よく、東京で山の手族といわれるような住宅街に住む人たちの暮らしぶりを指す言葉があります。それに対して、東京にも下町といわれる町があります。これは、地形の高低を指す言葉でもあったようです。その山の手には、江戸時代には武士が住んでいたのですが、明治になると、武士階級は消滅してしまいます。同時に、山の手の武家地は荒れていったようです。そして、そこには桑や茶が植えられ、田園化していきます。しかし、しばらくすると、維新の元勲、旧藩主、新興の実業家、新政府の省庁官員などが、山の手に庭付き独立家屋を建て始め、専用住宅街となっていきます。
そんな時、日露戦争が起き、それに伴って日本の経済活動は急速に盛んになっていきます。それに伴い、著しい数のサラリーマンが目立つようになります。このころのサラリーマンは、次代の寵児になっていきます。彼らは、江戸時代の士農工商の身分制度の中の商人や職人とは違い、また、公爵や侯爵、伯爵、子爵、男爵などの「爵」を持っている人たちのような階層とも違い、中産階級とか市民階級とか、中間階級とか呼ばれるような「中流意識」をもって、社会的にも文化的にも政治勢力的にも新しい世界を作ることになるのです。この時の階級が、今の時代でも主流を占め、そうなることが出世のようになっていったのでしょう。そして、その階級の人たちは、住み方も変えていきます。彼らは、旧江戸市街はいっぱいになっていたので、山の手線の外側の農村地帯に居住を求めていくことになります。それは、都落ちという意識ではない、ある理論づけが行われます。「田園都市」というイメージです。ちょうど明治中期にイギリスで誕生したもので、過密化で環境が劣悪化した旧都市部から逃れ、田園地帯に新都市を建設することを提案したものです。この提案は、多摩ニュータウンを作るときにも参考にされました。私が、ニュータウン学会の理事を務めていたときに、その考え方を学びましたが、明治時代の山の手の形成のもとになっていたとは知りませんでした。
この田園都市の考え方はとても面白いものです。それは、現在でも都市計画の分野では重要な計画哲学の一つに数えられているからです。この考え方は、イギリスのハワードという人が提案したもので、自然との共生ということで、都市と農村との融合を図るものです。そして、職住近接を訴え、役所や工場だけでなく、レクリエーション施設や文化施設をも含む街づくりです。しかし、実際は、この理想とは程遠い開発が行われていくのです。そのひとつが、園の近くの下落合付近につくられていった「目白文化村」(俗に落合文化村)なのです。
堤康次郎が開発した「目白文化村」と同時期に、もうひとつ分譲を開始した地区がありました。それは、渋沢栄一の田園都市株式会社がおこなった洗足地区で、その翌年には「田園調布」が売り出されます。郊外の生活は「田園都市」というスローガンのもとの「田園でも文化的生活」という言葉の中の「文化」をとった堤と、「田園」と採った渋沢が、今日の西武グループと東急グループとしてライバル関係になっていくのです。そして、田園調布がパリの街造りを模したのに対し、堤康次郎は目白文化村でロサンゼルス(ビバリーヒルズ)の街並みをめざしたと言われています。
月別アーカイブ: 11月 2009
住宅街
私の園がある下落合は、JR山手線の高田馬場駅の近くですが、この駅にはもうひとつの路線、西武線が走っています。その沿線には、西武球場があるのですが、西武と言えば、堤一族が浮かびます。堤康次郎は、滋賀県出身で、大正9年(1920)箱根土地(国土開発の前身)を設立する一方、鉄道事業にも乗り出し、土地開発・観光・ホテル・流通・レジャーなどの都市型第三次産業を展開する西武コンツェルンを築いた人として有名です。
彼は、早稲田大学に在学中に、下落合に下宿していました。卒業後も、下落合の女性と結婚し、引き続き下落合に住んでいました。そして、下落合の住宅化に伴う土地の上昇に目をつけます。そして、資産運用のために土地の買収に乗り出したのです。そして、この地の大地主であった宇田川家から土地を買い上げ、「目白文化村」の分譲を始めるのです。それが、1922年(大正11年)でした。彼は、最初に箱根の強羅、仙石原と買収していったので、「箱根土地」という会社を立ち上げたのですが、その後軽井沢と買収していきます。そして、この設立と同時に、機関銀行として目白駅前の高田農相銀行を乗っ取りました。そして、本社を落合村上落合に持ちますが、目白文化村を開発する過程で文化村内の下落合(今は、中落合)に移転しています。
