目黒と目白

 私の園は、山手線で言うと、高田馬場駅と目白駅の間にあります。また、私の出身中学校は神田駅にありました。ずいぶんと、山手線を利用しました。その山手線は、今年10月で「山手線」という名称が誕生して100周年を迎えました。そこで、JR東日本では「山手線命名100周年」を記念した各種企画を計画していますが、その一環として9月7日から12月4日まで“復刻調ラッピング電車”を運行しています。1編成しかないので、私はまだ乗っていませんが、この車両は、昭和30年代に運転されていた旧型国電を模した「ぶどう色2号」のカラーをE231系500番代1編成にラッピングしたものだそうです。
日本初の官営鉄道が新橋から横浜まで開業したのは、よく知られている通り、明治5年(1872年)10月15日でした。その後私鉄の日本鉄道によって、自社の東北線を連絡する路線として、上野から高崎までの間を開業した翌年の明治18年(1885年)3月1日に、日本鉄道品川線として、品川から赤羽までを開業させたのが、現在の山手線の始まりです。当時日本鉄道は、上野を起点として青森に至る路線(現在の東北本線)を建設中でしたから、その建設のための資材は、品川で陸揚げしていたため、どうしても鉄道で運ぶ必要があったのです。そのため、当初の開業区間は品川から赤羽でした。
その後、明治36年(1903年)に池袋から同社の東北線の田端に接続する支線が、開業して、分岐点駅として池袋駅が出来ました。そして、この池袋から田端間の路線は、日本鉄道品川線豊島支線と呼ばれました。そして、明治39年(1906年)に日本鉄道は買収され国有化となり、明治42年(1909年)それまでの品川線と豊島線をまとめて山手線と改称されました。そして、当初設けられた駅は、板橋、新宿、渋谷の3駅だけであり、いずれも、中山道、青梅街道、甲州街道、大山街道と当時の主要な街道との交叉点に設けられました。そして、駅名には、所在地名で宿場町として知られた板橋などの地名が付けられたのです。
開通後すぐに、清戸道(現在の目白通り)との交叉点には目白駅、二子街道との交叉点には目黒駅が増設されました。目黒駅は、そのあたりの地名が江戸時代の落語の題材である「目黒のさんま」でも有名ですが、その地名を駅名にしています。
それに対して園がある目白は、もともとはそんな地名はなかったようです。山手線が開設当時は、「密林に蔽はれた丘陵と田畑とで、窪地には小川が流れ…冬の夜には狐が啼き、追剥が現はれて通行人の所持品を奪ふた事も度々」と豊島区史にあるようにいくら清戸街道沿いとはいえ、寂しいところだったようです。そこで、駅を作るにあたって、その知名度を高めようと、もともとその地の地名であった高田とか落合を使わずに、江戸時代から名所のひとつと数えられ、庶民の信仰を集めていた目白不動堂の最寄りの駅であること、また、もうひとつこの時に一緒に増設された駅名が目黒であったことから目白の名前が選ばれたそうです。目黒駅の近くにも目黒不動尊があり、五色不動に由来する駅名が二つ一緒に誕生したのです。
この山手線が旅客線として急成長をするようになったのは、この線とほかの路線との接続でした。そのため、山手線の利用者は年々増加して行きました。そして、大正8年に、当時の開業路線の中央線、東海道線、東北線の線路をつなぎ、中野?新宿?東京?品川?池袋?田端?上野に至る「の」の字運転が開始されました。最初は、環状運転ではなく、今の大江戸線のようだったのですね。それが、6年後の大正14年に上野?神田の高架線が完成し、現在の環状運転が開始されたのです。
そして、この地にも聖母病院のような建物が建てられていくのです。