました。真っ白にはなりませんでしたが、うっすらと街が白くなっていました。そんな長崎での食べ物と言って思い出すものは、もちろん「ちゃんぽん」「皿うどん」ですが、最近若い人の間でそれを上回る人気のある食べのものが、以前ブログにも書いた「トルコライス」です。このトルコライスは、最近は全国各地で出され、神戸が発祥であると言われるように神戸でも食べられているようです。この人気メニューは、ドライカレー(またはピラフ・チャーハン)、トンカツ(またはチキンカツ等の肉)、スパゲティ(ナポリタンである事が多い)、場合によってはこれにサラダが付くと言うように、嫌いな人はいないだろうと思われる人気メニューを、一つの皿の上に所狭しと乗せたまさに「大人用お子様ランチ」です。長崎のある喫茶店から発祥し、各地に伝わっていったと言われていますがその名前の由来同様、発祥もはっきりしないようです。名前の由来がさまざまある中で、一つの有力な説が、「カレー」「トンカツ」「スパゲティ」という料理がある国の位置から、それらの中間にある「トルコ」が名前の由来であるという説です。
 もうひとつの説は、意外ですが福沢諭吉が関係しています。彼が創刊した新聞に「時事新報」というのがありました。その紙面で、「何にしようね」という料理コーナーが連載されていました。この連載は、日本の食卓に諸外国の味付けが広く取り入れられはじめられたころに、諸外国に追い付け追い越せという風潮の中、近代化をめざして急激に世の中が変化していた当時の様子が、食の面からうかがえます。その新聞の明治26年10月21日付に「土耳古(とるこ)めし」のレシピが掲載されています。そこからトルコライスと呼ぶようになった説があるのです。しかし、その内容は、大分違うようです。記事の土耳古めしレシピには、
「先づ鶏か牛肉にてソップを取り置き此ソップにあっさり鹽味(しほあぢ)を附け之を水に代用して飯を焚く可し、飯の焚ける前、別に鍋を掛け置きてバタをぢりぢりと底一面に煎り散らし、焚けると直ぐに飯を其中に入れて充分に掻廻はしバタのまんべんなく廻りたるを見て之を御鉢に移す可しバタ餘り多ければしつこき故其所らが手加減の肝要なる所なり少し鹽味を含む上に其味ひ云ふばかりなければ別におカヅが入らぬ程にて香の物か前號鳥めしに用ひしかけつゆ位にて事足るべし」
 これは、鶏肉(または牛肉)のスープで炊きあげたバターライスのことのようです。このメニューは、明治時代の小説「食道楽」(村井弦斎)にも記述があるようで、当時それなりに知られていた食べ物のようです。2001年に、ワニマガジン社からこの「時事新報」の「何にしようね」という料理コーナーが「福沢諭吉の「何にしようか」?100年目の晩ごはんレシピ集?」という、復刻料理として写真付きで紹介した本が発刊されています。
 「長崎」と「福沢諭吉」というキーワードで、まさかトルコライスが出てくるとは思いませんでした。

