自由

福沢諭吉は、「西洋事情」のなかで「自由」という言葉を使っていますが、その役は適当であるか迷っていたようです。この本の注釈に「本文自主・任意・自由ノ字ハ、我儘放盪ニテ、国法ヲモ恐レズトノ義ニ非ラズ、総テ其国ニ居リ、人ト交テ、気兼ネ遠慮ナク、自分丈ケ存分ノコトヲナスベシトノ趣意ナリ、英語ニ之ヲ「フリードム」又ハ「リベルチ」ト云フ、未ダ的当(てきとう)ノ訳字アラズ。」と書かれてあります。
また、「西洋事情」第二編には、特に「リベルチ」の訳語「自由」についてこう説明をしています。「第一「リベルチ」トハ、自由ト云フ義ニテ、漢人ノ訳ニ、自主、自尊、自得、自若、自主宰、任意、寛容、従容等ノ字ヲ用ヒタレドモ、未ダ原語ノ意義ヲ尽スニ足ラズ。自由トハ、一身ノ好ムマヽニ事ヲ為シテ、窮窟(キウクツ)ナル思ナキヲ云フ。古人ノ語ニ、一身ヲ自由ニシテ自ラ守ルハ、万人ニ具(ソナ)ハリタル天性ニシテ、人情ニ近ケレバ、家財富貴ヲ保ツヨリモ重キコトナリト。」これを読むと、自由のという訳語に悩むというよりも、自由という考え方を述べている気がします。古人の言葉に、「一身を自由にして、自ら守ることは、どんな人にでも備わっている天性であり、人情に近いもので、この自由を守ることは、財産を守るよりも大切なことである」と言っているのです。
そして、「上タル者ヨリ下ヘ許シ、コノ事ヲ為シテ差構(サシカマヒ)ナシト云フコトナリ。譬(たと)ヘバ、読書手習ヲ終リ、遊ビテモヨシト、親ヨリ子供ヘ許シ、公用終リ、役所ヨリ退キテモヨシト、上役ヨリ支配向ヘ許ス等、是ナリ。」と言っている例は面白いですね。勉強が終わって、遊びに行きたいという子どもに対して、親といえどもこれを止めることはできないというのです。
しかしこのように注意をしています。「決シテ我儘放盪ノ趣意ニ非ズ。他ヲ害シテ私ヲ利スルノ義ニモ非ラズ、唯心身ノ働ヲ逞シテ、人々互ニ相妨ゲズ、以テ一身ノ幸福ヲ致スヲ云フナリ。自由ト我儘トハ、動モスレバ其義ヲ誤リ易シ。」自由とは、決してわがままとか放漫とちがって、人を妨害してはいけないのです。お互いに認め合うことで自分自身の幸福も得られるのです。
彼が大分の中津留主居町の旧宅にいたときに「中津留別の書」を記していますが、そこにも、自由とわがままについて書いています。
「ひと口に自由といえば我儘のように聞こゆれども、決して然らず。自由とは、他人の妨をなさずして我が心のままに事を行うの義なり。父子・君臣・夫婦・朋友、たがいに相妨げずして、おのおのその持前の心を自由自在に行われしめ、我が心をもって他人の身体を制せず、おのおのその一身の独立をなさしむるときは、人の天然持前の性は正しきゆえ、悪しき方へは赴かざるものなり。もし心得ちがいの者ありて自由の分限を越え、他人を害して自から利せんとする者あれば、すなわち人間の仲間に害ある人なるゆえ、天の罪するところ、人の許さざるところ、貴賤長幼の差別なく、これを軽蔑して可なり、これを罰して差支なし。」
そして、このことを忘れては一身独立もできないと説きます。「人の自由独立は大切なるものにて、この一義を誤るときは、徳も脩むべからず、智も開くべからず、家も治らず、国も立たず、天下の独立も望むべからず。一身独立して一家独立し、一家独立して一国独立し、一国独立して天下も独立すべし。士農工商、相互にその自由独立を妨ぐべからず。」