長崎

 私は、何年か前から長崎をよく訪れるようになりました。慶応義塾の創立者で知られる福沢諭吉も、幕末、長崎で学んだ若者のひとりでした。長崎と言えば、観光客がよく訪れるところに、中島川にかかる眼鏡橋がありますが、ここから少し上流にさかのぼったところに一覧橋があり、その西詰に光永寺があります。この寺の山門横には、石碑があり「福澤先生留学之址 安政元年」と刻まれています。
ここは、中津藩士の次男だった諭吉が、1854年(安政1)、19才のときに長崎へやって来て、寄宿していたところです。彼は、ここで約半年過ごし、その後、そこから徒歩3分余り行ったところにあった砲術家として知られる高島秋帆門下の山本物次郎の家に半年過ごして蘭学を学んでいます。長崎での滞在はわずか1年あまりでしたが、のちに「福翁自伝」の中で、山本物次郎の家の食客になったことを「私の生来活動の始まり。」と記し、そのほか長崎遊学時のエピソードを多く語っています。たとえば、諭吉がこの井戸端で、水を汲み、担いで一歩を踏み出そうとした瞬間、ガタガタと揺れを感じたという記述が残されていますが、それが、安政の大地震です。その井戸には、「福澤先生使用之井」という石碑が立っています。
諭吉は、その後、長崎から大阪へ行き、ここで緒方洪庵の適塾に入門します。そして、1858年(安政5年)大阪から江戸に出て、築地鉄砲洲にある中津藩の中屋敷の長屋に入ります。彼は、ここで蘭学塾を開き、これが慶応義塾の始まりとされています。このように、諭吉は蘭学を学びますが、当時はだれもが蘭学を学び、そのほかにもオランダが外国の文化を知る窓口でしたが、どうしてオランダなのでしょうか。
私は、先週末、長崎県平戸を訪れていました。
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今、平戸では、「平戸オランダ年」として国際交流イベントをはじめとしてたくさんのイベントを行なっています。それは、1600年4月19日、豊後の臼杵湾(現在の大分県臼杵市)という所に1隻のオランダ帆船が漂着しました。じつは、この船の漂着こそ、日本とオランダの関係、すなわち日蘭交流の始まりとなる出来事でした。その後、1609年、徳川家康から朱印状とオランダ商館の設置の許可を得て、ここ平戸で日本初のオランダ貿易が始まりました。そして今年2009年は日蘭通商開始から400周年という記念すべき年に当たるため、「平戸オランダ年」というわけです。
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オランダ船錨
 現在、復元中の平戸オランダ商館は、1609年に江戸幕府から貿易を許可された東インド会社が、平戸藩主松浦隆信公の導きによって平戸に設置した、東アジアにおける貿易拠点です。オランダ商館長日記などの記述によると、当初は土蔵の付属した住宅1軒を借りて始まり、その後、貿易が拡大するに従い、順次施設の拡大整備が行なわれたものです。その中で、1637年と1639年に建設された倉庫は規模が大きく、充実した貿易の象徴でした。しかし、この倉庫にキリスト生誕にちなむ西暦の年号が示されているとして、当時の禁教令のもと、将軍徳川家光により全ての建物の破壊が命じられました。そして、1641年には、商館は長崎出島へ移転したのです。
 今回の平戸訪問は、あわただしい日程の中で見学はほとんどしませんでしたが、その時に考えていることが切り口となって、新しい何かを発見することが出来るのが、各地を訪れる時の楽しみです。