千々石

先週末、長崎の平戸を訪れたのですが、今週末はやはり長崎の諫早に来ています。長崎に来た時に最初に感動したのが長崎空港です。この空港は、大村湾に浮かぶ有人島である箕島にあり、1975年に開業した世界初の海上空港だからです。ですから、空港から市内に行くために長い橋「箕島大橋」(長さ970m、幅員8.5m)を渡っていきます。その景色は、以前イタリアの海上都市であるベニスに列車で行ったときと似た感覚があります。そんな海上空港なので、以前琴海町から船で空港に行ったときに直接横付けできたのです。
この箕島大橋を渡り終えた右手に少年たちの群像が見えます。それは、戦国時代に、日本人で初めてヨーロッパを公式に訪問した4人の少年使節の銅像です。この銅像は、少年達の偉業を顕彰するため、使節ゆかりの大村市、波佐見町、千々石町、西海町(現西海市)の1市3町と関係団体で作った天正遣欧少年使節顕彰会が、昭和57年(1982)に、使節の出発400周年を記念して建立したものです。像は、向かって左から、伊東マンショ、千々石ミゲル、原マルチノ、中浦ジュリアンの順に並んでいます。
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この少年使節については、私が子どもの頃の国語の教科書に紹介されていました。しかし、この「天正少年使節」が日本歴史に登場したのは遅く、明治になってからヨーロッパ文献で初めて紹介されました。日本には史料がほとんどありませんでした。それは、この出来事は、日本史上の壮挙にもかかわらず、歴史的に見て社会的な影響に乏しかったからです。しかし、西洋に初めて日本を紹介した点ではとても重要な出来事なのです。使節は日本の王子という触れ込みもあって、行く先々で大歓迎を受け、彼らがまだヨーロッパ滞在中に夥しい書物が発刊されました。現在の調査で1585年に48種類、それから10年の間になんと90種を越えた書物が発刊されているそうです。これらの書物によって、広くヨーロッパに日本をセンセーショナルに紹介しました。
 使節に選ばれたのは、当時、有馬のセミナリオ(神学校)で学んでいた少年で、正使として、日向伊東氏出身の伊東マンショ、有馬領千々石出身で、有馬晴信の従弟で大村純忠の甥の千々石ミゲル。副使として、原マルチノ(現 波佐見町出身)中浦ジュリアン(現 西海市出身)の4人でした。
私は、長崎の雲仙を訪れる時に「千々石町」(現在は雲仙町)を通過するたびに「千々石ミゲル」という名を思い出しました。彼は、雲仙の千々石(釜蓋)城主千々石直員の子で、有馬晴信の従兄弟かつ大村純忠の甥であったため、有馬・大村両家の名代として使節団の正使に選ばれています。しかし、少年使節は帰国後、キリスト教禁教が進む中で不遇な後半生をおくったとされています。
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中でも、千々石ミゲルは4人の中でただ1人、帰国後にキリスト教を棄て、仏教に改宗し、結婚したとされていますが、史料が少なく没年など人生のほとんどの記録が謎につつまれており、いままで墓所等は不明でした。それが、2004年2月の新聞に「千々石ミゲルの墓多良見で見つかる」と大きく掲載されます。長崎県諌早市多良見町にある安山岩の自然石で建てられた墓石がそうであると言われています。この墓のある場所を、今日偶然見つけ、連れて行ってもらいました。表面には法華宗を意味する「妙法」が、裏面の左下方には「千々石玄蕃允」と刻まれています。それは、4男だった嫡子的立場にあった千々石玄蕃が、父縁の地である伊木力の一角に両親のための墓石を建てたというのです。
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思いがけずそんなものに出会えるのも、地方を訪れる楽しみの一つです。

