田園

 よく、東京で山の手族といわれるような住宅街に住む人たちの暮らしぶりを指す言葉があります。それに対して、東京にも下町といわれる町があります。これは、地形の高低を指す言葉でもあったようです。その山の手には、江戸時代には武士が住んでいたのですが、明治になると、武士階級は消滅してしまいます。同時に、山の手の武家地は荒れていったようです。そして、そこには桑や茶が植えられ、田園化していきます。しかし、しばらくすると、維新の元勲、旧藩主、新興の実業家、新政府の省庁官員などが、山の手に庭付き独立家屋を建て始め、専用住宅街となっていきます。
 そんな時、日露戦争が起き、それに伴って日本の経済活動は急速に盛んになっていきます。それに伴い、著しい数のサラリーマンが目立つようになります。このころのサラリーマンは、次代の寵児になっていきます。彼らは、江戸時代の士農工商の身分制度の中の商人や職人とは違い、また、公爵や侯爵、伯爵、子爵、男爵などの「爵」を持っている人たちのような階層とも違い、中産階級とか市民階級とか、中間階級とか呼ばれるような「中流意識」をもって、社会的にも文化的にも政治勢力的にも新しい世界を作ることになるのです。この時の階級が、今の時代でも主流を占め、そうなることが出世のようになっていったのでしょう。そして、その階級の人たちは、住み方も変えていきます。彼らは、旧江戸市街はいっぱいになっていたので、山の手線の外側の農村地帯に居住を求めていくことになります。それは、都落ちという意識ではない、ある理論づけが行われます。「田園都市」というイメージです。ちょうど明治中期にイギリスで誕生したもので、過密化で環境が劣悪化した旧都市部から逃れ、田園地帯に新都市を建設することを提案したものです。この提案は、多摩ニュータウンを作るときにも参考にされました。私が、ニュータウン学会の理事を務めていたときに、その考え方を学びましたが、明治時代の山の手の形成のもとになっていたとは知りませんでした。
 この田園都市の考え方はとても面白いものです。それは、現在でも都市計画の分野では重要な計画哲学の一つに数えられているからです。この考え方は、イギリスのハワードという人が提案したもので、自然との共生ということで、都市と農村との融合を図るものです。そして、職住近接を訴え、役所や工場だけでなく、レクリエーション施設や文化施設をも含む街づくりです。しかし、実際は、この理想とは程遠い開発が行われていくのです。そのひとつが、園の近くの下落合付近につくられていった「目白文化村」(俗に落合文化村)なのです。
堤康次郎が開発した「目白文化村」と同時期に、もうひとつ分譲を開始した地区がありました。それは、渋沢栄一の田園都市株式会社がおこなった洗足地区で、その翌年には「田園調布」が売り出されます。郊外の生活は「田園都市」というスローガンのもとの「田園でも文化的生活」という言葉の中の「文化」をとった堤と、「田園」と採った渋沢が、今日の西武グループと東急グループとしてライバル関係になっていくのです。そして、田園調布がパリの街造りを模したのに対し、堤康次郎は目白文化村でロサンゼルス(ビバリーヒルズ)の街並みをめざしたと言われています。