千々石

先週末、長崎の平戸を訪れたのですが、今週末はやはり長崎の諫早に来ています。長崎に来た時に最初に感動したのが長崎空港です。この空港は、大村湾に浮かぶ有人島である箕島にあり、1975年に開業した世界初の海上空港だからです。ですから、空港から市内に行くために長い橋「箕島大橋」(長さ970m、幅員8.5m)を渡っていきます。その景色は、以前イタリアの海上都市であるベニスに列車で行ったときと似た感覚があります。そんな海上空港なので、以前琴海町から船で空港に行ったときに直接横付けできたのです。
この箕島大橋を渡り終えた右手に少年たちの群像が見えます。それは、戦国時代に、日本人で初めてヨーロッパを公式に訪問した4人の少年使節の銅像です。この銅像は、少年達の偉業を顕彰するため、使節ゆかりの大村市、波佐見町、千々石町、西海町(現西海市)の1市3町と関係団体で作った天正遣欧少年使節顕彰会が、昭和57年(1982)に、使節の出発400周年を記念して建立したものです。像は、向かって左から、伊東マンショ、千々石ミゲル、原マルチノ、中浦ジュリアンの順に並んでいます。
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この少年使節については、私が子どもの頃の国語の教科書に紹介されていました。しかし、この「天正少年使節」が日本歴史に登場したのは遅く、明治になってからヨーロッパ文献で初めて紹介されました。日本には史料がほとんどありませんでした。それは、この出来事は、日本史上の壮挙にもかかわらず、歴史的に見て社会的な影響に乏しかったからです。しかし、西洋に初めて日本を紹介した点ではとても重要な出来事なのです。使節は日本の王子という触れ込みもあって、行く先々で大歓迎を受け、彼らがまだヨーロッパ滞在中に夥しい書物が発刊されました。現在の調査で1585年に48種類、それから10年の間になんと90種を越えた書物が発刊されているそうです。これらの書物によって、広くヨーロッパに日本をセンセーショナルに紹介しました。
 使節に選ばれたのは、当時、有馬のセミナリオ(神学校)で学んでいた少年で、正使として、日向伊東氏出身の伊東マンショ、有馬領千々石出身で、有馬晴信の従弟で大村純忠の甥の千々石ミゲル。副使として、原マルチノ(現 波佐見町出身)中浦ジュリアン(現 西海市出身)の4人でした。
私は、長崎の雲仙を訪れる時に「千々石町」(現在は雲仙町)を通過するたびに「千々石ミゲル」という名を思い出しました。彼は、雲仙の千々石(釜蓋)城主千々石直員の子で、有馬晴信の従兄弟かつ大村純忠の甥であったため、有馬・大村両家の名代として使節団の正使に選ばれています。しかし、少年使節は帰国後、キリスト教禁教が進む中で不遇な後半生をおくったとされています。
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中でも、千々石ミゲルは4人の中でただ1人、帰国後にキリスト教を棄て、仏教に改宗し、結婚したとされていますが、史料が少なく没年など人生のほとんどの記録が謎につつまれており、いままで墓所等は不明でした。それが、2004年2月の新聞に「千々石ミゲルの墓多良見で見つかる」と大きく掲載されます。長崎県諌早市多良見町にある安山岩の自然石で建てられた墓石がそうであると言われています。この墓のある場所を、今日偶然見つけ、連れて行ってもらいました。表面には法華宗を意味する「妙法」が、裏面の左下方には「千々石玄蕃允」と刻まれています。それは、4男だった嫡子的立場にあった千々石玄蕃が、父縁の地である伊木力の一角に両親のための墓石を建てたというのです。
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思いがけずそんなものに出会えるのも、地方を訪れる楽しみの一つです。