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2009年12月31日 行事

年末の猿

 1年が終わろうとしています。それぞれ人は節目がありますが、年の変わり目が節目だという感じは年々薄れてきています。そのひとつは、年度の変わり目が一番大きな節目だからです。学校などの4月から3月までの年度という考え方です。商売における年度とは会計年度です。それは会社によって違うでしょう。また、人生に節目というと、ひとつ年をとった時でしょう。かつて、年齢が数え年で数えていた時には、年の代わりが節目だったかもしれませんが、今は、誕生日が節目です。
暮らしの中でも人生に節目を祝うものがあります。これは、「冠婚葬祭」と呼ばれるものです。「冠」とは、もともと成人式の時に冠をかぶることが出来るようになったということから来ていますが、今では、人生の節目のお祝い行事のことを言います。これには、七五三、入学、就職、退職、開店なども含まれています。「婚」と「葬」は分かりやすい節目です。「祭」とは、もともと先祖の霊を祭ることを言いますが、今では、四季折々の年中行事とか、風習をさします。そのひとつが、今日の大みそかです。
大みそかや元旦はそれ自体が節目ですが、自分の人生や生き方を考える日としてとらえる人もいます。特に、元旦は、新たな決意を持ちます。先週末、今年最後の講演に行ったついでに日光に行ってみました。日光といえば、まず東照宮です。ここにはいくつも国宝や重文に指定されている建物や彫り物がありますが、そのひとつが重文に指定されている「神厩舎・三猿」です。神厩舎は、ご神馬をつなぐ厩です。昔から猿が馬を守るとされているところから、長押上には猿の彫刻があり、「見ざる・言わざる・聞かざる」の三猿の彫刻が有名ですが、実は8面あり、人間の一生が風刺されています。この場面によって、人生を振り返るきっかけになります。そのうちの3場面を見てみたいと思います。
まず、「母子の猿」です。
oyakosaru.JPG
この説明には、「母猿が小猿の将来に思いをはせる。子は母を信頼して、顔をのぞみこむ。A mother monkey is looking far into the future of her child, and a child is looking up at the mother. 」とあります。母猿は手をかざして何を見ているのでしょうか。子猿は首をかしげ、その母親を見上げています。 多分、母親は子猿の将来に思いをはせているのかもしれません。昨日のブログではありませんが、数年後数十年後を見通して、今、自分がおこなっていることや日々の生き方はどうすればよいかを考えているのかもしれません。
次が有名な三猿です。
sannsaru.JPG
これは、説明書に「子供のうちは、悪いことを見ざる・言わざる・聞かざるがよい。Three monkeys tell us that children should “See-no-evil, Say-no-evil, Hear-no-evil.” 」とあるように、子供のころは悪い事を見たり・言ったり・聞いたりしないで、素直なままに育ちなさいという育児論が表現されています。この解釈は様々あるようですが、判断力がない子ども時代には、様々な誘惑があります。
次の猿だけは一匹だけです。
suwarusaru.JPG
説明書きには、「ひとり立ち前の猿。まだ座っているが、飛躍を期す。(じっくり腰を落ち着けて、これからの人生を考える。)He is about to be independent.」とあります。幼年期から少年期になり、そろそろひとり立ちをしようとする間の心境です。ですから、まだ座って考えています。飛躍の前の力を蓄えているのでしょう。このブログの表題でもある「臥竜」の境地です。そして、今年の最後のブログにまたインディペンデントという言葉が出てきました。
明日がよい飛躍が出来る明日になるように願ってやみません。

投稿者 fujimori : 16:41 | コメント (4)

2009年12月30日 江戸文化

江戸時代の集団

『未来のための江戸学』(小学館)という本を出版した法政大学教授である田中優子さんが産経新聞に連載している「ちょっと江戸まで」というコラムが、昨日で終了になりました。その最終回のテーマが、「寺子屋の教育取り戻せ」でした。この記事は、私が常々ブログで書いている内容と同じことが書かれてありますが、ひとつ、私と大きく認識として違うところがあります。その部分が、今年、新めて見つけた私の保育についてのテーマであり、来年から取り組もうとしている課題です。それは、集団とはどんなことなのかです。
少子時代になり、家庭、地域には子どもを取り巻く社会が希薄になりはじめています。また、子どもたちは、地域で、家庭で子ども集団で遊ぶことをこのまなくなっています。その中で、子どもたちにとって学校は、友達がたくさんいるところです。それは、昔の寺子屋でもそうだったでしょう。田中さんが、コラムの中で、寺子屋の様子を書いています。「渡辺崋山その他によって描かれた寺子屋(手習い)の絵がたくさん残っている。絵を見て驚くのは、寺子屋は、そもそも学級崩壊しているという事実だ。いや「学級のまとまり」という概念がないのだから、崩壊もない。なにしろ子供たちは先生を見ていない。今の学校のように机を整然と並べて全員が黒板と教師に顔を向けている、などという事例は皆無。子供たちは入学時に持ってきた自分の机を自分の好きなところに置き、めちゃくちゃふざけながら勉強している。とても楽しそうだ。」
寺子屋へは、家から机も持ち込んで好きな所に置いていたこともあったようです。残っている絵では、机を丸く輪にして並べている姿も描かれているものがあります。子どもたちはあちらこちらを向いていますし、顔に墨をつけあっている子もいます。全員が前を向いて、先生の話を聞いている図はありませんし、ましてや、先生が姿勢がどうの、聴く態度がどうのと注意している姿は見られず、確かに楽しそうです。その教授の姿を田中さんはこう書いています。
 「教科書は往来ものや算術など何種類かあり、それらを個々の生徒ごとに組み合わせる。つまり寺子屋教育とは個人教育なのだ。個人教育が集団教育に変わってゆくのは、近代の学校制度になってからである。教壇に教師が立ち生徒が教師の方に顔を向ける教室の配置、行進の練習、集団生活を身につける修学旅行などは、日本人の「近代化」のために作られた。江戸の日本人は他人と歩調を合わせて歩いたり、同じ態度を統一的にとることなどできなかったのである。「日本人の集団性」は国家戦略として作られた性質なのだ。」
 これを読んだときに、私は果たして寺子屋が個人教育で、一斉に生徒が先生の方に顔を向けて授業をするのが集団教育なのだろうかと思いました。一斉に先生の方を向いて話を聞くというのは、先生と生徒との関係しかなく、一斉の個人授業の気がします。先生の考えが一人一人の個人に伝えられる教育です。集団教育とは、集団を活用することなので、子ども同士が話し合い、意見を交換しながら授業を進めていくことを言うのではないかと思います。いわゆるグループ学習です。学び合いです。江戸時代の寺子屋や塾は、少数で議論を重ね自分の言葉を磨いてゆく授業だったのです。
 間違っていた教育は、集団教育ではなく、みんな同じことをするという間違った集団性である一斉個人教育だったような気がするのですが。

投稿者 fujimori : 19:40 | コメント (4)

2009年12月29日 江戸文化

江戸から現在

10月から産経新聞に「ちょっと江戸まで」というコラムを法政大学教授である田中優子さんが執筆しています。彼女は、今年の10月1日に『未来のための江戸学』(小学館)という本を出しています。私は、最近江戸時代の教育に、特に寺子屋、藩校、薩摩の郷中教育、会津の什教育などに関心があります。それは、その頃の教育は、明治に入っての日本人の外国にも劣らないエネルギーを生み出したことに、今に通じる何かがあるように思うからです。興味があります。また、江戸時代の教育だけでなく、環境問題、リサイクル、エコについても世界に誇る取り組みをしたことも評価されます。だからといって、江戸時代に戻るわけも行かず、また、教育の目的も時代で大きく変化していることもあり、私は江戸時代から100年進化させた今の日本のあるべき姿を作っていくべきであると思っています。いわゆる「温故知新」です。
コラムを書いている田中さんは、江戸文化を研究しながら「私たちの近現代は何を乗り越えたのか、あるいは何を克服しそこなったのか、とりわけ、何を捨て何を失ったのか」という問いを持ち続けているようです。そして、その研究の面白さをこう書いています。「過去の時代を知る面白さは、異なる価値観や美意識や奇妙な人間たちに出会う驚きの連続で、終わらない旅のようなものだ。戦後生まれの私にとって江戸時代は、どれだけ研究しても驚愕の異文化なのだ。しかし、江戸時代に驚いてばかりはいられなくなった。いったん江戸時代側に立って現代を眺めてみると、それもまた驚きの連続である。食料自給率39%という数字は多く見積もっての話で、飼料や種子や加工食品の原料のことを考えに入れると、米以外はほとんど自給できなくなっている。気候変動、テロ、伝染病、戦争、何が起きても日本人は飢餓に陥る可能性がある。江戸人から見ると、なんと不安な国なのだろうか。子供の貧困は進み、いざというときの受け皿となっていた共同体はもはやない。子供さえ孤立し、親からも他人からも助けてもらえない。江戸人から見ると、何と過酷な国だろうか。」
 最近、日本の貧困率の高さが話題になり、日本は豊かな国だ、私たちはみんな豊かだという幻想が打ち砕かれました。それに反して、世界の中でブランドに走る若者が多く、クリスマスは高級ホテルや高額ディナーショーがいっぱいになり、どこが貧困かと疑いたくなる人たちも多いようです。それは、「景気回復」が真っ先に叫ばれ、そのために節約をしないで、消費すべきだという「金を使えば豊かになる」という信仰が叫ばれていることの影響しているのかもしれません。そのことについて田中さんは「経済」という言葉は「経世済民」という意味であることから江戸時代の考え方を紹介しています。
 「江戸時代には、未来につなげたい考え方がいくつかある。そのひとつは「持続可能な豊かさ」である。「経世済民」という経済の理念を実現すべく、必要を満たしながらも配慮と節度をもって使いさえすれば、自然は永遠に持続可能な豊かさの源泉だった。質素倹約こそ、豊かさの基本なのである。貪欲と浪費はたちまち「貧しさ」に直結する。私たちの時代は、貧しさの直前まで来ている。もうひとつ未来につなげたいことは「因果関係」への鋭敏さである。今自分がおこなっていることや日々の生き方は、数年後数十年後にどういう結果となって現れるのだろうか。今が過去の結果であり、同時に未来の原因であるとすれば、今日をどのように生きるべきか。そういうことに意識的であれば、なりふりかまわぬ競争はできなくなり、勝ち負けはどうでもよくなる。大事なのは生き方だからだ。だからこそ、江戸時代は明治になって否定されたのだろう。」
 今の姿は、過去の教育の結果なのです。

投稿者 fujimori : 21:26 | コメント (4)

2009年12月28日 近頃思うこと

疲労2

私は、最近週末は地方へ講演に行くことが多のですが、それは、脳を切り替えるのにとても役に立っています。また、出先では、もし時間があったら出来る限り歩くことにしています。しかし、東京に比べて、地方では歩かないことが多く、すぐに車で移動しますね。せっかく空気もきれいですし、緑も多いので歩けば気持ちがとても癒されます。また、ブログを書くのも脳の切り替えにとても効果があります。講演もそうですが、考えることは保育のことが多いので、1日のうち1時間くらいは違うことを強制的に考えるのが、ブログを書いている時間です。本当は、本を読んだり、音楽を聴いたり、絵を書いたりすればいいのですが、なかなかまとまった時間を取るのが難しく、その点ブログは日課になっているので、何とかその時間だけでも確保しようと工夫をします。また、少なくとも書いている間は違うことを考えようと、保育の話題から離れようとするのですが、どうしても子どものことが多くなります。それは、子どものことを考えることも嫌いではないからです。
昨日紹介したR25の中でも、好きなことならばできて、嫌いなことだとなかなかやる気が起きないというのも、脳の構造の問題だと書かれてあります。それは、感情系を司る大脳辺縁系は他の領域より強く、「やらなきゃ」と自分を律する思考系より、「快/不快」「好き/嫌い」という感情系が強く働いてしまうため、嫌いなことだとなかなか行動できなくなってしまうからのようです。
しかし、人は必ずしも好きなことだけをやることはできません。嫌いなこと、いやなことでもやるというように、理性によって感情を抑制できるのも人間なのです。そんな時には、こんなことをすればいいそうです。「“ちょっとイヤかも”くらいのことを積極的にやるということを繰り返し、“我慢はそんなにイヤなことではないよ”と脳に言い聞かせれば、徐々にイヤなことでもクリアできるようになる」そうです。やる気が出るためには、昨日のブログで紹介した「視線を動かす」「歩く」に加えて、「ちょっとイヤなことを我慢する」ことを実践するといいようです。
特にやる気や集中力を高めるには、脳神経外科医である築山節先生は、休んでいる脳のスイッチをオンにする必要があると言います。駅までの道のりを少し長めに歩いたり、エスカレーターを使わずに階段を上がるようにすると、血液が脳までポンプアップされて、頭がすっきりするのだそうです。また、口を動かすこと、声を出すことも脳のアイドリングには効果があるので、会社に着いたら元気よく挨拶し、ちょっと雑談を交わす。これで始業時間とともにバリバリ仕事を始めることができます。そして、朝早く起きるためには、当然、夜早く寝ることも大切。寝ている間は脳も休んでいると思われがちですが、実は、睡眠中は記憶の定着や思考の整理が行われています(大脳などは疲労回復のために活動を止めていますが)。なので、最低6時間くらいは眠ること。さらに、昼間は仕事のやり方にメリハリをつけることで、集中して仕事ができるようになると築山先生はいいます。脳が疲れてしまったら、単純な打ち込み作業や慣れている仕事など、それほど高度ではない作業を進めます。そうすると、脳の思考を司る部分が活性化し、やる気が出てきますから、そのときを見計らって高度な仕事をすればいいといいます。
このように、きちんと働く脳であるための基本は、早寝・早起き・適度な運動・整理整頓。これに加えて、3食きちんとバランスの良い食事をとること。バランスのとれた食事は、脳が必要とする様々な栄養を吸収すると同時に、生活のリズムを整えたり、よく噛んで脳に刺激を与えるためにも重要なのです。
私は、そんなことを意識しています。