話は突然変わりますが、ブログでもよく取り上げる「地産地消」という言葉を最近よく見かけます。その地域でとれた産物はその地域で消費しようという考え方です。それは、その地でとれた特に農産物は、その地方の気候、風土の中で育っているので、その地方の生活に適した効用を与えるのです。南方で育った果物は、熱くなった体を冷やす役目があるように、夏にとれる胡瓜も体を冷やす役目があります。同じように、私は「地産地活」ということを提案しています。その地域で育った人材は、その地域で活躍してもらおうという考え方です。やはり、その地域の風土が人を育てるために、その地域で生かされてくるのだと思います。それが、いつの間にか、都会に出て活躍するのが出世のように思い、しかも、そこでサラリーマンになるのがいいかのような教育をしすぎている気がします。いつか都会に出てきて、そこで職を得、そこに土地を求め、家を建て、家族を持つのが夢のように思わされてきました。人は、それぞれの違いを認め、それぞれの場で活躍することによって、社会を形成するものです。それがどうしてこのような社会になっていったのかを考えるためには、江戸から明治、大正、昭和とどのような土地に対する考え方か、どのように開発されていったのかを知るために、その特徴的な園の周りの下落合という場所から考えてみようとしたのです。
まず、「目白文化村」を見ていく前に、江戸の町について考えてみました。ある人から、私と同じ名字の藤森照信氏の「落合における高級住宅街の成立」という切り抜きと、中島明子さんから、彼女と野田正穂氏との共著である「目白文化村」(日本経済評論社)という書籍をいただきました。それらによると、江戸時代の住宅地は、どのような封建都市も武士と町人(商人と職人)の居住地を分ける身分地域制を住政策の大本にしていました。その分け方は、ふつうは人為的に線を引く形であったのが、江戸だけは立地の特徴から、山の手台地には武家地が置かれ、下町低地には町民地が配されています。つまり、山の手方面には、江戸のサラリーマン階級とも言うべき武士のために、庭付きの住居併用住宅が発達し、下町方面には、商人と職人のために、棟の接した店舗併用住宅が発達します。土地の高低により住む人の職種が違い、また、住宅の様子も違っていたのが江戸の特徴だと言います。
このイメージが、東京ではまだ残っているようです。
近衛
新宿下落合にある私の園の周辺は、山手線の目白駅と高田馬場駅の中間にあり、山手線の外側です。もともと山手線は、市街化地域を避けて、郡部の東寄りにつくられたために、窓から見える景色は、武蔵野の畑や雑木林や小川が眺められ、蒸気を吐きながら走るSL列車でした。ですから、当然、下落合は、都市近郊農村でした。
そんな地域が、華族や資産家の別荘地になっていきます。その代表が、近衛邸です。江戸時代は、このあたりは酒井下総守の抱屋敷でした。明治になって、近江鉄道の取締役とか、大阪築港の主任であった西村氏などの所有になっていました。明治33年、近江篤麿が邸宅用の土地を探します。いろいろと探した結果、当時院長を務めていた学習院の移転先にも近く、神田川を南に望む高台の落合村の土地を購入することにしたのです。そして、家屋が完成し、翌年引っ越すのですが、3年後には亡くなってしまいます。その後、第34,38,39代内閣総理大臣を務めた長男の近衛文麿が相続し、住居として使用していました。
しかし、第1次大戦後、住宅難が深刻化し、その原因と責任は少数の家族や符号が広大な土地を占有してしまっているという世論を受けて、1922年(大正11)に、下落合の広大な近衛邸敷地が、一般に売りに出されます。園から少し行ったところに、今も「近衛町」分譲当時の道路が残っています。

以前紹介した御留山は、近衛邸敷地の一部でしたが、相馬子爵邸用の敷地としてすでに売却していましたので、そのほかの敷地ほか、近衛家が所蔵していた刀剣をはじめとする文化財もオークションにかけられます。それは、時代の変化というだけでなく、父篤麿が残した借財が200万(現在の価格でいうと約18億)あったからですが、書画骨董だけで143万にはなったものの、土地も手放さなければならなかったのです。