原動力

たまたま、2006年3月2日の 読売新聞を目にすることがありました。その記事には、作家、司馬遼太郎の足跡をしのぶ「第10回菜の花忌シンポジウム」(司馬遼太郎記念財団主催)が、東京・日比谷公会堂で開かれたことが取り上げられていました。このシンポジウムでは、ちょうど今NHK大河ドラマで放送中の「坂の上の雲」原作の魅力を識者4人が論じていました。シンポジストの一人は、最近肺がんと戦っていると報じられた作家の井上ひさしさんです。彼は、「3人の主人公の複眼で見ていく手法は、多くの情報のインプットが必要。トラック一杯分の古書を買ったという司馬さんの大変な努力があって成しえた」と指摘しています。また、関川夏央さんは、「3人は藩閥から自由になり、試験を受ければ平等である時代の新しい職業についた。そこにこの作品の明るさがある」と話したことが掲載されています。
また、この原作が1970年前後の大学紛争の時代に書かれた点に着目したのは、芳賀徹京都造形芸術大学学長です。彼は、「明治が暗黒の時代の入り口というイデオロギー的なイメージを、時代と主人公の青春を重ね併せ打ち破った」と評価しました。一方、劇作家の山崎正和さんは、「司馬さんが見ていたのは、平等な時代に前へ進もうとする水兵たち。技術にかけた明治30年代の日本は、高度経済成長期の日本に重なる」と語っています。
 先日、この原作を読んでいる妻に「この小説の中で、誰が好き?」と質問されたのですが、同じ小説を読んでも、その中で誰が好きかで、その人がわかることがあると言います。確かに、それはほかにも言えることで、同じテレビを見ていても、また、歴史を振り返っても誰が好きかでその人がわかることがあります。ただ、多くは、その小説の主人公であることは多いのですが、それも、誰を主人公にするかで大分イメージが変わります。
昨日のNHKテレビで、平清盛を分析していましたが、私たちが平清盛を知るのは、多くは「平家物語」です。この平家物語は源氏を正当化するために書かれてある書物ですから、当然平清盛は極悪非道の人物として描かれています。ですから、源氏が英雄で、平家が悪であるかのようなイメージを持っています。しかし、平家物語の最初の方で、平家の滅亡を「奢るもの久しからず」と説明していますが、昨夜のテレビでは、平家が奢っていたために滅びたのではなく、源氏が武士の品格を落とすようなルール違反をした戦いをしたために、源氏が敗れたと説明をしていました。そして、平清盛は、非常に人に対して思いやりがあり、気を使い、世界とみらいを視野に入れたものの見方をしていたとなれば、なんだかイメージが逆転してしまいます。
歴史は、ここに面白さのひとつがあるとも言えます。真実を知るよりも、そこから自分の人生と照らし合わせ、共感したり、参考にしたりします。そして、今につながること、そこから連想されることが思い出されることによって、自分の中のいろいろな知識と結びついていくのです。私は、このシンポジウムの中の山崎氏の「平等な時代に前に進もうとする」という言葉から、坂の上の雲の主人公の一人である秋山好古が敬愛する福沢諭吉の「福翁自伝」には、「門閥は親の仇でござる」という言葉が書かれてあります。諭吉の父親は、才能と志しをもちながら、封建的な身分制度の中で自分の思いは受け入れられず、辛さを深く呑み込んで、空しく死んでいったことがあるからです。この思いが、諭吉の行動の原動力になったのでしょう。昨日のテレビでは、平清盛が、同じように父親である平忠盛の身分による差別の無念さから行動したことを放送していました。
歴史を作っていく原動力は、強い思いに駆り立てる何かが必要かもしれません。