投稿者 fujimori : 22:07 | コメント (4)

2009年12月27日 近頃思うこと

疲労1

 そろそろ年の瀬も押し迫ってきました。私は、何とか新型インフルエンザにもかからず、無事に今年を越せそうです。また、今の年の暮れは、あまり瀬戸際という感じは薄れてきています。ですから、「年の瀬」という言い方は、次第になくなってくるかもしれません。先日、ある神社にお参りに行ったときに、新年にお参りするのは誰でもできるのだと言っていました。というのは、今年もどうもよろしくということは誰でもいえるが、年の暮れに今年も無事に過ごせてありがとうということは、過ごせた人しか言えないので、年の暮れにお参りできることはありがたいことと思わなければいけないと言われました。確かに、いろいろな事件や事故、病気などに会い、戦っている人がいる中、本当にありがたいと思います。
 しかし、暮れ近くなって、私も何度か具合が悪くなりそうなことがありました。喉が痛くなり風邪かな?おなかが痛くなり風邪かな?咳が出て風邪かな?と何度か怪しい時がありましたが、そんな時は、よく職員にあきれられるのですが、薬は決して飲まず、気合いで乗り切ります。というより、そんなものに負けるなと気力で撃退しようとします。しかし、毎年、そのつけが年末に来ます。園は、年末年始が1年中の中で一番休みが長い期間です。しばらく休みだと思うと、気が緩むのか、風邪をひいたり、疲れが出たりします。そんな時に、結果的に病気に打ち勝つには、薬でもなく、気持ちの問題が大きいことを実感します。
「R25」という、リクルートが発行している25才以上の男性ビジネスマン向けに、2004年7月の創刊から、5年以上も続いているフリーマガジンがあります。何度かブログでも引用しましたが、今月号に「疲労」特集があります。まえがきに、「女性が男性に、健康のことを心配するあまり“最近元気ないみたいね。大丈夫?”なんて声を掛けると、想像以上のダメージを彼に与えてしまいかねませんので、言葉選びには注意が必要かも。」と書かれてあります。ずいぶんと微妙なものです。
やらなければいけない仕事は山ほどあるのに、なかなかやる気が出てこなくて、一向に仕事がはかどらないときに、どうしたらよいかについて、ベストセラー『脳が冴える15の習慣』で知られる、脳神経外科医の築山節先生に「R25」で聞いています。
「脳は基本的に怠け者で、隙あらば休もうとします。といっても、脳全体が休んでしまうのではなく、体の機能と直結した運動系、好き嫌いを司る感情系と呼ばれる部分は動いています。怠け者なのは、やる気や意欲と深いかかわりを持つ思考系と呼ばれる部分で、この部分を活発にするには何らかの変化を脳に与える必要があります」と言っています。たとえば、「そういうときは、少しずつ脳のスイッチをオンにしていけばいいのです。テレビを見ることがやめられなくなってしまったなら、まず目線をテレビから外して、違う景色をしばらく見ます。それだけでも脳にとっては変化です。さらにキッチンに行ってお茶を入れ、手と足を動かすようにするなど、少しずつ大きな変化に脳を対応させていくのです。そのころには思考系が優位になり『テレビを消そう』という理性が働いて、実際にテレビを消せるはずです」また、運動系を働かすことで思考系が活発になるのは、脳の構造によるもので、手足や口などを動かす運動系の機能は脳の中でも表面中央部に分布していて、その部分を活性化すると、脳全体の血流を良くしてくれるといいます。意識的に手足を動かしてやることで、やる気を司る大脳も活発になるのです。「特に大切なのは、歩くこと。足を動かすための機能は、脳の中でも頭頂部に近い領域が担っているので、歩くと血流が脳の高いところまで汲み上げられることになります。それによって脳全体の血流が良くなり、思考系が活発になる」のだそうです。

投稿者 fujimori : 22:02 | コメント (5)

2009年12月26日 近頃思うこと

教材2

 西田知己さんの「寺子屋の楽しい勉強法」という本の中で、寺子屋と縁の深い人物として「菅原道真」を挙げています。それは、菅原道真を学問の神様として祀った天神様だからです。特に学問、文筆の神としての信仰が一般庶民の間にも広く浸透したのは、江戸初期に寺子屋が隆盛してからのことです。江戸の寺子屋の様子を記した文献などには、子供たちが机を並べる教室に、必ず道真を描いた絵や彫像が置かれてあったことが記されています。また、道真の命日である2月25日にちなみ、正月の初天神に行う天神講の行事は父兄参観の文化祭ともいえるような寺子屋最大のイベントだったようです。そして、毎月25日の縁日には近所の天神社へ読み書きの上達を祈願する「天神講」が行われていました。この風習は、現在でも福岡県の太宰府や京都市の北野天満宮など、道真ゆかりの神社で受け継がれているようです。そして、今日の天神様への受験合格の御利益信仰はこのころから始まっているのでしょう。
 道真は、代々学者の家系に生まれ、長じて学者、文人それに政治家として卓越した能力を発揮した人物でしたが、異例の出世が、権力者藤原氏の鼻につき、延喜元年(901)藤原時平の讒言によって失脚し、北九州の太宰府へと左遷されてしまいます。都を去るとき、「東風吹かば にほひおこせよ梅の花 あるじなしとて 春な忘れそ」と読んだことは以前のブログにも書きました。この太宰府に流されたことにひっかけた笑い話「手習師匠」が西田さんの本に紹介されています。「経営のままならない寺子屋の師匠が、家財を売り払い質入れを繰り返しながら、何とか食いつないでいました。しかし、ついに大切な天神像まで手放さなければならなくなり、恐る恐る天神像に事情を打ち明けます。天神像は仕方なく“わかった”と応えますが、最後に“決して流してくれるな”というのです。」これは、道真が太宰府に流されたことと、質流れをかけたしゃれです。
 ほかに、寺子屋で人気のあった人物は、和歌の作者だったようです。寺子屋では、子どもたちに風雅な言葉を身につけさせる指導は、和歌を教材に使っていました。その中で、圧倒的な人気を誇っていた人物が「小野小町」でした。彼女は、クレオパトラ、楊貴妃と並び称された世界三大美人でしたし、六歌仙にも選ばれています。また、彼女の歌は、お正月に遊ばれる百人一首にも収められています。そして、寺子屋における教科書である女子のための「往来物」にもよく登場しています。また、室町時代の能楽や浄瑠璃の題材にも多いようです。
 小野小町は、寺子屋で学んでいた女子の憧れだったようです。

投稿者 fujimori : 21:40 | コメント (4)

2009年12月25日 近頃思うこと

教材

 今年も押し迫ってきました。年賀状も皆さんは書き終わっている頃でしょうね。
来年の干支は「虎」ですが、虎で思い出すものに一休さんのとんち話があります。一休さんは、室町時代の禅僧ですが、寺子屋の教材にもよく使われていたようです。子どもたちは、以前紹介した「なぞなぞ」同様、とんち話が好きです。そのために、一休さんの話も江戸時代になると「頓知」が強調されるようになったそうですが、実は、かなり奔放で過激な人物のために早い時期から有名だったようです。一休さんについては、ブログで詳しく書いていますし、とんち話についても彦一とんち話で書いたので省略をしますが、寺子屋では、ほかにはどんな人を学んだのでしょうか。
歴史上の人物の中で身近な偉人に「空海」がいたようです。国語の基本である「読み・書き」は「いろは」の声から始まります。この47文字を声に出して、その次にお手本を見ながら筆を使って書きながら一字ずつ覚えていったのですが、その作者が、最近は違う説があるのですが、長い間空海であると言われてきたからです。その根拠としては、鎌倉時代末期の作品である「釈日本紀」、「源氏物語河海抄」(巻12)、「高谷日記」、「江談抄」等の文献に、空海が「いろは歌」を書いたことを示唆する記述があることにあります。また、この「いろは歌」は、超人的な知識と知恵を必要としたでしょうから、これほどすぐれた仏教的な内容をよみこめるのは空海のような天才にちがいないということもあるようです。
もうひとつ、空海が寺子屋で取り上げられた理由に、寺子屋の教材である教訓書「實語教」の作者とも伝えられているからです。この實語教は、平安時代に成立し、鎌倉時代に普及した書物です。儒教色が強く、また対句構成で暗記がしやすかったため江戸時代の寺子屋の素読用教材として非常に普及しました。その後、近代明治までの数百年間、日本の初等教育書として使われ、日本人に身についていった教養、規範になっていったのです。 その書き出しは、有名です。「山高故不貴 以有樹為貴 人肥故不貴 以有智為貴」(山は高いからすばらしい山というわけではなく、樹が生い茂っているから素晴らしいのです。また、人は、金持ちだからとか裕福だから貴いのではなく、知恵があることがその人の貴さなのだ)と言っています。山にしても、人にしても、見た目で判断しないで、その持っている内容によって判断すべきであることを教えています。
これを福沢諭吉は、「学問のススメ」の中で「實語教に、“人学ばざれば智なし、智なき者は愚人なり”とあり。されば賢人と愚人との別は学ぶと学ばざるとによりてできるものなり。」と、實語教を例に出しています。この部分は、先ほどの部分の次に続く文です。「富是一生財 身滅即共滅 智是万代財 命終即随行 玉不磨無光 無光為石瓦 人不学無智 無智為愚人 倉内財有朽 身内財無朽 雖積千両金 不如一日学」この部分で、学問の大切さを説いています。いくらお金があっても、死んでしまえば何にもならないが、知恵は、末の代まで意味を持ちます。その知恵は、学問によって身につき、いくら千両の金を積んだとしても一日の学に及ばないくらい価値があるものだというのです。
この實語教の教えが「天は人の上に…」という考え方を形作っていったのかもしれません。

投稿者 fujimori : 22:47 | コメント (4)

2009年12月24日 近頃思うこと

技術

 先日の日曜日に、福島県郡山市に行きました。それは、ある企業からの講演依頼だったので、まあ、半分付き合うの気持ちだったのですが、とても面白い体験をしました。主催者である「合同会社 地球と家族を考える会」の会長さんといろいろと話をしていると、何となく考え方が同じで、印象だけで活動は分からないということを実感しました。最初は会社の名前の「地球…」という名前がなんだか宗教じみていましたし、見学する予定だったモデルハウスの名前が「KUMIKO」というなんだか女性の名前のようなので、女性用の建物かと思っていました。すると、この「KUMIKO」とは、日本の伝統工法である木組みの技である「組子」に由来しているのだそうです。
以前、水俣に行ったときに、その地域の取り組みを「もやい」と言っていたのと同じで、「KUMIKO」という名称は、志を同じくする仲間で手を組んで、地域を活性化しようという取り組みを表しているのだそうです。また、そのモデルハウスは、この地で産まれたものをその地で生かしたいということで、100%福島の木を使い、その地域の風土に合った「地産地生の住まい」です。また、組子というように、日本古来の伝統工法に独自の技術を加え、金物に依存しない構造体を作っています。また、人が建物の中で過ごす時間は人生の9割を占めることから生きた人間が住むために、生きた材料を使い、自然エネルギーにこだわっています。
 日本におけるいろいろな技術は、もともとは中国大陸から伝えられたものが多いのですが、建築技法もそうです。しかし、その技法が日本の風土に合うよう様々な工夫がなされ、日本人の趣向に準じ、伝統技術として、今なお色あせることなく、それどころか、今の時代にもう一度見直されてきているのです。特に、鎌倉時代に再び中国と国交を回復すると、新形式の建築様式が伝来し、今までの建築様式を「和様」と、新建築様式を「大仏様」「禅宗様」と呼び区別されました。後の時代ではそれらが入り混じった様式「折衷様」が新しく実現されていき、「和様」と言われる日本独自の様式がつくられていったのです。
 鎌倉時代から受け継がれている日本の伝統的な木工技術に「組子」というものがあります。この技法は、細く割った木に、溝、穴、ホゾ加工を施し、カンナやノコギリ、ノミ等で調節しながら一本一本の木を、釘を使わずに手作業で組みつけていく繊細な木工の技法です。簡単にいうと釘を使わずに木を組み付ける技術のことをいいます。繊細なこの技術は、職人たちの伝統を守る心と情熱により、何世代にもわたって現代まで引き継がれてきました。今では、おもに障子や欄間にみることができます。
もともと伝統的な日本建築では、構造の軸になる部分は基本的に釘は使わず、ただ、「木と木を組み合わせて木栓のみ」で止めているだけです。それは、技術が低かったからではなく、あえて釘を使わないという、日本の風土が生み出した知恵なのです。中世になれば釘に不自由することはありませんでしたし、最近の釘よりもずっと質の良い和釘もありましたが、釘で木を殺してはいけないと木の本質を知っていたからこそ、中世の棟梁は釘を使うことはできるだけ避けたのです。また、日本では多い地震や台風等に対しての強さの秘密は、「木と木を組み合わせてこそ生きる」という基本的なことを、しっかりと守っている「貫」構造です。
子どもの遊びだけでなく、いろいろなところで、長い間残っているものは、経験上から今の科学以上の検証がされ、実証されてきたものが多いのでしょう。

