片倉

 私は、パチンコとかゲームをやらないので、そこに登場する歴史的人物の中で誰が格好良くて、誰がハンサムかは分かりません。しかし、昨日のブログで取り上げた片倉小十郎がそんなに人気があるのは、活躍が素晴らしいというよりも、イケメンだったのかもしれません。
 先月の初め、仙台藩の重臣片倉小十郎が居住した宮城県白石市の白石城で、第2代小十郎重長(1584?1659年)の武勇をたたえる「鬼小十郎まつり」が開かれ、大勢の歴史ファンらでにぎわったというニュースが流れています。ここでは、メーンの「片倉軍VS真田軍決戦」では、重長が「鬼小十郎」の異名を取った大坂夏の陣の合戦「道明寺の戦い」を再現し、エキストラには、市内をはじめ仙台や関東から集まった約100人が武者姿で出演したそうです。中には、片倉軍には片倉鉄砲隊や白石女高弓道部、真田幸村率いる真田軍には仙南広域消防本部やホワイトキューブ新体操教室のメンバーも参加しています。
 このイベントを見ると、人気のあるのは、片倉家初代の片倉小十郎景綱ではなく、その嫡子2代目の片倉小十郎重綱(重長のこと)のようです。重綱率いる片倉隊は、大坂夏の陣のとき、90を超える兜首を揚げ、翌日も大坂方と対戦し60の首級を揚げたため、この武功により、重綱自身、鬼小十郎の名を馳せ、天下に片倉隊、伊達勢日本一の評価を受けることとなったのです。 そして、大阪城は落城したのです。
 その時の戦いは、大坂方の名将とうたわれた真田幸村と伊達軍の片倉小十郎重綱との戦いでしたが、その日の夜、死を覚悟した幸村は娘の阿梅に自分の戒名を持たせ、片倉小十郎重綱に預けたとされています。そして、彼は阿梅を後妻として迎えいれます。敵将からも片倉家は認められた武将だったことが伺えます。大坂の陣の後には、重綱は妻の弟と妹を保護し、真田幸村の遺臣も家臣として召し抱えました。そして、片倉重綱は四代将軍徳川家綱の字を避けて重長と改名しましたが、武勇に優れ、情も深い武将として今にその名を残していて、人気があるようです。
この2代目白石城主・片倉小十郎重長については「史実」として、そのイケメンぶりが伝わっています。「片倉代々記・重長譜」によると、小十郎重長が17歳のとき、「金吾中納言殿、重綱(重長のこと)容色の美なるを御覧せられ、御恋慕あり」とあります。この 金吾中納言とは小早川秀秋のことで、秀吉の甥でありながら、関ケ原の戦いで徳川方に寝返ったために、豊臣方が敗戦してしまったことで有名な微笑です。彼が、重長の「容色の美」を見て「恋慕」したと書かれてあるそうです。
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また、片倉家初代景綱の姉「喜多」は政宗公の幼少時代の保育係で政宗の人格、思想に大きく影響を与えた賢婦人です。喜多の考案で、「天下にその名を鳴り響かせよ」ということで、「黒釣鐘」を片倉家の旗指物としました。この「黒鐘」は、現在の白石市の市章にもなっています。彼女は、政宗が成長した後は正室の愛姫付きとなりました。そして、豊臣秀吉の人質となった愛姫と共に京へ上洛します。ところがその直後に政宗の勘気をくらい、蟄居し、異父弟・景綱の在所である白石で出家して庵を結び、そこで生涯を終えました。
知らない歴史にその地方に行くことで触れ、それらがどこかでつながっていくことを知ることで、自分の中の歴史がつながっていきます。歴史は、覚えるものではなく、今につながっていることを知ることかもしれません。