小豆

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今日は、園ではお餅つきです。3歳以上児には、あえて大人用の重い杵で搗いてもらい、杵の重さと、餅の粘りを感じてもらおうことを意図しています。また、保護者の方何人かにも手伝ってもらいましたが、それは、人手が足りないというよりも、私の子どもの頃の餅つきのように、地域のコミュニティーの中で餅つきが行われ、その周りを子どもたちが取り囲みながら、大人への憧れと、みんなで協力する楽しさを味わってもらおうというものです。
また、搗きたてのお餅をいろいろなものに絡めて食べたのですが、私の子どもの頃は、餅はすべてのし餅やかまぼこ型にして年が明けてからしか食べてはいけないことになっていました。餅は、保存食で、正月に女性が調理など家事をやらなくてよいようにということもあって搗きたてを食べることはありませんでした。園では、「きなこ」「納豆」「大根おろし」「鰹節」そして「あんこ」に絡めて食べます。子どもたちは、昔は圧倒的にあんこに人気が集まったのですが、今は、納豆や大根おろしも人気があります。
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このあんこは、もちろん小豆から煮て作りますが、小豆は、昨日の亜麻と同じようなところがいくつかあります。小豆は、東アジア(中国東部・朝鮮・日本)が原産地で、その字のとおりに「ショウズ」ともいわれています。そして、古来人が常食とする五種の穀物「五穀」(米、麦、豆(大豆・小豆)、粟、黍、または稗)のうちのひとつですが、人間との付き合いは非常に古く、日本では、縄文時代から古墳時代前期までの遺跡からあずきの炭化種子が発見されています。また、静岡県の登呂遺跡からも発見されており、弥生時代には栽培されていたと言われています。また「古事記」や「日本書紀」にも大宣津比売神の鼻からあずきが生えてきた、と言う神話があるほど古くから親しまれた豆です。
また、わが国や中国、朝鮮ではあずきの赤色に魔除けなどの神秘的な力があると信じられ、1年や季節の変わり目、生活の節目の時など厄除けとして行事や儀式などに供され、煮汁を着色料としたり、赤飯、アズキ粥として食されていました。また、栄養価の高さから医食同源(薬用)に食され、独自の風味や色合いから赤飯や和菓子の原材料として親しまれてきました。
あずきは漢方でも古くから利用されていて、生薬名は「赤小豆(せきしょうず)」といいます。主成分は、デンプンとタンパク質で、ビタミンB1が多く含まれており、脚気に効果があります。また、疲労物質の蓄積を防ぐ働きがあるので、肩こり、筋肉痛、二日酔い、夏ばてに効果があり、母乳の出をよくする効果もあります。また、腸の働きを刺激するサポニンと食物繊維が豊富なので、利尿や便通をよくします。尿がよく出て、むくみもとれるので、心臓病、腎臓病にもよいとされています。また、サポニンは、中性脂肪の値を下げるのでダイエット効果抜群です。また、老化による皮膚のシワやシミ、動脈硬化の原因になる「活性酸素」を抑えてくれる「ポリフェノール」がたっぷりと含まれています。ほかにも、皮膚にはれものが出来た時は、あずきの粉と大根おろしを一緒に練って、ガーゼにのばし、皮膚の腫れたところに湿布すると、大根の冷やす作用と小豆の消炎作用で腫れがおさまると言われています。また、亜鉛や鉄分も多く鉄欠乏性貧血に良いので、不妊症や味覚異常者にもいいようです。
そして、あるように小豆色と言う色がありますが、この色も、花の色ではなく、実の色で、紫味を帯びた赤褐色のことをさし、ラセットブラウンともいいます。昔からお手玉の中に入れた小豆は、人間との長い付き合いの歴史が物語るように、とても人間にとって貴重な存在です。

亜麻

「亜麻色の長い髪を 風がやさしく包む 乙女は胸に白い 花束を …」
この歌は、橋本淳作詞、すぎやまこういち作曲で、ヴィレッジ・シンガーズのシングル曲「亜麻色の髪の乙女」です。最近では、島谷ひとみがカバーをしていました。また、同じ題名のものにクロード・ドビュッシーの前奏曲集第1集のうちの第8曲があります。
この亜麻色とはどういう色なのでしょうか。この「亜麻」というのは、植物名で、その花と人間の付き合いは非常に古く、紀元前8000年?6000年には、チグリス川・ユーフラテス川岸で食用として栽培され、毎年豊穣な収穫が期待できる丈夫な作物だったようです。旧約聖書にも亜麻は登場しています。そして、紀元前3000年ころになると、この亜麻で織物がつくられ、この亜麻織物は古代エジプトで広く神事に使われていました。そして、この布で、ピラミッドに眠るミイラの顔を覆ったり、体を巻いたりしていました。その後、多く作られるようになるに従って、800年のころ、木綿が定着するまでは、ヨーロッパでは繊維といえば亜麻のことというくらい、一般的に衣類などに用いられました。
それが、1617年に北米に伝わり、元禄時代に日本へ中国から薬用油として伝わりました。しかし、この頃の日本では中国から比較的たやすく亜麻が入手できたことから、国内での栽培は定着しませんでしたが、明治に入り、北海道開発の一環として、北海道内で亜麻栽培が奨励されました。もともと、亜麻とは、中央アジア原産で、冷涼な気候である亜寒帯地域の国々は栽培されていましたから、日本では北海道が亜麻の栽培地として最適であるとされています。このころになると、繊維産業は軍需産業であり、亜麻の利用は薬用油ではなく、ほとんどが繊維に使われています。栽培のピークである昭和20年には、全道で4万haが作付けされていたそうで、初夏には、亜麻畑の美しい光景が広がっていたようです。しかし、終戦後、化学繊維が安く製造できるようになり、昭和40年代を最後に亜麻は姿を消してしまいましたが、最近は、繊維としての活用から種子の保健機能が注目されるようになり、再び北海道で亜麻栽培が復活してきているそうです。
そんなわけで、亜麻色とは 亜麻の繊維の糸のような色と言うことで、明るい灰みの茶色=淡い金髪だそうです。花の色は爽やかで透きとおるような紫がかった薄い青ですが、色見本などで見ると、青みがかったうす茶色なのですが、これは花の色ではなく、繊維の色です。
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最近、注目されている保健機能とは、亜麻に豊富に含まれているリグナンです。リグナンとは人の体内でホルモンのような働きをする化合物で、近年、身体的、精神的ストレスがガンなど生活習慣病に対しての免疫機能を正常な状態に保つ働きがあると報告されています。また、第6の栄養素と言われている食物繊維が豊富に含まれており、腸壁を刺激して便通を則したり、悪玉コレステロールを吸着させたり、満腹感が得られるころから、食べ過ぎを抑え、血糖値の上急昇を防インシュリンの分泌量を減らしますので、糖尿病予防やダイエットなどに注目を集めています。食物繊維の合計では、多いと言われているさつまいもの13倍以上もあります。
この亜麻の種からとった亜麻仁油は、食用だけでなく、絵具やせっけんの原料になったり、傷口に充てる油紙やぜんそくのときに胸に塗る薬にも使われます。さらに、最近は、「リノリウム」という床や壁の仕上げ、家具にも使われ始めています。
私の園では、床材にこのリノリウムを使っていますが、新型インフルエンザが私の園ではさほど広がらなかったのは、このリノリウムの抗菌作用のおかげだとも言われています。