投稿者 fujimori : 23:11 | コメント (5)

2009年12月23日 江戸文化

江戸時代の遊び

 西田知己さんの「寺子屋の楽しい勉強法」には、現代における教科と対比させて、寺子屋ではどんな勉強をしていたかを紹介しています。当時の「読み」「書き」「算盤」は今の国語や算数を学ぶことだろうとは想像がつきますが、理科や社会は何によって、どのように教えていたのかは想像つきません。逆に総合的学習は、寺子屋というよりも、昔の学問そのものという気がして、いろいろな学びは、総合的に行われていたのだろうと思います。この本の「はじめに」には、このように書かれてあります。
 「時代が違えば、教育の狙いや方針も異なります。その差は優劣で割りきれる話ではありませんが、現代の教育にも有益な先人の教えが読み取れるかもしれません。」
 この本の中で寺子屋の正月の意味を紹介しています。大きく二つあったようです。まず、江戸時代の正月はもちろん旧暦ですので、今の1月下旬から2月の中旬にかけて正月が来ます。その正月は、その字のごとく、「正に」ということは、物事のはじまりを表します。それは、最初の姿が正しいという考え方を伝える字で、堕落したり、脱線してしまったものを、元の姿に戻す時の理想が「正」ということです。ですから、寺子屋の教えとして、「正月は、今年1年のお手本となるような過ごし方を心がける月、笑顔を絶やさずに楽しく過ごすのが第1で、子どもは福笑いやカルタ取り、はねつきやコマ回し、凧上げなどに熱中しました。」と書かれてあります。
 正月の子どもの遊びには、昨日のブログの「なぞなぞ」同様、子ども集団の中で遊ぶもので、子どもたちは、手先や脳、運動能力をつけると同時に、遊ぶ中で社会を知っていったことでしょう。この本に書かれてある遊びのほかにも、江戸時代には様々な遊びがお正月に行われていたようです。特に、「貝合」「絵合」「花結び」「小鳥合」「十種香」「盤遊び」「縫物くらべ」など盛んに行われたようですが、これらの遊びは春の遊びとして平安時代から伝わってきたものです。しかも、これらは対戦型で、やはり一人遊びは少ないようです。
ブログに書いたと思いますが、凧にしても日本の凧は持ち手が必要になることで協力を知っていったと言われています。凧は、立春の空を仰ぐのは養生のためにいとして、盛んに揚げられ、より高く揚げるために工夫することも学んだと言われています。それに対して、外国の凧であるゲイラカイトは、一人で揚げることができ、より速く走ることが要求されます。一人で生き抜く力をつけるのです。
 そのほかにも、子どもの遊びには面白いだけでなく、意味がありました。明治になっていっぱんに正月の遊びとして定着した「福笑い」ですが、最近は、目隠しをして顔を作り、その出来上がりの顔が変なことを笑うのでよくないのではないかということで、やらなくなりましたが、私は、顔の目鼻、口、まゆ毛の位置や傾きで顔の表情が変わることを知るのによい教材だと思っていました。若いころ、子どもたちに絵画指導をしていたことがありましたが、目隠しはしませんでしたが、顔のパーツを子どもたちに動かせて、顔の表情を様々に変えた体験をさせたことがありました。そうすることによって、絵の中の人物に様々な表情をつけることを知ってもらったのです。
 有益な先人の教えを、今に有益なものとして受け取る力が欲しいものです。

投稿者 fujimori : 21:48 | コメント (4)

2009年12月22日 江戸文化

なぞなぞ

 最近の子どもたちは、テレビゲームなど一人で遊ぶことが多くなりました。しかし、子どもが他の子どもを相手に遊びことの必要性が、脳の問題やコミュニケーション能力などの問題で言われてきています。かつては、子ども同士で遊ぶことが多かったのですが、少子時代で、兄弟の数は少なくなり、地域に子ども集団がなくなりました。
 昔から集団が必要だった子どもの遊びは様々なものがあります。その中で、今でも子どもたちの間で人気のあるものに「なぞなぞ」があります。この遊びは、問いかけに対して、とんちを利かせた答えを要求する言葉遊びを用いたクイズですので、コミュニケーション力をつけるのには最適です。また、普通のクイズとは違って正解は事実に基づくものではなく、言葉の意味をこじつけた駄洒落・洒落が多かったり、韻を踏んでいたり、何かにたとえられたりすることも多いので頭を使います。人と触れ合い、頭を使うので脳が活性化しますので、ボケ防止にも最適だと言われています。
 このなぞなぞは、日本では、室町時代に広く民間に普及しました。それまでは、上流階級の間で和歌などを題材とした一種の言葉遊びのような形式のなぞなぞが作られていました。この言葉遊びは、戦国時代の後奈良天皇の御製による『後奈良天皇御撰何曽』が残されています。しかし、民間に普及したなぞなぞは、シンプルな掛詞がよく使われ、そのまま江戸時代にも伝わりました。そのなぞなぞが寺子屋の勉強にも使われていました。それは、この言葉遊びは、当時の子どもたちにとっても和歌よりも楽しかったに違いありません。
 「なぞなぞ」とは、「何ぞ何ぞ」という言葉かが由来です。今でも、なぞなぞを出した後に「何だ」という文句を「なーーんだ」と節をつけて歌うように語ることがあります。世界では、フェキオン山のスフィンクスが通りかかる人間に問いかけたという「朝は四本足、昼は二本足、夕は三本足。この生き物は何か?」というなぞなぞが有名ですが、日本では、どんななぞなぞがあったのでしょう。西田知己著「寺子屋の楽しい勉強法」の中に室町時代の「なぞたて(謎立て)」が紹介されています。
 「十里のみちをけさ帰る」この問題を読んで答えがわかるでしょうか。答えは、「濁り酒」です。10里の道は5里の2倍なので、九九の要領で「二五里(にごり)」ということで、「けさ」が「(ひっくり」かえる)ということで「さけ」になります。ですから「にごりざけ」」となります。次の問題は、「三里はん」です。3里半は4里に掛っていますので、正解は「寄り掛かり」ということで、座椅子や脇息(肘掛け)です。
 江戸時代には、言葉遊びだけでなく、「判じ物」といって絵入りのなぞなぞもはやりました。「御前なぞはんじ物」も絵入りなぞなぞです。たとえば、この答えは、今でも使うことがあります。問題は、「あたひ(値)をと(取)らぬ渡し守」です。
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答えの絵には、平清盛の弟だった「忠度」の絵が描かれてありますが、忠度(薩摩守)とただ乗りをかけて、車や船などに無銭でのることや、そうする人のことを「薩摩守」ともいいました。
 なぞなぞの最初の問題などは、国語と算数の力が必要なように、遊びには様々な力が必要になります。ですから、子どもにとっての「遊び」には、さまざまな「学び」があるのです。

投稿者 fujimori : 23:09 | コメント (5)

2009年12月21日 近頃思うこと

インディペンデント

最近、何をきっかけか忘れましたが、このブログで福沢諭吉のことを書いていますが、どうもその話題から離れると、またその話題に戻ってしまうようなことに出会ってしまいます。
昨日、東京では1996年に公開されたアメリカ映画「インデペンデンス・デイ」がテレビで放映されていました。この映画は、アメリカ独立記念日を控えた7月2日、直径24キロにも及ぶ円盤型のUFOがニューヨーク・ロサンゼルス・ワシントンだけでなく、世界中の大都市上空にも出現し、それによる混乱に陥る中、アメリカ政府は交流を求めるためにUFOとの交信を試みますが、容赦ない攻撃を受けてしまうというSF映画です。この映画の題名である「インデペンデンス・デイ(Independence Day)」とは、アメリカ独立記念日のことを言い、1776年にアメリカ独立宣言が公布されたことを記念して、毎年7月4日に定められているアメリカ合衆国の祝日のひとつです。
この「Independence」というのは名詞ですが、「Independent」という形容詞があります。その意味を携帯電話にある辞書で調べてみると、1.独立の、自律的な:自主的な:自治の、2.他に影響されない:独自の、3.自活する:働かなくても暮らせるだけの(収入のある)とあります。この言葉を福沢諭吉はよく使いますし、この言葉に込められて思いが彼の思想の大きな部分です。その言葉をただの独立ではなく、「独立自尊」と訳しているのです。
福沢諭吉展に展示されていたものに様々な彼が使用していた印章があります。彼は、揮毫の際、落款印として用いた陽刻の印章ですが、それと対で用いた陰刻の印章には「三十一谷人」と書かれてあります。
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当時の有力者がこぞって雅号というものを虚飾的な風流として、また一種の権威主義として用いていましたが、諭吉はこれを嫌って雅号は持ちませんでした。代わりに最初のころは、「諭吉」をもじった「雪池」の語を雅号のように用いていました。その語を落款印にも刻み使っていました。その後、「三十一谷人」の語を用いるようになります。この言葉の意味は、「是れは谷にも山にも地名などに縁あるに非ず。三十一を一字にすれば世の字にして、谷人の人を偏にして左右に並ぶれば俗の字となるが故に、則ち世俗の意を寓したるもの」と「福沢諭吉全集緒言」にその意味を説明しています。なるほどなあと思いますね。そして、そのことは、遠縁に当たる漢学者であった高谷龍洲と文章談をしている中で思いついたと記されています。
つまり「三十一谷人」という語は、当時の知識人たちがこぞって官職を求めた中で、無位無官を通して世俗にて「独立」した存在でいようとする、まさに彼の生き様の精神を表し、まさにこれが「独立」なのです。独立した個人を大切にし、権威におもねず、日本をいかに近代化するかという精神ということなのでしょう。
 また、諭吉が2人の息子に書き与えた、徳義や知識を教えるために小話集「ひゞのをしへ(日々の教え)」も展示されていました。
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展示されていた資料10月16日の部分に「子供とて、いつまでもこどもたるべきにあらず。おいおいはせいちょうして、一人前の男となるものなれば、稚きときより、なるたけ人のせわにならぬよう、自分にてうがいをし、かおをあらい、きものもひとりにてき、たびもひとりにてはくよう、そのほかすべて、じぶんにてできることは、じぶんにてするがよし。これを西洋のことばにて、インヂペンデントという。インヂペンデントとは、独立ともうすことなり。どくりつとは、ひとりだちして、他人の世話にならぬことなり。」
 どうも、彼の言う「独立」とは、自立、自主的、自律的という意味合いが強いようです。

投稿者 fujimori : 23:30 | コメント (4)

2009年12月20日 講演先にて

タクシーかバスか

 海上空港である長崎空港に行くと、イタリアのベニスを思い出すとブログで書きましたが、こんなことも思い出しました。ベニス本土では、車の乗り入れが禁止されています。というよりも運河が張り巡らされ、そこにかかる橋はほとんどがアーチになっているので、自転車はおろかすべての車は走れないのです。ですから、ベニスでは、すべての乗り物は船です。バスは、水上バス、タクシーは、水上タクシー、消防車も救急車もパトカーもゴミ収集車もすべて船です。水上タスシーでホテルまで行くと、ホテルの玄関が運河側にもあって、そこに横付けされ、そこからホテルマンが荷物を運んでくれます。また、もちろん、観光もゴンドラに乗ってか、歩いて回るだけです。私が以前行った時には、まず、水上バスで島の先端まで行き、駅まで見学しながら歩いて戻りました。
そんな海上タクシーですが、日本で昨日乗りました。それは、諫早市の時津港から長崎空港までです。以前、琴海から漁船に乗って行ったことをブログに書きましたが、長崎空港は多くの町から大村湾を挟んであるために、大村湾を渡る船で行くことができ、長崎空港にはそのような港があるのです。今回訪れていた時津町は長崎市の北部と西彼杵半島の接点に位置し、北側は波静かな大村湾の南端部に接しているために、長崎空港と時津港を結ぶ海の直行便である海上タクシーが運行されているのです。これに乗ると、空港まで所要時間25分で行くことが出来ますし、値段もタクシーの運転手さんによると地上タクシーでは8000円以上するところ、海上タクシーでは一人1800円で済みます。また、船で横断する大村湾には、世界で一番小さなイルカ「スナメリ」が生息しています。しかし、かつては、船内からもよく見つけられたそうですが、現在絶滅が危惧され、地元の人でも見たことがないそうです。
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最近、ジャンボタクシーというバスと区別がつかないものもありますが、基本的には、タクシー(taxi)とは、少人数の旅客を輸送する公共交通用途の乗り物です。昨日乗った海上タクシーは定員が90名くらいでしたので、なぜ海上バスと言わないのか不思議ですが。しかも、タクシーとは、通常、旅客が任意の目的地を指定できるのが原則なのですが、どうなのでしょう。
多くの人が知っていることでしょうが、タクシー(taxi)と 税金(tax)とは語源は同じです。「税」を意味する英語のtaxは、「触れる」という意味のラテン語 tangoに由来しています。このtango から「評価する」という意味の taxoというラテン語ができ、そこから tax という英語ができました、かつて、手で触ってものの評価をしたからでしょう。その評価の結果納めるものが税金なのです。一方、taxi はtaximeter cabの略語であり、taximeter とは「料金メーター」のことです。つまり、taxi とは料金を「評価する(taxo)」メーターを備えた車という意味なのです。
また、こういうこともあります。「助手席」という言葉の語源は、もともとはタクシー業界の業界用語でした。大正時代、タクシーが珍しかった時代にタクシーには運転手ともう一人、客の乗り降りを助けた人が乗っていました。それは、当時のタクシーは外車で車高が高く、客は着物姿が多かったために乗り降りには手助けが必要だったからです。そして、彼らは「助手さん」と呼ばれていて、その助手側わっていた席ということで「助手席」という呼称が定着していったと言われています。昨日の海上タクシーには、当然、助手席はありませんでした。
提案ですが、これからは海上バスと呼んだ方がいいかもしれませんね。