このとき、売却にあたったのは、東京土地住宅(株)でした。その常務取締役・三宅勘一は、箱根土地(株)の堤康次郎とはライバル関係にありました。彼は、この土地を坪54円50銭で譲り受け、道路や下水などを整備して坪68円50銭(現在の価格で約15万)で売却します。ずいぶん安く売却したものですが、当然、瞬く間に完売したそうです。それは、彼は、この地を「近衛町と命名して一つの文化郷を建設すべく」という思いがあったようです。しかし、東京土地住宅による近衛町の造成・販売宣言から、わずか3年後の1925年(大正14)、同社は経営に行きづまり近衛町の分譲事業のほとんどを、ライバルの箱根土地へ譲渡してしまうことになるのですが。
このような経緯の中で、もうひとつ、当時をしのぶ建物が残っています。それは、大正末期まで近衛公爵邸のあった地に、宮内省が学習院旧制高等科に通う男子生徒のための寄宿舎として1928年(昭和3年)に建設したもので、当時は「昭和寮」と呼ばれていた建物です。その後、昭和28年(1953)に日立製作所の所有となり、日立目白クラブとなっています。この建物は、宮内省の設計ですが、白い壁と赤いスペイン瓦、縦長のアーチ窓や建物の外観は段々状に変化をもたせ、その先に高く伸びた煙突があり、とてもしゃれた建物です。

近くの歴史が、日本の動きに連動し、また、よく調べると、いつもコメントを書いてくださる島根や香川にも関係することが出てきて、びっくりします。その面白さは、学生のころは気がつきませんね。
目黒と目白
私の園は、山手線で言うと、高田馬場駅と目白駅の間にあります。また、私の出身中学校は神田駅にありました。ずいぶんと、山手線を利用しました。その山手線は、今年10月で「山手線」という名称が誕生して100周年を迎えました。そこで、JR東日本では「山手線命名100周年」を記念した各種企画を計画していますが、その一環として9月7日から12月4日まで“復刻調ラッピング電車”を運行しています。1編成しかないので、私はまだ乗っていませんが、この車両は、昭和30年代に運転されていた旧型国電を模した「ぶどう色2号」のカラーをE231系500番代1編成にラッピングしたものだそうです。
日本初の官営鉄道が新橋から横浜まで開業したのは、よく知られている通り、明治5年(1872年)10月15日でした。その後私鉄の日本鉄道によって、自社の東北線を連絡する路線として、上野から高崎までの間を開業した翌年の明治18年(1885年)3月1日に、日本鉄道品川線として、品川から赤羽までを開業させたのが、現在の山手線の始まりです。当時日本鉄道は、上野を起点として青森に至る路線(現在の東北本線)を建設中でしたから、その建設のための資材は、品川で陸揚げしていたため、どうしても鉄道で運ぶ必要があったのです。そのため、当初の開業区間は品川から赤羽でした。
その後、明治36年(1903年)に池袋から同社の東北線の田端に接続する支線が、開業して、分岐点駅として池袋駅が出来ました。そして、この池袋から田端間の路線は、日本鉄道品川線豊島支線と呼ばれました。そして、明治39年(1906年)に日本鉄道は買収され国有化となり、明治42年(1909年)それまでの品川線と豊島線をまとめて山手線と改称されました。そして、当初設けられた駅は、板橋、新宿、渋谷の3駅だけであり、いずれも、中山道、青梅街道、甲州街道、大山街道と当時の主要な街道との交叉点に設けられました。そして、駅名には、所在地名で宿場町として知られた板橋などの地名が付けられたのです。
開通後すぐに、清戸道(現在の目白通り)との交叉点には目白駅、二子街道との交叉点には目黒駅が増設されました。目黒駅は、そのあたりの地名が江戸時代の落語の題材である「目黒のさんま」でも有名ですが、その地名を駅名にしています。
