近衛

 新宿下落合にある私の園の周辺は、山手線の目白駅と高田馬場駅の中間にあり、山手線の外側です。もともと山手線は、市街化地域を避けて、郡部の東寄りにつくられたために、窓から見える景色は、武蔵野の畑や雑木林や小川が眺められ、蒸気を吐きながら走るSL列車でした。ですから、当然、下落合は、都市近郊農村でした。
 そんな地域が、華族や資産家の別荘地になっていきます。その代表が、近衛邸です。江戸時代は、このあたりは酒井下総守の抱屋敷でした。明治になって、近江鉄道の取締役とか、大阪築港の主任であった西村氏などの所有になっていました。明治33年、近江篤麿が邸宅用の土地を探します。いろいろと探した結果、当時院長を務めていた学習院の移転先にも近く、神田川を南に望む高台の落合村の土地を購入することにしたのです。そして、家屋が完成し、翌年引っ越すのですが、3年後には亡くなってしまいます。その後、第34,38,39代内閣総理大臣を務めた長男の近衛文麿が相続し、住居として使用していました。
 しかし、第1次大戦後、住宅難が深刻化し、その原因と責任は少数の家族や符号が広大な土地を占有してしまっているという世論を受けて、1922年(大正11)に、下落合の広大な近衛邸敷地が、一般に売りに出されます。園から少し行ったところに、今も「近衛町」分譲当時の道路が残っています。
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以前紹介した御留山は、近衛邸敷地の一部でしたが、相馬子爵邸用の敷地としてすでに売却していましたので、そのほかの敷地ほか、近衛家が所蔵していた刀剣をはじめとする文化財もオークションにかけられます。それは、時代の変化というだけでなく、父篤麿が残した借財が200万(現在の価格でいうと約18億)あったからですが、書画骨董だけで143万にはなったものの、土地も手放さなければならなかったのです。
 このとき、売却にあたったのは、東京土地住宅(株)でした。その常務取締役・三宅勘一は、箱根土地(株)の堤康次郎とはライバル関係にありました。彼は、この土地を坪54円50銭で譲り受け、道路や下水などを整備して坪68円50銭(現在の価格で約15万)で売却します。ずいぶん安く売却したものですが、当然、瞬く間に完売したそうです。それは、彼は、この地を「近衛町と命名して一つの文化郷を建設すべく」という思いがあったようです。しかし、東京土地住宅による近衛町の造成・販売宣言から、わずか3年後の1925年(大正14)、同社は経営に行きづまり近衛町の分譲事業のほとんどを、ライバルの箱根土地へ譲渡してしまうことになるのですが。
このような経緯の中で、もうひとつ、当時をしのぶ建物が残っています。それは、大正末期まで近衛公爵邸のあった地に、宮内省が学習院旧制高等科に通う男子生徒のための寄宿舎として1928年(昭和3年)に建設したもので、当時は「昭和寮」と呼ばれていた建物です。その後、昭和28年(1953)に日立製作所の所有となり、日立目白クラブとなっています。この建物は、宮内省の設計ですが、白い壁と赤いスペイン瓦、縦長のアーチ窓や建物の外観は段々状に変化をもたせ、その先に高く伸びた煙突があり、とてもしゃれた建物です。
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 近くの歴史が、日本の動きに連動し、また、よく調べると、いつもコメントを書いてくださる島根や香川にも関係することが出てきて、びっくりします。その面白さは、学生のころは気がつきませんね。