投稿者 fujimori : 21:22 | コメント (4)

2009年12月19日 講演先にて

長崎と諭吉

 今朝の長崎は、雪が降っていました。真っ白にはなりませんでしたが、うっすらと街が白くなっていました。そんな長崎での食べ物と言って思い出すものは、もちろん「ちゃんぽん」「皿うどん」ですが、最近若い人の間でそれを上回る人気のある食べのものが、以前ブログにも書いた「トルコライス」です。このトルコライスは、最近は全国各地で出され、神戸が発祥であると言われるように神戸でも食べられているようです。この人気メニューは、ドライカレー(またはピラフ・チャーハン)、トンカツ(またはチキンカツ等の肉)、スパゲティ(ナポリタンである事が多い)、場合によってはこれにサラダが付くと言うように、嫌いな人はいないだろうと思われる人気メニューを、一つの皿の上に所狭しと乗せたまさに「大人用お子様ランチ」です。長崎のある喫茶店から発祥し、各地に伝わっていったと言われていますがその名前の由来同様、発祥もはっきりしないようです。名前の由来がさまざまある中で、一つの有力な説が、「カレー」「トンカツ」「スパゲティ」という料理がある国の位置から、それらの中間にある「トルコ」が名前の由来であるという説です。
 もうひとつの説は、意外ですが福沢諭吉が関係しています。彼が創刊した新聞に「時事新報」というのがありました。その紙面で、「何にしようね」という料理コーナーが連載されていました。この連載は、日本の食卓に諸外国の味付けが広く取り入れられはじめられたころに、諸外国に追い付け追い越せという風潮の中、近代化をめざして急激に世の中が変化していた当時の様子が、食の面からうかがえます。その新聞の明治26年10月21日付に「土耳古(とるこ)めし」のレシピが掲載されています。そこからトルコライスと呼ぶようになった説があるのです。しかし、その内容は、大分違うようです。記事の土耳古めしレシピには、
「先づ鶏か牛肉にてソップを取り置き此ソップにあっさり鹽味(しほあぢ)を附け之を水に代用して飯を焚く可し、飯の焚ける前、別に鍋を掛け置きてバタをぢりぢりと底一面に煎り散らし、焚けると直ぐに飯を其中に入れて充分に掻廻はしバタのまんべんなく廻りたるを見て之を御鉢に移す可しバタ餘り多ければしつこき故其所らが手加減の肝要なる所なり少し鹽味を含む上に其味ひ云ふばかりなければ別におカヅが入らぬ程にて香の物か前號鳥めしに用ひしかけつゆ位にて事足るべし」
 これは、鶏肉(または牛肉)のスープで炊きあげたバターライスのことのようです。このメニューは、明治時代の小説「食道楽」(村井弦斎)にも記述があるようで、当時それなりに知られていた食べ物のようです。2001年に、ワニマガジン社からこの「時事新報」の「何にしようね」という料理コーナーが「福沢諭吉の「何にしようか」~100年目の晩ごはんレシピ集~」という、復刻料理として写真付きで紹介した本が発刊されています。
 「長崎」と「福沢諭吉」というキーワードで、まさかトルコライスが出てくるとは思いませんでした。

投稿者 fujimori : 21:26 | コメント (4)

2009年12月18日 講演先にて

千々石

先週末、長崎の平戸を訪れたのですが、今週末はやはり長崎の諫早に来ています。長崎に来た時に最初に感動したのが長崎空港です。この空港は、大村湾に浮かぶ有人島である箕島にあり、1975年に開業した世界初の海上空港だからです。ですから、空港から市内に行くために長い橋「箕島大橋」(長さ970m、幅員8.5m)を渡っていきます。その景色は、以前イタリアの海上都市であるベニスに列車で行ったときと似た感覚があります。そんな海上空港なので、以前琴海町から船で空港に行ったときに直接横付けできたのです。
この箕島大橋を渡り終えた右手に少年たちの群像が見えます。それは、戦国時代に、日本人で初めてヨーロッパを公式に訪問した4人の少年使節の銅像です。この銅像は、少年達の偉業を顕彰するため、使節ゆかりの大村市、波佐見町、千々石町、西海町(現西海市)の1市3町と関係団体で作った天正遣欧少年使節顕彰会が、昭和57年(1982)に、使節の出発400周年を記念して建立したものです。像は、向かって左から、伊東マンショ、千々石ミゲル、原マルチノ、中浦ジュリアンの順に並んでいます。
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この少年使節については、私が子どもの頃の国語の教科書に紹介されていました。しかし、この「天正少年使節」が日本歴史に登場したのは遅く、明治になってからヨーロッパ文献で初めて紹介されました。日本には史料がほとんどありませんでした。それは、この出来事は、日本史上の壮挙にもかかわらず、歴史的に見て社会的な影響に乏しかったからです。しかし、西洋に初めて日本を紹介した点ではとても重要な出来事なのです。使節は日本の王子という触れ込みもあって、行く先々で大歓迎を受け、彼らがまだヨーロッパ滞在中に夥しい書物が発刊されました。現在の調査で1585年に48種類、それから10年の間になんと90種を越えた書物が発刊されているそうです。これらの書物によって、広くヨーロッパに日本をセンセーショナルに紹介しました。
 使節に選ばれたのは、当時、有馬のセミナリオ(神学校)で学んでいた少年で、正使として、日向伊東氏出身の伊東マンショ、有馬領千々石出身で、有馬晴信の従弟で大村純忠の甥の千々石ミゲル。副使として、原マルチノ(現 波佐見町出身)中浦ジュリアン(現 西海市出身)の4人でした。
私は、長崎の雲仙を訪れる時に「千々石町」(現在は雲仙町)を通過するたびに「千々石ミゲル」という名を思い出しました。彼は、雲仙の千々石(釜蓋)城主千々石直員の子で、有馬晴信の従兄弟かつ大村純忠の甥であったため、有馬・大村両家の名代として使節団の正使に選ばれています。しかし、少年使節は帰国後、キリスト教禁教が進む中で不遇な後半生をおくったとされています。
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中でも、千々石ミゲルは4人の中でただ1人、帰国後にキリスト教を棄て、仏教に改宗し、結婚したとされていますが、史料が少なく没年など人生のほとんどの記録が謎につつまれており、いままで墓所等は不明でした。それが、2004年2月の新聞に「千々石ミゲルの墓多良見で見つかる」と大きく掲載されます。長崎県諌早市多良見町にある安山岩の自然石で建てられた墓石がそうであると言われています。この墓のある場所を、今日偶然見つけ、連れて行ってもらいました。表面には法華宗を意味する「妙法」が、裏面の左下方には「千々石玄蕃允」と刻まれています。それは、4男だった嫡子的立場にあった千々石玄蕃が、父縁の地である伊木力の一角に両親のための墓石を建てたというのです。
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思いがけずそんなものに出会えるのも、地方を訪れる楽しみの一つです。

投稿者 fujimori : 22:49 | コメント (4)

2009年12月17日 近頃思うこと

原動力

たまたま、2006年3月2日の 読売新聞を目にすることがありました。その記事には、作家、司馬遼太郎の足跡をしのぶ「第10回菜の花忌シンポジウム」(司馬遼太郎記念財団主催)が、東京・日比谷公会堂で開かれたことが取り上げられていました。このシンポジウムでは、ちょうど今NHK大河ドラマで放送中の「坂の上の雲」原作の魅力を識者4人が論じていました。シンポジストの一人は、最近肺がんと戦っていると報じられた作家の井上ひさしさんです。彼は、「3人の主人公の複眼で見ていく手法は、多くの情報のインプットが必要。トラック一杯分の古書を買ったという司馬さんの大変な努力があって成しえた」と指摘しています。また、関川夏央さんは、「3人は藩閥から自由になり、試験を受ければ平等である時代の新しい職業についた。そこにこの作品の明るさがある」と話したことが掲載されています。
また、この原作が1970年前後の大学紛争の時代に書かれた点に着目したのは、芳賀徹京都造形芸術大学学長です。彼は、「明治が暗黒の時代の入り口というイデオロギー的なイメージを、時代と主人公の青春を重ね併せ打ち破った」と評価しました。一方、劇作家の山崎正和さんは、「司馬さんが見ていたのは、平等な時代に前へ進もうとする水兵たち。技術にかけた明治30年代の日本は、高度経済成長期の日本に重なる」と語っています。
 先日、この原作を読んでいる妻に「この小説の中で、誰が好き?」と質問されたのですが、同じ小説を読んでも、その中で誰が好きかで、その人がわかることがあると言います。確かに、それはほかにも言えることで、同じテレビを見ていても、また、歴史を振り返っても誰が好きかでその人がわかることがあります。ただ、多くは、その小説の主人公であることは多いのですが、それも、誰を主人公にするかで大分イメージが変わります。
昨日のNHKテレビで、平清盛を分析していましたが、私たちが平清盛を知るのは、多くは「平家物語」です。この平家物語は源氏を正当化するために書かれてある書物ですから、当然平清盛は極悪非道の人物として描かれています。ですから、源氏が英雄で、平家が悪であるかのようなイメージを持っています。しかし、平家物語の最初の方で、平家の滅亡を「奢るもの久しからず」と説明していますが、昨夜のテレビでは、平家が奢っていたために滅びたのではなく、源氏が武士の品格を落とすようなルール違反をした戦いをしたために、源氏が敗れたと説明をしていました。そして、平清盛は、非常に人に対して思いやりがあり、気を使い、世界とみらいを視野に入れたものの見方をしていたとなれば、なんだかイメージが逆転してしまいます。
歴史は、ここに面白さのひとつがあるとも言えます。真実を知るよりも、そこから自分の人生と照らし合わせ、共感したり、参考にしたりします。そして、今につながること、そこから連想されることが思い出されることによって、自分の中のいろいろな知識と結びついていくのです。私は、このシンポジウムの中の山崎氏の「平等な時代に前に進もうとする」という言葉から、坂の上の雲の主人公の一人である秋山好古が敬愛する福沢諭吉の「福翁自伝」には、「門閥は親の仇でござる」という言葉が書かれてあります。諭吉の父親は、才能と志しをもちながら、封建的な身分制度の中で自分の思いは受け入れられず、辛さを深く呑み込んで、空しく死んでいったことがあるからです。この思いが、諭吉の行動の原動力になったのでしょう。昨日のテレビでは、平清盛が、同じように父親である平忠盛の身分による差別の無念さから行動したことを放送していました。
歴史を作っていく原動力は、強い思いに駆り立てる何かが必要かもしれません。

投稿者 fujimori : 22:45 | コメント (4)

2009年12月16日 行事

小豆

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今日は、園ではお餅つきです。3歳以上児には、あえて大人用の重い杵で搗いてもらい、杵の重さと、餅の粘りを感じてもらおうことを意図しています。また、保護者の方何人かにも手伝ってもらいましたが、それは、人手が足りないというよりも、私の子どもの頃の餅つきのように、地域のコミュニティーの中で餅つきが行われ、その周りを子どもたちが取り囲みながら、大人への憧れと、みんなで協力する楽しさを味わってもらおうというものです。
また、搗きたてのお餅をいろいろなものに絡めて食べたのですが、私の子どもの頃は、餅はすべてのし餅やかまぼこ型にして年が明けてからしか食べてはいけないことになっていました。餅は、保存食で、正月に女性が調理など家事をやらなくてよいようにということもあって搗きたてを食べることはありませんでした。園では、「きなこ」「納豆」「大根おろし」「鰹節」そして「あんこ」に絡めて食べます。子どもたちは、昔は圧倒的にあんこに人気が集まったのですが、今は、納豆や大根おろしも人気があります。
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このあんこは、もちろん小豆から煮て作りますが、小豆は、昨日の亜麻と同じようなところがいくつかあります。小豆は、東アジア(中国東部・朝鮮・日本)が原産地で、その字のとおりに「ショウズ」ともいわれています。そして、古来人が常食とする五種の穀物「五穀」(米、麦、豆(大豆・小豆)、粟、黍、または稗)のうちのひとつですが、人間との付き合いは非常に古く、日本では、縄文時代から古墳時代前期までの遺跡からあずきの炭化種子が発見されています。また、静岡県の登呂遺跡からも発見されており、弥生時代には栽培されていたと言われています。また「古事記」や「日本書紀」にも大宣津比売神の鼻からあずきが生えてきた、と言う神話があるほど古くから親しまれた豆です。
また、わが国や中国、朝鮮ではあずきの赤色に魔除けなどの神秘的な力があると信じられ、1年や季節の変わり目、生活の節目の時など厄除けとして行事や儀式などに供され、煮汁を着色料としたり、赤飯、アズキ粥として食されていました。また、栄養価の高さから医食同源(薬用)に食され、独自の風味や色合いから赤飯や和菓子の原材料として親しまれてきました。
あずきは漢方でも古くから利用されていて、生薬名は「赤小豆(せきしょうず)」といいます。主成分は、デンプンとタンパク質で、ビタミンB1が多く含まれており、脚気に効果があります。また、疲労物質の蓄積を防ぐ働きがあるので、肩こり、筋肉痛、二日酔い、夏ばてに効果があり、母乳の出をよくする効果もあります。また、腸の働きを刺激するサポニンと食物繊維が豊富なので、利尿や便通をよくします。尿がよく出て、むくみもとれるので、心臓病、腎臓病にもよいとされています。また、サポニンは、中性脂肪の値を下げるのでダイエット効果抜群です。また、老化による皮膚のシワやシミ、動脈硬化の原因になる「活性酸素」を抑えてくれる「ポリフェノール」がたっぷりと含まれています。ほかにも、皮膚にはれものが出来た時は、あずきの粉と大根おろしを一緒に練って、ガーゼにのばし、皮膚の腫れたところに湿布すると、大根の冷やす作用と小豆の消炎作用で腫れがおさまると言われています。また、亜鉛や鉄分も多く鉄欠乏性貧血に良いので、不妊症や味覚異常者にもいいようです。
そして、あるように小豆色と言う色がありますが、この色も、花の色ではなく、実の色で、紫味を帯びた赤褐色のことをさし、ラセットブラウンともいいます。昔からお手玉の中に入れた小豆は、人間との長い付き合いの歴史が物語るように、とても人間にとって貴重な存在です。

