精神的独立

 一身独立には「他人の財」によらない経済的独立と、もうひとつは精神的独立です。これを、西村氏は、何よりも「他人の知恵」によらない独立、すなわち「智」の自立を意味していると言います。この二つの独立を確保し、ついで一国独立に進むというのが福沢諭吉の主張です。福沢諭吉展の第2部ではとても面白い企画で展示されていました。「かたりあう人間(じんかん)」というタイトルです。
 その説明にはこう書かれてあります。「すべての始まりは、一身独立した健全な身体にある。しかしながら個々の身体が、ただちに国家を構成するのではない。そこに介在すべきは、語り合う人間である。人と人との交わりこそが、人々の知徳を向上し、文明化された社会へと導いていく。」
 しかし、一身独立というのは、自分だけが独立すればいいわけではないのです。当然、自分は社会の中で生活し、生きていきます。ですから、一身独立には、人と人とのかかわりが必要なのです。福沢諭吉展の図録の解説にはこう書かれてあります。
 「人々が交際しなければ、社会は存在せず、社会が存在しないのならば動物は存在しても「人間(にんげん)」は、存在しない。福沢は、societyを「人間交際」の概念でとらえる。社会とは、客体として身体に先行して存在するものではなく、人間(じんかん)に行われるさまざまな交際によって形成されていくのである。」
 それを「独立して孤立せず」とあらわし、「独立した個人はいかに社会を形成するのか」という命題に沿って、男女間の関係から、家族を考えます。“「一家」とは、対等な男女が愛し合い、敬いあい、恕しあい作り出す姿であって、前近代社会において継承され続けてきた「家」ではない。結婚とはすなわち新しい「一家」の想像なのである。”その時、家族は一身独立の精神的な支柱となるべき存在であり、その一家もまた交際するのです。
人が関わるとき、そこでは必ず、それぞれの存在がぶつかりあいます。園児を見ていると、2歳児くらいからその葛藤が見られます。自分で好きなことをやりたい、しかし、隣にもほかの子どもがいることを積極的に意識し始めるのです。そのときに、「自由」と「規律」を学び始めます。この「自由」という言葉は、「フリーダム; freedom」と「リバティ; liberty」の2つの語がありますが、その意味合いは微妙に異なっています。フリーダムのほうは、古英語の fr〓o に由来したフリーからきており、束縛や拘束がなく義務を免除された状態をさし、「しなくてよい」という意味合いの自由です。一方リバティはラテン語の libertas が語源であり、選択や行動・発言の権利が保障された状態をさし、「してよい」という自由です。いろいろな英語を日本語に訳したのが福沢諭吉だと言われていますが、彼は、この一方のリバティを訳するに際して、仏教用語にあった「自由」という日本語に当てはめたのです。ですから、「掃除をしない自由がある」という使い方は、本当はおかしいということになります。
最近、自由のはき違いということが言われていますが、福沢は、自由をどのように考えていたのでしょう。