原動力

たまたま、2006年3月2日の 読売新聞を目にすることがありました。その記事には、作家、司馬遼太郎の足跡をしのぶ「第10回菜の花忌シンポジウム」(司馬遼太郎記念財団主催)が、東京・日比谷公会堂で開かれたことが取り上げられていました。このシンポジウムでは、ちょうど今NHK大河ドラマで放送中の「坂の上の雲」原作の魅力を識者4人が論じていました。シンポジストの一人は、最近肺がんと戦っていると報じられた作家の井上ひさしさんです。彼は、「3人の主人公の複眼で見ていく手法は、多くの情報のインプットが必要。トラック一杯分の古書を買ったという司馬さんの大変な努力があって成しえた」と指摘しています。また、関川夏央さんは、「3人は藩閥から自由になり、試験を受ければ平等である時代の新しい職業についた。そこにこの作品の明るさがある」と話したことが掲載されています。
また、この原作が1970年前後の大学紛争の時代に書かれた点に着目したのは、芳賀徹京都造形芸術大学学長です。彼は、「明治が暗黒の時代の入り口というイデオロギー的なイメージを、時代と主人公の青春を重ね併せ打ち破った」と評価しました。一方、劇作家の山崎正和さんは、「司馬さんが見ていたのは、平等な時代に前へ進もうとする水兵たち。技術にかけた明治30年代の日本は、高度経済成長期の日本に重なる」と語っています。
 先日、この原作を読んでいる妻に「この小説の中で、誰が好き?」と質問されたのですが、同じ小説を読んでも、その中で誰が好きかで、その人がわかることがあると言います。確かに、それはほかにも言えることで、同じテレビを見ていても、また、歴史を振り返っても誰が好きかでその人がわかることがあります。ただ、多くは、その小説の主人公であることは多いのですが、それも、誰を主人公にするかで大分イメージが変わります。
昨日のNHKテレビで、平清盛を分析していましたが、私たちが平清盛を知るのは、多くは「平家物語」です。この平家物語は源氏を正当化するために書かれてある書物ですから、当然平清盛は極悪非道の人物として描かれています。ですから、源氏が英雄で、平家が悪であるかのようなイメージを持っています。しかし、平家物語の最初の方で、平家の滅亡を「奢るもの久しからず」と説明していますが、昨夜のテレビでは、平家が奢っていたために滅びたのではなく、源氏が武士の品格を落とすようなルール違反をした戦いをしたために、源氏が敗れたと説明をしていました。そして、平清盛は、非常に人に対して思いやりがあり、気を使い、世界とみらいを視野に入れたものの見方をしていたとなれば、なんだかイメージが逆転してしまいます。
歴史は、ここに面白さのひとつがあるとも言えます。真実を知るよりも、そこから自分の人生と照らし合わせ、共感したり、参考にしたりします。そして、今につながること、そこから連想されることが思い出されることによって、自分の中のいろいろな知識と結びついていくのです。私は、このシンポジウムの中の山崎氏の「平等な時代に前に進もうとする」という言葉から、坂の上の雲の主人公の一人である秋山好古が敬愛する福沢諭吉の「福翁自伝」には、「門閥は親の仇でござる」という言葉が書かれてあります。諭吉の父親は、才能と志しをもちながら、封建的な身分制度の中で自分の思いは受け入れられず、辛さを深く呑み込んで、空しく死んでいったことがあるからです。この思いが、諭吉の行動の原動力になったのでしょう。昨日のテレビでは、平清盛が、同じように父親である平忠盛の身分による差別の無念さから行動したことを放送していました。
歴史を作っていく原動力は、強い思いに駆り立てる何かが必要かもしれません。