投稿者 fujimori : 22:46 | コメント (4)

2009年12月15日 近頃思うこと

亜麻

「亜麻色の長い髪を 風がやさしく包む 乙女は胸に白い 花束を …」
この歌は、橋本淳作詞、すぎやまこういち作曲で、ヴィレッジ・シンガーズのシングル曲「亜麻色の髪の乙女」です。最近では、島谷ひとみがカバーをしていました。また、同じ題名のものにクロード・ドビュッシーの前奏曲集第1集のうちの第8曲があります。
この亜麻色とはどういう色なのでしょうか。この「亜麻」というのは、植物名で、その花と人間の付き合いは非常に古く、紀元前8000年~6000年には、チグリス川・ユーフラテス川岸で食用として栽培され、毎年豊穣な収穫が期待できる丈夫な作物だったようです。旧約聖書にも亜麻は登場しています。そして、紀元前3000年ころになると、この亜麻で織物がつくられ、この亜麻織物は古代エジプトで広く神事に使われていました。そして、この布で、ピラミッドに眠るミイラの顔を覆ったり、体を巻いたりしていました。その後、多く作られるようになるに従って、800年のころ、木綿が定着するまでは、ヨーロッパでは繊維といえば亜麻のことというくらい、一般的に衣類などに用いられました。
それが、1617年に北米に伝わり、元禄時代に日本へ中国から薬用油として伝わりました。しかし、この頃の日本では中国から比較的たやすく亜麻が入手できたことから、国内での栽培は定着しませんでしたが、明治に入り、北海道開発の一環として、北海道内で亜麻栽培が奨励されました。もともと、亜麻とは、中央アジア原産で、冷涼な気候である亜寒帯地域の国々は栽培されていましたから、日本では北海道が亜麻の栽培地として最適であるとされています。このころになると、繊維産業は軍需産業であり、亜麻の利用は薬用油ではなく、ほとんどが繊維に使われています。栽培のピークである昭和20年には、全道で4万haが作付けされていたそうで、初夏には、亜麻畑の美しい光景が広がっていたようです。しかし、終戦後、化学繊維が安く製造できるようになり、昭和40年代を最後に亜麻は姿を消してしまいましたが、最近は、繊維としての活用から種子の保健機能が注目されるようになり、再び北海道で亜麻栽培が復活してきているそうです。
そんなわけで、亜麻色とは 亜麻の繊維の糸のような色と言うことで、明るい灰みの茶色=淡い金髪だそうです。花の色は爽やかで透きとおるような紫がかった薄い青ですが、色見本などで見ると、青みがかったうす茶色なのですが、これは花の色ではなく、繊維の色です。
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最近、注目されている保健機能とは、亜麻に豊富に含まれているリグナンです。リグナンとは人の体内でホルモンのような働きをする化合物で、近年、身体的、精神的ストレスがガンなど生活習慣病に対しての免疫機能を正常な状態に保つ働きがあると報告されています。また、第6の栄養素と言われている食物繊維が豊富に含まれており、腸壁を刺激して便通を則したり、悪玉コレステロールを吸着させたり、満腹感が得られるころから、食べ過ぎを抑え、血糖値の上急昇を防インシュリンの分泌量を減らしますので、糖尿病予防やダイエットなどに注目を集めています。食物繊維の合計では、多いと言われているさつまいもの13倍以上もあります。
この亜麻の種からとった亜麻仁油は、食用だけでなく、絵具やせっけんの原料になったり、傷口に充てる油紙やぜんそくのときに胸に塗る薬にも使われます。さらに、最近は、「リノリウム」という床や壁の仕上げ、家具にも使われ始めています。
私の園では、床材にこのリノリウムを使っていますが、新型インフルエンザが私の園ではさほど広がらなかったのは、このリノリウムの抗菌作用のおかげだとも言われています。

投稿者 fujimori : 20:04 | コメント (5)

2009年12月14日 講演先にて

長崎

 私は、何年か前から長崎をよく訪れるようになりました。慶応義塾の創立者で知られる福沢諭吉も、幕末、長崎で学んだ若者のひとりでした。長崎と言えば、観光客がよく訪れるところに、中島川にかかる眼鏡橋がありますが、ここから少し上流にさかのぼったところに一覧橋があり、その西詰に光永寺があります。この寺の山門横には、石碑があり「福澤先生留学之址 安政元年」と刻まれています。
ここは、中津藩士の次男だった諭吉が、1854年(安政1)、19才のときに長崎へやって来て、寄宿していたところです。彼は、ここで約半年過ごし、その後、そこから徒歩3分余り行ったところにあった砲術家として知られる高島秋帆門下の山本物次郎の家に半年過ごして蘭学を学んでいます。長崎での滞在はわずか1年あまりでしたが、のちに「福翁自伝」の中で、山本物次郎の家の食客になったことを「私の生来活動の始まり。」と記し、そのほか長崎遊学時のエピソードを多く語っています。たとえば、諭吉がこの井戸端で、水を汲み、担いで一歩を踏み出そうとした瞬間、ガタガタと揺れを感じたという記述が残されていますが、それが、安政の大地震です。その井戸には、「福澤先生使用之井」という石碑が立っています。
諭吉は、その後、長崎から大阪へ行き、ここで緒方洪庵の適塾に入門します。そして、1858年(安政5年)大阪から江戸に出て、築地鉄砲洲にある中津藩の中屋敷の長屋に入ります。彼は、ここで蘭学塾を開き、これが慶応義塾の始まりとされています。このように、諭吉は蘭学を学びますが、当時はだれもが蘭学を学び、そのほかにもオランダが外国の文化を知る窓口でしたが、どうしてオランダなのでしょうか。
私は、先週末、長崎県平戸を訪れていました。
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今、平戸では、「平戸オランダ年」として国際交流イベントをはじめとしてたくさんのイベントを行なっています。それは、1600年4月19日、豊後の臼杵湾(現在の大分県臼杵市)という所に1隻のオランダ帆船が漂着しました。じつは、この船の漂着こそ、日本とオランダの関係、すなわち日蘭交流の始まりとなる出来事でした。その後、1609年、徳川家康から朱印状とオランダ商館の設置の許可を得て、ここ平戸で日本初のオランダ貿易が始まりました。そして今年2009年は日蘭通商開始から400周年という記念すべき年に当たるため、「平戸オランダ年」というわけです。
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オランダ船錨
 現在、復元中の平戸オランダ商館は、1609年に江戸幕府から貿易を許可された東インド会社が、平戸藩主松浦隆信公の導きによって平戸に設置した、東アジアにおける貿易拠点です。オランダ商館長日記などの記述によると、当初は土蔵の付属した住宅1軒を借りて始まり、その後、貿易が拡大するに従い、順次施設の拡大整備が行なわれたものです。その中で、1637年と1639年に建設された倉庫は規模が大きく、充実した貿易の象徴でした。しかし、この倉庫にキリスト生誕にちなむ西暦の年号が示されているとして、当時の禁教令のもと、将軍徳川家光により全ての建物の破壊が命じられました。そして、1641年には、商館は長崎出島へ移転したのです。
 今回の平戸訪問は、あわただしい日程の中で見学はほとんどしませんでしたが、その時に考えていることが切り口となって、新しい何かを発見することが出来るのが、各地を訪れる時の楽しみです。

投稿者 fujimori : 23:10 | コメント (4)

2009年12月13日 近頃思うこと

散歩

 今年の1月に「福沢諭吉展」に行ったときに、その展示構成がとても面白く感じました。その第一部は、「あゆみだす身体」というものでした。この展示の趣旨は、「一身独立して 一家独立し 一家独立して 一国独立し 一国独立して 天下も独立すべし」(中津留別之書)という諭吉の文章を引用して、「すべての始まりは「身体」にあり、健康を保ってこその、一家であり、一国である。」という「一人一人が丈夫な身体を作り、懸命に勉強して「独立」することが、世の中の出発点である」と、考えていた福沢を紹介しています。こう考えていた諭吉は、自身も毎日の運動をかかさなかったそうです。その中心が散歩でした。彼が創設した慶応の塾生と散歩党と称する同好会を作り、毎日散歩することを日課にしていたそうです。ということで、この第1部の展示に、彼の股引などの衣類や杖、散歩に行く塾生を集めるために使用したドラ等が展示されていました。また、ほかには、居あい抜きや脱穀も、福沢の日々の鍛錬の一つだったということで、居合い刀や臼杵の展示もありました。
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福沢諭吉は、すべての始まりは「身体」にあるということで、健康のために「散歩」をしていたようですが、もっと積極的な意味で散歩をしたことで有名な人に西洋最大の哲学者の一人アリストテレスがいます。彼は、よく学生を連れて、「散歩」をしながら学問の話をしていたそうです。この逸話はよく塾生と散歩をしていた諭吉と似ています。しかし、その動機は、アリストテレスの場合は健康と言うよりも、「散歩」をすることは、「発想」するのに適していることを知っていたからだとされています。最近の脳科学では、下半身の運動は、脳の前頭葉を活発にし、考える力や想像力などが強化され、認知症の予防になることも分かってきています。もともと、古代ギリシャ人は朝食・昼食・夕食・就寝の前に歩く習慣があったようですが、アリストテレスは晩年につくった学校での授業を「散歩しながら」おこなったといわれています。そこから名づけられのが「逍遥学派」です。「逍遥」とは「そぞろ歩き」のことです。
最近、テレビ東京の「カンブリア宮殿」という番組のゲストは、「ぐるなび」を作り、育てた会長の滝久雄でした。彼は、もともとは大手企業のサラリーマンでしたが、脱サラして、駅構内の交通広告の企画運営をしていました。その仕事の中で、公衆回線自由化をきっかけに、新しい情報メディアの可能性を探り続け、インターネットと出会って、飲食店の検索サイトである「ぐるなび」を開設したのです。いまの時代は、店探しは、インターネットや携帯が主流で、約8割の人が利用しているそうです。そのなかで「ホットペッパー」や「Yahooグルメ」など数ある飲食店検索サイトの中でもっとも多く利用されているのがこの「ぐるなび」だそうです。現在は、創業13年で、200億円にまで成長しています。そうなると、この会社の情報はとても重要で、その管理には気を使うでしょうね。また、会議も多いでしょう。番組の中で、この会長の滝久雄さんは、週に数回、皇居一周のウォーキング会議を行っていると言っていました。その理由は、「歩いているときに良いアイデアが浮かぶ!」ということと、「盗聴されないので、秘密の話ができる!」だそうです。
散歩は、健康にいいだけでなく、脳を活性化し、また、歩きながらの会話は、新しいアイデアを生み、その内容が漏れる心配もないというわけです。