長崎

 私は、何年か前から長崎をよく訪れるようになりました。慶応義塾の創立者で知られる福沢諭吉も、幕末、長崎で学んだ若者のひとりでした。長崎と言えば、観光客がよく訪れるところに、中島川にかかる眼鏡橋がありますが、ここから少し上流にさかのぼったところに一覧橋があり、その西詰に光永寺があります。この寺の山門横には、石碑があり「福澤先生留学之址 安政元年」と刻まれています。
ここは、中津藩士の次男だった諭吉が、1854年(安政1)、19才のときに長崎へやって来て、寄宿していたところです。彼は、ここで約半年過ごし、その後、そこから徒歩3分余り行ったところにあった砲術家として知られる高島秋帆門下の山本物次郎の家に半年過ごして蘭学を学んでいます。長崎での滞在はわずか1年あまりでしたが、のちに「福翁自伝」の中で、山本物次郎の家の食客になったことを「私の生来活動の始まり。」と記し、そのほか長崎遊学時のエピソードを多く語っています。たとえば、諭吉がこの井戸端で、水を汲み、担いで一歩を踏み出そうとした瞬間、ガタガタと揺れを感じたという記述が残されていますが、それが、安政の大地震です。その井戸には、「福澤先生使用之井」という石碑が立っています。
諭吉は、その後、長崎から大阪へ行き、ここで緒方洪庵の適塾に入門します。そして、1858年(安政5年)大阪から江戸に出て、築地鉄砲洲にある中津藩の中屋敷の長屋に入ります。彼は、ここで蘭学塾を開き、これが慶応義塾の始まりとされています。このように、諭吉は蘭学を学びますが、当時はだれもが蘭学を学び、そのほかにもオランダが外国の文化を知る窓口でしたが、どうしてオランダなのでしょうか。
私は、先週末、長崎県平戸を訪れていました。
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今、平戸では、「平戸オランダ年」として国際交流イベントをはじめとしてたくさんのイベントを行なっています。それは、1600年4月19日、豊後の臼杵湾(現在の大分県臼杵市)という所に1隻のオランダ帆船が漂着しました。じつは、この船の漂着こそ、日本とオランダの関係、すなわち日蘭交流の始まりとなる出来事でした。その後、1609年、徳川家康から朱印状とオランダ商館の設置の許可を得て、ここ平戸で日本初のオランダ貿易が始まりました。そして今年2009年は日蘭通商開始から400周年という記念すべき年に当たるため、「平戸オランダ年」というわけです。
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オランダ船錨
 現在、復元中の平戸オランダ商館は、1609年に江戸幕府から貿易を許可された東インド会社が、平戸藩主松浦隆信公の導きによって平戸に設置した、東アジアにおける貿易拠点です。オランダ商館長日記などの記述によると、当初は土蔵の付属した住宅1軒を借りて始まり、その後、貿易が拡大するに従い、順次施設の拡大整備が行なわれたものです。その中で、1637年と1639年に建設された倉庫は規模が大きく、充実した貿易の象徴でした。しかし、この倉庫にキリスト生誕にちなむ西暦の年号が示されているとして、当時の禁教令のもと、将軍徳川家光により全ての建物の破壊が命じられました。そして、1641年には、商館は長崎出島へ移転したのです。
 今回の平戸訪問は、あわただしい日程の中で見学はほとんどしませんでしたが、その時に考えていることが切り口となって、新しい何かを発見することが出来るのが、各地を訪れる時の楽しみです。