それに対して園がある目白は、もともとはそんな地名はなかったようです。山手線が開設当時は、「密林に蔽はれた丘陵と田畑とで、窪地には小川が流れ…冬の夜には狐が啼き、追剥が現はれて通行人の所持品を奪ふた事も度々」と豊島区史にあるようにいくら清戸街道沿いとはいえ、寂しいところだったようです。そこで、駅を作るにあたって、その知名度を高めようと、もともとその地の地名であった高田とか落合を使わずに、江戸時代から名所のひとつと数えられ、庶民の信仰を集めていた目白不動堂の最寄りの駅であること、また、もうひとつこの時に一緒に増設された駅名が目黒であったことから目白の名前が選ばれたそうです。目黒駅の近くにも目黒不動尊があり、五色不動に由来する駅名が二つ一緒に誕生したのです。
この山手線が旅客線として急成長をするようになったのは、この線とほかの路線との接続でした。そのため、山手線の利用者は年々増加して行きました。そして、大正8年に、当時の開業路線の中央線、東海道線、東北線の線路をつなぎ、中野~新宿~東京~品川~池袋~田端~上野に至る「の」の字運転が開始されました。最初は、環状運転ではなく、今の大江戸線のようだったのですね。それが、6年後の大正14年に上野~神田の高架線が完成し、現在の環状運転が開始されたのです。
そして、この地にも聖母病院のような建物が建てられていくのです。
ヒンデルと聖母
何気なく日常見ている建物にも、歴史的に素晴らしい建築があるものです。私の園がある落合は、歴史が古く、昭和初期の貴重な建物が残っています。また、その後改築されていますが、一時期歴史を刻んだ建物もあります。
園の近くに、園児がたまに行く総合病院に社会福祉法人聖母会が運営する聖母病院があります。

この病院は、特に産科に定評があり、年間の分娩件数は約1700~1800件と全国でも有数だそうです。また、その系列に、看護系大学の聖母大学があります。また、この病院は、帝銀事件の被害者が収容された病院です。帝銀事件とは、最近の若い人は知らない人が多いと思いますが、戦後間もないころの1948年(昭和23年)1月26日に東京都豊島区の帝国銀行(後の三井銀行。現在の三井住友銀行)椎名町支店で発生した毒物殺人事件で、未だに多くの謎が解明されておらず、解決していない事件として有名です。この事件が起きた豊島区椎名町は、聖母病院の近くであることから患者が運ばれたのでしょう。
この病院は、まず1929(昭和4)年に、聖母会の前身である「マリア奉仕会」が病院建設に着手します。その設計をヒンデルに頼み、本館が建築され、1931(昭和6)年「国際聖母病院」として開院します。その後、1943(昭和18)年に「聖母病院」へ改称します。ヒンデルは1887年、スイス・チュ-リッヒに生まれました。幼いころから建築家を目指し、下級ギムナジウム修了後、ヨーロッパ各地の設計事務所で修行したようです。その後独立し、チューリッヒに設計事務所を開設しました。 1924年、日本の北海道帝国大学予科でドイツ語教師をしていた義弟を頼って来日し、北海道の永住を決意し、札幌に夫人とともに移り住みます。北海道では、3年間在住。教会関係の作品を中心に16余りを設計し北海道の近代建築の開拓者といわれました。義弟の死をきっかけに 1927年、横浜市本牧に転居し、東京・宇都宮・名古屋など各地に作品を残します。 1940年にドイツに帰り、1963年、バイエルン地方レーゲンで亡くなりました。
日本で16年を過ごす間に、およそ30件の作品を手掛け、今なお親しまれている建物が数多くあります。北海道で残した作品は、聖フランシスコ修道院、大野邸、北星女学校教師館、北大手稲山パラダイスヒュッテ、北大ヘルヴェチアヒュッテなどのほか、あの有名な函館の天使の聖母トラピスチヌ修道院などの作品は今も現存しています。
横浜に移ってからは、現存している作品として、前述の園の近くの聖母病院を初めてして、札幌に旧秩父宮殿下ヒュッテのほか、上智大学旧館や南山中学などの作品などを残しています。
昨日の日曜日、あるところで、昭和30年の時の聖母病院の写真を見ました。

ヒンデル設計の建物を見ることができますが、その建物の素晴らしさに対して、その前の方の家々の建物にびっくりしました。今、園が建っている周辺の風景は、そのような建物が並んでいたのですね。それにしても、その姿の変わりようはすごいですね。立派な建物は逆にあまり変わりはありませんが、庶民の住宅はずいぶんと変わったものです。このころの日本の貧困率が高いと言われても納得したと思いますが。