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2009年12月12日 近頃思うこと

英語

NHK大河ドラマ「坂の上の雲」を見ていると、主人公の秋山兄弟はかなり英語が話せたようです。その頃の授業は、英語で行っていたこともあり、ドラマの中で、正岡子規が英語に悩むシーンが出てきます。しかし、彼も勉強して、英語がわかるようになります。このころから、確かに英語は大切でした。もしかしたら、今よりも必要とされた人はいたようです。しかし、彼らは、決して幼児から英語を勉強していたわけではありません。それどころか、中学生のころまで野山をかけずり回っていただけです。だからこそ、勉強に対して貪欲であり、知識を得たいために英語を自ら学ぼうとしたのです。その意欲が、英語を話せるようにしたのでしょう。
多くの英語を日本語訳にした福沢諭吉にしても同じような経緯をたどります。
適塾でオランダ語を学んだ諭吉は、横浜に出てきますが、ショックを受けます。それは、横浜で出会う外国人とは、まったく言葉が通じないのです。また、店の看板の文字もなんて書いてあるのかわかりません。それは、国際情勢の変化のなかで、オランダ語より英語が主流となっていたからです。諭吉は、オランダ語を一生懸命学んだことが、全く無駄だったことを知り、「取り返しのつかない失敗をしてしまった」と悔みます。しかし、悔んでばかりはいません。諭吉は「まだ、若い。もう一度、始めからやり直そう。英語に挑戦してみよう」と発奮します。その翌日から英語を学び始めます。
英語を学ぼうと思っても、そのころは塾や学校はおろか、辞書でさえなかったのです。そのような環境は、挫折を生むのではなく、意欲を増すことになるのです。探究心が意欲を生み、意欲が挑戦を生みます。その結果、習得していくのです。これは、どの教科でも同じで、何かを学ぼうとするよりは、何かを知りたい、何かをやってみたいという探究心が、結果的に何かを学んでいくことになるのです。葉が紅葉しているのを見て、「どうしてこんな色になるのだろうか?」という探究心が「理科」になり、「ここは紅葉しているけど、北海道ではまだだけどどうしてだろうか?」という疑問が「社会」になるのです。そして、「紅葉は、アメリカにもあるのだろうか?では、アメリカでは、どう言うのだろうか?」ということが「英語」になるのです。ただ、机に向かって、紅葉という英語を先生のあとについて復唱することではないのです。
また、疑問を持っただけでは、学びになっていきません。行動することで、知恵が湧いてくるのです。そうして、諭吉は英語を学び始めますが、そうすると以前オランダ語も学んだことも無駄でなかったことを知ります。学問には、無駄はないのです。
その後、諭吉は、26歳のとき、咸臨丸に乗って、サンフランシスコに行きます。この船には、通訳方として中浜万次郎も同乗していました。そこで、諭吉は、ウエブスターの英語辞書を購入しました。帰国後、諭吉は、ウエブスターの英語辞書で猛勉強し、『増訂華英通語』(中国人子の編集した英語と中国語の対訳単語短文集『華英通語』に、英語の発音にカナをつけ、日本語訳した書物)を刊行しました。これが縁で、福沢諭吉は、幕府の翻訳方に採用されました。
彼は、アメリカに行ったとしても帰国子女ではありませんし、外国人のもとで英語を習ったわけではありませんので、ネイティブな英語だったかわかりませんが、20歳代後半から辞書で勉強しただけで翻訳方になり、今使われているほとんどの英語の日本語訳をあてはめた人として有名になるのです。英語教育とは、何なんでしょうか。

投稿者 fujimori : 22:39 | コメント (3)

2009年12月11日 近頃思うこと

自由

福沢諭吉は、「西洋事情」のなかで「自由」という言葉を使っていますが、その役は適当であるか迷っていたようです。この本の注釈に「本文自主・任意・自由ノ字ハ、我儘放盪ニテ、国法ヲモ恐レズトノ義ニ非ラズ、総テ其国ニ居リ、人ト交テ、気兼ネ遠慮ナク、自分丈ケ存分ノコトヲナスベシトノ趣意ナリ、英語ニ之ヲ「フリードム」又ハ「リベルチ」ト云フ、未ダ的当(てきとう)ノ訳字アラズ。」と書かれてあります。
また、「西洋事情」第二編には、特に「リベルチ」の訳語「自由」についてこう説明をしています。「第一「リベルチ」トハ、自由ト云フ義ニテ、漢人ノ訳ニ、自主、自尊、自得、自若、自主宰、任意、寛容、従容等ノ字ヲ用ヒタレドモ、未ダ原語ノ意義ヲ尽スニ足ラズ。自由トハ、一身ノ好ムマヽニ事ヲ為シテ、窮窟(キウクツ)ナル思ナキヲ云フ。古人ノ語ニ、一身ヲ自由ニシテ自ラ守ルハ、万人ニ具(ソナ)ハリタル天性ニシテ、人情ニ近ケレバ、家財富貴ヲ保ツヨリモ重キコトナリト。」これを読むと、自由のという訳語に悩むというよりも、自由という考え方を述べている気がします。古人の言葉に、「一身を自由にして、自ら守ることは、どんな人にでも備わっている天性であり、人情に近いもので、この自由を守ることは、財産を守るよりも大切なことである」と言っているのです。
そして、「上タル者ヨリ下ヘ許シ、コノ事ヲ為シテ差構(サシカマヒ)ナシト云フコトナリ。譬(たと)ヘバ、読書手習ヲ終リ、遊ビテモヨシト、親ヨリ子供ヘ許シ、公用終リ、役所ヨリ退キテモヨシト、上役ヨリ支配向ヘ許ス等、是ナリ。」と言っている例は面白いですね。勉強が終わって、遊びに行きたいという子どもに対して、親といえどもこれを止めることはできないというのです。
しかしこのように注意をしています。「決シテ我儘放盪ノ趣意ニ非ズ。他ヲ害シテ私ヲ利スルノ義ニモ非ラズ、唯心身ノ働ヲ逞シテ、人々互ニ相妨ゲズ、以テ一身ノ幸福ヲ致スヲ云フナリ。自由ト我儘トハ、動モスレバ其義ヲ誤リ易シ。」自由とは、決してわがままとか放漫とちがって、人を妨害してはいけないのです。お互いに認め合うことで自分自身の幸福も得られるのです。
彼が大分の中津留主居町の旧宅にいたときに「中津留別の書」を記していますが、そこにも、自由とわがままについて書いています。
「ひと口に自由といえば我儘のように聞こゆれども、決して然らず。自由とは、他人の妨をなさずして我が心のままに事を行うの義なり。父子・君臣・夫婦・朋友、たがいに相妨げずして、おのおのその持前の心を自由自在に行われしめ、我が心をもって他人の身体を制せず、おのおのその一身の独立をなさしむるときは、人の天然持前の性は正しきゆえ、悪しき方へは赴かざるものなり。もし心得ちがいの者ありて自由の分限を越え、他人を害して自から利せんとする者あれば、すなわち人間の仲間に害ある人なるゆえ、天の罪するところ、人の許さざるところ、貴賤長幼の差別なく、これを軽蔑して可なり、これを罰して差支なし。」
そして、このことを忘れては一身独立もできないと説きます。「人の自由独立は大切なるものにて、この一義を誤るときは、徳も脩むべからず、智も開くべからず、家も治らず、国も立たず、天下の独立も望むべからず。一身独立して一家独立し、一家独立して一国独立し、一国独立して天下も独立すべし。士農工商、相互にその自由独立を妨ぐべからず。」

投稿者 fujimori : 20:55 | コメント (4)

2009年12月10日 近頃思うこと

精神的独立

 一身独立には「他人の財」によらない経済的独立と、もうひとつは精神的独立です。これを、西村氏は、何よりも「他人の知恵」によらない独立、すなわち「智」の自立を意味していると言います。この二つの独立を確保し、ついで一国独立に進むというのが福沢諭吉の主張です。福沢諭吉展の第2部ではとても面白い企画で展示されていました。「かたりあう人間(じんかん)」というタイトルです。
 その説明にはこう書かれてあります。「すべての始まりは、一身独立した健全な身体にある。しかしながら個々の身体が、ただちに国家を構成するのではない。そこに介在すべきは、語り合う人間である。人と人との交わりこそが、人々の知徳を向上し、文明化された社会へと導いていく。」
 しかし、一身独立というのは、自分だけが独立すればいいわけではないのです。当然、自分は社会の中で生活し、生きていきます。ですから、一身独立には、人と人とのかかわりが必要なのです。福沢諭吉展の図録の解説にはこう書かれてあります。
 「人々が交際しなければ、社会は存在せず、社会が存在しないのならば動物は存在しても「人間(にんげん)」は、存在しない。福沢は、societyを「人間交際」の概念でとらえる。社会とは、客体として身体に先行して存在するものではなく、人間(じんかん)に行われるさまざまな交際によって形成されていくのである。」
 それを「独立して孤立せず」とあらわし、「独立した個人はいかに社会を形成するのか」という命題に沿って、男女間の関係から、家族を考えます。“「一家」とは、対等な男女が愛し合い、敬いあい、恕しあい作り出す姿であって、前近代社会において継承され続けてきた「家」ではない。結婚とはすなわち新しい「一家」の想像なのである。”その時、家族は一身独立の精神的な支柱となるべき存在であり、その一家もまた交際するのです。
人が関わるとき、そこでは必ず、それぞれの存在がぶつかりあいます。園児を見ていると、2歳児くらいからその葛藤が見られます。自分で好きなことをやりたい、しかし、隣にもほかの子どもがいることを積極的に意識し始めるのです。そのときに、「自由」と「規律」を学び始めます。この「自由」という言葉は、「フリーダム; freedom」と「リバティ; liberty」の2つの語がありますが、その意味合いは微妙に異なっています。フリーダムのほうは、古英語の frēo に由来したフリーからきており、束縛や拘束がなく義務を免除された状態をさし、「しなくてよい」という意味合いの自由です。一方リバティはラテン語の libertas が語源であり、選択や行動・発言の権利が保障された状態をさし、「してよい」という自由です。いろいろな英語を日本語に訳したのが福沢諭吉だと言われていますが、彼は、この一方のリバティを訳するに際して、仏教用語にあった「自由」という日本語に当てはめたのです。ですから、「掃除をしない自由がある」という使い方は、本当はおかしいということになります。
最近、自由のはき違いということが言われていますが、福沢は、自由をどのように考えていたのでしょう。

投稿者 fujimori : 21:51 | コメント (4)

2009年12月09日 近頃思うこと

独立

 NHK大河ドラマ「坂の上の雲」を見ていると、何度か出てくる言葉で気になる言葉がコメントでも書かれてある「一身独立して一国独立す」という言葉です。この言葉は、福沢諭吉の著書「学問のすすめ」での最重要命題です。この学問のすすめは、“「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」と言えり。されば天より人を生ずるには、万人は万人みな同じ位にして、生まれながら貴賤上下の差別なく、万物の霊たる身と心との働きをもって天地の間にあるよろずの物を資り、もって衣食住の用を達し、自由自在、互いに人の妨げをなさずしておのおの安楽にこの世を渡らしめ給うの趣意なり。”という有名な言葉で始まります。
 今年、1月から東京・福岡・大阪・神奈川で「未来をひらく福澤諭吉展 FUKUZAWA Yukichi:Living the Future」開催されました。私は、1月から3月まで東京国立博物館 表慶館で開催されていた東京展に行きました。
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その展覧会の図録の最初のところに京都大学教授の西村稔氏が、この一身独立について解説を書いています。
 先に書いた「天は人の上に…」という万人平等の宣言で始まるのですが、そのあとに「されども今、広くこの人間世界を見渡すに、かしこき人あり、おろかなる人あり、貧しきもあり、富めるもあり、貴人もあり、下人もありて、その有様雲と泥との相違あるに似たるはなんぞや。」と続きます。人は、みな平等であるはずですが、実際は、人に様々な差があるのです。それは、「学問の力」の有無により生じた相違であって、天が定めた約束ではなく、むしろ富貴は「人の働」によるものであるというのです。これを、立身出世として見るのではなく、むしろ強者が弱者を支配する社会の中で、弱者=貧者が、強者=富者と肩を並べるには、学問(実学)によるしかないと説くことが眼目であったと西村氏は言います。これが、経済的な一身独立論なのです。
学問のすすめにこんな部分があります。“諺にいわく、「天は富貴を人に与えずして、これをその人の働きに与うるものなり」と。されば前にも言えるとおり、人は生まれながらにして貴賤・貧富の別なし。ただ学問を勤めて物事をよく知る者は貴人となり富人となり、無学なる者は貧人となり下人となるなり。”では、学問とはどんなことでしょうか。福沢は、こんな風に言っています。“ 学問とは、ただむずかしき字を知り、解し難き古文を読み、和歌を楽しみ、詩を作るなど、世上に実のなき文学を言うにあらず。”これだけ読むと、なんだか実学だけが学問であるように感じます。彼は、実業家としての道を歩む所を見ると、やはりそう考えていたのだということが納得できます。“かかる実なき学問はまず次にし、もっぱら勤むべきは人間普通日用に近き実学なり。”と言っています。しかし、その次にはこう続きます。“地理学とは日本国中はもちろん世界万国の風土道案内なり。究理学とは天地万物の性質を見て、その働きを知る学問なり。歴史とは年代記のくわしきものにて万国古今の有様を詮索する書物なり。経済学とは一身一家の世帯より天下の世帯を説きたるものなり。修身学とは身の行ないを修め、人に交わり、この世を渡るべき天然の道理を述べたるものなり。”
“この心得ありて後に、士農工商おのおのその分を尽くし、銘々の家業を営み、身も独立し、家も独立し、天下国家も独立すべきなり。”ここまで読むと、西村氏が言っている強者と弱者が肩を並べるために学問が必要であるという内容が理解できます。

投稿者 fujimori : 23:58 | コメント (4)