散歩

 今年の1月に「福沢諭吉展」に行ったときに、その展示構成がとても面白く感じました。その第一部は、「あゆみだす身体」というものでした。この展示の趣旨は、「一身独立して 一家独立し 一家独立して 一国独立し 一国独立して 天下も独立すべし」(中津留別之書)という諭吉の文章を引用して、「すべての始まりは「身体」にあり、健康を保ってこその、一家であり、一国である。」という「一人一人が丈夫な身体を作り、懸命に勉強して「独立」することが、世の中の出発点である」と、考えていた福沢を紹介しています。こう考えていた諭吉は、自身も毎日の運動をかかさなかったそうです。その中心が散歩でした。彼が創設した慶応の塾生と散歩党と称する同好会を作り、毎日散歩することを日課にしていたそうです。ということで、この第1部の展示に、彼の股引などの衣類や杖、散歩に行く塾生を集めるために使用したドラ等が展示されていました。また、ほかには、居あい抜きや脱穀も、福沢の日々の鍛錬の一つだったということで、居合い刀や臼杵の展示もありました。
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福沢諭吉は、すべての始まりは「身体」にあるということで、健康のために「散歩」をしていたようですが、もっと積極的な意味で散歩をしたことで有名な人に西洋最大の哲学者の一人アリストテレスがいます。彼は、よく学生を連れて、「散歩」をしながら学問の話をしていたそうです。この逸話はよく塾生と散歩をしていた諭吉と似ています。しかし、その動機は、アリストテレスの場合は健康と言うよりも、「散歩」をすることは、「発想」するのに適していることを知っていたからだとされています。最近の脳科学では、下半身の運動は、脳の前頭葉を活発にし、考える力や想像力などが強化され、認知症の予防になることも分かってきています。もともと、古代ギリシャ人は朝食・昼食・夕食・就寝の前に歩く習慣があったようですが、アリストテレスは晩年につくった学校での授業を「散歩しながら」おこなったといわれています。そこから名づけられのが「逍遥学派」です。「逍遥」とは「そぞろ歩き」のことです。
最近、テレビ東京の「カンブリア宮殿」という番組のゲストは、「ぐるなび」を作り、育てた会長の滝久雄でした。彼は、もともとは大手企業のサラリーマンでしたが、脱サラして、駅構内の交通広告の企画運営をしていました。その仕事の中で、公衆回線自由化をきっかけに、新しい情報メディアの可能性を探り続け、インターネットと出会って、飲食店の検索サイトである「ぐるなび」を開設したのです。いまの時代は、店探しは、インターネットや携帯が主流で、約8割の人が利用しているそうです。そのなかで「ホットペッパー」や「Yahooグルメ」など数ある飲食店検索サイトの中でもっとも多く利用されているのがこの「ぐるなび」だそうです。現在は、創業13年で、200億円にまで成長しています。そうなると、この会社の情報はとても重要で、その管理には気を使うでしょうね。また、会議も多いでしょう。番組の中で、この会長の滝久雄さんは、週に数回、皇居一周のウォーキング会議を行っていると言っていました。その理由は、「歩いているときに良いアイデアが浮かぶ!」ということと、「盗聴されないので、秘密の話ができる!」だそうです。
散歩は、健康にいいだけでなく、脳を活性化し、また、歩きながらの会話は、新しいアイデアを生み、その内容が漏れる心配もないというわけです。