その後、聖母病院は、昭和38年、増築工事の完成とともに総合病院となり、昭和60年、エレナ棟の増築および外来棟改築工事を行い、平成16年4月には新館が完成しています。変化に富んだ屋根の形が楽しい建物です。
15日
もうすぐに天頂に冬の大六角形が輝きます。オリオン座も、誰でも見つかるような形と輝きで冬を飾っています。それら星座にまつわるギリシャ神話をこのブログではよく取り上げますが、本当は、星座は、 織り姫、ひこ星に代表されるように東洋にもあります。もちろん、江戸時代までの星座は、この東洋のものを言っていましたが、明治維新以後、ッ西洋文明が取り入れられ、すっかり東洋のものとなってしまったようです。
東洋では、太腸が天球上を運行する黄道上にそって一周するその円周を28等分にし、それぞれブロックごとの位置の近くにある星座が割り当てられました。その各々のブロックを星が泊まる宿という意味で、「宿」といい、それに星座名をつけたのです。ですから、全部で二十八宿になります。月はある恒星に対して、27日7時間43分2.5秒で天を一周しますので、天を27、または28で区分するのが便利だと考えたのでしょう。というわけで、月は1日にこの二十八宿の一宿ずつ通過していくと考えられました。
この二十八宿は中国からインドヘ渡り、インド占星術として発達し、唐時代に中国に戻り、それが空海によって806年に日本へもたらされたと考えれていました。しかし、奈良県明日香村で発掘されたキトラ古墳の天井壁画に星座が描かれていたので、今は、空海以前にすでに日本へ入ってきたと考えられています。
この28宿の中の23宿は距星名を「鬼」と言われ、和名「たまおのぼし」でギリシャ神話のかに座θを指します。この鬼宿にあった日にお釈迦様が生まれたと言い伝えられるところから、鬼宿日が「万事に大吉。二十八宿のなかで一番ラッキー宿」ということになったのです。
今日、町を歩いていると、かわい着物を着た女の子に出会いました。今日15日は、七五三です。ところで、七五三は、一般に3歳、5歳、7歳の子どもの成長を祝い、宮参りをする習俗です。もともとは、幼児期の通過儀礼としては公家や武家の社会で行われていたもので、3歳の女児が、そっていた髪をのばす髪置(かみおき)、5歳の男児が、はじめて袴をつける着袴(ちゃっこ)、7歳の女児が、着物の付け紐をやめて帯をむすぶ帯解(おびとき)として、江戸中期以降の見られるものでした。それ以前は、特に男女別や年齢は確定していなかったようです。
また、各地には、幼児期の成長に節目をもうけて氏神へまいる習俗がありました。ところが、多くの行事同様、七五三がひろまったのは、江戸をはじめとする大都市で、商業的理由によるところが大きいようです。縁者や近所にくばる千歳飴も、江戸中期には登場しています。では、どうして11月15日になったのでしょうか。旧暦の15日は、かつて鬼が出歩かない日である二十八宿の鬼宿日に当っているのです。また、旧暦の11月は収穫を終えてその実りを神に感謝する月であり、その11月の鬼宿日である15日に、氏神への収穫の感謝を兼ねて子どもの成長を感謝し、加護を祈るようになりました。明治になって、暦が新暦になってからは11月15日に行われるようになりました。現在では11月15日にこだわらずに、11月中のいずれかの土日・祝日に行なうことも多くなっていますが、本当は15日でないと鬼が出歩いてしまうようです。
指標
先週末、新聞の記事で考えさせられたのは「ひとり親家庭の貧困率54%、OECD「最下位」の水準」というものです。私たちは、長い間「貧困」という言葉は日本からほど遠い世界のことだと思っていたからです。しかし、この記事でクローズアップされている「ひとり親家庭」の貧困率だけでなく、厚労省は1998年の貧困率が63・1%、01年は58・2%、04年は58・7%だったことも発表しています。その前の10月20日には、厚生労働省は「相対的貧困率」(2007年調査)を発表しました。相対的貧困率とは、全国民における低所得者(働いている、いないを問わず)の割合のことで、全国民の所得の中央値(07年は1人あたり年間228万円)の半分(114万円=貧困線)より低い人がどれだけいるかをあらわした数値です。これによると、日本の貧困率は15.7%で、国民の7人に1人が貧困状態にあるということです。また、18歳未満の子どもが低所得家庭で育てられている割合を示す「子どもの相対的貧困率」は14.2%だったのです。この結果は、メキシコ(18.4%)、トルコ(17.5%)、米国(17.1%)に次ぐ4番目の高さです。この調査は、OECD(経済協力開発機構)に委ねられていたので、その結果について私たちは初めて目にしたという感じです。