2009年12月08日 近頃思うこと

画びょう

日経に、こんな商品紹介が掲載されていました。「画びょうと磁石で穴開けずに掲示」という商品です。磁石と画びょうを組み合わせ、穴を開けずにポスターなどを掲示できる「マグネット&ピン」を12月中旬に発売するようです。その仕組みは、コルクボードや壁などに画びょうを刺し、写真など飾りたいものを重ね、桜の花びらをかたどった強い磁石で挟んで使います。大切な写真などを傷つけずに飾りたい、といった需要に応えるもので、磁石のカバーを桜の花びら形にしたことで華やいだ雰囲気を演出できるとメーカーでは話しています。
画びょうはとても便利なものです。しかし、この画びょうという言い方は、全国的に使われますが、近畿地方より南の地域では、「押しピン」という呼び方も使うようです。もともとは、東日本で「画鋲」、西日本で「押しピン」と呼んでいました。しかし、針だけが金属製で、持つ部分はプラスチック製で、いろいろな色をしていて、形はひらべったくなく、球状だったり、ドライバ(ねじ回し)を小さくしたようなものが出てきたときに、西日本ではこれを「押しピン」、全体が金属製で、金色をしており、持つ部分がひらべったい円盤形をしているものを「画びょう」と呼ぶようになったようです。
画びょうは、壁面に深く突き刺すために貼ったものがはがれにくいのですが、逆に指先で外す時には大変ですので、学校などではクラスに「画びょう取り外し器」が置いてありました。また、「二重画鋲」という画びょうがありますが、これは、戦時中に材料の鉄の代わりにレコード盤を打抜いたものを2枚重ねて作って売り出され、これが一般に普及したものですが、抜きやすいなどの理由で、その後も溝がついたものが作られ、これが二重画びょうです。また、手が不自由な人、力の弱い人でも扱いやすいよう、頭部がシリコーンゴム製のリングなどでできているユニバーサルデザインの画びょうもあります。
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しかし、これらの画びょうは、針で紙などを刺し、突き抜けた針をコルクなどの壁に突き刺して留めるものですので、紙にも、壁にも穴が開くのが欠点です。そこで、ninja pin(忍者ピン)という画びょうは、壁にピン跡の穴を残さないように、L字の断面形状をしています。また、止める紙に穴があかないようにした画びょうが今回発売される商品です。
最近ではどうかわかりませんが、私が学校に通っていたころの画びょうの思い出といえば、靴の裏のゴムに画びょうが刺さっていたことがよくあったということです。それは、金属製の円板の中央に針を取り付けたタイプの製品は、床などに落ちた場合に針が上を向くことが多いからで、もし靴を履いていない場合は、足で踏んだ場合に負傷する危険性があります。そのほかにも、壁面の材質や刺さり方によっては取り外す際に手間がかかる点、針が折れる可能性がある点、さび・腐食に弱い点などから、最近は、プラスチック製の製品の普及が進んでいます。
 また、「Magnet Tack」は、マグネットつきの画びょうですが、本体裏側に強力なネオジム磁石を内蔵しているので、金属を吸い付けることができます。これを壁面に刺しておけば、金属製の小物、例えばキーホルダーや時計、ハサミやカッター、クリップなど、金属製のものなら何でも壁にぶら下げることができます。
 小さい画びょう故に、細かい工夫がものを言います。

投稿者 fujimori : 22:58 | コメント (4)

2009年12月07日 近頃思うこと

高橋

 先週の日曜日からNHKで放送されている「坂の上の雲」は面白いですね。ずいぶん前にこの原作である司馬遼太郎の「坂の上の雲」を読んで、しばらく熱中した覚えがあります。ブログにも何回か書きました。ミュージアムを訪れたり、秋山兄弟の生誕の地を訪れたり、もちろん子規堂など訪れました。この原作は、日清日露戦争の顛末の面白さと秋山兄弟と正岡子規の人生に触れる面白さのほかに、明治から大正にかけての様々な人物に出会うことにあるかもしれません。その人物のゆかりの地を歩いたり、訪れたことを思い出すことがあります。
 先週、英語教師として西田俊之が演じていた人物の「高橋是清」もその中の一人です。高橋是清は、非常に特異な経歴の持ち主です。波乱に満ちた人生を送った人ベストテンに入るかもしれません。彼の父親は幕府御用絵師で、47歳のときに16歳の行儀見習いのために奉公していた女性に子どもを産ませたために、是清は、生後まもなく仙台藩の足軽の養子に出されます。その後、横浜のアメリカ人医師ヘボンの私塾(現・明治学院高校)で学び、仙台藩の命令により、勝海舟の息子である小鹿と海外へ留学しますが、横浜に滞在していたアメリカ人の貿易商によって学費や渡航費を着服され、更にホームステイ先である彼の両親に騙され奴隷契約書にサインし、奴隷として売られてしまいます。牧童やぶどう園で奴隷としての生活を強いられ、苦労を重ねた結果、やっと日本に帰れることになり、サンフランシスコで知りあった森有礼に薦められて文部省に入省します。そして、同時に英語の教師として大学予備門で教えます。この時の場面が「坂の上の雲」に出てきます。その生徒に子規とか秋山真之がいたのです。そのかたわら当時の進学予備校の数校で教壇に立ち、廃校寸前にあった共立学校(現・開成高校)の初代校長も一時務めています。
彼は、文部省だけでなく、農商務省の官僚としても活躍し、農商務省の外局として設置された特許局の初代局長に就任します。しかし、官僚としてのキャリアを中断して、ペルーで銀鉱事業を行おうとしますが、すでに廃坑のため失敗して帰国します。そのときに、日銀総裁に声をかけられ、日本銀行に入行し、日銀副総裁、日銀総裁になります。彼は、歴代日銀総裁のなかで唯一その肖像が日本銀行券の50円券に使用されています。
そして、また坂の上の雲に登場します。ロンドン留学時代の人脈を利用して日露戦争の戦時外債の公募などで活躍するのです。そして、政友会総裁犬養毅が組閣したとき、請われて4度目の蔵相に就任します。その時には、今と同様、世界恐慌で世界はデフレでした。そのような中で高橋は、金輸出再禁止、日銀引き受けによる政府支出(軍事予算)の増額などで、日本経済をデフレから世界最速で脱出させたのです。また、5.15事件で犬養が暗殺された際に総理大臣を臨時兼任したのち、続いて組閣した斎藤実は彼の親友だったため、5度目の蔵相、次の岡田内閣の岡田啓介は共立学校での教え子だったために6度目の大蔵大臣に就任します。そして、第20代総理大臣を務め、7回の蔵相を務めるなど、積極財政政策で日本の財政危機を救った政治家として今でも評価されています。しかし、インフレを抑えるために軍事予算を縮小しようとしたことが軍部の恨みを買い、赤坂の自宅二階で青年将校達に暗殺されてしまいます。これが、2.26事件です。
この赤坂の自宅跡が「高橋是清翁記念公園」になっています。
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ここには、和風庭園はほぼ当時のままの姿で残されていますが、邸宅は、空襲により焼失しました。しかし、母屋はそれ以前に移築されていたため難を逃れ、現在「江戸東京たてもの園」(都立小金井公園内)で公開されています。
人の関わりの中で、波乱の人生を送ったものですね。

投稿者 fujimori : 22:12 | コメント (5)

2009年12月06日 近頃思うこと

ライフ

 グッドデザイン賞の取り組みを見ると、時代がわかる部分があります。今年、新たに「グッドデザイン・フロンティアデザイン賞」が設けられました。市場ですでに提供されているものとは異なった対象や、産官学連携で生まれた対象などを、一般の商品などと同列の立場で扱うことのない安定した評価の仕組みを設けたかったからだそうです。一方、グッドデザイン・フロンティアデザイン賞も、近未来の生活を示唆する「まだ実現されていないものごと」を、持続可能な社会の実現という視点から評価し推奨する新しい賞です。簡単に言うと、現在の暮らしを支えるのが「グッドデザイン賞」、長い間市場に支持されてきた定番のデザインを扱うのが「グッドデザイン・ロングライフデザイン賞」、これからの未来を切り拓く「グッドデザイン・フロンティアデザイン賞」となり、「過去」「現在」「未来」と時間軸に沿って評価するという取り組みです。
 今年の応募作品から見える時代を、審査委員長である建築家の内藤廣氏は、このように書いています。グッドデザイン賞の応募作品全般には、「成熟したエコロジー」とでもいうべき要素が備わっていて「おとなしい」印象があるようです。「少し前までは、グッドデザイン賞でも「エコロジー」といえば、環境に取り組む態度それ自体が特別なものとして表現されてきました。それが今では、そうした態度はごく当たり前のことになりました。それが成熟して、未来をエコロジーの観点から見直して行こうとする気運が感じられるようです。この流れは、今後、より先鋭化される形で我が国のデザインの大きな潮流になるはずで、その取り組みを広く消費者に届けるには、どうしても優れたデザインの力が必要になるであろう」と言っています。
今、デフレで大変ですが、日本は外貨を得て生きていかざるを得ない宿命を負っています。そのために、「確かな国際競争力をもって世界に出て行く優れた商品が必要です。ここでもデザインの力は欠かせません。新政権が国際公約した流れをより広範な海外に向けた経済活動へと展開するためにも、エコロジーを軸にした新しいデザインが求められてくるでしょう。先に述べた「成熟したエコロジー」が達成された状況は、次なる飛躍の大きな土台が築かれた、と見るべきです。」と提案しています。
同じようにデザインの今を知るためによいイベントがあります。それは、10月末から11月にかけて開催れた「東京デザイナーズウィーク2009」です。このイベントの今年のTDWは環境に対してデザインができること「LOVE GREEN」をコンセプトにしています。このイベント内でも、グリーンオブジェや、パイン・ビートルによって変色した木材を用いた100% Design Tokyo AwardsのトロフィーやエントランスゲートSpot on Wien による太陽光の力を表現したインスタレーションや、「Cube展」は植物に覆われたグリーンキューブ台に作品が展示されています。また、DAと環境省の共催でデザインの力でCO2削減を提案するデザインアワードのキックオフとして「Low CarbonLife-design Award 2009」の特別展示がされています。
「何がグッドか」は、エコがグッドであることはもう当たり前のことで、それをどのようにデザインという価値に置換できたか、消費者にとって分かりやすく魅力的な価値として提示できたか、ということが課題のようです。この課題は、他の職種でもいえることです。

投稿者 fujimori : 21:52 | コメント (4)

2009年12月05日 近頃思うこと

時代

 先月、今年のグッドデザイン大賞が決定し、表彰式がありました。私も二つグッドデザイン賞を受賞していますので、何回かブログでも取り上げました。今年、グッドデザイン賞は、2952件を審査し、1034件(591社)が受賞したようです。なんだか、私が受賞した時の興奮した気持ちを思い出しました。私が受賞したのは、二度とも「新領域部門」でした。今は、領域も変わっていますが、ほかにも何がグッドデザインなのかも時代を反映しています。
 今年のグッドデザイン賞は、昨年度から打ち出した「近未来の生活者の立場に基づく審査」という方向性を踏襲しています。その方向性からの審査理念は、人間(HUMANITY)「もの・ことづくりへの創発力」、本質(HONESTY)「現代社会への洞察力」、創造(INNOVATION)「未来を切り開く構想力」、魅力(ESTHETICS)「豊かな生活文化への想像力」、倫理(ETHICS)「社会・環境への思考力」です。これらに示された力、「創発力」「洞察力」「構想力」「想像力」「思考力」は、これからの時代に必要な力です。小学校学習指導要領には「思考力」「判断力」「表現力」「その他の能力」と書かれています。まあ、デザインとして必要な力ですから違いはあるでしょうが。
 領域も今は、生活の場面に則した領域分類を、より実情に適ったものとするため、「身体」「生活」「仕事」「社会」「ネットワーク」の5領域に設定されています。それぞれの領域のなかで大賞候補の「ベスト15」には、なじみのものも多くあります。生活領域では、ダイソンのサイクロン掃除機とか、本田のインサイトとかトヨタのプリウスです。ネットワーク部門では、5つ受賞していますが、そのうち二つはサムソン電気の液晶テレビとミニノートパソコンが受賞しました。それらの中で異色なのは、今夏、東京のお台場に登場し、約415万人を動員した“実物大”の「機動戦士ガンダム」立像も選ばれています。
これらの候補の中から2回の投票を得て、大賞が選ばれました。ちなみに、ガンダムは4位でした。大賞は、北海道岩見沢市の「岩見沢複合駅舎」(ワークヴィジョンズ+岩見沢レンガプロジェクト)が出らばれました。「岩見沢複合駅舎」は、2000年12月にJR岩見沢駅の駅舎が焼失したため、JRグループでは全国初の試みとなる一般公募型コンペ「岩見沢駅舎建築デザインコンペ」で応募総数376案から「ワークヴィジョンズ」が最優秀賞を受賞し、建設されたものです。07年に開業したJR岩見沢駅都「岩見沢市交流プラザ」、連絡歩道と合わせて09年3月にオープンしていますが、市民が参加した刻印レンガやフルレールを活用したガラスのファサードがデザインの特徴になっているそうです。
過去に大賞になったものでは、私が受賞した2001年には、今年と同じ建築部門から仙台市の「せんだいメディアテーク」でした。今年建物だったのは、久しぶりです。もうひとつ受賞した年の2005年には、ブログに書きましたが、テルモの「インスリン用注射針 ナノパス33」でした。つい最近ブログで取り上げた北海道の「モエレ沼公園」も2002年に受賞しています。テレビ番組も2004年にNHKテレビのこども向けテレビ番組 「ドレミノテレビ」と「にほんごであそぼ」が受賞しています。
 クリスマスプレゼントで時代がわかりますが、この賞でも、時代の求めているものがわかる気がします。

投稿者 fujimori : 20:28 | コメント (4)