英語

NHK大河ドラマ「坂の上の雲」を見ていると、主人公の秋山兄弟はかなり英語が話せたようです。その頃の授業は、英語で行っていたこともあり、ドラマの中で、正岡子規が英語に悩むシーンが出てきます。しかし、彼も勉強して、英語がわかるようになります。このころから、確かに英語は大切でした。もしかしたら、今よりも必要とされた人はいたようです。しかし、彼らは、決して幼児から英語を勉強していたわけではありません。それどころか、中学生のころまで野山をかけずり回っていただけです。だからこそ、勉強に対して貪欲であり、知識を得たいために英語を自ら学ぼうとしたのです。その意欲が、英語を話せるようにしたのでしょう。
多くの英語を日本語訳にした福沢諭吉にしても同じような経緯をたどります。
適塾でオランダ語を学んだ諭吉は、横浜に出てきますが、ショックを受けます。それは、横浜で出会う外国人とは、まったく言葉が通じないのです。また、店の看板の文字もなんて書いてあるのかわかりません。それは、国際情勢の変化のなかで、オランダ語より英語が主流となっていたからです。諭吉は、オランダ語を一生懸命学んだことが、全く無駄だったことを知り、「取り返しのつかない失敗をしてしまった」と悔みます。しかし、悔んでばかりはいません。諭吉は「まだ、若い。もう一度、始めからやり直そう。英語に挑戦してみよう」と発奮します。その翌日から英語を学び始めます。
英語を学ぼうと思っても、そのころは塾や学校はおろか、辞書でさえなかったのです。そのような環境は、挫折を生むのではなく、意欲を増すことになるのです。探究心が意欲を生み、意欲が挑戦を生みます。その結果、習得していくのです。これは、どの教科でも同じで、何かを学ぼうとするよりは、何かを知りたい、何かをやってみたいという探究心が、結果的に何かを学んでいくことになるのです。葉が紅葉しているのを見て、「どうしてこんな色になるのだろうか?」という探究心が「理科」になり、「ここは紅葉しているけど、北海道ではまだだけどどうしてだろうか?」という疑問が「社会」になるのです。そして、「紅葉は、アメリカにもあるのだろうか?では、アメリカでは、どう言うのだろうか?」ということが「英語」になるのです。ただ、机に向かって、紅葉という英語を先生のあとについて復唱することではないのです。
また、疑問を持っただけでは、学びになっていきません。行動することで、知恵が湧いてくるのです。そうして、諭吉は英語を学び始めますが、そうすると以前オランダ語も学んだことも無駄でなかったことを知ります。学問には、無駄はないのです。
その後、諭吉は、26歳のとき、咸臨丸に乗って、サンフランシスコに行きます。この船には、通訳方として中浜万次郎も同乗していました。そこで、諭吉は、ウエブスターの英語辞書を購入しました。帰国後、諭吉は、ウエブスターの英語辞書で猛勉強し、『増訂華英通語』(中国人子の編集した英語と中国語の対訳単語短文集『華英通語』に、英語の発音にカナをつけ、日本語訳した書物)を刊行しました。これが縁で、福沢諭吉は、幕府の翻訳方に採用されました。
彼は、アメリカに行ったとしても帰国子女ではありませんし、外国人のもとで英語を習ったわけではありませんので、ネイティブな英語だったかわかりませんが、20歳代後半から辞書で勉強しただけで翻訳方になり、今使われているほとんどの英語の日本語訳をあてはめた人として有名になるのです。英語教育とは、何なんでしょうか。