今年の8月6日号の「ニュートン」という雑誌に「少子化傾向に歯止め?」という記事が計されていました。その内容は、「社会が継続的に発展すると,あるときから出生率が増加傾向に転じるようだ」というものです。一般的に社会や経済の発展とともに出生率は低下していきます。現在では、全人類の半分以上が、合計特殊出生率2.1以下の地域に住んでいます。しかも、多くの先進国では、出生率が低下すると,もう高くはならないと考えられてきました。ところが,アメリカ,ペンシルバニア大学のミルスキラ博士らは,21世紀に入って先進国の少子化傾向に変化があることを見いだしました。博士らは,人々の生活の質や発展度合いを示す指数「HDI」とTFRとの関係を調べた結果、1975年のデータでは、HDIが高い国ほど出生率は低かったのです。しかし,2005年では,HDIが一定の値をこえるほど高度に発展した国では、日本や韓国などの例外もあるものの、HDIが高いほど出生率が高くなっていることがわかったというのです。社会や経済が継続して発展することで出生率低下を食い止めることができるのではないかと博士らは期待しているそうです。
ここで、また初めて「HID」という言葉を聞きましたが、これは、人間開発指数(HDI:Human Development Index)というもので、その国の、人々の生活の質や発展度合いを示す指標です。生活の質を計るので、値の高い国が先進国と重なる場合も多く、先進国を判定するための新たな基準としての役割が期待されています。開発の基本的な目標は、人々の選択肢を拡大することとしています。そのためには、人々が、長寿で、健康かつ創造的な人生を享受するための環境を創造し、その環境の中で各自の可能性を十全に開花させ、それぞれの必要と関心に応じて生産的かつ創造的な人生を開拓できるようになることです。それを考えると、経済成長は、開発にとって重要ではあるものの、人々の選択肢を拡大するための一つの手段にしかすぎなくなるのです。その基礎となるのが、人的能力で、長寿で健康な人生を送ること、知識を獲得すること、適正な生活水準を保つために必要な資源を入手すること、そして地域社会における活動に参加することです。これらの能力を獲得できなければ、そのほかの選択肢にも手が届かず、人生における多くの機会を逸してしまうとされています。
この指数は、日本はかなり高く、1990年代初めはトップクラスでしたが、次第に順位が下がり、最近は10位前後です。人が人らしく、子どもが子どもらしく生きていくことができる世の中をいろいろな指標から見ることができます。
室内緑化
目に入る景色の中で、そのくらい緑があるかということを「緑視率」と言い、その率がだいたい25%あると人は緑が豊かだと感じ、精神的にもよい影響を与えることを、昨日のブログで紹介しました。ということは、屋外空間だけでなく、室内空間にも言えるようです。室内を見通したときに、どのくらいの率で目に緑が飛び込んでくるかで、精神的な効果が違うようです。
コクヨと愛媛大学の共同実証実験結果によると、オフィスに植物を置くと時間の経過とともに親しみを感じる人が多くなり、緑視率が高いほど「あたたかみがある」「親しみやすい」「落ち着く」「自然だ(潤いがある)」と感じる人の割合が高く、「アメニティ効果」「疲労感をやわらげる効果」「癒し効果」など、心理的な快適性を高める効果が期待できるようです。
そして、植物が撤去されると喪失感・ストレスを感じる人の割合が高くなりますが、室内の場合は、逆に緑視率が高すぎても、緑が多すぎる、うっとおしいと感じる人の割合が高くなるようです。このような結果からわかるようにある程度室内に緑のものを置くことはオフィスでは仕事の能率が上がり、保育室や教室では子どもたちの精神的な効果がありそうです。しかし、日本ではあまりそのような空間構成はされていません。ドイツに行くと、保育室や小学校の教室にはずいぶん緑のもの、観葉植物があります。
ドイツの小学校の教室