2009年12月04日 近頃思うこと

プレゼント

今年の子どもたちは、サンタさんに何をお願いするのでしょうか。また、その願いをどうやってサンタクロースに伝えるのでしょう。もちろん、普通は寝床の枕もとに、願いの紙を入れた大きな靴下を置いておくか、クリスマスツリーにその靴下を下げておけばいいのですが、最近は、こんな伝え方が出来ます。「おねがい!サンタサイト」というニセモノの「専用ブラウザ」があり、その「WEBサイト(サン夕さん運営)」を開きます。そこに、子どもに書き込んでもらうのです。これは、本当にはネットにはつながらないで、実行ファイルと同じフォルダに入力履歴が記録されますので、あとで読むことができます。しかも、この履歴は、毎年蓄積されますので、何年か経って見返すことができ、何歳の時には何を贈ったかを思い出すこともできます。このようなサイトが無料でダウンロードできるのですが、最近ほかにも似たようなものがあるようです。
子どもたちがどんなものを欲しがるかということを時代によって追っていくと、かなりその時代がわかります。もちろん最近はゲームでしょうが、私は全くゲームはやったこともないですし、私の子どもたちも小さい頃でもあまりやっていなかったのでよくわかりません。たとえば、昨日発表のランキングで、「今回は『トモダチコレクション』をはじめとした定番タイトルが3位までを占めている。一方新作は『太鼓の達人Wii ドドーンと2代目!』が4位にランクイン。販売本数は2.9万本と、前作(初週11.5万本)には届かないものの、息の長いシリーズだけに年末商戦に期待がかかる。また5位の『レフト 4 デッド 2』は2.8万本を販売し、すでに『レフト 4 デッド』(累計3.0万本)の累計本数を突破する勢いだ。」という記事など、ちんぷんかんぷんです。プレステとかDSとかでさえよくわかりません。ましてや、そのソフト名などはなおさらです。こんなにたくさんあって、今の子たちは、大人になって、共通して思い出すおもちゃがあるのでしょうか。
昭和30年代初めだけ見ても、日本中の子どもたちが熱狂するおもちゃが発売されています。私の子どもの頃、どこかの年齢で買ってもらったことのある「ラジコンカー(ラジオコントロールカー)」は、すでに1955年に発売されています。受信機を内蔵したバスと、箱形の送信機がセットになっており、送信機から発する無線電波でバスを操縦するものです。バスの動作としては、直進、右折、左折、停止で、後退はできませんでした。この送信機は、のちの鉄人28号を正太郎が操作をするために持っているようなものです。ただ、当時の価格は、高卒の初任給位していたので、子どものプレゼントには、まだ使われなかったでしょう。やはり、この年に発売して、私たちが夢中になったものが「チェーリング」です。これは、いまだに園でも使っています。色、形とも今と変わりません。当時1個1円で、腕輪や首飾りを作っていました。
やはりこの年には、スクーター遊びが大流行しました。大人が乗るエンジン付きではなく、細長い板に二つのタイヤとハンドルがついた完全人力のスクーターです。「ペダル型」と「足蹴り型」がありましたが、この足蹴り型は、今でもキックボードといって5000円前後で買うことができ、クリスマスプレゼントの候補になっているようです。1956年になると、日本中の子どもの間で流行した「ホッピング」が発売されます。これは、あまりかの美容器具から考案されたもので、翌年には、飛びすぎによる人体への有害説が流れたほどです。
今でも遊ばれているもの、一時の流行だけで終わったものはあるものの、その世代での共通の話題にはなりますね。

投稿者 fujimori : 21:49 | コメント (5)

2009年12月03日 近頃思うこと

世界共通

昨日の読売新聞に、上方落語界の“国際派”として知られる桂小春団治さんが、来年2月に米・ニューヨークの国連本部ビルと、音楽の殿堂・カーネギーホール内のリサイタルホールで公演するという話題です。小春団治さんは2000年に英国で初の海外公演を行ったのを手始めに、これまでフランスやドイツ、韓国など12か国を訪れていますが、今回は、海外公演に取り組んで10年の節目だそうです。記事によると、カーネギーホールでは在米邦人向けに公演するようですが、もともと世界有数のコンサート会場として知られるカーネギーホールですので、今までも多くの日本人がコンサートとか、歌などを歌っていますが、落語講演は初めてのようです。しかし、ここでは在米日本人向け公演ですが、「国連ビルでの落語公演はおそらく初めて」ということのようです。ここでは、約300席の会議室が会場で「世界中から集まった人たちに落語本来の話しぶりを堪能してもらいたい」と日本語で披露し、英、仏、西、中の4か国語の字幕スーパーを付けるそうです。演目は、「お玉牛」と、怪談噺の「皿屋敷」を予定し、寄席囃子を生で演奏。鳴り物の解説も行うそうです。
 「お玉牛」は、春団治さんの得意な演目で、お玉のところに夜這いに行った男が、身代わりに寝ている牛をお玉だと思う滑稽さを描いていて、多彩なしぐさで牛の様子を表現することで有名です。もうひとつの演目である「皿屋敷」も春団治さんの得意ねたで、古典的な怪談である皿屋敷を下敷きとした噺です。今回海外公演を行う桂小春団治は、記者会見で、「肌の色や言語、慣習の違いを超え、笑いで平和の大切さを共感できれば」と意気込みを語っています。笑いは世界共通なのですね。
 私の園では、今年のテーマは、「世界」で、その1年目として“世界を知ろう”です。そのテーマに沿って子どもたちに世界を知ってもらっています。そのひとつとして、今年の誕生会の日の昼食は「世界の料理」としていろいろな国の食事体験をしてもらっています。日本では、食べる前に「いただきます」と挨拶をします。ですから、その日の「いただきます」は、その国の言葉で子どもたちは言うようにしています。その表現は、論争されたこともありましたが、基本的に日本の風習では、食事の提供者と食材への感謝の気持ちを表現するためです。もともとの由来は仏教の教えで、食材である生命を断ち、その生命を「いただく」ことへの感謝を表現するで、「いのち」をいただいて、自分の「いのち」を養っているということになります。
10月は、「エジプト料理」でした。エジプトでは食べる前に「ボナペティ」というそうです。先月はカンボジア料理でした。しかし、カンボジアでは、いただきますに相当する言葉はないそうです。もともと生命をいただくことに感謝するという概念からきているので、英語でも「いただきます」に該当する言葉はないようです。多くの国では、神に感謝することはあるようですが。そこで、カンボジア料理のときには、私はあいにく園にはいなかったので食べることはできなかったのですが、栄養士がカンボジア語の「おいしい」と「おなかがすいた」という言葉を教えたそうです。
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「おいしい」という言葉は、世界共通のようです。もしかしたら、食事のときのマナーとして「いただきます」をすることより、食べて「おいしい」と言うことを教えたほうがいいかもしれませんね。

投稿者 fujimori : 23:04 | コメント (4)

2009年12月02日 近頃思うこと

商戦

 よくブログで取り上げるのですが、記念日を商戦に位置づけることによって、消費拡大を狙うことはよくあります。バレンタインデーがその代表ですが、今、次第に盛り上がりつつある「クリスマス」も、きっとそんな歴史があるのではないかと思います。アメリカでは、感謝祭が終わると、クリスマス商戦が始まりますが、この機関が年間最大の消費拡大期だそうです。それは、子どもへのクリスマスプレゼントだけでなく、家電などもこの時期に購入するようです。しかし、どうも今年は、米国経済は回復の兆しは出ているものの、高失業率を背景とした所得の伸び悩みで消費者の財布のひもは固いというニュースが先日流れていました。この間の一人当たりの消費額は約628ドル(約5万4千円)で、前年より3・3%減少する見込みだそうです。
 私が子どものころから、何かを買ってもらったり、おもちゃをもらえるのはクリスマスのときだけでしたから、クリスマス商戦が行われていました。デパートのおもちゃ売り場は、大賑わいでした。そして、その時のごちそうは、七面鳥のローストチキンとクリスマスケーキでした。この時のケーキは、スポンジケーキにバタークリームを塗り、砂糖細工のサンタクロースやクリスマスツリー、イチゴやチョコレートを飾りつけたものが一般的でしたが、これは不二家が大正11年(西暦1922年)頃から広めたものだそうです。それがいつからか、バタークリームにとって代わってホイップクリームが乗るようになって、とてもおいしく思ったものでした。また、グリコ乳業が、すべてアイスクリームで出来たクリスマスケーキを「アイスケーキ」として販売するようにしたころ、そのCMが頻繁に流れ、新鮮で、いかにもおいしそうでした。サラリーマンが、会社帰りにそんなケーキを買って帰る姿が風物詩となりました。私の子どもが小さかったころは、妻が手作りのケーキを作って、みんなで顔を寄せ合ってケーキを食べたものでした。
 今年の流行語大賞に「草食男子」というのがありましたが、クリスマス前のCMは、最近ずいぶんと変わってきているそうです。こんな広告がありました。「もうじきやってくるクリスマス。恋人たちにとっては大きなイベントではないでしょうか?今年のクリスマスは不景気も相まって“イエナカ”のクリスマスを過ごす方も多いかもしれません。お金はかけないけど、サプライズがしたい!そんな男子の皆さん注目!“スイーツ男子”デビューのチャンスです。彼女に、手作りのクリスマスケーキをプレゼントしてみては?」
 まず、ケーキを買う場所が「エキナカ」という駅構内にある店ではどうかというものです。このエキナカは、評判がいいらしく、いくつもの駅にできているようです。また、ケーキのお菓子調理教室が男子向けのもので、手作りで作って、彼女にあげたらどうかというものです。
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もうひとつ、最近、目につくのがイルミネーションです。いろいろな街で行われているだけでなく、個人の家々もイルミネーションで飾られています。このようなクリスマスは、日本ではいつごろ始まったのでしょうか。もちろん、江戸時代は、キリスト教は禁止でしたから、クリスマスは行われてはいません。そこで、日本のクリスマスは明治以降になってからの商業化と共による発展してきたようです。明治時代、日本で初めてクリスマス商戦を行った銀座で、最初に店舗のクリスマスデコレーションをしたのが京橋銀座2丁目にあったキリンビール明治屋(現在の明治屋本社)だったそうです。その後、その他の多くの店が明治屋に倣い、銀座はクリスマスデコレーション飾られるようになったそうです。
日本とは宗教とは関係なくなりましたが、いまだに、子どもたちにとっては、楽しみな行事のひとつです。

投稿者 fujimori : 23:50 | コメント (4)

2009年12月01日 近頃思うこと

世界の教育

 月刊「クーヨン」という雑誌の9月号増刊は、「のびのび子育て」ということで、「子どもに受けさせたい世界の幼児教育」という特集記事です。まず、表紙を見て驚いたのは、「世界の教育者は子どもを信じることからはじめた!」とあることです。この記事は、モンテッソーリ、フレーベル、フレネ、シュタイナー、ニキーチン、コダーイ…など、子どもの成長、教育について考えてきた世界の人たちの幼児教育理念についての紹介ですが、彼らのまなざしは「大切なのは子どもを信じること」であると書かれているのです。私も保育理念を持っているのですが、その第1に挙げているのは、「子どもの存在を丸ごと信じただろうか。」ということです。それは、「子ども自ら育とうとする力を持っていることを信じ、子どもといえども立派な人格を持った存在として受け入れることによって、見守ることができる」からです。
 最近、注目されている保育カリキュラムにニュージーランドの「テ・ファリキ」がありますが、このカリキュラムは、4つの原則から作られています。その第1は、「エンパワーメント」ということで、子どもに自ら学び、成長するための力と、権限を与えることです。子どもに任せることで、子どもは考える力をつけるということです。また、イタリアのレッジョ・アプローチでは、「子どもたちは生まれながらに多くの能力、生きる力を持っている」ということを原則にしています。また、1970年代のオランダで急速な広まりをみせたイエナプラン教育では、学校教育の場ですが、長い間「経験や知識のある」大人が「何も知らない」「未熟な」子どもに既成の知識やスキルを伝える場、また、子ども側からすると、子どもを一方的に「教えられ」「知識を受け取る」だけの受動的な人間につくり替えてきたのです。それを、イエナプランでは、それぞれの子どもに備わった発達への意欲や好奇心をうまく引き出す教育なのです。
 どれも子どもへの温かいまなざしを感じます。しかし、これは決して情緒的ではなく、きちんとした子ども観察からきているのです。世界で最初の「幼稚園」を創設したフレーベルの言葉が紹介されています。「親として、教師として、子どもをどう導けばいいのだろうか。ただ、児童をよく観察し、注意をすればよい。そうすれば、子どもが自らあなた方にその方法を教えるであろう。」「大人は幼児がなすこと、見ること、発見することなどを一々言い表し、命名し、それに言葉を与えるだけでいいのだ!」
今日の新聞に、厚生労働省は昨日、21世紀最初の01年に生まれた子供の生活実態を継続的に調べる「21世紀出生児縦断調査」の第7回結果を発表したことが掲載されていました。その結果、「習い事をしている」子は56.6%で、そのうち第5回調査で「習い事をしている」子は35.8 %でした。ずいぶんと増えています。性別に習い事の種類(複数回答)をみると、男児では「水泳」が23.0%、女児では「音楽(ピアノなど)」が24.9%と最も多くなっているようです。今年の体育の日の調査で、最近の子どもたちの体力が前に比べてついてきたことが掲載されていましたが、それもどうも習い事の成果のようです。
そして、遊びの種類も、テレビゲームや携帯型ゲームなどの「コンピュータゲームをする」子は50.6%で、第5回調査では27.9%ですから、ずいぶんと増えています。これは、必ずしもゲームがいけないというよりも、子ども同士が関わらなくなったということが問題だと思います。今回の調査でも、「近所に友だちがいない」が34.4%と多くなっており、遊び相手も、「同い年の子」と「よく遊ぶ」割合が37.2%と低く、「ひとり」で「よく遊ぶ」割合が49.5%と高くなっています。
早く、日本でも幼児教育を含めて、教育改革をしなければならない時期でしょう。

投稿者 fujimori : 21:20 | コメント (4)