そのほかにも、ロフトとか、子どもたちが潜り込める空間とか、様々な空間が子どもたちのために用意されています。
今、日本では、保育室の面積の最低基準が緩和されるかどうかが議論されているところですが、今まで、日本では、どうも保育者がどうかという議論に比べて、保育室空間がどうであるかという研究がされてこなかった気がします。ですから、最低基準を守ろうというだけで、その面積が子どもの育ちにはどういう意味があり、なぜ、その広さなのか、広さだけではなく、その空間には何が必要であり、それを置くためにはどのくらいの広さが必要であるかという説明が苦手のような気がします。
最近の研究では、オフィス空間におけるものではありますが、そこに植物を配置する場合には、オフィス空間の持つ役割、目的に応じた緑の量、種類に注意しながら、緑視率に配慮して配置設計することが重要だということがいわれています。オフィスのグリーンアメニティ効果を最大限に発揮させるには、それぞれそこで仕事をする人が目にする緑の量を、近景、中景、遠景でバランスよく緑を配置するとよいといいます。
ドイツの園長室
そして、子どもと環境の関係と同じで、そこにあるからいいのではなく、「主体的に植物にかかわること」が大切であることから、自分のデスクなどで植物を自ら積極的に育てる能動的にグリーンとの接することで、心理的な効果(園芸療法的効果)が高まると言われています。そして、各自のデスクに植物を置く時に、自分の好きな植物を選べることや自分で世話をして積極的に植物と関わり合いを持つことでよりその効果は大きくなるといわれています。
それは、植物を自分で世話をすることにより植物に愛着がわきます。そして、世話を怠ると枯れてしまい、枯らさないために穏やかな義務感が生じるため、仕事に集中しすぎる意識がふと緩みます。その際、仕事による過度なストレス状態が少し緩和されることから、ストレス緩和をすることができるのです。
この考え方を保育室にも応用したいものです。
ドイツの保育園のトイレ
緑
山に行ったときに、とてもすがすがしい気分になります。目の前に一面の緑があるからです。
それに比べて、都会に行くと目に入るのはビルばかりです。緑は点々としか目に入りません。しかし、私の園は、テラスに出て裏を見ると、視界に入るのは緑に覆われた公園です。そこで、一日に一回はその緑を見たくなります。
目に見える景色を写真に撮ったとします。たとえば、六本木にある毛利公園で写真を撮りました。
その中で緑がどのくらい占めているかで、見た感じ「緑が多くていいですね。」と言われます。このように「見た目の緑の豊かさ」を判断する指標として「緑視率」という数値を使うことがあります。それは、人が認知する緑の量を数値化したもので、人の視界にどれだけの量のグリーンが入ってくるかを%で表したものです。たとえば、屋外では、商業地や市街地の緑視率はおおむね0~10%、庭木が整備された住宅地の緑視率は10~20%、生け垣が整備された住宅地の緑視率は20~30%、計画的な住宅団地や街路樹が整備された工業地の緑視率は30%以上であると言われています。そして、その緑視率がどのくらいで人は緑が豊かだと感じるかというと、国土交通省調査の資料によれば、屋外では、おおむね緑視率が25%以上だといわれています。
平成17年から18年にかけて国土交通省では、「都市の緑量と心理的効果の相関関係」の社会実験調査を行いました。これは、都市の緑には、日射を遮り地表面被覆を改善するなどにより都市の熱環境を改善する機能があることが認められていますが、そうした物理的効果に加え、人間にとってのうるおい感や安らぎ感を向上するなど、快適性を高める心理的効果としてどうなのかという調査です。その結果、緑視率が高まるにつれ、潤い感、安らぎ感、さわやかさなどの心理的効果が向上することがわかりました。ですから、目に入る緑が多いというだけで、真夏日の不快感をやわらげるのに役立つようです。ですから、緑を多くすることで期待されることは、「清涼感が高まる効果」「アメニティ(快適性)が高まる効果」「疲労感をやわらげる効果」などの心理・生理的効果の期待が高いという結果になったのです。そのほかにも、都市の緑は、「人々をひきつける効果」も期待されていると言われています。
また、屋上緑化の効果に対する期待度は高く、また、9 割の人が屋上緑化を希望しているそうです。それはなぜかというと、「清涼感が高まる」「温暖化をやわらげる」「疲労感をやわらげる」などすべての効果について期待度が高く、「季節の花や緑を観賞する場所」「ガーデニングを楽しむ場所」など花や緑に関わる要望が半数以上を占めたほか、「家族で団らんできる場所」「子どもが遊べる場所」「コミュニティ活動の核となる場所」など、家族やコミュニティの交流の場としての活用も望まれています。ですから、屋上緑化は、単にヒートアイランドの緩和を目的とした緑化空間であるだけでなく、人々のさまざまな活動の場所として求められていることがわかります。
ほかのデータでも、人は緑化空間でストレスの解消、騒音感の減少、季節感の創出、 自然と触れあうことによるやすらぎ感の向上などを得ることが期待できる。視覚効果として、 植物を見たときのリラックス感の向上 し、聴覚的効果として、緑視率が増加すると心理的な騒音低減効果量も増加することが認められています。緑があるだけで、暑さも和らぎ、うるささも気にならなくなるそうです。
わが大地
もうすぐクリスマスですが、私の園では、子どもたちへのクリスマスプレゼントは、職員手作りおもちゃです。一昨年は、ブログで紹介しましたが、ネズミのお手玉です。昨年は、園の周りの双六でした。今年は何にしようかという話になりましたが、今、子どもたちの間で伝承遊びとしてけん玉が流行っているので、松ぼっくりを使ったけん玉にすることにして、暇を見ては作っています。
昨日のブログで紹介した黒部に日曜日に行ってきたのですが、トロッコ電車の終点の欅平で、コメツガを見つけました。コメツガの実は、松ぼっくりを小さくしたような形ですので、いくつかを職員にお土産として持ち帰りました。案の定、職員の間では、とてもかわいいと評判でした。

コメツガは、マツ科の樹木ですから、松ぼっくりのような実をつけるのは当然です。秋篠宮文仁親王の印に用いられている栂(ツガ)という木がありますが、これは日本では温暖帯に生息します。それに対して、葉が小さいツガという意味で亜高山帯に自生する亜高山帯の針葉樹林の構成種がコメツガで、日本の特産種です。
日本の自然には、次第に外来種が増えてきましたが、まだまだ日本本来の日本の姿が各地には残っています。その姿を笠木透作詞で「わが大地の歌」に歌いこまれています。私は、この歌が日本を広く見渡している気がして大好きで、以前のブログでも紹介しましたが、今回、コメツガを見て、その歌を再度思い出しました。1番の歌詞には、「から松 こめつが 針葉樹林 かもしか 月の輪熊 走る稜線」と歌いこまれています。コメツガ同様、日本の高原を代表する植物でもあり、秋を彩るものに「カラマツ」があります。長野県の蓼科などの高地に行くと、カラマツ林が金色に色づいて、とてもきれいです。
また、今回訪れた黒部では、よくカモシカを見かけます。カモシカといっても、ニホンカモシカのことで、日本固有種です。日中国交正常化のときに、中国からパンダを送られましたが、そのお礼として日本からは、雌雄1頭ずつが贈られたほど日本を代表する動物です。また、数年前には日本中いたるところで出没し話題になったツキノワグマも日本に生息しているクマです。
2番の歌詞に出てくる日本の風景は、「柿の木 赤土畑 広がる水田 かわやなぎ 青い水 流れる河川」今の時期、秋を彩るものは、紅葉に限りません。里山に行くと目立つものに柿の木があります。柿の木は、葉が赤く、きれいに紅葉しますが、それ以上に枝に点々とのこる柿の実は秋の風物詩です。赤土は火山灰に由来する粘土の一種ですから、火山国である日本の土といってもいいくらいで、関東ローム層も赤土です。この土の色が褐色または赤褐色を帯びているということでそう呼ばれますが、それは、鉄分に富んであるからで、その土で畑を作ろうとすれば、地表に露出して風化したものは、そのまま培養土として使えます。
3番の歌詞には、「かるかや かやつり草 積乱雲 からすうり 月見草」4番には、「かもめどり 黒松 岩礁海岸 かつおどり 海つばめ」が出てきます。この中で、特にからすうりは、初めて見たときに「まっかな秋」をまさに地でいくくらい真っ赤だった印象があります。日本の風景は、本当に美しいですね。